鎌倉時代の生活

農民の暮らし
 農民といっても、豊かな農民もいれば貧しい農民もいた。また平安時代の中頃になると力のある農民が武装化して武士になるので,農民の暮らしをひとまとめで言うことはできない。また武士といっても半農民が多かった。

 鎌倉時代の民衆といえば、農民が人口の約80%だったことから、農民・漁民・商人などが庶民に相当するので、ここでは普通の農民の暮らしについて述べる。

 領主、地頭(武士)は荘園の中で多くの農民を支配し年貢を取り立て雑用をやらせていた。幕府は領主の土地の半分を地頭に与え、地頭から一定の年貢を領主に納めることを条件に地頭に領地を支配させた。地頭は領主と同じように強くなっていき、農民は領主と地頭から二重の支配を受けたが、農民の中には地頭のきびしい責め立てを領主に訴える者や逃亡する者があらわれ、地頭と領主が裁判で争うこともあった。

 農民のほとんどが荘園の中で生活していたが、荘園の農民の中で自分の土地を持つ者を名主と呼び、名主は農民ではあるが戦いのときは武器をとって武士に従った。名主たちは自分の田を自分で耕していたが、やがて他の農民たちに作地を貸し地代を取り立てるようになった。土地を持たない小作人や下人はいつの時代も貧しかった。

 農民たちは採れた米の三割から四割を、荘園の支配者である地頭(武士)に年貢として差し出した。農民たちは年貢の他に地頭の屋敷を作ったり、橋をかけたり、荷物を運んだり、ただ働きをしなければならなかった。地頭(武士)と言っても戦いの際、馬に乗れる者(武士)はそれなりの領地を持っていて領内の農民たちを支配していたが、馬に乗れない武士は普段は農業をしており半農民であった。

 税としては米の他にも畑からは麦・粟・大豆などを、産物としては漆・カキ・炭・薪・織物などが納められ、重い年貢や数々の労働が小作人たちの負担になりその暮らしは苦しかった。

 米を年貢として収めるようになったのは江戸時代からで、鎌倉時代には米以外の海産物、絹、鉄、漆塗りなどの特産物が領主に収められていた。 農民の住まいの多くは一間の土間で、そこにむしろを敷いて暮らしていた。下人の生活はさらに過酷で、住まいは掘っ立て小屋で、苧という麻の着物を着て麦や雑穀を食べていた。

 

農業技術の進歩

 平安時代の終わり頃から農業技術は進歩し、畿内や西日本では米のほかに麦を裏作として二毛作が行われていた。秋に米を収穫し、裏作として秋に麦をつくり春に収穫していた。

 農民にとって田に水を絶やさないことが重要で、水車の使用が盛んになった。水車をつくる技術はかなり高いものであった。

 またそれまでは種もみを耕した田に直接まく「直播き」であったが、鎌倉時代には苗代がつくられた。苗代とは田に種もみもまく前に、ある程度水に漬けて発芽させる方式で、苗代は直播きに代わり広く行われるようになった。
 肥料としては草や木を焼いた草木灰や、青いままの草を刈って田畑にしき込む刈敷(かりしき)、糞尿が利用された。

 また牛馬を利用した農耕も進み、牛馬に鎌(スキ)をひかせて田を耕す方法が行われた。鍬(くわ)などの鋭利な鉄製の農具が普及し、悪条件でも育つ大唐米(だいとうまい)が輸入され生産性が向上した。

 耕地の面積も地頭によって積極的に新田が開発され、特に関東平野では多くが開墾され、田畑が増え、農機具が進歩し、水利・土木技術の発達により、さらに集団を組んで稲作を行いことにより生産性は飛躍的によくなった。
 この頃には米や麦の他にも、桑・うるし・茶。こうぞ(紙の原料)・ごま・大根・豆。ねぎ などの栽培もさかんになった。染料の原料である藍や灯油の原料となる荏胡麻(えごま)が栽培され、絹布や麻布(まふ)なども織られた。特に荏胡麻による灯油が広く普及し夜の生活が可能になり、人々の生活は劇的に変化した。

