沼田祐光

 軍師とは「主君に作戦・計略を助言し、最善の判断がくだせるようにする者である」。中国の諸葛孔明になぞらえた印象が大きく、戦術・戦略・兵站の秀才であるが軍の司令官ではない。また軍師は「策謀が狡猾で、かつ無欲で忠実な人物」とされている。

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将というよりは智将で、豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛、黒田官兵衛武田信玄の軍師・山本勘助らが軍師の代表であるが、当時は軍師という言葉はなく、彼らの逸話は江戸時代の講談で広まったことから、ある程度創作された部分がある。

 戦国武将の軍師としては、さらに小早川隆景、片倉景綱、太原雪斎、鍋島直茂、沼田祐光の計8名をあげた。石田三成のような行政官としての側面が強い人物、あるいは真田昌幸のような大名はあえて外してある。他にも軍師と呼べる者は様々いるだろう。たとえば源義経などは軍師以上に戦上手で、織田信長は軍師を必要としない決断力と独創性をもっていた。軍師を「主君の側に長年いて、君主の勢力拡大に貢献した者」という定義で、戦国武将の中から8名を選んでみた。

 

黒田官兵衛

 豊臣秀吉に仕えた黒田官兵衛は戦国時代最強の軍師のひとりであるが、単なる軍師ではなく交渉人として最強と呼べる人物であった。 

 黒田官兵衛は播磨国(兵庫県)の出身で、西播磨に勢力を置く小寺政職に仕えていた。居城は世界遺産で有名な姫路城である。

 黒田官兵衛は名軍師として知られる武将であるが「策が多く野心に満ちた人物」と見なされることが多いが、官兵衛は生涯で一度も主君を裏切ったことはない。官兵衛が秀吉の家臣になる前の播磨国は西に毛利氏、東に織田氏が勢力を競っており、小寺氏は東西の大国に挟まれ微妙な緩衝地帯であった。まだ国内は統一されておらず、播磨の小豪族は毛利と織田のどちらに付くか日々顔色を窺っている状態にあった。

 当時の播磨は毛利氏の影響が強く、主君の小寺氏や重臣達は毛利氏に付くことを考えていたが、まだ若い官兵衛は「将来性のある織田氏に付くべき」と他の重臣達を説き伏せていた。(左上:黒田官兵衛 福岡市美術館蔵)

 黒田官兵衛は小寺政職に仕え、次に羽柴秀吉に仕えるが、これは小寺政職に裏切られたため、やむを得ず主人を変えただけで、自ら望んで主君を変えたわけではない。

 しかしながら小寺政職に裏切られた点から見ると、主君から全幅の信頼を寄せられていない要因を備えていたようである。
 中国地方の攻略を任された羽柴秀吉の軍勢が播磨に入り、官兵衛が居城している姫路城を中国攻略の拠点にするべきだと進言して姫路城を秀吉に明け渡した。その後は竹中半兵衛と一緒に秀吉の指揮下で才能を発揮してゆく。

 本能寺の変が起きたのは、1582年6月2日未明で、秀吉が中国の毛利攻略で備中高松城を攻めている最中だった。主君を失って泣き崩れる秀吉のそばに官兵衛は黙って寄り添い「織田軍は各地に散らばってしまっている。ただちに大軍を動かせられるのは我が軍のみ。主君を殺した明智光秀を討ち、天下を取るべき」と秀吉をそそのかしたのである。黒田官兵衛が秀吉から警戒されるきっかけになったのはこの言葉だった。秀吉の天下取りへの野望を周囲に見せてはいけないので、秀吉は大号泣し自暴自棄の芝居をしていたのである。ところがその演出を壊すかのように官兵衛が耳元で「殿、これで天下取りへの道が開けましたな」と漏らしてしまったのである。秀吉はその言葉を聞いて、まだ誰にも気付かれずにいる秀吉の心中を見透かされ、官兵衛は悪意を持って言ったわけではなが、秀吉に官兵衛の末恐ろしさを植え付け、以後秀吉が死ぬまで官兵衛を警戒するきっかけになった。

