第一次世界大戦

第一次世界大戦
 1914年(大正3年)、第一次世界大戦ではドイツ・オーストリア・トルコの陣営と、イギリス・フランス・ロシアなどによる陣営とが戦争をした。
 ドイツ・オーストリア・イタリアの三国は三国同盟を結び同盟国と言われ、これに対してロシア・フランス・イギリスは三国協商を結び、連合国と言われた。第一次世界大戦同盟国と連合国との、あるいは三国同盟と三国協商との争いであった。
 この戦争は長期化し、また毒ガスが新兵器として登場し、被害が大きかった。まだ性能は低いが潜水艦、戦車や飛行機、飛行船も新兵器としてつかわれた。    
 この第一次世界大戦から戦争のしかたが大きく変わり、男の兵士だけが戦争に従事する方式から、民間人や女子も工場動員などで戦争に協力し、国力を出し切って戦う総力戦になった。

 ヨーロッパ以外の日本やアメリカは国土は戦場にならなかったが、日本やアメリカでの総力戦は、のちの第二次世界大戦になる。
 日本では国土が被害にあわなかったことから、日本の民衆や評論家などの多くは、戦争のしかたが総力戦に変わったことに気づかず、のちに、欧米の戦力をあなどることになる。
 日本は大正時代で、明治天皇はすでに死んでおり、大正天皇が日本の天皇だった。日本は第一次世界大戦に参戦し、イギリスと日英同盟を結んでいたことを理由として、日本はイギリス側である連合国側に立って参戦した。ドイツの基地が、中国大陸の青島(チンタオ)にあったので、日本は、青島のドイツ基地を占領した。
 また大戦中の1915年(大正4年)に中国政府(袁世凱の中華民国)に要求を出した「二十一か条の要求」の内容は、中国におけるドイツの山東半島などの権益を、日本が受け継ぐ事を認めさせる要求だった。

 また満州や内モンゴルでの日本の権益を認めるさせることも日本は要求した。日本は要求のほとんどを中華民国に認めさせたが、中国では民衆などによる日本への反対運動が起きた。


なぜ第一次世界大戦が起きたのか
 ヨーロッパ南東部のルーマニアやギリシャなどがあるバルカン半島の支配をめぐって、オーストリアとロシアが対立をしていた。第一次大戦の前からバルカン半島では多くの戦争や紛争があり、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と言われていた。

 なぜ紛争が多いかというとバルカン半島には多くの国や民族があったからである。ルーマニア、ブルガリア、セルビア、アルバニアやギリシアなどがバルカン半島にあった。 セルビアではロシア系の民族であるスラブ人が多かった。ロシア人もスラブ人で、ヨーロッパ各地のロシア系の民族をスラブ人という。
サラエボ事件
  1914年に、オーストリアの皇太子の夫妻が、ボスニアの首都のサラエボを訪れていたときに、皇太子夫妻が暗殺される事件が起きた。この暗殺事件をサラエボ事件という。この事件の犯人がセルビア人の青年であった。
 この事件に対する報復で、同年にオーストリアがセルビアに宣戦布告したのが、第一次世界大戦のきっかけになった。オーストリアの同盟国のドイツは、オーストリアを支持した。
 いっぽうセルビアの支持国については、ロシアはセルビアの支持をした。ロシアと協力関係にあったフランスやイギリスも、ロシアの支持を通してセルビアを支持した。オーストリアの支持の側であるドイツは、セルビアを支持しているロシアやフランスやイギリスに対して宣戦布告した。

背景
 なぜセルビアとオーストリアが対立していたのかというと、オーストリアは1908年にボスニア・ヘルツェゴビナをオーストリアに併合したが、セルビアもこのボスニア・ヘルツェゴビナを併合しようとした。そのためオーストリアとセルビアと対立していたのである。
  ではなぜ1908年に急にオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合したのかというと、中東のアラブ地方にあるトルコで、青年トルコ革命とがあり、この革命の混乱に乗じてオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合したのである。
    つまりは青年トルコの革命 → オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナの併合 → サラエボ事件という流れになってる。
  ちなみに日本が日露戦争でロシアに勝ったことが、日本人と同じく有色人種であるトルコ人に革命の気運をもたらしたのである。

