前田利家

加賀百万石の前田利家
 前田利家は加賀百万石の大御所の戦国大名であるが、14歳のころから織田信長に仕え、槍の名手であったため「槍の又左」との異名を持つほどに血気盛んな武士だった。織田信長との関係や家臣としての出来事も興味深い。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる。信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが後に羽柴秀吉に臣従した。さらに佐々成政と戦った功績によって越中西三郡が与えられ、前田利家は豊臣政権下で徳川家康と並ぶ五大老の一人になる。豊臣秀頼の傅役(後見人)を任じられ、秀吉の死後、対立する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。100万石を領する加賀藩(金沢藩)の原形をつくっている。


若い頃の前田利家
 前田利家の父は土豪・荒子前田家の当主・前田利春で、前田利家はその四男として生まれるが、伊勢湾に面する荒子の前田家領地は2000貫と意外に勢力は小さく、信長直々の家臣ではなく、織田家の家臣・林秀貞の下で働く下級武士だった。

 前田利家の幼名は犬千代で「色白で長身。女物みたいな派手な恰好、長い赤鞘の太刀を腰に差し、朱塗りの槍を担いで流行りの歌を歌いながら街を練り歩く「かぶき者」であった。短気で喧嘩早いため、街の荒くれ者ですら荒子の傾奇者と近寄らなかった。織田信長もかつては「尾張のうつけ」と言われる傾奇者だったが、前田利家も同じであった。

 1551年、14歳の時に3歳年上の織田信長に小姓として50貫で仕え、前田利家の幼名が犬千代だったので、信長は「お犬」と呼ん可愛がった。背は180cmぐらいであったが、美男だった。信長は前田利家を気にいり「お犬」に夢中になった。主君との衆道関係(同性愛)は歳が離れているが普通だが、信長とは衆道関係であった。このことは加賀藩の資料にもあるが、不寝番対策として側近くに仕えるほどに親しく接したことだけかもしれない。


利家は最初から強かった
 若い前田利家は血気盛んで初陣は16歳である。それは織田家の跡継ぎ争いで起きた織田一族同士の戦、尾張・萱津(かやづ)の戦いだった。やる気満々の前田利家はこの戦で真っ先に敵陣に突入して一番首を挙げるという武功を立てている。これには初戦の織田信長も喜んだに違いない。
 さらに初陣から5年後、織田信長が弟・織田信行に謀反を起こされた戦いで(稲生の戦い)、信長軍700の兵に対して弟・信行軍は7000の兵で10倍もの兵力に差があった。信長側にとって厳しい戦となったが、前田利家は勇猛果敢に敵に突撃した。敵の宮井勘兵衛が放った矢が右目の下に突き刺さったが、前田利家はこれをものともせず。矢が顔に突き刺さったまま、怯むことなく突き進んで宮井勘兵衛を討ち取った。信長に「首とりました」と差し出すと信長は首を受け取り、馬上から「見ろ、利家がやってくれたぞ、皆も利家に続け」と味方の兵士を鼓舞した。
  前田利家の勇敢な姿に軍の士気は大いに上がり、圧倒的な兵力差がありながら、信長軍はこの戦で奇跡的勝利を収めた。1552年、尾張下四郡を支配する織田大和守家(清洲織田氏)の清洲城主・織田信友と、織田信長とが戦った萱津の戦いで首級を挙げる戦功を挙げた。織田信長は「肝に毛のはえた奴だ」と前田利家を称賛している。
  この後、信長に褒められ同僚達からは憧れの的となり、前田利家22歳の時に従姉妹で8歳年下のまつ(芳春院)を室に迎えてすぐに長女・幸を儲けた。14歳の妻・まつの容姿は美しく、快活で社交的、さらに読み書き、そろばん、和歌、武芸などをたしなむ才色兼備の女性だった。

 

