前田利家

加賀百万石・前田藩の礎を築いた前田利家
晩年の前田利家は大御所大名のイメージがあるけど、若い頃はとっても血気盛んで強い武士だった。織田信長との関係や出来事もなかなかに興味深い。
若い頃の前田利家
 前田利家が織田信長に仕えるようになったのは1551年、14歳の時である。後々、豊臣政権下で徳川家康と並ぶ大大名になる前田利家ですが、意外にも父・前田利春が当主だった頃の前田氏は、尾張の荒子村という小さな土地を束ねる土豪で、信長直々の家臣でもなく、織田家家臣・林秀貞の下で働く下級武士だった。前田利家は若い頃、「色白で長身。女物みたいな派手な恰好、めちゃくちゃ長い赤鞘の太刀を腰に差し、朱塗りの槍を担いで」流行りの歌を歌いながら街を練り歩き、街の荒くれ者ですら「荒子の傾奇者だっ!と近寄らなかった。傾奇者とは派手な見た目や行動でやんちゃしたりする人の事を指す言葉で、織田信長もかつては「尾張のうつけ」と言われる傾奇者でした。そんな信長、前田利家を気にいったか、前田利家の幼名は犬千代だったので、「お犬」と利家の事を呼ん可愛がっていた。出会った頃は前田利家14歳、織田信長18歳。背も180cmぐらいあったしイケメンって言われてたし。そりゃ信長様もお犬に夢中になる。主君との衆道関係って歳が離れてるとお務めって感じがするけど、この年齢差だと純愛だったのかもしれない。
さすが『槍の又左』!利家は最初から強かった
 前田利家の初陣は16歳、織田家の跡継ぎ争いがもとで起こった織田一族同士の戦、尾張・萱津(かやづ)の戦いだった。やる気満々の前田利家はこの戦で真っ先に敵陣に突入して一番首を挙げるという武功を立てている。これには初戦の織田信長も大興奮。
 さらに凄いのが、初陣から5年後の稲生の戦いです。この戦は、織田信長が弟・織田信行に謀反を起こされた事で始まった戦であります。信長軍700の兵に対して弟・信行軍は7000の兵。10倍もの兵力差という、信長側にとってはかなり厳しい戦となりました。
稲生の戦い
前田利家はこの戦でも勇猛果敢に敵に突撃したが、敵の宮井勘兵衛という者の放った矢が右目の下に突き刺さってしまった。しかし、前田利家はこれをものともせず。矢が顔に突き刺さったまま、怯むことなく突き進んで宮井勘兵衛を討ち取理、「信長様、首とりましたぞ」信長はこの首を受け取り、馬上からこれを掲げて「見ろ、利家がやってくれたぞ、皆も利家に続け」と味方の兵士を鼓舞しました。
前田利家の勇敢な姿に軍の士気は大いに上がり、圧倒的な兵力差がありながら、信長軍はこの戦で奇跡的勝利を収めた。
この後、信長様にめちゃ褒められたし同僚達からは憧れの存在となり、この後、前田利家は従姉妹で8歳年下のまつと結婚している。22歳で14歳の妻、しかも従姉妹前田利家、まさかの織田家追放
 可愛い少女妻をもらい、着々と戦場で武功を挙げ、出世街道まっしぐらの順調な人生と思えた前田利家だが、織田信長に仕えてから約8年後に大事件を起こしてしまう。信長には拾阿弥(じゅうあみ)という名のお気に入りの茶坊主がいました。この拾阿弥、信長のお気に入りだという事でかなり調子に乗っていたらしく、武将達の物を隠したり、よく悪戯をしていた。そして前田利家もその被害にあい、拾阿弥に対してかなりストレスが溜まっておりました。あの茶坊主、最近度が過ぎる、したる。

佐々成政はワシが変わりに謝るから許してあげてと同僚がなだめるも、前田利家の気はおさまらない。ついには信長に直接、こんな事を申し出ます。拾阿弥が悪い事してるんでヤっちゃっていいですか?よく言っとくから今回は許してあげて?拾阿弥討伐の許しは貰えず、やむなく諦めた前田利家でした。が、この後、拾阿弥サイドの人達が利家殿、残念だったね。なんて言っているのを耳にしてしまったので
このままでは武士の面目丸つぶれ。許さん。との事で、ついに拾阿弥を斬ってしまいました。しかも織田信長の目の前で。
でてけー!!!!
案の定、織田信長はブチ切れ。前田利家は問答無用で織田家を追放され、浪人となってしまった。ホントは処刑されかけたんだけど、柴田勝家が庇ってくれたおかげで命拾いしたのだ。前田利家、復活!なんだかんだでやっぱり強い!
織田家の武闘派エースから武闘派ニートになってしまった前田利家。
このままでは終わらせない!ワシには愛する妻と子もいるんだ!必ずや復帰してみせるぞっ!!織田家を追い出されてから2年後の1561年、織田信長と美濃・斎藤龍興の間で戦が起きると、前田利家はこれに個人で参戦しました。そして見事に兜首2つを取り、これを織田信長に献上します。相変わらず強いね、さすがは槍の又左。
殿。おかえり
前田利家はこの戦で武功を挙げたことでやっと信長から許され、再び織田家に復帰したのであります。その後も戦で活躍、赤母衣衆の筆頭に抜擢されるなど、織田家でメキメキと頭角を現していきました。1570年に起こった姉川の戦い(織田・徳川VS浅井・朝倉)では、浅井軍の攻撃で総崩れとなった時、利家が一人で敵を食い止め数騎を倒して反撃のきっかけを作ったなんてエピソードもあります。これらの活躍によって信長様から『比類なき日本無双の槍』と絶賛されたのだ!
赤母衣衆
ところで前田利家の赤母衣衆とは、大きな籠を母衣という布で覆ったものを背負って戦場を駆ける。母衣衆(ほろしゅう)は戦場で主君の命令を伝達したり、身辺警護を務める名誉ある役目。
織田軍には赤母衣衆と黒母衣衆とあり、それぞれ10名で構成されていた。黒母衣衆の筆頭は佐々成政。この母衣を背負う華やかな騎馬姿は武士達の憧れの的だったんですって。前田家当主に!そして本能寺の変…織田家に復帰してからも数々の武功を挙げた前田利家…その功績が認められ、1569年には信長の命令で前田家の家督を継ぎ、荒子城城主となり6000石を与えられました。
そして1575年には越前を制圧した信長から越前の一部に3万3000石与えられます。柴田勝家リーダーのもと、佐々成政らと共に北陸方面を担当!そこにのさばる一向一揆らと戦っていたぞ!一向一揆を片付け、北陸方面を織田信長が制圧すると前田利家は1581年に能登・七尾城城主となり23万石領する大名へと大出世します。
そしてこれから約1年後、本能寺の変にて織田信長が死去。これによって織田家家臣たちの間にもだんだんと派閥が出来ていきます。
前田利家はというと、北陸方面で協力していた柴田勝家や佐々成政とは決別する道を選び、豊臣秀吉の元で新たに時代を切り開いていくのであります…!