ロシア革命
 世界大戦のさなかロシアでは革命が1917年に起きる(ロシア革命)。ロシアでは日露戦争のころから、ロシア皇帝の圧政に反対する運動があったが、第一次世界大戦による物資の不足などで国民生活が苦しくなり、ますます皇帝政治に対する反対運動が強まっていた。そのため1917年3月に労働者が抗議運動を起こし、軍隊もこの抗議運動に同調した。軍隊が皇帝を裏切った以上、もはや皇帝を守るものはなく、ロシア皇帝のニコライ2世は退位するはめになった。(三月革命)
  ニコライ2世とその一族は退位後に革命政府により殺害された。こうしてロシアの帝政は終わりロマノフ王朝は終わった。

ソビエト連邦
  帝政にかわる、革命運動による臨時の政府が出来て、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦と呼ばれた。日本語での呼び方では、短く略して「ソ連」「ソビエト連邦」などと呼ぶ場合もある。
  こうしてロシア政府にかわり、ソビエト政府がロシアの領土を支配することになった。
1917年3月直後のころの臨時政府は、当初、第一次世界大戦の戦争継続の方針だった。だが即時の停戦をかかげるレーニンが1917年11月に革命を起こして成功し(十一月革命)、こうしてロシアの革命運動ではレーニンの思想が中心的な思想になった。
  ソビエト政府も第一次世界大戦を、ロシア・フランス・イギリスの三国協商のまま、イギリスやフランスと協力したが、革命によるソビエト国内の混乱もあり、ソビエトは戦争から引いていった。ソビエトは各国に、無併合・無賠償・民族自決の即時講和を呼びかけた。1918年に、ソビエトはドイツ側と講話して、ソビエトは連合国では無くなった。ソビエトは、地主の土地を没収して、農民に使わせるために政府が管理するなど、社会主義的だと考えてた政策を行った。ソビエトの政治の仕組みは社会主義や共産主義と言われる方式であり、当時としては新しい方式の政治の仕組みだった。
    共産主義は工場などの生産手段を、国などの公共機関が管理することで、地主や工場主などの資本家による労働者への不利なあつかいをふせごうとする経済に関する主義である。生産手段を共有するので「共産主義」という日本語訳にわけで、工場主や社長などは、会社や設備を私有できなくなるので、共産主義は私有財産の否定の思想でもある。
    ロシア革命などの歴史的な経緯から、社会主義と共産主義とが混同されることがある。社会主義と同様に、天皇制を打倒しようとする思想と混同された。当時は革命思想と混同されたていたので、警察などから共産主義が強く取り締まられることになった。
 ちなみにヨーロッパで共産主義の思想を初めて唱えたマルクスとエンゲルスの二人は、ドイツ人であり、べつにロシア人ではない。しかもエンゲルスにいたっては、工場主の経歴を持つ資本家の側の人間である。
 日本の中学校教育では、社会主義と共産主義とは、区別しないのが一般である。実際、欧米でも、歴史的にも、似たような意味で「社会主義」と「共産主義」の語句が使われていた事もある。
ロシア革命後、ソビエト連邦が社会主義運動や共産主義運動の中心地になったので、ソビエトに従おうとする政治思想と共産主義・社会主義とが混同されることになった。ソビエトの政府は、共産主義を目指していた。そのため、土地や産業を国有化した。共産主義はロシア以外には広まらなかった。中国が共産主義になる時期は第二次世界大戦のあとである。
    社会主義は「社会のみんなで政治をしよう」とか「社会を良くする政治をしよう」というような主義。日本では社会主義が天皇制を打倒しようとする反乱の考えとされ取り締まりを受けた。実際にロシアではロシア革命により皇帝が殺害されているので、まったくの無関係でも無い。たとえ日本人の社会主義者に天皇制を打倒しようとするものが少なくても、外国の社会主義者は違っていた。またロシアで革命が起きていることもあり、政府や警察からは社会主義は「革命を起こして今の政府を変えよう」という革命主義と受け取られる弾圧されていくことになる。
    この時代と同じ頃、日本や欧米では労働運動で、労働者の地位向上を要求する運動がさかんであり、かれら労働運動家が「社会主義」を名乗ることが多かったので「労働運動によって労働環境を変えていこう」という運動が社会主義と同一視されることになった。「社会主義」は、大元の意味が「社会のみんなで、政治をしよう」などといった、はっきりしない意味なので、いろんな意味に解釈されて、いろんな意味でこの「社会主義」という言葉が使われることになる。