 

商業
 農工業が発達すると商業も盛んになり、商業の発達によって職人の数も多くなった。農具の需要が増えたことで手工業で生計を立てる職人が現れるようになり、番匠(大工)や鍛冶(かじ)、鋳物師(いもじ)、染め物業である紺屋(こうや)などの新しい職業が生まれた。。

 材木を切り出す山人、薪をとるきこり、また草刈りもいて牛馬の餌や草肥の材料に草を刈った。そのほか炭焼きやいかだ師、船を造る船大工もいた。山人に対して漁業をする人を浦人というが、浦人には海女や塩をつくる塩くみ男・塩かき男がいた。金や銀を掘り出す者、さらには金を叩いて薄くする薄打ちもいた。

 日用品を作るおけ屋・傘屋・扇屋などがいて、武士の世の中に相応しく刀鍛冶・弓つくり・矢細工・鎧つくり・革屋などの職人もいた。

 革屋の家の天井や壁には、様々な革製品や毛皮などが吊るされ、鍛冶屋は主に農具や日用の道具をつくっていた。仏教でも仏像をつくる仏師、数珠をこしらえる念珠挽、お経を折本や巻物などに貼る経師がいた。仏教関係の職人はみな僧侶に似た姿で仕事をした。
 大工、左官などの職人もいて大工のことを番匠といい、左官を壁塗りといった。番匠たちは手斧・さしがね・すみなわなどを使って仕事をして、さらに家具をつくる職人もいて、彼らは家具の他に畳やすだれを作っていた。

 そのほか陶器をつくる者、まき絵をつくる者、刀を研ぐ研ぐ者、獲った魚を料理する料理人などがそれぞれの業に励んでいた。

 鎌倉時代には物資や人が集中する荘園・公領の中心地や交通の要地、あるいは寺社の門前で定期的に市が開かれた。商人と言っても店を持つ者はごくわずかで、多くは露天業で荷物を背負って売り歩いていた。領主や地頭は市の商人たちに税をかけ、その代わりに市の商売を保護した。市には行商人がたくさん集まり、彼らは市の開かれる日を知っていてその付近を歩いて商売をしていた。

 定期的に市場をひらく定期市が寺社などで決まった日に開かれるようになり、毎月3回の定期市を 三斎市(さんさいいち) という。多くは月に三度か五度、日を決めて市がたち三日市・五日市と呼ばれた。三度の市では仏教行事の斎日(さいにち)にちなんで三斎市(さんさいいち)と呼ばれた。

 名主たちは農作物を市に出し、それらは余った物ではなく、市に出すことを目的にして農作物・衣類・農具などを作り銭に替えた。市では米や地方の特産物などが売買され、中央から商品を運んでくる行商人が現れ、やがて常設の小売店である見世棚が見られるようになった。また手工業者は製品を売りさばく商人を兼ね、同業種の商人が集まり、それまで寺社や公家に属しての製造や販売に関する特権が、この頃には座(ざ)と呼ばれる同業者の団体に発展した。

 問丸は現在の運送業者である。諸国から集められた物産は大きな港や大きな街道が交わる要所に集中し、問丸はそれらの物産を保管したり、次の問丸に運んだり、町の商人に届けたりしていた。彼らは平安時代には「問・問所」と呼ばれ、鎌倉時代から室町時代にかけては問丸と呼ばれ、江戸時代になると問屋(といや)と呼ばれた。 
 遠隔地を結ぶ商業取引も盛んになり、大量輸送を果たすために水運が利用され海上交通が発達した。兵庫や淀といった各地の港や大河川沿いの交通の要地には、年貢の輸送や保管にあたる問丸が発達し、陸運でも輸送業者としての馬借が現れた。
 商業には貨幣が必要で、中国大陸から宋銭(そうせん)が輸入され、従来の物々交換にかわり使用され、遠隔地間の取引には為替が使われた。貨幣経済の発達によって、荘園の一部では年貢の支払いを銭納で行われるようになった。この貨幣の流通とともに銭を貸す高利貸があらわれ、銭を貸して高い利息を取る金融業の借上(かしあげ)や、質屋の土倉(どそう)といった商売も現れた。
 借上や土倉は、分割相続による所領の細分化によって生活に苦しむようになった御家人に融資して、支払いが滞ると御家人の権利を取得して荘園の管理権を得る者まで現れ、経済の発達は鎌倉幕府の基本である御家人の生活にまで大きな影響を及ぼすようになった。

