足利義満

 足利義満の祖父は室町幕府を創始した足利尊氏である。足利尊氏が亡くなって100日目に足利義満が誕生している。父である2代目将軍・足利義詮(よしあきら)が38歳の若さで亡くなったため、足利義満はわずか11歳で家督を継ぎ室町幕府の3代将軍になった。なお3代将軍・足利義満は征夷大将軍であり、さらに日本国王の称号を持つことになる。

 足利義満は58年間続いた南北朝統合し、朝廷の争いを終結に導いた。さらに守護大名の勢力を抑え、足利将軍として幕府の権力を世に示し、室町幕府の最盛期をつくった。京都・室町に豪邸を建て(花の御所)、それ以降、室町時代と呼ばれるようになった。経済力を発揮し金閣寺(鹿苑寺金閣)を建立したことでも知られている。

 

幼年時代

 1358年8月22日、足利義満は京都春日東洞院にある幕府執事の伊勢貞継の屋敷で生まれた。義満は幼い頃から色々と逸話に事欠かない人物で、誕生したのは祖父である尊氏の死からちょうど100日目のことである。こうなると足利義満は尊氏の生まれ変わりの伝説になりやすいが、尊氏と義満はまったく似たところがない。

 父親は2代目将軍・足利義詮で母は紀良子という側室である。足利義詮と正室・渋川幸子の間に生まれた男子は既に夭折しており、義満は側室の子でありながら嫡男として扱われ、正室・幸子を母として育った。このようなことは身分の高い公家や武家ではよくあることで、同母弟として足利満詮(みつあきら)がいたが、満詮は義満と性格は真逆で、控えめで徹底して兄の陰に立ち働き、後に自ら出家している。似てない兄弟のほうがうまくいくものである。

 義満の幼少時代は、南朝と北朝の争いで幕府も政治も落ち着いかず、さらに足利家の内紛である観応の擾乱があり、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。

 そのため義満は家臣に守られて播磨へ逃れ、播磨白旗城の主・赤松則祐に養育されている。程なくして幕府(北朝)が京都を奪還したことから帰京するが、その帰途の途中で摂津(明石)に泊まった際、家臣たちに「ここの景色は美しいから、京に持って帰る。お前たちが担いで帰れ」と言っている。これは義満少年の発言であるが、義満の一筋縄ではいかない性格を表す逸話である。さすがに10歳にも満たない少年の頃の話なので「わざと試した」ことはないと思うが、この大胆な言葉は周りを驚かした。

 

家臣に恵まれて育つ

 京に帰還した義満は斯波義将の教育を受け7歳で初めて乗馬をした。しかし斯波高経・義将父子が貞治の変で失脚すると、新たに細川頼之(よりゆき)が管領に任命された。この頃に祖母の赤橋登子の旧屋敷に移り、赤松則祐の山荘に立ち寄っている。義満は義詮と正室の渋川幸子の嫡男として扱われた。

 1367年11月になると父・足利義詮が重病になり、義詮は死期を悟ると、11月25日に義満に政務を譲り、細川頼之を管領として義満の後見を託した。12月7日に義詮は38歳という若さで急死したため、義満は11歳で室町幕府の3代将軍となった。室町幕府の足利将軍の多くが10代で位についており、義満も取り合えず3代将軍となった。この頃はまだ南北朝に分かれていて元号も二つあった。

 幼い義満が将軍になると、翌年、元服した。元服式は全て細川氏が担当し、周囲を固めていた。義満はまだ実務はできないが。幕政を管領細川頼之に任せ土地制度や宗教関係の整備について、義満はそれを見習い帝王学を学んでゆく。

 室町幕府はできたばかりだったが、将軍が幼くても幕府は順調に済んでいた。

 義満最大の幸運は近臣が入れ替わっても、忠誠心のある人物が常に側にいたことである。30年前に滅んだ鎌倉幕府が血縁者同士・御家人同士で戦ったのと比べると奇跡といえるほど恵まれていた。しかも国の中枢たる皇室は真っ二つに割れていて、もし外国から攻めてきたら、日本という国の存続そのものが危うかった。しかしちょうどその頃、中国では元王朝(モンゴル民族)を追い出そうと内乱が起き、日本を侵略する余裕はなかった。

 

正室・日野業子
 北小路室町に大きな屋敷を造り、それまでの三条坊門から移り住むと、幕府の役所もそこに移動した。庭には四季折々に花が咲き誇り「花の御所」と呼ばれ、その所在地により室町幕府と呼ばれるようになった。