 信長の死の第一報が入ったのは、毛利に援軍を頼むために光秀が送った密使が、間違えて秀吉軍の陣営に迷い込んだからである。

 秀吉が他の信長家臣を出し抜いて、京に一番乗りして光秀を討つためには、目の前の敵・毛利と早急に和議を締結する必要があった。ここで黒田官兵衛の交渉人としての非凡さが発揮される。官兵衛は毛利方の外交僧の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に会い、講和条件をまとめる。もし交渉が長引けば毛利方も信長の死の情報をつかんでしまうので、一刻も早く講和をまとめなければならない。
 しかし講和を焦り毛利方に有利な条件を出せば裏に何かあると勘ぐられる。そこで「備中高松城主清水宗治の首と引き換えに、家臣の命と備後、石見、出雲の領地を守る」という講和条件を提示した。毛利方は宗治の首という条件に難色を示したがすぐに受け入れた。この交渉にかかった時間はたった1日とされている。
 なぜこれほど短期間に講和できたかといえば、官兵衛が講和の落とし所を完璧に見極めていたからだった。戦国大名にとって領地安堵は何にも替えがたい。しかも「城主の首を差し出せば家臣と領地は守る」という条件であれば即決することができる。官兵衛は相手が疑問を抱かずに即決できる条件を提示したのである。
 毛利方が信長の死を知ったのは秀吉軍が京を目指して出発した5時間後だった。騙されたとわかり毛利家の次男・吉川元春は「すぐに秀吉を追うべきだ」と主張したが、長男隆元と小早川隆景はそれを押しとどめた。その功により後の豊臣政権の五大老に、毛利輝元と小早川隆景の2人が選ばれている。
 京に向かう秀吉軍にとっての最大の不安は毛利が追撃軍を出すことで、姫路城まではしんがりを官兵衛が務めた。幸いにして追っ手は来ず、無事に姫路城に到着した。ここで1泊して体力を回復し、秀吉は金銀財宝を家来に大盤振る舞いして士気を高めた。

 豊臣秀吉軍と光秀軍が山崎で対峙し、お互いに牽制してしばらく膠着状態があった。その時、秀吉軍に毛利軍と宇喜多軍の軍旗が翻ったのである。明智光秀軍はそれを見て「毛利までが援軍を出した」と勘違いしみるみる陣形が崩れていった。
 実はこの軍旗は官兵衛が毛利との講和交渉の際、借り受けていたものだった。そこまで見越して講和交渉にあたっていたということには恐れ入るほかない。

 秀吉は家臣たちとの雑談の中で「自分の死後天下を取るのは誰か」と質問したところ、前田利家や蒲生氏郷、徳川家康といった名前が出るなか、秀吉は「末恐ろしきは、自分に代わって天下を取るものがいるとすれば官兵衛よ」と語ったことがある。
 五大老で250万石もの領土を持ち、後に天下を取る徳川家康がいるのに、10万石程度の官兵衛の名前を真っ先に挙げたのである。秀吉は官兵衛の才覚を相当に恐れ、わざと低い石高に抑えていた。実際には4000人しか動員できない10万石の
官兵衛では天下を取ることは不可能であるが、その能力は自分に匹敵するものがあると秀吉は見ていたのであろう。またこの言葉は官兵衛に「お前の能力は評価しているが、信用はしていない」と伝えたことになる。10万石は官兵衛の活躍にはとても釣り合わない石高であるが、秀吉は「奴に100万石も与えてみろ。たちどころに天下を取られてしまう」とも述べている。
 これを聞いて官兵衛は家督を息子の長政に譲り、水のごとくしなやかな意味で自身を「如水」と称して隠居する。時の権力者に目を付けられ、
敵意の無いことを強調したのである。

豊臣秀吉の死

 豊臣秀吉が伏見城で没した。秀吉は「私戦は一切許さず、従わない者は天皇の名において討伐する」の言葉は、なにわの露と消え戦国大名が動き出した。官兵衛が秀吉の死去を知ったのは領国の豊前中津においてであった。

 九州にいた官兵衛はすぐに京の伏見の黒田屋敷に入ると、すでに彼の耳には豊臣五大老筆頭の徳川家康が、秀吉の死の直前に浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以・石田三成のいわゆる「五奉行」に対し「秀頼様が御成人されるまでは家臣同士で派閥を作らず、諸大名からの知行に関する訴えを取り次がず、自分が仮に加増されても辞退す」と誓紙を出していたことが分かった。

 しかし官兵衛は「そんな約束など何の保証にもならぬ」と醒めきった考えていた。また秀吉の死の直後に石田・増田・長束・前田の四奉行が毛利輝元に「世間がいかに乱れても協力しよう」という誓紙を出させている。家康と親しい浅野長政を排除し輝元ひとりと同盟を結ぶ内容は、明らかに「派閥を作らない」という秀吉の定めた法度に抵触していた。さらに翌月には薩摩の島津義弘・忠恒父子に対して朝鮮・滑川の大勝の功として五万石弱が加増された。これも「知行は秀頼成人まで変更しない」という定めに背いている。
 しかし文禄の役、慶長の役と2度にわたって実施された朝鮮出兵は、莫大な戦費と多大な将兵の命を消費しただけで、何ら得るところなく秀吉の死によって終わった。戦後になっても論功行賞が行なわれなければ、大名と家臣たちは破産するしかない。だが朝鮮で土地を獲得できなかった豊臣政権には行賞を行なうことができなかった。「秀頼成人まで」はその言い訳であった。
 だが問題を先送りすることはできない。島津への加増は、大老筆頭の家康が島津氏を手なずけるためだった、朝鮮での抜群の戦功をあげた
島津へ恩賞を与えることによって、諸大名にも加増の期待を持たせたのである。
 戦国の主従は契約関係で成り立ち、主君が気に入らなければ家臣は牢人も辞さない。有能な武士には何度も主家を代える者もいた。恩賞の有無や額の多少が原因で牢人した者も藤堂高虎や渡辺了など数多い。
 秀吉の大義名分はなにわの露と消えたのである。「大名間の領地をめぐる私戦は一切許さず、公儀への奉仕によってのみ本領を保証し恩賞を与える。これに従わない者は天皇の名において秀吉が討伐する」という私戦停止は、秀吉が圧倒的な武力と財力を背景に命令を押しつけ、天下の統一と支配を正当化したものであった。私戦を禁止するために必要な公的論功行賞も行なえなくなれば、それは崩壊すると官兵衛は考えた。