庶民の生活

(1)調理・料理
 鎌倉時代には現在の焼く・煮る・蒸す・揚げる調理法が全てあった。煮物としてはうどん・汁・そうめん・きしめんがあり。焼き物としては焼餅・焼き魚・焼き肉があった。蒸し物としてはまんじゅうなどで、揚げ物としては小麦粉を練って油で揚げた。
 調理器具としては包丁・まないた・まな箸・ざる・ひしゃく・甑(こしき=米を蒸す土器)・鉄瓶・五徳(鍋を火にかける台)などが使われていた。
 大きな屋敷には調理専門の厨(くりや)があり、そこで煮炊きをしていたが、おかず類は台所で座って調理をしていた。庶民は狭い板敷きの場所でかまどで煮炊きをするか外で調理をした。

 味付けにはひしお(醤油に近いもの)や、匂いがきつい魚醤(魚から作った醤油)・大豆や麹に米ぬかを混ぜて作ったじんた味噌・塩・甘葛(あまづら=蔦から採取した甘味料)・山椒・ゆずなどが使われた。
(2)灯り
「ひょうそく」という素焼きの皿に油を注いで灯心に火をつけたが、4ワット位の明るさしかないので文字を読む時には幾つかを点ける必要があった。そのためこの時代の人は陽が沈んだら寝る。陽が昇ったら起きるが基本であった。
(3)お風呂
 鎌倉時代の人は毎日風呂に入る習慣はなかった。現代の温泉巡りなどはなく、たまに風呂に入る場合は「蒸し風呂」が主流であった。浴衣(ゆかた)は蒸し風呂に入る時に着たもので、蒸気で汗を流して垢や汚れを落とした。

 そのため朝廷、公家、上級武士の女性は十二単などで飾っていたので皮膚病が多かった。また大きな桶に湯を入れて入ることもあったが、その際には上流階級では「黒もじ」という木の葉っぱを入れた。「黒もじ」とはつま楊枝(つまようじ)様に加工された木の皮のことで、「黒もじ」には殺菌効果があり良い香りがした。黒もじを入れたお風呂を「薬湯(やくとう)」と呼び、貴族は1週間に1度は薬湯に入浴したが、庶民はただの湯に入るだけであった。しかし貧しい人々のためにお寺が薬湯をたて開放したので庶民も薬湯に入ることができた。
(4)墓はなかった
 江戸時代までの庶民には「お墓」がなかった。死んだ者は穴に埋められ「石ころ」が置かれる程度で、土地に余裕のない都市部では河原に捨てられ、あるいは集団で穴に埋められた。鎌倉時代も後期になると「道に捨てられている死体は、穴を掘って埋めるべし」との「令」が発布された。

 死人が道端、草むら、河原にゴロゴロしているのが「当たり前」だった。墓を造るには穴を掘り墓石を置くが、それには相当の費用がかかったので、ある一定以上の人でないと「お墓」は造れなかった。葬儀が行なわれるようになったのは、戦国時代にキリスト教が入って来て、キリスト教徒が「結婚式」や「葬儀」をする習慣を真似たのが始まりである。

武士の生活(鎌倉)