シベリア出兵
 連合国はロシア革命が周辺国に広がることをおそれ、革命反対派に協力するため、1918年にシベリアに出兵した。イギリス・フランス・アメリカ・日本が出兵。日本は約7万人の軍隊をシベリアに出兵した。これらをシベリア出兵という。
レーニンの死後
  1924年にレーニンが死んでからは、ロシアではしだいにスターリンが権力をにぎっていった。スターリンは共産主義の考えにもとづき統制を強め、ロシアの政治は、しだいに事実上はスターリンの独裁政治へとなっていった。
  産業政策では、スターリンのひきいるソ連では重工業を中心にした工業化を進めていった。 1928年から「五ヵ年計画」をかかげて、重工業化と、農業の集団化をおしすすめた。
アメリカの参戦
  アメリカは、はじめは中立を保っていたが、ドイツが中立国の船を攻撃しはじめた事を理由に、1917年に、アメリカはイギリスの側として参戦する。アメリカから支援された大量の物資や武器などにより、イギリス側の連合国が有利になった。 連合国の側にアメリカと日本という、当時の強国が2つも加わったこともあり、戦争は連合国に有利に進んだ。
  そして1918年、ドイツが負けを認めて降伏し、アメリカ・イギリス・フランスの連合国が勝利して、ドイツとオーストリアは負け第一次世界大戦は終わった。イタリアは、戦争の途中で連合国の側の支持へと変わった。

二十一か条の要求
  第一次世界大戦中の1915年(大正4年)に、日本は中国政府(袁世凱の中華民国)に要求を出した。二十一か条の要求(にじゅういっかじょう の ようきゅう)という。要求の内容は、中国における、ドイツの山東半島などの権益を、日本が受け継ぐ事を認めさせる内容の要求だった。また、満州や内モンゴルでの日本の権益を認めるさせることも、日本は要求した。日本は、要求のほとんどを中華民国に認めさせた。 中国では民衆などに、日本への反対運動が起きた。

戦後処理・ベルサイユ条約
 フランスの首都のパリで講和会議であるパリ講和会議が1919年に開かれ、ドイツとの間で戦後の処理のための条約として、ベルサイユ条約が1919年に結ばれた。「ベルサイユ」とは、パリにあるベルサイユ宮殿のことで、この場所で講和会議が行われたことによる。
条約の結果、ドイツは多くの賠償金を払うことになった。ドイツは、フランスとの領土問題のあったアルザス=ロレーヌ地方を失い、アルザス・ロレーヌはフランスに渡された。アルザス=ロレーヌ地方は、炭鉱や石炭などの資源が豊富であり、そのためフランスとドイツとの間で、しばしば領土争いになる事の多い土地である。
そしてドイツが世界各地に持っていた植民地は放棄させられた。なお、イギリスなどの戦勝国は、植民地を放棄していないので、植民地の解放運動の思想とは無関係の要求である。対戦前にドイツが持っていた中国の山東省の権益や、ドイツ領だった(太平洋の)南洋諸島の委任統治権などは、日本が受け継ぐことになった。
 アメリカのウィルソン大統領は、民族自決の原則などの理想を掲げた。民族自決の原則などの要求をふくんだ「14か条の平和原則」をウィルソンは掲げた。しかし英仏などの戦勝国が自国の植民地の権益を主張したため、ドイツが植民地を失った以外にはたいした成果はなかった。
なお「14か条の平和原則」の主な内容は、秘密外交の廃止、民族自決、軍備の縮小、国際機関の設立である。


国際連盟の設立
  アメリカ大統領ウィルソンの提案によって、平和を目的とした国際連盟の設立が決まった。そして1920年に、国際連盟が設立した。国際連盟の本部はスイスのジュネーブに置かれた。
  スイスは永世中立国である。中立国とは、戦争の時に、どの外国にも協力しないということである。中立は「戦争をしない」という意味ではないし、「軍隊を持たない」という意味でもない。スイスは軍隊を持っているし、もしスイスが攻め込まれたらスイス国民は自国を守るための戦争を行う。
  スイスは中立国なので国際機関の本部の場所として良いだろうと考えられ、スイスが国際連盟の場所に選ばれたのである。
この国際連盟と、のちに作られる国際機関の国際連合とはべつの組織である。
国際連合が作られるのは第二次世界大戦のあとであり、第一次世界大戦のあとの時代には国際連合はまだない。
  国際連盟を提案したアメリカは、アメリカ議会の反対によりアメリカは国際連盟には加盟していない。