 家康に対抗できる前田利家が病死すると事態は動きはじめた。官兵衛の息子・長政が、加藤清正や福島正則など「武断派」と呼ばれる大名たちと組んで論功行賞凍結を遵守する立場の石田三成を襲撃しようとして三成は隠居に追い込まれた。秋には前田利長(利家の子)に謀反の疑いがかけられ、家康が前田征伐を号令するが、前田利長の必死の陳弁によって回避された。さらに領地を欲する大名たちに歯止めは利かなくなった。
 官兵衛は連歌会など催しながら情勢を観望していたが「病の療養のため」と称して豊前中津に戻り、吉川広家に「
前田利長の処分まで発展するだろうが、まだ世間を観察しなければならない。自分はもう余命も短いから、あとの心配は要らないので道楽がてら準備する」と書き送っている。官兵衛はすでに乱が起これば「道楽」で参戦する心づもりだったのである。

関ヶ原の戦い

 官兵衛の予言通り世の制約は崩れ、戦国の論理が蘇り天下分け目の決戦が迫ってきた。官兵衛は九州で動いた。果たし1600年、家康が会津の上杉景勝に謀反の動きありとする諸大名からの突き上げを受けて征伐を決定し、6月16日に大坂を出陣すると、石田三成が毛利輝元を大将に担いで家康を打倒することを決し、家康派(東軍)、三成派(西軍)の内戦が勃発した。天下をめぐって日本が東西まっ二つに分かれて争う関ヶ原の戦いが勃発する。

 毛利輝元を擁する西軍と、徳川家康を擁する東軍が覇権を賭けて激突する中、隠居後に豊前中津(大分県)にて穏やかな余生を過ごしていた黒田官兵衛(如水)であるが、官兵衛は全国を巻き込んだ混乱のなで壮大な構想を立てその野望を再燃させた。

「東西を二分するこの戦いは長期化するだろう。戦力が中央に集中している隙をついて九州を席巻し、その余勢を駆って東西両軍が疲弊した中央政権に攻め込み、黒田の旗を立てる」

官兵衛の天下取り
 関ヶ原の戦いで長政が活躍していた頃、官兵衛は黒田家の領地である豊前の中津城にいた。主力部隊は上杉討伐から転じて東軍に従軍しているので、200人程度の少数の部隊で留守番をしていた。しかし官兵衛はおとなしく領地や城を守っているつもりはなく、この機に秀吉に警戒された才能を発揮する。

 秀吉がなくなり戦乱が訪れたことで、自分が活躍する舞台が作られたと晴れやかな気持ちでいた。官兵衛は生涯の大半を人に仕え、その対象の勢力の維持や拡大に貢献してきたが、54才を迎えた時期になってはじめて自分の意志と判断だけで行動できる自由を得たのである。この時、官兵衛が本気で天下を狙っていたかはわからないが、戦乱がもつれれば、あるいはと考えていたであろう。官兵衛は基本的に欲のない人物で、何がなんでも天下を得なければならぬ、という気負いはなかった。しかし今の状況であれば九州は取れる。九州を抑えて、後は状況を見ながらできるだけ勢力を伸ばせばいい。官兵衛は現実的に物事を考えので、そのように段取りを考えてたと思う。
北九州の占領
 官兵衛はたった200人ほどの元手で始め、わずか2ヶ月ほどで九州の大半を占領してしまいまった。まるで魔法のような現象であるが、それは官兵衛が蓄えてきた多額の資金にあった。官兵衛はまず資金を投じて農民や主君を失った浪人などで構成された軍隊をこしらえている。全九州から2ヶ月ほどで9000人が集まり、この戦力をもってがら空きとなっている北九州の諸城に攻めかかる。黒田家と同じく大半の大名の主力部隊は関ヶ原の戦いに参加するべく出払っていた。そのため寄せ集めの軍隊でも官兵衛の優れた指揮とあいまって、九州で猛威をふるった。官兵衛はまず豊前・豊後の大半をわずか10日ほどで占拠してしまったのである。毛利家の支援を受けて豊後に侵攻してきた大友義統に対しても、当初は苦戦するが、やがて討ち破って軍門に下す。
家康の勝利の知らせ
 