織田家追放
 可愛い少女妻をもらい、着々と戦場で武功を挙げ、出世街道まっしぐらの順調な人生と思えた前田利家であったが、織田信長に仕えてから約8年後に大事件を起こした。

 信長には異母弟で雑用を務める同朋衆の拾阿弥(じゅうあみ)というお気に入りの茶坊主がいたが、この拾阿弥は信長のお気に入りを良い事に、武将達の物を隠したり悪戯をしていた。前田利家もその被害にあい、拾阿弥に対してかなり怒りが溜まっていた。
  佐々成政は自分が変わりに謝るから許してほしいとなだめるが、前田利家の気はおさまらない。信長に「あの茶坊主、最近度が過ぎると拾阿弥を成敗していいか」と許可をもらおうとした。しかし信長は「よく言っとくから今回は許せ」と拾阿弥成敗の許しは貰えず、やむなく前田利家は諦めた。この後、拾阿弥側の人達が利家殿「残念だったね」と言っているのを耳にしてして「このままでは武士の面目は丸つぶれである、許さん」とついに織田信長の目の前で拾阿弥を斬殺した。
  織田信長は怒り、前田利家は問答無用で織田家を追放され浪人となった。本来なら処刑であるが柴田勝家や森可成らが助命嘆願したため助けられた。しかし前田利家は織田家を追放され諸国を放浪する浪人暮らしとなった。浪人中は、松倉城主・坪内利定の庇護を受けたとされるが明らかではない。
  織田家から追放された闘派前田利家であるが、このままでは終わらせない「自分には妻と子もいる、必ずや復帰してみせる」織田家を追い出されたが、無断で桶狭間の戦いに参加し、3つの首を挙げる功績を挙げた。しかし織田信長は帰参を許さず、その2年後、織田信長と美濃・斎藤龍興の間で戦が起きると、前田利家はまた個人で参戦し、見事に兜首2つを取り織田信長に献上した。さすが槍の又左と呼ばれるほど前田利家は強かった。今回は戦功が認められ前田利家は武功を挙げたことから信長に許され、再び織田家に復帰した。

 前田利家の浪人中に父・利春は死去し、前田家の家督は兄・利久が継いでいたが、1569年に信長から突如、兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じられた。兄には実子がなく病弱だったためである。前田利家は家督を継ぎ荒子城城主となり6000石を与えられた。

 

赤母衣衆

 織田信長の直属部隊には赤と黒の母衣衆がいた。母衣衆とは大きな籠を母衣の布で覆ったものを背負って戦場を駆け、主君の命令を伝達したり身辺警護を務める名誉ある役目である。織田軍には赤母衣衆と黒母衣衆があるが、前田利家の赤母衣衆(ほろしゅう)に抜擢され多くの与力を与えられた。黒母衣衆の筆頭は佐々成政であった。この母衣を背負う華やかな騎馬姿は武士達の憧れの的だった。

 その後の戦でも利家は活躍し、信長が推進する統一事業に従い、緒戦に参加し頭角を現した。1570年4月の朝倉氏との金ヶ崎の戦いでは撤退する信長の警護を担当し、同年6月の姉川の戦い(織田・徳川VS浅井・朝倉)では、浅井軍の攻撃で総崩れとなった時、利家が一人で敵を食い止め数騎を倒して反撃のきっかけを作った。これらの活躍によって信長から「比類なき日本無双の槍」と絶賛された。

 1574年には柴田勝家の与力となり、越前一向一揆の鎮圧に従事した。この戦いは苛烈を極め一向一揆の弾圧については「前田又左衛門が捕らえた一向宗千人をはりつけ、釜茹でに処した」との記録[がある。翌年には越前を制圧し、信長から越前の一部に3万3000石を与えられ、柴田勝家のもと佐々成政らと共に北陸方面を担当した。北陸方面を制圧すると前田利家は能登・七尾城城主となり23万石領の大名へと出世する。