 鎌倉は将軍頼朝が住むようになって次第に賑わってきた。町の中心は鶴岡八幡宮に通じる若宮大路で、幕府の建物はその近くに建てられた。武家屋敷には畠山氏・和田氏・三浦氏・北条氏などの幕府の主だった家来の館が建ち並んでいた。
 武士の家は東御門・西御門・雪の下・小町・大町・二階堂・浄明寺などの山の手にあり、これに対して材木座・由比ガ浜・坂ノ下などが庶民の住む下町があった。当時の鎌倉の様子は、京都から鎌倉へ来た人が書いた「海道記」に詳しく載っている。
 鎌倉は商業が盛んになり、ほうぼうに商店が立ち並んでいた。幕府は大町・小町・米町・和加江・大倉辻・気和飛坂・亀が谷辻の七か所に店を開かせ、他では店を開かせないようにした。

 由比が浜には数百艘の船がいつも出入りして賑わっていた。鎌倉では武士の館や商人の家など、多くの家が軒を並べていたので火事が多かった。
 鎌倉には鶴岡八幡宮のほか、多くの神社や寺が建てられ、幕府は鎌倉の町を治めるために町を四つの区にわけて奉行人をおいた。奉行人は泥棒を捉えたり、相手から無理に安く値切って買いとる押買いを取り締まった。酒の売買は禁じられ、奉行人は博打や人身売買を取り締まった。その他、庶民には橋や道路を修繕し掃除する義務があった。
 鎌倉時代の代表的な都市は鎌倉と京都であったが、鎌倉と京都の行き来が盛んになり街道すじは賑やかになった。市も次第に盛んになり、付近の農民や行商人らが市に集まった。

 

武士の生活

 武士と言っても馬に乗れる武士は領地を持ち、農民たちを支配していたが、馬に乗れない武士はかき集めの集団で普段は農業をしていた。この時代に武士と言われる人たちの大部分は農村の地主(豪族)であった。もちろん彼らは幕府の御家人なので、鎌倉の幕府へ出かけたり幕府の指図するところへ出かけたりもするが、彼らの本拠地は農村だった。
 武士たちは農村で生活し農村を治め、さらに武芸の修錬をしていた。馬に乗り、狩りをして、刀や弓矢の使い方を修錬して武芸を磨いていた。鎌倉武士たちが武芸の道に励むことが出来たのは、都から遠く離れた田舎に住んでいたからといえる。
 農村の領地は武士たちにとっては大切な暮らしの土台で、武士たちは治めている土地の名前を自分たちの名字にするようになった。
 守護や地頭の武士たちと領地内の農民とは深く結ばれ、武士の屋敷は農村の中心にあり、村全体を見渡せる高台、あるいは交通の便利な平地などにあった。広い屋敷の周りには深い掘りや垣根で囲まれ、これを堀の内と呼んだ。

 武士の家は農民の家とは違い、その造りは武家造りで、家来のいる部屋・倉庫・馬小屋などに取り巻かれ、屋敷のほぼ中央に主人の住む母屋があった。屋根は板ぶきか茅ぶきで、床は板じきが多く、畳のあるのはわずかな部分だった。夜になると庭では家来たちが夜通し警戒にあたり、当番でない者も枕元に武器を置いて、いざというときには飛び出せるようにしていた。

 広い屋敷の周りには田畑があり、屋敷内に住む家来たちが耕していた。武士たちは自分の領地を守り、それを広げるために、日頃から武芸を磨き周りの敵と戦う用意を怠たらなかった。