官兵衛の軍勢は1万3000に膨れ上がり、さらに勢力の拡大を図ったところで、関が原の戦いがわずか1日で終結したという情報が寄せられた。この瞬間、あきらめのよい官兵衛は「天下を取れるかも」という夢を捨て去ったであろう。関ヶ原の決戦が終わったことを知った官兵衛は、家康に領地切り取りの約束を取り付け、九州の残敵掃討にその軍を用いた。
 やりかけた仕事は最後までしあげてしまおうとの気持ちだった。この後は鍋島や加藤といった九州における東軍側の大名と合流し、西軍についた大名の城を次々と攻め落とし、九州の大半を占領することになる。官兵衛の名声は九州でも広く知れ渡り、もしも攻め手に黒田官兵衛がいたら抵抗せずに降伏せよと留守番部隊に言い残した大名家も複数あった。九州占領の事業も後はいよいよ薩摩・大隅(鹿児島県)の島津を残すのみ、となったところで家康から島津との講和が成ったとの知らせが伝えられ、官兵衛は軍を解散する。官兵衛がその才腕を自由自在に発揮できたのはこの年の9月から11月まで、おおよそ2ヶ月ほどの期間であった。

 なお関ヶ原の合戦は竹中半兵衛の領地内で起きており、半兵衛の息子「竹中重門」と官兵衛の息子「黒田長政」は共に東軍として奮戦する。竹中重門は西軍武将の小西行長を捕縛するという手柄を立て、黒田長政もまた小早川秀秋の調略等で福岡52万石を与えられている。

官兵衛と長政
 
この天下取りの心境は官兵衛にしか分からないが、実際に官兵衛は貯め込んでいた私財を投げ売って民兵を組織し九州の諸城を落としていく。ところが皮肉なことに息子の黒田長政が調略した小早川秀秋の寝返りがあり、関ヶ原の戦いはたった一日で終わってしまう。その後は東軍の家康に戦勝祝いをするとともに、兵をまとめて豊前中津に凱旋帰国しる。黒田官兵衛は表向きは東軍として動いていたので、官兵衛の野望が明るみに出ることはなかった。

 関ヶ原の戦いの始末がついたところで長政が帰国し、官兵衛はそれを出迎えた。その時、領地を大幅に加増された長政は「家康は自分の手を3度とって感謝してくれた」と官兵衛に報告した。これを聞いた官兵衛は、どちらの手を家康が取ったかをたずね、長政が「右手です」と答えると、「その時左手は何をしていた」と長政に言った。左手でどうして家康を刺さなかったのかと示唆したのである。官兵衛からすれば、息子の長政が活躍したことによって自分の夢が絶たれてしまったわけで、複雑な心境だったことであろう。
優秀な補佐役としての黒田家
 黒田家は官兵衛の祖父の代から播磨(兵庫県)の小大名である小寺家の家老となり、その運営を補佐してきた。この時代に黒田家の基盤が築かれ、やがて官兵衛の代になると織田家の勢力が伸び、播磨にまで影響を及ぼすにいたり、官兵衛は織田家の中国方面の司令官であった羽柴秀吉の下について織田家のために働く。
 信長が倒れ秀吉が天下を取ると17万石の大名になり、長政の代には家康に貢献することで52万石という大大名にまで発展する。織田・豊臣・徳川と、各時代の覇権を握った勢力に仕えることで順調に成長した大名家だった。また補佐役としては最も活躍した一族だった。
 黒田家以上の大名家は、織田家の家臣として活躍し、秀吉とも親しかった前田利家の前田家100万石、鎌倉時代から薩摩を支配していた島津家77万石、同じく陸奥を支配していた伊達家62万石、など数えるほどしか存在していない。このことを思うと的確に仕える相手を選び活躍することの価値が伺い知れます。
 しかしながら運に恵まれれば天下を取れるかもしれないほどの才能を持って生まれた官兵衛みすると、生まれた環境の限界と順応しきっている息子の長政の存在に苦いものを感じたかもしれない。ちなみに長政は関ヶ原の戦功によって2万もの軍勢を率いるほどの実力を得たが、一度も自分の思うとおりにその軍を指揮して戦う機会が得られなかったことを悔しく思っていた。
戦後の官兵衛
 関ヶ原の戦いで長政は活躍したが、九州の大半を東軍の支配下においた官兵衛の活躍もまた特筆すべきものであった。官兵衛にも長政とは別に恩賞があるべきではないか、という声が徳川家の中であがるが、官兵衛は辞退している。「天下取りの夢は終え、いまさら領地をもらっても価値はない」と思ったのだろう。