 その約1年後、本能寺の変にて織田信長が死去しすることになる。これによって織田家家臣たちの間に派閥が出来き、前田利家は北陸方面で協力していた柴田勝家や佐々成政と決別する道を選んだ。

 

賤ヶ岳の戦い

 1583年4月、賤ヶ岳の戦いで前田利家は5000を率いて柴田勢として布陣したが、佐久間盛政が敗走した為、かねてからの豊臣秀吉の誘いを受ける判断をして、前田利家は合戦中に突然撤退した。この退却により、柴田勢は総崩れとなり羽柴勢(豊臣勢)の勝利となった。佐久間盛政が敗走しなかったら、前田利家が撤退したかったら、賤ヶ岳の勝敗はどうなったのかわからない。

 前田利家は豊臣秀吉に降伏し、北ノ庄城攻めの先鋒となった。柴田勝家はお市の方と自刃し、茶々(淀殿)・お初・お豪の浅井三姉妹は豊臣秀吉に送り、豊臣秀吉の元で新たな時代が切り開かれていった。

 

小牧・長久手の戦い

 1584年、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄の連合軍が小牧・長久手の戦いとなった。北陸でも徳川家に味方した佐々成政が加賀・能登国に侵攻した。これを豊臣勢として前田利家は2500の手勢で、15000の佐々成政の背後を突いて佐々成政を撃退した(能登・末森城の戦い)。4月9日に長久手の戦いで豊臣秀吉が敗れたが、北陸では戦線が膠着状態となっていて、前田利家は丹羽長秀と共に北陸を守り抜いた。その後、前田利家は加賀と越中の国境にある荒山砦・勝山砦を攻略し、越中へ攻め込んだ。9月19日に、豊臣秀吉より一連の戦勝を賀されている。

 佐々成政との戦いは翌年までもつれ込み、その間に前田利家は豊臣に臣従した上杉景勝に協力を仰ぎ越中国境まで進出し、佐々成政の配下にあった越中国衆・菊池武勝を調略するなどして越中を攻撃した。

 

加賀百万石
 1585年、摩阿姫が豊臣秀吉の側室となり「加賀殿」と呼ばれるようになった。1585年3月、豊臣秀吉が雑賀衆を鎮圧し、6月には弟・羽柴秀長を大将として黒田官兵衛らを四国へ派遣して長宗我部元親を攻め四国を平定した。同年8月、関白に就任した豊臣秀吉は織田信雄、織田信包、丹羽長重、細川忠興、金森長近、蜂屋頼隆、宮部継潤、池田輝政、稲葉典通、森忠政、蒲生氏郷、木村重茲、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊、加藤光泰、九鬼嘉隆、上杉景勝ら10万の大軍で佐々成政が籠城する富山城を包囲した。前田利家は10000を率いて先導し佐々成政に協力した飛騨の姉小路頼綱も、金森長近率いる別働隊によって征伐され、佐々成政は織田信雄の仲介で降伏した。領土没収も命は助命され大阪城下で豊臣秀吉のお伽衆になった。
 論功行賞では前田利家の嫡子・前田利長は越中4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増された。また越前の丹羽長秀が没すると丹羽家は国替えとなり、前田利家に加賀・越前・能登の3カ国「加賀百万石」として北陸の覇者となり君臨した。

 

