前田利家

加賀百万石の前田利家
 前田利家は加賀百万石を一代で築いた戦国大名であるが、利家の人生は決して平坦ではなく、常に危険と隣り合わせの波乱に満ちたものだった。14歳のころから織田信長の小姓衆に就き、元服とともに初陣を迎え、初陣では先駆して首級をあげた。顔面を弓で射られながらも矢を抜かずに突進し、信長が「肝に毛が生えている」と驚嘆したほどである。

 身長六尺(約182cm)の体格は成人男子の平均身長が160cm(秀吉は150cm)の時代にあって周囲を圧倒した。しかもこの大男が得手とした武具は三間半(6.3m)もの長槍だった。槍の名手であったため「槍の又左」との異名を持つほどだった。

 戦国時代、織田信長は爆発的な速力で疾駆し、49年の信長の生涯で臨んだ合戦は77回であった。生死を懸け極限に耐え続けた信長の精神力は、おそらく狂気と紙一重であったろう。その天下布武の闘いに付きそい、共に修羅の血海を渡ったのが前田利家である。

 前田利家は、柴田勝家の与力として北陸方面部隊の武将として各地を転戦し、能登一国23万石の大名となる。しかし信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、羽柴秀吉に臣従し、佐々成政と戦った功績によって越中西三郡を与えられた。

 前田利家は若い頃は荒くれ者だったが、後年は温厚で能や茶道、書に親しみ、またそろばんを使った算術も得意だった。豊臣政権下で徳川家康と並ぶ五大老の一人になり秀頼の後見人を任じられ、秀吉の死後、対立する武断派と文治派の争いの仲裁役として働いた。

 前田利家は覇権を狙う徳川家康の牽制に務めるが、秀吉の死から8ヶ月後に病死した。利家は自分の力だけで立身出世したと思われがちだが、利家を支えた「まつ」という理解者がいて初めて「槍の又左」から加賀100万石になったといえる。

 戦国時代の三大賢妻といえば、山内一豊の正妻・千代、名古屋弁丸出しで秀吉と喧嘩した北政所(ねね)、さらに出陣するか否かを迷っていた利家を一喝し、また加賀藩存続のために自ら進んで徳川家の人質となった利家の妻・まつ(芳春院)であろう。


若い頃の前田利家
 前田利家の父は土豪・荒子前田家の当主・前田利春で、前田利家はその四男として生まれた。荒子の前田家の領地は2000貫と意外に小さく、信長直々の家臣ではなく織田家の家臣・林秀貞の配下にあった。

 前田利家の幼名は犬千代で、色白で長身で女物のような派手な恰好をして、長い赤鞘の太刀を腰に差し、朱塗りの槍を担いで流行りの歌を歌いながら街を練り歩く「かぶき者」であった。短気で喧嘩早いため、街の荒くれ者ですら荒子の傾奇者と近寄らなかった。織田信長もかつては「尾張のうつけ」と言われる傾奇者だったが、前田利家も同じであった。

 1551年、14歳の時に3歳年上の織田信長に小姓として仕え、前田利家の幼名が犬千代だったので、信長は「お犬」と呼び可愛がった。背は180cmぐらいであったが美男だった。信長は前田利家を気にいり「お犬」に夢中になった。主君との衆道関係(同性愛)としては歳が近かったが、不寝番として側近くに仕えるほど信長とは親しく接していた。


利家は最初から強かった
 若い頃の前田利家は血気盛んで、16歳で織田家の跡継ぎ争いで起きた織田一族同士の戦いで初陣を飾る。やる気満々の前田利家はこの戦で真っ先に敵陣に突入して一番首を挙げ織田信長を喜ばせた。
 さらに初陣から5年後、織田信長が弟・織田信行が謀反を起した戦いでは(稲生の戦い)、信長軍700の兵に対して弟・信行軍は7000で10倍もの兵力に差があった。信長側にとって厳しい戦となったが、前田利家は勇猛果敢に敵に突撃した。