 戦後しばらくは京都に住んでいたが、やがて長政の領地に戻り、小さな屋敷を建てそこで近所の子どもたちを遊ばせながら暮らしていた。官兵衛は出家してからは如水、すなわち「水の如し」と名のっていた。
 この名前からは大きな才能を持ち合わせ、それを表現する欲求を持っていながらも、一方では世の騒がしさに煩わされたくもない、とも思っていそうな、官兵衛のあっさりとした静謐な心境の一面がうかがえる。

 黒田官兵衛と息子の黒田長政はともに有名である。息子の黒田長政は初代福岡藩主で、福岡民謡「酒は呑め呑め 呑むならば」の黒田節で有名な「黒田」とは、この黒田氏のことである。

 

山本勘助(武田信玄の軍師)

 山本勘助は1493年に駿河国の富士郡山本(富士宮市山本)に山本貞幸の三男として生誕した。このことは甲斐国史に書いてあるが、 誕生した年や場所には複数の説があり明らかではない。
 26歳の時に城主牧野氏に願い出て、武者修行の旅に出る。勘助は中国、四国、九州、近畿、関東と10数年の間諸国をまわり、その間に京流兵法(行流兵法)を会得し、城取り(築城術)、陣取り(戦法)、日和見(気象学)を極めた。 
 勘助26歳の時に高野山で武芸上達を祈願し魔支利天像を授けられ、それ以来、この像を襟元に下げ守り本尊とした。何時討死するかも知れず、懇意にしていた長谷寺の念宗和尚にすべてを託した。後に武田信玄に仕え、1561年に川中島での勘助の戦死を知った念宗和尚は、前もって預かっていた遺髪を治め五輪塔を建立した。
 勘助は37歳のとき、武者修行の旅を終えると仕官の道を歩み進める。放浪の後にまず駿河の国に入り、今川家重臣に仕官を願うが、義元は勘助の風体から聞き入れなかった。

 義元は「勘助は異形、色黒で容貌醜く、隻眼(独眼)で身体には無数の傷がある。足は不自由で指が揃っていない。それが兵法を極めた者か」と述べた。今川家の者は、口々に「兵法を極めた者が、小者一人も持たぬ貧乏浪人で、城を持ったことも無く、兵を率いたことも無い。兵法者などとは大言壮語の大法螺吹き」 と罵られ仕官は叶わなかった。

 当時の兵法の時流は塚原卜伝の「新当流」で、京流は亜流とされていた。以後、勘助は駿河に留まり憂鬱の日々を送り機を待った。その間、兵法者としての勘助の評判は日を追って高まり、武田家の重臣板垣信方の耳に届き、板垣信方は勘助を若き甲斐国の国主武田晴信(信玄)に推挙した。
 1543年、武田晴信(信玄)は山本勘助を知行100貫の破格の待遇で召抱えた。武田晴信には後々勘助が忠義を尽すという配慮あった。信玄は信方に「勘助には、馬、槍、小者を用意するように。家中の者に浪人と侮られてはならぬから」と述べた。
 このようにして勘助は無事甲斐の国入りを済ませ、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)で信玄と対面した。信玄は勘助の兵法を聞、き即座に勘助の才を見抜き、知行200貫に増加した。