新渡戸稲造
 日本人の新渡戸稲造が、国際連盟の事務局の次長として選ばれた。「次長」というのは役職のひとつで、二番目ぐらいにえらい役職のことである。今日の一般の会社でも「次長」という役職があり、社長や部長などの次にえらい役職が次長である。なお国際連盟の常任理事国に、日本が入っている。
  国際連盟は、ヨーロッパ人など白人の国家および列強国を中心とした国際機関であった。当時はアフリカやアジアの多くは列強の植民地であったので、今の国際連合とは違って、国際連盟ではアフリカなどの主権をうったえることが出来なかった。大戦後の国際連盟ですらも、国際連合の設立直後は、戦勝国とヨーロッパ諸国など白人の国を中心とした連合であり、当初はアフリカやアジアの多くは植民地のままであり、代表者を国際連合に送ることは出来なかった。
  とはいっても、べつに国際連盟の当時の国際協調の方針は、なにも植民地支配の正当化を目的としたものではないだろう。国際連盟の設立者たちは、もっと単純に、世界平和や有効を願ったのだろう。しかし、当時の現状の前提となる列強の身勝手な植民地支配もあり、やがて国際連盟の加盟国から、たいして植民地を持たないドイツや日本国などが国際連盟に反発していき、列強が二つの陣営に分かれ(植民地を「持つ国」「持たざる国」)、そして国際連盟は機能をしなくなっていく運命にある。
かといって、当時の帝国主義時代の、植民地をあらそう時代の、欧米の人たちに、もはや殖民地を独立させることは国防上からも無理であろう。もう国際連盟の理念と現実との矛盾は、いわば「時代の限界」とでも言うしか無いのだろう。
  もちろん、たとえ「時代の現代」だろうが、列強が植民地支配という「悪」(民族自決の観点から見れば)を行ったことには変わりない。そして日本国すらも、欧米と同様にして朝鮮半島や中国へと植民地支配を広げていった「悪」の国となる。
この、植民地支配という悪行のために、やがて列強の各国は、「第二次世界大戦」という、とても手痛い犠牲を払うことになる。

ワシントン会議
  各国が、おたがいに軍備の保有量を減らして少なくするという軍縮のための会議が、1921年、1922年にアメリカのワシントンで開かれた。この会議を ワシントン会議 という。
このワシントン会議によって、各国の海軍の軍事力を軍縮することが決まった。
イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの軍艦の主力艦(しゅりょくかん、英:Capital ship)の保有トン数の比が、
    イギリス:アメリカ:日本:フランス:イタリア = 5 : 5 : 3 : 1.67 : 1.67と、決まった。
  主力艦以外の補助艦についてはまだ決まっていない。
また日本・アメリカ・イギリス・フランスによる、太平洋における各国領土の権益を保障した四カ国条約(よんかこくじょうやく)が結ばれ、それにともなって日英同盟は廃止(はいし)された。
  交渉の結果、日本は山東省を中国(中華民国)に返すことになったので、中国に山東省を返還した。
  軍縮によって、軍事費の増大にこまっていた日本の政府は助かった。だが、日本国内の一部の強硬派には、軍縮に不満も多かった。
このようなワシントン会議によって決まった国際社会の体制を ワシントン体制と言う。

ロンドン会議
  ワシントン会議では、補助艦の保有トン数の制限については、決まっていなかった。1930年のロンドン会議(英:London Naval Conference)では、補助艦の保有トン数の制限が決まった。
    イギリス:アメリカ:日本 = 10 : 10 : 7の比率である。
ロンドンはイギリスの首都で、ロンドンでロンドン会議が開かれた。

民族独立への運動
  第一次世界大戦の戦後処理で、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「民族自決」(みんぞく じけつ)の理念にもとづき(「どの民族も、他の民族から支配されるべきではない」という思想)、オーストリアからはハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビアが独立し、ロシアからもポーランドやフィンランドが独立した。
しかし、この民族自決の理念は、ヨーロッパの民族の自決にだけしか適用されず、アジアやアフリカなどは、欧米の植民地のままであった。東欧諸国の独立は、ドイツの封じ込めや、ソ連の封じ込めなどに都合がよい。