 室町幕府の名はここに由来しており、別の場所だったらその地名で幕府を呼んだであろう。「室町幕府」は足利尊氏が創設したが、北小路室町に転居するまで「室町幕府」とは呼ばれていなかった。足利尊氏が創設した幕府の名称は不明である。

 足利義満は正室として日野業子(なりこ)を迎えた。日野業子は義満と共に花の御所を造営し、移り住んだのである。日野業子と義満の婚礼により、持明院統の公家だった日野家は朝幕政界に影響力を強めた。日野業子は和歌に優れていたことから義満の寵愛を受け、義満の計らいで従一位・准后となった。

 しかし二人の間に子供が生まれなかったので、義満は側室を多く抱え、側室に多くの子供を産ませている。義満は業子の死去後、日野業子の姪に当たる日野康子と再婚し、康子が御台所を継ぐことになる。

 義満の侍女として仕えていた藤原慶子が側室となり、義持・義教らを産んだ。義満はこの慶子に対して冷たかったとされ、義満は慶子の死に際し悲しみの態度を見せなかった。慶子が死んだ翌日には家臣の邸宅で大酒を飲み、さらに忌中には北山御所で酒宴が行なわれ籤(くじ)まで行なわれた。この義満の慶子に対する冷たい態度が義持との不仲につながったとされている。

足利義満の政策
 1358年、足利義満が3代将軍となると、その政治力をいかんなく発揮した。義満の功績は大きく、主な功績としては南北朝を統一し、58年間続いた朝廷との争いを終結させ、さらに守護大名を抑えて幕府の権力を世に示したことである。

 それまでの室町時代幕府は名ばかりで、まだ中身が伴っていなかった。南朝の後醍醐天皇が150年ぶりに天皇による親政を行おうとしたからであるが、鎌倉幕府を倒した立役者である武士たちは褒美をもらえず公家から見下されていた。そのため武士の頂点である幕府にも従わない武士が多かった。
 足利尊氏も父の義詮もこの状態に苦労したが、この混乱は義満の代まで引き継がれた。しかしかつて「この景色が気に入ったから持ってこい」と命じたほどの義満なので、その強引な発想力で危機を乗り切ることになる。義満がまず取り掛かったのは室町幕府と将軍の権力を確立することであった。

 武士政権を固めるためにはまず各地の武士達を臣従させることが最優先であった。義満は幕府の体制を固めるため、将軍直属の常備軍を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかり守護大名の力を抑えようとした。

 まず大陸との貿易で莫大な財を築き、中国地方を中心に勢力を伸ばしていた大内義弘を挑発し半ば騙し討ちにした(応永の乱)。11か国の守護を兼ね「六分一殿(日本の国土の1/6)」と称されていた有力守護大名・山名氏清を挑発して討伐した(明徳の乱)。美濃の有力者・土岐氏の内紛を利用し力でねじ伏せた(土岐康行の乱)。
 さらに朝廷から京都市街の警察権(京都府警)を譲り受け、将軍直下の軍や官僚機構を設けて幕府を整えた。これで周辺の武士が攻めてきても、自力で京を守り撃退できるようになった。

 また幕府の経済を安定させるため、義満は日本で初めて酒税を課した。酒壺ひとつで200文の税金が掛けられ、これは現在では2万円ぐらいの課税なので相当な額になる。幕府設立から30年が経っており、反乱の鎮圧などに軍事費が掛かり過ぎていたので、義満は酒に目をつけて税金をかけたのである。

 

康暦の強訴事件
 義満の実務能力が評価され、朝廷での官位も上がっていった。二条良基の支援を受け公家社会の中にも積極的に入っていった。それらがうまく働いたのが、1378年に起きた康暦の強訴事件であった。

 興福寺の宗徒が、南朝方に奪われた寺社領の変換を求めて、日大社の神木を掲げて訴えてきた。強訴とはかつて権勢を誇った白河天皇が「加茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いた逸話があるように、山法師の勢力は大きかったのである。山法師の強訴としては延暦寺が有名であるが、古い歴史を持つ興福寺も度々やっていた。

 興福寺は藤原氏の祖先である藤原鎌足と不比等にゆかりお寺で、春日大社には藤原氏の祖先とされる天児屋命(あめのこやねのみこと)が祀られていた。つまり興福寺が強訴すると、藤原氏系の公家は実質的に出仕できなくなってしまう。朝廷の政務や行事のほとんどが藤原氏系の家によって成り立っていたので、彼らが出てこなければ政務や行事は滞り、世の中が立ち行かなくなってしまう。