 事あるごとに、晴信は勘助と築城術、戦法などの兵法を語り合い、時として諸国の大将毛利元就や大友義隆、今川義元や上杉憲正(上杉謙信の養父)、更には、松平清康(家康の祖父)の動向やその才覚分析を評して、その度に勘助の知識と経験分析の深さに感心したという。
    家中には勘助を妬む者もいて、中でも南部下野守の誹謗には、晴信も我慢できず改易(かいえき)を申し付け、その後南部氏は諸国を転々として餓死したと伝えられている。このように戦国の世は厳しきものであった。
 同年、晴信は信濃平定を企てた。信濃を侵攻あたり、勘助は九つの城取りに成功し、その才を内外に証明し、大功により100貫のご加増を頂き、知行300貫となった。1544年、晴信は信濃国を攻略し、諏訪頼重は自刃した。
 頼重には秀麗の姫様がいた。勘助は晴信に側室にと進言をしたが、武田の重臣たちは、恨みを持つ姫様などとんでもない危険なことと反対した。しかし晴信は勘助の進言を受け側室の迎えたのである。
 勘助の進言とは、「姫様が晴信のお子を産めば、甲斐の武田家と信濃の名門諏訪家との結束成ることは必定」
とのことだった。 翌年、姫様は男子を産み、武田四朗勝頼として家督を継いだ。1546年、村上義清が城戸石城を攻め、猛将義清の猛攻撃を受けた武田勢は総崩れとなったが、勘助を要とする50騎兵の働きで体勢を立て直し、一気に村上軍を打ち破った。この功により、勘助の知行は800貫になり、武田家家臣の何れもが認める軍略家と称されるようになったのである。
 その後、得意の築城術を生かし築城、城取りは、高遠城、小諸城と続き、「山本勘助入道鬼流兵法」と称され、「甲州武田法度之次第」が作られた。1547年、晴信は宿敵村上義清と上田原で決し、重臣板垣信方を失う激戦のすえに勘助の献策により勝利した。
 村上義清は信濃を逃れ越後の国へと奔走し、長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。以後、景虎は幾度となく、北信濃は川中島へ侵攻し、川中島の合戦の布石とも云うべき流れが出来上がって来た。1553年、武田晴信は出家し信玄「武田信玄」と名乗りと同時に、勘助も出家して道鬼斎「山本勘助入道道鬼斎」と名乗ることになった。
 1551年、勘助は信玄の命により北信濃の川中島に程近い高台に、海津城(松代城)を築城した。正に決戦の為であった。1561年9月10日、上杉謙信は、1万3千の大軍を率いて川中島に出陣、即座に妻女山に入り、海津城を見渡した。妻女山は海津城の北側にある高台で川中島を正面に見て左側に海津城を見渡すことが出来るが、川中島には海津城よりも些か距離がある。
 武田信玄も時を移さず2万の兵を率いて甲府を出て海津城に入城し、早々に軍議を開き謙信攻略を練った。重臣たちは中央決戦を進言したが、信玄は慎重で勘助と馬場信春に謙信打破の作戦を委ねた。その結果、立案された軍略が「啄木鳥(きつつき)戦法」である。
 先ず本体軍勢を二分し一軍を夜陰に乗じて今夜の内に妻女山に布陣。また二軍は、妻女山の麓から川中島の間の平地、八幡原に待ち伏せ布陣、夜明けと共に妻女山を攻め、混乱した上杉軍が八幡原に逃げ下りたところを吸収すると云う作戦である。キツツキが餌をついばむ時、くちばしで、木をこんこんと叩き、虫が出てきたところを襲うことから啄木鳥戦法とよぼれた。
 信玄はこの策を容れて信玄自身が八幡原に布陣をしき、朝霧の中から飛び出してくる上杉勢を待ち受けた。しかし霧の中から現れたのは、慌てふためく上杉勢ではなく、整然と布陣された1万3千の敵の軍勢であった。
 軍略の天才と云われている謙信は、勘助の策を見抜いていたのである。謙信は車懸りの陣で信玄を打ち取るべく猛攻撃を掛けてくる。それに対抗して信玄は鶴翼の陣で対抗、武田二十四将獅子奮迅の戦いでなんとか持ち応え堪えた。
 そこで本陣手薄と見た謙信が、ここぞとばかりに一騎切込みを掛けて来た。 騎乗のままの謙信は、床几に座している信玄の頭上に一太刀二太刀、続けて三太刀と切り付けたのである。これを信玄は鉄仕立ての軍配で受け止めた。そこへ駆け戻ったのが、高坂昌信、馬場信春率いる妻女山隊の一万二千、上杉勢の側面を一揆に突かれた上杉勢は総崩れ となり、不利を悟った謙信は兵を引き越後へと退去した。
 戦国時代の最大の戦いは、こうして幕を引いたが、この戦いで勘助の儚くも散って行った。
 勘助の胸の内では、自らの責で武田軍を危機に落とし入れ、恩ある主君信玄を窮地に追い込んだ、さらに多くの戦死者を出してしまった無念の思いから敵中に単身突入、それに続く僅かな家来と共に獅子奮迅し、十三騎を倒すも家来たちは既に討死。それでも勘助は、満身創痍になりながら騎乗、敵陣の真っただ中で、たった一人で大太刀を振い続けました。しかし上杉家の猛将柿崎景家の手勢に囲まれ、四方より槍を撃ち込まれドーッと落馬、不自由な足を引きづり引きづり起き上ろうとした刹那、坂木磯八に首級を上げられてしまった。

小早川隆景
 江戸時代の岩国藩(吉川元春の三男、広家が初代藩主)で書かれた「陰徳太平記」によると、小早川隆景は危ない戦いをせず、策略を持って敵を倒す事に長けていたとされている。戦国時代に日本の中国地方の領主として栄えた毛利家をここまで強くさせたのは毛利元就のおかげである。毛利家の当主である毛利元就を支えたのは3人の息子達や家老たちであるが、特に毛利家ではこの息子達三人で長男・毛利隆元(たかもと、次男・吉川元春(もとはる)、三男・小早川隆景(たかかげ)の三兄弟が力を合わせて父を支えたことにより毛利家は広大な領土を手に入れるができた。