 敵の宮井勘兵衛が放った矢が右目の下に突き刺さったが、前田利家はこれをものともせず。矢が顔に突き刺さったまま、怯むことなく突き進んで宮井勘兵衛を討ち取った。信長に「首とりました」と差し出すと、信長は馬上から「見よ、利家がやってくれたぞ。皆も利家に続け」と兵士を鼓舞した。
 前田利家の勇敢な姿に軍の士気は上がり、10倍もの兵力の差がありながら、信長は奇跡的に勝利を収めた。1552年、尾張下四郡を支配する織田大和守家(清洲織田氏)の清洲城主・織田信友と織田信長とが戦った萱津の戦いで、首級を挙げる戦功を挙げ織田信長は「肝に毛のはえた奴」と前田利家を称賛している。
  この後、信長に褒められ同僚達の憧れの的となり、前田利家22歳の時に従姉妹で8歳年下のまつ(芳春院)を正室に迎え長女・幸を儲けた。14歳の妻・まつの容姿は美しく快活で社交的で、さらに読み書き、そろばん、和歌、武芸などをたしなむ才色兼備の女性だった。利家とまつは歳は一回り違うがいとこ同士だった。

 

織田家追放
 着々と戦場で武功を挙げ、出世街道まっしぐらな人生と思えたが、織田信長に仕えてから約8年後に大事件が起こる。

 信長には異母弟で雑用を務める拾阿弥(じゅうあみ)というお気に入りの茶坊主がいた。この拾阿弥は信長のお気に入りを良い事に、武将達の物を隠したり悪戯をしていた。前田利家も妻のまつからもらった刀の笄を盗まれ、拾阿弥に対してかなり怒りが溜まっていた。
 佐々成政は自分が代わりに謝るから許してほしいとなだめるが、前田利家の気はおさまらない。信長に「あの茶坊主、度が過ぎるので成敗していいか」と許可をもらおうとしたが、信長は「よく言っとくから今回は許せ」と成敗の許しは貰えず、やむなく利家は諦めた。この後、拾阿弥側の人達が「利家殿、残念だったね」と言っているのを耳にしてして「このままでは武士の面目は丸つぶれ、許さん」とついに織田信長の目の前で拾阿弥を斬殺した。
 織田信長は怒り、前田利家は問答無用で織田家を追放され浪人となった。本来なら処刑であるが、柴田勝家や森可成らが助命嘆願したため助けられた。前田利家は織田家を追放され諸国を放浪する浪人暮らしとなった。織田信長は戦闘集団を束ねる立場として、利家の罪を許せば公平を欠き組織は崩壊する。信長は利家の戦功を評価しながらも追放処分としたのだった。

 浪人中、利家は松倉城主・坪内利定の庇護を受けたとされるが明らかではない。この時期のことを語る際は、必ず「落ちぶれているときは平素親しくしていた者も声をかけてくれない。だからこそ、そのような時に声をかけてくれる者こそ真の友人」と言っている。
 織田家から追放された前田利家ではあるが、この間は夫婦揃って食べるものにも苦労し、まつも乳飲み子を抱えて大変な苦労をした。それでも信長を兄のように慕い「このままでは終われない。自分には妻と子もいる、必ずや復帰してみせる」。織田家を追い出されたが、織田家に復帰するには己れの実力と実績を示し家中を納得させるほかなかった。前田利家は無断で桶狭間の戦いに参加し3つの首を挙げる功績を挙げた。

 しかし織田信長は帰参を許さず、その2年後、織田信長と美濃・斎藤龍興の間で戦いが起きると、前田利家はまた個人で参戦し、見事に兜首2つを取り織田信長に献上した。さすが槍の又左と呼ばれるほど前田利家は強かった。今回は戦功が認められ前田利家は信長に許され再び織田家に復帰した。

 また利家は裏切りや寝返りなど存亡を懸けた乱世にあって、勘当されてなお一途に滅私奉公する忠節と篤実は「信用できる男」として諸将の人望を高めた。人間集団には、たとえば何もしなくとも、そこに居るだけで座が安定し周りを勇気づける人物がいる。前田利家はまさにそのような人物に成長したのである。

 ちなみに利家が織田家に帰参した翌年には、後の初代加賀藩主・利長が生まれ、その後も次々と子宝に恵まれ、最終的には「まつ」は2男9女の母となった。時代からすると利家に子供が多いのはおかしくないが、1人の女性が11人も出産したのは稀有な例である。しかも乳幼児の死亡率が高かったこの時代に夭折した子は1人しかいなかった。

 前田利家の浪人中に父・利春は死去し、前田家の家督は兄・利久が継いだが、1569年に信長から突如、兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じられた。兄・利久には実子がなく病弱だったためである。前田利家は家督を継ぎ荒子城城主となり6000石を与えられた。