 興福寺はご神木を御所の門前に放置し、朝廷の人々は頭を抱え緊迫したが、義満は「足利家は興福寺とは関係ない源氏なんで」という理由で、堂々と出仕を続けた。確かにその通りではあるが、面の皮と度胸が揃っていた。ちなみに源氏は基本的に八幡神(誉田別命=応神天皇=八幡大菩薩)を守護神としているので関係はないのである。義満はこの強訴のせいで滞っていた歌会始めなどの行事を大々的に復活させ逆に興福寺の宗徒を威圧した。

 義満は強訴に毅然と立ち向かい興福寺に大きな打撃を与え、それ以降、強訴をしても京都市内までは入ってこられなくなった。義満は頭に血が上っている相手をいなすのが非常にうまく、断固として立ち向かうこともできたが、興福寺だけでなく延暦寺ともに直接対話をする新たな解決制度を設けたのである。

大陸との関係

 義満は若年の頃から明への憧が強く、明の太祖・洪武帝の治世にあやかって日本の元号にも「洪」の字を使おうとした。しかし洪の字は洪水につながり不吉として公家達が反発して実現せず、洪の代わりに応永の元号が用いられることになった。義満は経済力を重視し明との正式な貿易を望んでいた。

 日本が南北朝の内乱にあえいでいたころ、中国ではモンゴルの元朝が転覆し、漢民族の明帝国が勃興していた。明の初代皇帝・朱元璋は、日本との国交を回復したいと考えて博多に使者を出した。しかしそのころの九州は懐良親王(後醍醐の皇子)率いる南朝軍に制圧されていたため、明の使者は北朝の天皇にも足利将軍にも会うことが出来ず、仕方なしに懐良親王を「日本国王」に任命した。明は南朝を唯一の通商相手とし、明の皇帝から見て義満は陪臣に過ぎないことから交渉は失敗している。日本が二つの政権があるとは思わないので、南北朝時代は外交関係において面倒な事態を引き起こしていた。

 もっとも懐良親王の主権は九州にしか及ばなかったが、ここで日本国王の叙任を受けたということは、日本が中国と朝貢関係になったことを意味する。もちろん明との貿易は大名や民衆も行っていた。博多などに集中した巨大な商業資本は、積極的に貿易船を出していたが、交易はしばしば略奪という形を取った。すなわち「倭寇」である。
 倭寇は南北朝の戦乱期に経済的に困窮した漁民や地方豪族が、主として朝鮮半島を略奪することから始まった。彼らの胸中には「元寇の敵討ち」という気持があったが、この倭寇は日増しに激しさを強め、いつしか中国大陸沿岸まで襲うようになったのである。
 ただいわゆる「後期倭寇」は、日本人の仕業ではなかったようだ。これは、政府に不満を持つ朝鮮や中国の土豪や民衆が、日本人の乱暴に便乗して暴れ出し、いつしか本家のお株を奪ったものである。

 義満は積極的に大陸との交易政策を推進し(勘合貿易)、文化と経済の発展に尽力した。義満は日本国王としての高まる威信を背景にして皇位簒奪を狙っていた。

 

日明貿易を開始

 しかし明側は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた。全ての民の君主である中国皇帝にとっては、天皇の家臣である義満との通交は認めなかったのである。そこで義満は太政大臣を辞して出家し、これにより義満は天皇の臣下ではない立場となった。

 やがて懐良親王は足利将軍が派遣した九州探題・今川了俊に敗れて、菊池一族とともに肥後(熊本県)に落ち延びた。この情勢を受けて明朝は京都の三代将軍・足利義満を日本国王に任命しなおした。明国皇帝から「日本国王」に冊封された義満は公卿界から太上天皇の礼遇を受け、天皇の人事異動の原案を自ら書き出し、寺社への参詣は後白河上皇や亀山上皇の儀礼にのっとるなど朝廷や寺院の人事権を獲得した。

 義満は貿易による莫大な利潤を狙っていたが、ちょうどその頃、中国を統一した明は義満に倭寇(わこう)の退治を求めてきた。倭寇とは東シナ海で中国や朝鮮沿岸を荒らしまわっていた日本の海賊のことある。懐良親王はすでに没落しており、足利義満は遣明使を派遣して明の皇帝に貢ぎ物をして、明の建文帝は義満を「日本国王源道義」として返事をよこした。源道義とは足利義満の法名で、これで明は足利義満を日本国王に正式認めて国交が樹立された。義満は倭寇の取り締まりを始め、明との貿易を始めることになる。倭寇と貿易船を区別するために、勘合(かんごう)という合札を使っていたためこれを勘合貿易といった。明から銅銭や高級織物を積極的に輸入し、これにより莫大な利益を獲得し、義満は政治的にも経済的にも日本の最高実力者となった。

