日野富子

乳母の末路
 養君と強固な関係を築いた乳母の中には、銀閣を建立したことで有名な足利義政の乳母・今参局(いままいりのつぼね)のように、壮絶な人生を歩んだ女性がいた。今参局は乳母でありながら義政の妾でもあるという、現代人からすると奇妙な人物だった。現代風に例えてみると、名族のお坊っちゃまとその専任家政婦が家族公認の愛人関係にあるようなものである。今参局の生まれた年は不明だが、義政が生まれた時に乳が出ていたので、今参局と義政は15~20歳程度は歳が離れていたと思われる。
 今参局は政治への口出しが激しかった。地方領主の人事をめぐって、義政の母親・重子(今参局の姑)と意見が対立したとき、当時16歳だった義政は、今参局の意見を全面採用している。それだけならば単に今参局の意見のほうが優れていたというように聞こえが、重子の推薦した人物は、なんと今参局の意見で切腹までさせられた。この話のように。その大胆さにはある種の禍々しさも感じられてしまう。まだ若かった義政は、実母よりも乳母に頭が上がらなかったのだろう。
 今参局は順調に権力を築いていたが、それも永遠には続かなかった。義政の正室である日野富子が死産した際、子供が腹の中で死んだのは今参局による呪詛が原因だという噂が流れたのである。義政は実母の意見を退けてまで今参局を優先していたが、このときばかりは弁明の機会を与えずに島流しにしている。

 現代人からすると呪詛は迷信のように感じるだろうが、中世の人からすればとんでもない暴力である。義政が噂を信じたかどうかは分からないが、この処分は必要なものだったと言えよう。
 近江の沖ノ島に連れて行かれた今参局は、到着する前、あるいは到着後に自害したといわれている。享年は四十代前半。劇的な最期であった。