 小早川隆景の幼少期は両親のもとですくすくと育ってゆくが、長く毛利の家にいることはなかった。それは当時の毛利家はまだ小名と言われるくらいの弱小の豪族で、毛利家の本拠としている安芸の隣国には大領主である大内氏や尼子氏が威勢を誇っており、元就が拠点としていた安芸も小早川家と吉川家の両家が割拠している状態で、毛利氏がいつ両家や大領主である大内や尼子氏に滅ぼされてもおかしくない状態であった。
 そこで元就は毛利家の基盤を強化するため、次男・元春には吉川家に養子に出し、三男・隆景を小早川家に養子へ出す。その後次元春が養子へ出た吉川家は嫡男と当主が相次いで亡くなったため、元春が吉川家の当主へ就任する。また同様に、小早川の家でも当主と後継者が不可解な死を遂げたため、小早川隆景が当主の地位に君臨する。こうして元就の毛利家と吉川・小早川の両家が加わり、毛利家の基盤は安定し強化されることになった。

 隆景は小早川家の当主に就任すると小早川家の居城であった高山城を放棄し、自分の城を建築する。隆景は瀬戸内海にほど近い場所に新たな城を建築した。この新城築城は自分が小早川の家の新当主になったことを内外に示し、瀬戸内海の勢力をまとめるためであった。隆景は海上を制するため、小早川家の重臣乃美氏を右腕として活用し、乃美氏の妹を瀬戸内海で勢力を張っていた水軍である因島村上氏へ嫁がせて、小早川家との協力体勢を構築した。隆景はこの強力な水軍を率いて大内家に対して謀反を起こした陶晴賢(とうはるかた)を厳島(いつくしま)の戦いで打ち破るなどの功績を残す。この戦いで功績を残した小早川隆景率いる水軍はその後も山陽方面での戦いや大友家との門司城攻防戦などで活躍することになる。
 毛利家といえば「三矢の教え」だ有名である。この教えは毛利元就が嫡男・次男・三男を呼んで三人が力を合わせて、毛利家を支えていくようにとの内容である。この元就の教えを聞いた三人は力を合わせて毛利家を支えていくが、それは嫡男である隆元と元春・隆景が実は仲が悪く、元就がいる吉田城に立ち寄っても隆元がいると急いで吉田城を跡にした。このようにすこぶる仲の悪かった兄弟でるが、隆元が亡くなると彼の子供である輝元が毛利本家の当主となり、元春と隆景は輝元を支えるため兄弟力を合わせて「両川体勢」を築き上げ毛利家のために尽くして行った。
 隆景と元春は毛利本家を支えていくために協力体制を築くことになりますが、「陰徳太平記」によると元春は「戦闘型のスタイルで勇将」とある。つまり隆景は「大局を見通すことができる人物で、外交力とその智謀で毛利本家を支えていた」のである。毛利元就の嫡男隆元が亡くなると幼い当主である輝元が毛利本家の後継になるが、この元春と隆景が毛利本家の両輪となって毛利氏を支えたため、戦国の荒波を乗り越えることができたのである。

 また本能寺の変の後に豊臣秀吉の力が強くなると、隆景は秀吉に協力し、最終的には主君の輝元に112万石の所領を安堵させた。また小早川隆景自らも伊予や筑前に所領を与えられ信頼され、隆景は輝元だけではなく豊臣政権の軍師だったとすら思えてしまう。しかし隆景はこれに奢る事はなく、輝元を支え、秀吉が甥の小早川秀秋を毛利本家の養子に出そうとするのを防ぎ小早川家を継がせた。毛利家において小早川隆景がどれだけ重要な軍師だったかは、関ヶ原の戦いの後、毛利家の所領が全盛期の3分の1以下になっている事からも分かる。

片倉景綱(伊達政宗の兄貴分
 片倉景綱は政宗より10歳年上。伊達家の重臣として、またおそらく政宗の兄貴分的な存在として、伊達家の発展に尽くしました。景綱は伊達家の外交を一手に引き受けており、また豊臣秀吉の小田原征伐時には、政宗に対して参陣するように促しています。もし景綱が居なければ、秀吉の奥州仕置によって政宗の所領はより多く減封、場合によっては場合改易されていたかもしれません。
 合戦においても、景綱は政宗を支えている。人取橋の戦いや摺上原の戦い、関ヶ原の戦いなど政宗の生涯に大きく関わってくる戦いの裏には、景綱の存在がありました。政宗もこの功績に報い現在の宮城県白石市にある白石城を与えています。この白石城は、江戸時代に出された「一国一城令」の対象外になっているのですが、その裏には、伊達家の当主が景綱の功績を幕府にきちんと伝えていた故なのかもしれません。