 中国では日常的に銅不足だったので日本の銅が重宝され、銅には銀が混ざっていたので高値で取引された。日本は銅から銀を取り出す技術はなかったので銅が高値で売れたことは都合が良かった。この貿易は双方にとって有益なものであった。義満は日明貿易で多額の利益を得たのである。


仏教、金閣寺
 義満は実権を握ったまま出家し、権威を高めるため仏閣の建立に力を注いだ。1397年に西園寺家から京都北山の「北山弟」を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘(鹿苑寺)を造営した。後に義満自身が葬られ「鹿苑院(ろくおんいん)」と戒名がつけられるが、その臨済宗の大本山・相国寺はこの頃に造ったものである。なお相国寺は応仁の乱以降の戦乱や明治政府の廃仏毀釈で壊され現在では跡形もない。
 僧侶になった義満は北山に別荘を建て、山荘に移り住み政治活動の拠点とした。金閣寺自体は今は「鹿苑寺」の一部であるが、当時は北山台という別荘であった。足利義満が建設を建築物として、京都相国寺の八角七重塔がある。塔の高さは360尺(約109m)に及ぶ高層建築物であり、以後500年以上日本最高の高さであった。この相国寺の七重塔は4年後に落雷により焼失したが、翌年には同等規模の北山大塔を金閣寺付近に建設した。

 義満は戦乱で長らく中断されていた朝廷の歌会始などの行事をこの北山台で復活させ、将軍として自らの立場を大々的に喧伝した。北山では金箔で覆われた金閣寺をはじめ多くの建物を建て、茶の湯や能などの文化を楽んだ。また義満は猿楽の観阿弥・世阿弥父子を庇護した。(北山文化)

 

金閣寺の金箔の秘密
 金閣寺の金箔は約20kgとされており、昭和の大修復の際には金箔だけで約2000万円の費用がかかった。義満が金閣寺を金箔で飾ったのは権力の象徴で、後に織田信長が浅井長政の頭蓋骨を金色に塗り髑髏杯として披露したり、豊臣秀吉が金の茶室を建てたことと同じ意味だった。平安時代や鎌倉時代には極楽浄土は金色の世界であると信じられていたのである。

 金閣寺はきらびやかな装飾であるが、金箔は1階には貼られていない。これは貼り忘れや資金不足ではなく、1階は寝殿造りという公家や平安貴族たちの住居様式になっていた。2階は武家造り、3階は仏殿造りになっていて、自分は公家や平安貴族より上と見せつける意図があった。金閣寺の金箔は公家への嫌がらせだった。3階は明(中国)の禅宗様式で、明と親交の深い義満の敬意を示していた。

 足利義満は武士から公家になり、死後は皇位についたが、その見つめる先はどこにあったのか、皇位簒奪(こういさんだつ)、屈辱外交といわれ周囲から悪評が絶えなかったが、義満は天皇家に代わり自らが日本を手に入れようとしていた。

 

南北朝統一

 足利尊氏は新たな天皇を立て室町幕府を強引に開いたので、南北朝時代となり天皇が2人、国も2つに分かれてしまった。そのため幕府の命令に従う大名もまだ多くなく、大名らは北朝に味方したり南朝に味方したりしていた。

 1392年は楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落し、南朝勢力が全国的にもっとも衰えていた時期であった。一方の室町幕府(北朝)は、3代将軍・足利義満により最盛期を迎えていた。そこで義満は南朝側に大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め提案を持ち出した。

 「これからは南朝と北朝とで交互に天皇を立て、とりあえずは北朝から始めたいので、天皇の証拠でもある三種の神器を渡してほしい」との和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、これを南朝が受け入れることになる。これにより58年にわたる朝廷の分裂を終結させる(明徳の和約)。

 しかし義満は始めからこの約束を守るつもりはなかった。一度南朝が受け入れたが最後、もう南朝に天皇の座を渡すことはなかった。足利義満は兵を一人も犠牲にすることもなく南北朝をまとめたのである。この提案で足利尊氏、義詮が統合できなかった南北朝をひとつにして、幕府の勢いは強くなった。

 

准三后

 足利義満は寺院の建立を複数行い、摂関家と親密になって偏諱を与えたり、官位も上がり祖父・尊氏や父を越える内大臣、左大臣に就任した。1383年には武家として初めて源氏の長者となり淳和・奨学両院別当を兼任した。