 

赤母衣衆

 織田信長には赤と黒の親衛隊・母衣衆(ほろしゅう)がいた。母衣衆とは大きな籠を母衣の布で覆ったものを背負い、戦場を駆け主君の命令を伝達したり、身辺警護を務める名誉ある役目である。織田軍には赤母衣衆と黒母衣衆があるが、前田利家は赤母衣衆の筆頭に抜擢され多くの与力が与えられた。この母衣を背負う華やかな騎馬姿は武士達の憧れの的で、黒母衣衆の筆頭は佐々成政であった。

 その後の戦でも利家は活躍し、信長が推進する統一事業に従い、緒戦に参加し頭角を現した。1570年4月の朝倉氏との金ヶ崎の戦いでは撤退する信長の警護を担当し、同年6月の姉川の戦い(織田・徳川VS浅井・朝倉)では、浅井軍の攻撃で総崩れとなった時、利家が一人で敵を食い止め、数騎を倒して反撃のきっかけを作った。これらの活躍によって信長から「比類なき日本無双の槍」と絶賛された。

 1574年には柴田勝家の与力となり、越前一向一揆の鎮圧に従事した。この戦いは苛烈を極め一向一揆の弾圧については「前田又左衛門が捕らえた一向宗千人をはりつけにして、釜茹でに処した」との記録がある。翌年には越前を制圧し、信長から越前の一部に3万3000石を与えられ、柴田勝家のもと佐々成政らと共に北陸方面を担当した。北陸方面を制圧すると前田利家は能登・七尾城城主となり23万石領の大名へと出世した。

 その約1年後、本能寺の変にて織田信長が死去すると、織田家家臣たちの間に派閥が出来き、前田利家は北陸方面で協力していた柴田勝家や佐々成政と決別する道を選んだ。

 

賤ヶ岳の戦い

 1583年4月、賤ヶ岳の戦いで前田利家は5000を率いて柴田軍勢として布陣していたが、佐久間盛政が敗走した為、かねてからの豊臣秀吉の誘いを受け、前田利家は合戦中に突然撤退した。この退却により、柴田勢は総崩れとなり羽柴勢(豊臣勢)の勝利となった。佐久間盛政が敗走し、前田利家が撤退したので賤ヶ岳は秀吉の勝利となった。

 前田利家は豊臣秀吉に降伏し、北ノ庄城攻めの先鋒となった。柴田勝家はお市の方と自刃し、茶々(淀殿)・お初・お豪の浅井三姉妹を豊臣秀吉に送り、豊臣秀吉の元で新たな時代が切り開らかれていった。

 賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は敗退したが、その理由は前田利家の撤退によるものであったが、なぜかそのことについて歴史家は語らない。前田利家は清洲時代に秀吉とは隣同士で、秀吉が足軽時代から夫婦共に親しく、子供のなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を与える程の仲であった。前田利家は柴田勝家の家来であり、秀吉とは昔からの友人関係にあり、このことに悩んでいると、まつは自ら秀吉の元へ出向いて和議を取り付けたのである。さぞかし秀吉も驚いたことであろう。

 

小牧・長久手の戦い

 1584年、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄の連合軍が小牧・長久手で戦いとなった。

 ちょうどその頃。北陸でも徳川家に味方した佐々成政が加賀・能登国に侵攻した。これを豊臣勢として前田利家が2500の手勢で、15000の佐々成政の背後を突いて佐々成政を撃退した(能登・末森城の戦い)。4月9日の長久手の戦いで豊臣秀吉は家康に敗れたが、北陸では前田利家は丹羽長秀と共に北陸を守り抜いた。

 その後、前田利家は加賀と越中の国境にある荒山砦・勝山砦を攻略し、越中へ攻め込み、豊臣秀吉より前田利家は一連の戦勝を賀されている。

 佐々成政との戦いは翌年までもつれ込み、その間に前田利家は豊臣に臣従した上杉景勝に協力を仰ぎ越中国境まで進出し、佐々成政の配下にあった越中国衆・菊池武勝を調略するなどして越中を攻撃した。

 