民主主義の成長
  第一次世界大戦の戦中や戦後に、ヨーロッパやアメリカでは、労働者や女性も総力戦に貢献したことから、選挙権を労働者や女性にも拡大するべきと言う要求が強くなっていき、実際に多くの欧米の国で選挙権が拡大された。
女性の選挙権は、イギリスでは1918年には女性に選挙権が与えられた。アメリカでは1920年に男女の普通選挙が与えられた。
  ドイツでは1919年にワイマール憲法が制定され、満20歳以上の男女に選挙権が与えられ、国民主権となり、労働者が労働組合を作る権利(団結権)が認められた。
また、すでに説明したが、ロシアではロシア革命により社会主義・共産主義が成長した。ロシア以外の国でも、社会主義を掲げる運動が活発になった。

アメリカの発展
  戦中や戦後、ヨーロッパが戦場になって疲弊したこともあり、国際社会での中心的な国が、イギリスからアメリカに、しだいに移っていった。
アメリカの工業や商業も発展し、ラジオや自動車などが大量生産され普及した。映画やジャズ音楽なども普及した。


アジアでの独立運動
 欧米の列強は、アジアの植民地の運動を認めなかった。しかし、ウィルソンの平和原則や、ロシア革命など、民族自決を重視する国際的な風潮に刺激され、インドや中国などのようなアジア各地の植民地では、独立運動がさかんになった。
日本も植民地として朝鮮半島を支配しており、また中国の満州などに権益を持っており、中国の一部植民地のように支配していたので、それら朝鮮半島や中国では、日本へ反発する運動がさかんになった。

朝鮮の独立運動
 朝鮮半島では、1919年3月1日に京城(ソウル)で、民衆が日本からの独立を求めて「独立万歳」と言って行進する運動が起きた。これを三・一独立運動と言う。これをキッカケに朝鮮各地でも、日本からの独立を求める運動が起きた。
しかし朝鮮総督府は、これらの運動を取り締まり、武力で鎮圧した。 その一方で、総督府は強圧的な方針の一部をあらため、朝鮮人の権利の一部を拡大し、朝鮮での言論や出版や結社などを部分的に認めた。
日本人の思想家である柳宗悦(やなぎ むねよし)は、三・一独立運動に関して、日本の朝鮮支配を批判した。「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した。当時、ほとんどの日本の文化人が朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術(とりわけ陶磁器など)に注目し、朝鮮の陶磁器や古美術を収集した。
   柳宗悦「われわれ日本人が、今朝鮮人の立場にいると仮定してみたい。おそらく義憤好きな我々日本人こそ最も多く暴動を企てる仲間であろう。わがことならぬゆえに、ただそれを暴動といってあなどるのである。反抗するかれらよりもいっそうおろかなのは、圧迫するわれわれである。」

中国の運動
 中国に権益を持っていた国は日本だけではなくヨーロッパ諸国も同様だが、しかし日本は「二十一か条の要求」で中国に高圧的な要求したばかりという理由もあり、中国での反・帝国主義の運動では、日本が主に敵視された。
1919年5月4日には、二十一か条の要求の取り消しを求めて、北京(ペキン)で学生による行進があった。これを五・四運動(ご・し うんどう)と言う。これをキッカケに、中国の各地でも、日本への抗議運動が起きた。 日本の商品などへのボイコットも起きた。 (「ボイコット」とは不買運動のこと。)
中華民国は独立国である。なので、「独立運動」とは言わない。たとえ列強に権益を持たれているといっても、いちおう中華民国は独立国である。
このような情勢のもと、孫文は中国国民党を結成した。
また、孫文とは別の勢力が、中国共産党を1921年に結成した。
なお、孫文は1925年に病死する。孫文の持っていた権力は、孫文の死後は、国民党の軍を掌握していた蒋介石(しょう かいせき、チャンチエシー)が権力をにぎることになる。
インドの独立運動
 イギリスなど欧米は、インドなど植民地のアジア諸国に対しては、第一次世界大戦中には、戦後の自治の拡大を約束して、協力を呼びかけた。しかし、その約束は守られなかった。インドではガンディー などの主導により、自治やイギリスからの独立を求める運動が起きた。 ガンディーは「非暴力・不服従」の方針を掲げて、独立運動を指導した。しかしイギリスは弾圧をつづけた。