 25歳時には皇族でないのに皇族と同じ待遇である准三后に宣下され、室町幕府を最盛期に導いた。准三后とは天皇に准じる「太皇太后・皇太后・皇后」と同じ扱いで、南北朝の統一や明との貿易もこの准三后の位があって可能であった。これで足利義満は名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。

 義満はその才能と性格から、北朝・第5代天皇の後円融天皇を自殺未遂にまで追い込んでいる。多才溢れる義満は雅楽の楽器である笙(しょう)の名手であったが、後円融天皇は自分より上手く奏でる義満に嫉妬し、人としても好ましく思っていなかった。妃の藤原厳子が出産を終えて宮中に戻った時、義満との密通を疑い、藤原厳子を殴り愛妾の関係だった按察局(あぜちのつぼね)を密通の疑いで内裏から追い出し出家させた。このように後円融天皇は荒れ放題だった。

 義満は上皇に相談するが、後円融天皇はそれを知ると流罪にされるのを怖れて持仏堂で切腹未遂の騒ぎを起こした。ちなみに厳子と按察局が義満と実際に関係があったかは定かではない。

 

天皇にならんとした

 天皇になろうとした人物には、奈良時代の弓削道鏡がいるが、これに対し義満は厳密には自ら天皇ではなく、次男義嗣を天皇にして、自らは太上天皇として朝廷に臨もうとした。

 義満は「力のある者が位も上にあるべきだ」という考えを抱いていた。1394年、足利義満は政治の実権を持ったまま将軍職を9歳の義持(よしもち)に譲り、自らは貴族の最高位である太政大臣になった。武家として最高位の征夷大将軍と公家として最高位の太政大臣をともに持つことになる。歴代武家で太政大臣となったのは平清盛のみで、執権北条氏や足利尊氏は大納言止まりであった。ところが義満は位階昇進を踏んで源実朝も経験しなかった大臣に昇り公家界の最高権力者になった。

 有力公卿は義満に迎合し、有力守護たちは次々にを挑発されことごとく弾圧された。

 このように大きな権力を握った足利義満は、1408年4月25日には自身の嫡男・義持の元服の儀を宮中で行うのが、この時に「うんげん緑」といわれる天皇と上皇しか座ることが許されない畳に座った。義満は天皇、上皇と同じ作法で、嫡男・義持を天皇にして、自分は上皇として君臨する筋書きを進んでいった。

 足利義満は太上天皇(皇位を後継者に譲った天皇の尊号)になろうとしていた。義満の母方には天皇家の血が流れており、太上天皇となる可能性は高かった。実際、足利義満の位牌には太上法王の戒名がついており天皇と同格の地位についたのである。

 

義満暗殺説
 しかし息子・義持の元服の儀から2日後の4月27日。足利義満はにわかに病に倒れた。将軍・義持は諸寺に義満快癒の祈祷を命じたが、政治、経済大きな勢力を与えた足利義満は、5月6日、51歳で急死した。通説では風邪をこじらせの肺炎とされているが、志半ばにして病没した(1408年)。あまりにもタイミングが良すぎ、天皇家を守るため義満が毒殺されたという説がある。足利義満暗殺の証拠はないが、外傷もなく徐々に弱っていったことから。これは朝廷勢力によって暗殺された可能性が高い。毒殺説が一般的である。足利義満はもう一歩で天皇の位というところで死去したのである。

 死後、足利義満は朝廷から太上法王(天皇)の称号を送られたが、周りからの説得からり、息子の将軍・義持はこれを辞退している。この辞退を主導したのは宿老の斯波義将であった。

 太上法王の尊号を拒否したのは、有力守護が尊王思想に傾いていたわけではてなく、むしろその逆であった。有力守護の本音は足利氏が天皇と将軍を独占し、しかも国際的に「日本国王」として足利氏が絶対王制となることへの嫌悪感があった。守護家にとっては封建権力として世襲することが大切であり、足利家が強大すぎるのは好ましいことではなく、微弱なりとも伝統のある「天皇家」が存続していた方が、守護家にとって都合がよかったのである。幕府を支える守護家の政治的思惑から、天皇家は空前の危機を回避することができたのである。

 足利義満の法名は鹿苑院天山道義である。等持院で火葬された義満の遺骨は、相国寺塔頭鹿苑院に葬られた。相国寺は足利将軍の位牌を祀っていたが、天明の大火で灰燼に帰し、そのため義満の墓所の正確な位置は不明であるが、位牌は足利家と縁の深かった臨川寺に移され安置されている。