加賀百万石
 1585年、前田利家の娘・摩阿姫が豊臣秀吉の側室となり「加賀殿」と呼ばれるようになった。1585年3月、豊臣秀吉が雑賀衆を鎮圧し、6月には弟・羽柴秀長を大将として黒田官兵衛らを四国へ派遣して長宗我部元親を攻め四国を平定した。同年8月、関白に就任した豊臣秀吉は織田信雄、織田信包、丹羽長重、細川忠興、金森長近、蜂屋頼隆、宮部継潤、池田輝政、稲葉典通、森忠政、蒲生氏郷、木村重茲、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊、加藤光泰、九鬼嘉隆、上杉景勝ら10万の大軍で佐々成政が籠城する富山城を包囲した。

 前田利家は10000の兵を率いて先導し、佐々成政に協力した飛騨の姉小路頼綱を征伐し、佐々成政は織田信雄の仲介で降伏した。領土没収されるも助命され大阪城下で豊臣秀吉のお伽衆になった。
 論功行賞では前田利家の嫡子・前田利長は越中4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増され、越前の丹羽長秀が没すると丹羽家は国替えとなり、前田利家は加賀・越前・能登の3カ国「加賀百万石」として北陸の覇者となった。

 阿波隼人という老侍が利家に拝謁したとき、老齢で長袴のためつまずいて転んでしまった。それを見た家臣らは大笑いしたが、利家は「静まれ。老人とはこうした過ちが多いものだ。それなのに助けもせず笑うとは何ごとか。許せぬ。笑っていた者は切腹いたせ」と激怒した。家臣らは震え上がり、阿波も利家が自分をかばってくれたことに感謝するが切腹まではと、利家に切腹命令を取り下げてもらうように嘆願したとされている。

 

 

豊臣家の家臣
 前田利家は晩年の秀吉になくてはならない重要な存在になった。1586年以降、前田利家とまつは上洛して、豊臣秀吉の側近として大阪城下で仕えた。同年の九州征伐の際には、前田利長が九州へ従軍したが、前田利家は8000を率いて畿内に進出して後方警戒をした。
 1590年1月21日には参議に任じられ、豊臣秀吉が主催した北野大茶会や後陽成天皇の聚楽第行幸にも陪席し、晩年の秀吉に意見できる数少ない人物になった。
 北条氏直を攻める為の小田原攻めでは、北国勢の総指揮として上杉景勝・真田昌幸らと共に碓氷峠を越えて関東に入り、まず松井田城を攻略し、続いて鉢形城・八王子城を攻略した。伊達政宗が小田原に出向いた際には、前田利家らが尋問し、小田原落城後、豊臣秀吉は8月に帰陣の途についたが前田利家は残って奥羽鎮圧に努めた。
  1591年8月、朝鮮出兵に向けて九州・名護屋城の築城が開始され、1592年3月16日に前田利家は諸将に先んじて8000を率いて京を出陣し名護屋に向かった。この時、嫡子・前田利長は京に残っている。当初、豊臣秀吉は自ら渡海するつもりでいたが、前田利家と徳川家康が説得して思い止まらせた。
 豊臣秀吉が母・大政所の危篤により約3カ月間、大阪城に戻っていた際には、名護屋にて前田利家と徳川家康が諸将を指揮し、1593年1月には前田利家にも渡海の命が出された。しかし間もなく明との講和の動きが進み、結局は朝鮮に渡る事はなかった。5月15日、明使が名護屋に到着すると徳川家康・前田利家の邸宅がその宿舎となった。

 8月、豊臣秀頼が誕生すると利家が秀頼の傅役になり、まつも乳母扱いになった。傅役も乳母も権力者の子供を支え教育する大切な役目なので、秀吉にとってこの夫婦がいかに信頼厚い人物だったかがわかる。

 豊臣秀吉は大坂城に戻ったが前田利家も続いて退陣し、11月に金沢城に帰城した。このとき、まつの侍女である千代の方との間に子供生まれ、このが猿千代でのちに第3代・加賀藩主の前田利常になる。猿千代については豊臣秀吉の隠し子との説がある。