豊臣家の家臣
 晩年は豊臣家になくてはならない重要な存在になった。1586年以降、前田利家とまつは上洛して、豊臣秀吉の側近として大阪城下で仕えた。同年の九州征伐の際には、前田利長が九州へ従軍したが、前田利家は8000を率いて畿内まで進出し後方警戒をした。
 1590年1月21日には参議に任じられ、豊臣秀吉が主催した北野大茶会や後陽成天皇の聚楽第行幸にも陪席し、晩年の秀吉に意見できる数少ない人物であった。
 北条氏直を攻める為の小田原攻めでは、北国勢の総指揮として上杉景勝・真田昌幸らと共に碓氷峠を越えて関東に入り松井田城を攻略し、続いて鉢形城・八王子城などを攻略した。伊達政宗が小田原に出向いた際には、前田利家らが尋問している。小田原落城後には、奥羽へ軍を進めた。豊臣秀吉は8月に帰陣の途についたが、前田利家らは残って奥羽の鎮圧に努めている。
1591年8月、朝鮮出兵に向けて九州・名護屋城の築城が開始され、1592年3月16日に前田利家は諸将に先んじて8000を率いて京を出陣し名護屋に向かった。この時、嫡子・前田利長は京に残っている。当初、豊臣秀吉は自ら渡海するつもりであったが、前田利家と徳川家康が説得して思い止まらせている。
 豊臣秀吉が母・大政所の危篤により約3カ月間、大阪城に戻っていた際には、名護屋にて前田利家と徳川家康が諸将を指揮した。1593年1月には、前田利家にも渡海の命が出たが、間もなく明との講和の動きが進み、結局は朝鮮に渡る事は無かった。5月15日、明使が名護屋に到着すると徳川家康・前田利家の邸宅がその宿舎とされている。8月、豊臣秀頼が誕生すると、豊臣秀吉は大坂城に戻ったが、前田利家も続いて退陣し、11月に金沢城に帰城した。このとき、まつの侍女である千代の方との間に生まれた子供が猿千代、のちの第3代・加賀藩主の前田利常である。猿千代については、豊臣秀吉の隠し子という説もある。
 前田利家の次男・前田利政が元服すると、前田利政が能登21万石、長男・前田利長が越中3郡32万石、前田利家は北加賀2郡23万5000石で、合計76万5000石を前田利家が統括した。1594年1月5日、前田利家は、上杉景勝・毛利輝元と同日に従三位に叙位され、4月7日には2人よりも先に権中納言に任ぜられ、官位で上杉景勝・毛利輝元より上位となった。
1598年になると、豊臣秀吉と共に前田利家も高齢で衰えを見せ始めた。
 3月15日、醍醐の花見に正室・まつと摩阿姫も出席すると、4月20日に嫡子・前田利長に家督を譲って隠居。湯治のため草津温泉に赴いた。この時、隠居料として加賀石川郡・河北郡、越中氷見郡、能登鹿島郡にて計15000石を与えられている。しかし、実質的には隠居は許されず、草津温泉より戻ると前田利家は、五大老・五奉行の制度を定めた大老の1人に任じられた。
 そして1598年8月18日、豊臣秀吉は、前田利家らに嫡子・豊臣秀頼の将来を繰り返し頼んで没した。1599年、諸大名は伏見城に出頭して、豊臣秀頼に年賀の礼を行った。前田利家も病中ながらも傳役として無理をおして出席し豊臣秀頼を抱いて着席した。
 豊臣秀吉の遺言通り、徳川家康が伏見城に入り、前田利家が豊臣秀頼の補佐として大坂城に入った。しかし程なくして徳川家康が無断で、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則・黒田長政らと婚姻政策を進めた為、前田利家は反発し、諸大名が徳川家康・前田利家の両屋敷に集結する騒ぎとなった。
 前田利家には上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成、また武断派の細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方したが、1599年2月2日に前田利家を含む四大老・五奉行の9人が徳川家康と誓紙を交換した。さらに前田利家が徳川家康のもとを訪問して和解した。
 この直後、前田利家の病状は悪化し、徳川家康が病気見舞いに訪れている。この時、前田利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたという逸話が残されている。生涯38の戦に参戦した前田利家は妻・まつに遺書を代筆させ、1599年閏3月3日に大坂の自邸で病死した。享年62。
 遺言に従い金沢の野田山に葬られた。朝廷から従一位が追贈されている。前田利家の死後、徳川家康は加賀への侵攻を計画。前田利長は軍備増強を図り、豊臣家に救援を求めたが拒否され、母・芳春院(まつ)が徳川家の人質となって江戸城に入る事で戦闘を回避できた。