 武芸は武士にとって欠くことのできないもので、暮らしを立てるために獣を獲ったり田を耕した。武士は狩で武芸を磨き、農業を生活の足しにした。
 吉見二郎という武士がいたが、二郎は詩歌を作り、音楽を好み武勇を軽く考えていたが、上京途中の遠江国(静岡県)で山賊に殺された。弟の男衾三郎(おぶすまさぶろう)は「武勇の家に生まれたからには、武芸の道に励むべきだ。歌を作り、琴を弾き、笛を吹いたところでなんの役にも立たない。家の者は女や子どもに至るまで、荒馬を乗りこなし弓矢を弾く練習を怠るな」と、日頃から武芸に励んだので、山賊は男衾三郎を避けて通ったとされている。
 このように武士は日ごろから武芸にはげんでおり、やぶさめ・かさがけ・犬追物や狩りなどが行われた。かさがけは走る馬上から、かきの形をした的を射るもの、やぶさめは走る馬上から板の的を射るものである。犬追物は馬に乗って、走る犬を射るもので、狩りはしばしば行われた。頼朝が那須野(栃木県)や富士の裾野で行った狩りは有名で、これは武士たちの武芸を磨くために幕府が中心になって行われた。

武器

 鎌倉時代の武器はいたって簡単で太刀(たち)・鎧通(よろいどおし)・長刀(なぎなた)・弓などである。太刀は馬に乗って戦う身分の高い武士が持つ刀で、鎧通は相手を組み伏せてから、鎧の弱い部分や鎧でおおわれていない部分をさして相手を殺す。小刀、長刀は長い棒の先に付けた幅広の刀で、おもに一般の兵が使っていた。弓はこの時代最も威力を発揮した武器で「弓馬の道」と言われるほど弓と馬の訓練は武士にとって最も大切であった。

戦いの規則

 武士として「戦いの規則」がある。まず「名乗る」、次に互いに弓矢を打ち合う。そして敵陣に突入するが戦いはあくまでも「一対一」で、主人が戦っているときは家来は周りで見て応援するだけである。
 勝ったら相手の首を切り落として、大将にそれを見せて恩賞をもらうが、敵の身分が高ければ高いほど良い恩賞がもらえた。

流鏑馬について
 流鏑馬という言葉は「馬にのって鏑矢を射流す」からきており、流鏑馬の起源は、6世紀に宇佐八幡宮で神功皇后と応神天皇を祀って天下泰平・五穀豊穣を祈願し馬上から3つの的を射させたのが最初とされている。

 歴史上、流鏑馬が一般的になるのは平安時代の後期になってからで、その後、源頼朝が鎌倉に武士政権を樹立し、政治の実権が貴族から武士へと移っていくにともない流鏑馬は武士の行事の中に組み込まれた。

 京都三大祭りの葵祭で行われる下鴨神社の流鏑馬は神事とされ、美しい糺の森にある全長500mの馬場を、公家や武家の装束を着た射手が馬を走らせ次々と小さな的めがけて矢を射ることである。
流鏑馬の流派
 流鏑馬は小笠原流と武田流の2つの流派に分かれるが、ともに八幡太郎の名で有名な源義家の弟・新羅三郎義光の末裔である。現在でも全国の神社で実演・奉納されている。
 小笠原流は江戸時代の第8代将軍・徳川吉宗の命を受けた小笠原貞政が新たに儀式とし、これ以降、高田馬場で徳川将軍家の繁栄のために流鏑馬が行われるようになった。なお先述した葵祭や鶴岡八幡宮の秋の例大祭で行われる流鏑馬神事は小笠原流である。
 武田流は鎌倉時代から室町時代にかけて代々武田家が相伝してきた流派で、戦国時代に滅亡した武田家から細川家へと伝授され、江戸時代に入り細川家の家臣・竹原家が継承して現在に至っている。鶴岡八幡宮の流鏑馬神事は武田流である。この2つの流派は身に付ける装飾や使用する矢などが微妙に異なる。
 現在では流鏑馬はスポーツとして競技化され、各地の乗馬クラブで大会が開催され、講義や検定試験などが設けられている。鏑馬を体験したい場合は、スポーツ流鏑馬から初めるのがよい。外人にとっては「これぞ本格的なサムライス精神で美しい」と言われるほどで、流鏑馬は日本が誇る文化の1つになっている。