 秀吉にとって生前葬ともいえる醍醐の花見では、まつの席はねねや秀吉の側室たちと並んで用意されていた。ここで「秀吉から盃を受ける順番をめぐって、松の丸殿(京極高次の妹)と淀殿がケンカをした」が、それに対してまつは「歳の順でいえば、ねね様の次は私ですね」と茶目っ気たっぷりに仲裁してみせた。この花見は秀吉と秀頼の他には女性ばかりで、唯一同席を許されていたのは利家だけだった。前田夫妻と秀吉にとって一番の想い出になったかもしれない。
 前田利家の次男・前田利政が元服すると、前田利政が能登21万石、長男・前田利長が越中3郡32万石となり、前田利家は北加賀2郡23万5000石なので合計76万5000石を前田利家が統括した。1594年1月5日、前田利家は、上杉景勝・毛利輝元と同日に従三位に叙位し、4月7日には2人よりも先に権中納言に任ぜられ、官位でも上杉景勝・毛利輝元より上になった。
  1598年になると、豊臣秀吉と共に前田利家も高齢による衰えを見せ始め、4月20日に嫡子・前田利長に家督を譲り隠居し、湯治のため草津温泉に赴いた。この時、隠居料として加賀石川郡・河北郡、越中氷見郡、能登鹿島郡の計15000石を与えられている。しかし実質的には隠居は許されず、草津温泉より戻ると前田利家は、五大老・五奉行の制度を定めた大老の1人に任じられた。
 1598年8月18日、豊臣秀吉は前田利家らに嫡子・豊臣秀頼の将来を繰り返し頼んで没した。1599年、諸大名は伏見城に出頭して、豊臣秀頼に年賀の礼を行った。前田利家も病中ながらも傳役として無理をおして出席し豊臣秀頼を抱いて着席した。
 豊臣秀吉の遺言通り、徳川家康が伏見城に入り、前田利家が豊臣秀頼の補佐として大坂城に入った。家康と利家は秀吉の時代、五大老の一番の上座に肩を並べて座っていたが秀吉が死去すると徳川家が天下をおさめる大将軍となった。前田家は大々名であるとはいえ徳川家の家来にならざるをえなかった。

 程なくして徳川家康が無断で、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則・黒田長政らと婚姻政策を進めた為、前田利家は反発して諸大名が徳川家康・前田利家の両屋敷に集結する騒ぎとなった。
 家康の法度破りで前田利家には上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成が味方につき、武断派の細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らは徳川に味方したが、1599年2月2日に前田利家を含む四大老・五奉行の9人が、両者の衝突を回避しようとする細川忠興・浅野幸長らの取り成しにより、徳川家康と誓紙を交換し前田利家が徳川家康のもとを訪問することで和解した。
 この直後、前田利家の病状は悪化し、徳川家康が病気見舞いに訪れている。この時、前田利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていた。

 前田利家危篤の際には、まつ(芳春院)は自ら経帷子を縫い利家に着せようとした。「あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺めてきた。後生が恐ろしいので、どうぞこの経帷子をお召しになってください」と言うと利家は「わしはこれまで幾多の戦に出て敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり苦しめたことはない。だから地獄に落ちるはずがない。もし地獄へ参ったら先に行った者どもを相手にひと戦いしてくれよう。その経帷子はお前が後から被って来い」と言った。生涯38の戦に参戦した前田利家は妻・まつに遺書を代筆させ、1599年閏3月3日に大坂の自邸で病死した。享年62。

 

前田利家の死後
 前田利家は遺言に従い金沢の野田山に葬られた。朝廷から従一位が追贈された。前田利長は父に代わって五大老の一人になったが、家康や三成の仲裁はできなかった。前田家を快く思わない者たちが家康へ「利長殿が金沢に帰国したのは、家康に一矢報いる支度のためです」と吹き込んだため、徳川家康はこれを口実に加賀への侵攻を計画した。

 ここで芳春院(まつ)は文字通り捨て身の手段に出て、まつが徳川家の人質となって江戸城に入ったのである。このことで加賀征伐は回避できたが、次男の利政が西軍についてしまったのである。まつは息子を見捨てず利政を許してくれるよう幕府に頼み込んだが金沢に戻らせてもらえなかった。

 次男の利政が亡くなり、まつは金沢に戻り71年の生涯を閉じることになった。遺骨は金沢と京都に分骨され、京都では大徳寺に墓が作られた。

 大徳寺は信長をはじめ、利家とまつが若き日々をともに過ごした人々のお墓があった。信長は総見院、豊臣秀長が大光院、黒田官兵衛が龍光院、細川忠興・ガラシャ夫妻が高桐院と、全盛期の織田軍団がそのまま収まった。墓場で軍議でもやっていそうである。