太原雪斎(今川義元の軍師

 軍師の存在感が強すぎると…?
今川義元の軍師として有名な人物です。太原雪斎はもともと、今川家の5男で僧侶となっていた義元の教育係をしていました。雪斎は1496年生まれで義元は1519年生まれなので、23年程の年の差があったという事になります。
 しかし父や兄の相次ぐ死によって、義元が家督を継ぐ可能性が出てきました。この時、義元の兄の玄広恵探も家督相続に名乗りを挙げるのですが、雪斎は義元を助け、最終的に玄広恵探を自刃へ追い込んだとされています。父や兄を速くに亡くした義元にとって、雪斎はその代わりとなる存在だった事は想像に難くありません。
 その後も、雪斎は義元を軍事、政治の両面で支え続けます。甲斐の武田家との和睦や北条家、織田家との戦いは勿論、1554年の甲相駿三国同盟の樹立にも貢献。また前年に出された今川家の分国法、今川仮名目録の制定にも雪斎は関わっていました。雪斎は1555年に死去。そしてその5年後に義元も桶狭間の戦いで戦死します。これについて、幼少期に雪斎に学問を教えてもらっていたとされる徳川家康は「今川家は雪斎1人で持っていて他の家臣の存在感が薄い。だから雪斎が死んだ後は政治が乱れてしまった」と述べている程です。

鍋島直茂(龍造寺氏の家臣)
 鍋島直茂と言えば、最終的に龍造寺氏の実験を掌握して佐賀藩の藩祖となっている事から、松永久秀や宇喜多直家のような謀略家タイプだと思われる方もいるかもしれません。ですが龍造寺隆信が島津家久に敗れる前は、その忠実な家臣として隆信の勢力拡大に力を尽くしてきた武将として知られています。少弐家の滅亡や今山の戦いでの大友家に対する勝利、有馬家や大村家を服属させたのは鍋島直茂あっての事ですし、沖田畷の戦いで隆信が死んだと聞いて自害しようとしたエピソードを見ると、直茂は腹黒い謀略家だったとは全く思えません。
 むしろ直茂は、龍造寺隆信、そして政家に遠ざけられた事でも知られています。1581年以降、鍋島直茂は筑後の柳側城に入り、同地の内政を担当しているのですが、これは肥前を本領とする隆信が直茂を疎ましく思い、彼を遠ざけた為に起こったと言われています。
また朝鮮出兵において、直茂は隆信の長男、龍造寺政家を毒殺しようと疑惑を突き付けられ、これを否定する起請文を書いているほど。隆信、政家親子に直茂を使いこなすに器量があれば、幕末の佐賀にあったのは鍋島藩ではなく龍造寺藩だったかもしれませんね。


沼田祐光(津軽為信の家臣)
 沼田祐光の前半生は分かっておらず、どういう経緯で津軽為信に仕えたのかもわかっていません。そもそも主君にあたる為信自身の経歴も不明な点も多いので…。ただ少なくとも、為信がその名を上げる契機になった1571年の石川城攻めの時期には、少なくとも沼田祐光は為信に仕えていたと言われています。沼田祐光は天文学や易学、陰陽道に精通しており、為信が弘前城を築城する際には土地の吉凶を占ったという逸話が残されています。また一説によると、沼田祐光は中央政界とのパイプを持っていたとされ、これが為信が秀吉の小田原攻めの際、本領安堵を許された事に繋がっていくという見方も出来ます。上の4人と比べると謎が多い人物ですが、同じく前半生の経歴がハッキリしない為信が津軽藩の初代藩主へと成る過程で、沼田祐光の存在は大きかったのではないでしょうか。

 また軍師として本多正信や直江兼続を入れるべきであろう。

        ・甲斐の国の武田信玄に仕えた山本勘助
        ・越後の国の上杉謙信に仕えた宇佐美定満
        ・駿河の国の今川義元に仕えた太原雪斎
        ・豊後の国の大友宗麟に仕えた立花道雪
等々の伝説的武将が軍記物の芝居や浮世絵、流行り本などが数多される中、彼らを称して軍師と呼称するようになった。さらに、明治以降になってくると軍記物が、講談、歴史小説、物語、芝居、浄瑠璃、役者絵にと大いに人気を博し、その後は、ご承知の通り、映画に、テレビに、ゲームにと広がり、老若男女を問わない人気者へと成り上がって来たのであります。他にも軍師と呼ばれる名将はあります。豊臣秀吉の軍師、竹中重治(竹中半兵衛)、黒田孝高(黒田官兵衛)を筆頭に、
        ・石田三成の軍師、島清興(左近)
        ・伊達政宗の軍師、片倉景綱
        ・上杉景勝の軍師、直江兼継
        ・島津忠良の軍師、岩切善信
        ・島津義久の軍師、川田義朗
        ・北条氏康の軍師、多目元忠
        ・龍造寺隆信の軍師、鍋島直茂
        ・本庄繁長の軍師、傑山雲勝
        ・津軽為信の軍師、沼田祐光
        ・宇喜多秀家の軍師、明石全登
    などである。