軍師・黒田官兵衛

 軍師とは「主君に作戦を立案し、計略を助言する者である」。軍師は中国の諸葛孔明になぞらえた印象が大きく、戦術・戦略・兵站の秀才であるが、司令官を補佐する者であり、軍の司令官ではない。また「策謀が狡猾であるが、無欲で忠実な人物」とされている。

 黒田官兵衛は戦国時代から安土桃山時代にかけて武将というよりは智将として豊臣秀吉に仕え天下統一に貢献した。軍師としては竹中半兵衛、第四次川中島の戦いで「啄木鳥戦法」を提案した武田信玄の山本勘助らが代表であるが、当時は軍師という言葉はなく、彼らの活躍は江戸時代の講談によって広まった。このことからある程度創作された部分がある。なお戦乱が収まるにつれ、泰平の世では軍治よりも政務が中心になり、当然のことながら参謀型の軍師は姿を消し次第に官僚型の腹心へと移って行った。

 戦国時代の軍師の活躍は争乱の所産そのもので、軍師としては大友宗麟に使えた角隈石宗、今川義元に仕えた禅僧の太原雪斎、毛利氏に仕えた安国寺恵瓊、また小早川隆景、片倉景綱、鍋島直茂、沼田祐光などが挙げられる。

 石田三成のように行政官としての側面の強い人物、あるいは真田昌幸のような大名はあえて軍師とは呼ばない。たとえば源義経は軍師以上に戦上手で、織田信長は軍師を必要としない決断力と独創性をもっていた。軍師を「主君の側に長年使え、君主の勢力拡大に貢献した者」という定義で戦国武将の中から選んでみた。

 

黒田官兵衛

 黒田官兵衛は豊臣秀吉に仕えた戦国時代最強の軍師であるが、単なる軍師ではなく交渉人としても最強と呼べる人物であった。

 1546年、黒田官兵衛は播磨国(兵庫県)の小領主・黒田職隆の嫡男として姫路で生まれ、父は西播磨に勢力を置く小寺政職に仕えていた。1561年には小寺政職の側近となり、翌年には初陣を飾る。居城は世界遺産で有名な姫路城であるが、もちろん現在の姫路城は後に建造されたものである。

 黒田官兵衛は名軍師として知られており「策が多く野心に満ちた人物」と見なされることが多いが、官兵衛は生涯で一度も主君を裏切ってはいない。

 官兵衛が秀吉の家臣になる前の播磨は西に毛利氏、東に織田氏の勢力がぶつかっており、小寺氏は東西の大国に挟まれ微妙な緩衝地帯にあった。まだ国内は統一されておらず、播磨の小豪族・小寺政職にとって毛利と織田のどちらに付くかで日々顔色を窺っていた。

 当時の播磨は毛利氏の影響が強く、主君の小寺政職や重臣たちは毛利氏に付くことを考えていたが、まだ若い官兵衛は「将来性のある織田氏に付くべき」と他の重臣を説き伏せている。

 黒田官兵衛は小寺政職に仕え、後に羽柴秀吉に仕えるが、これは小寺政職が裏切ったためで、やむを得ず主人を変えただけで、自ら望んで主君を変えたわけではない。しかし小寺政職に裏切られたことは、主君から全幅の信頼を寄せられていなかったことを示している。

 織田信長の中国侵攻ではいち早く羽柴秀吉とよしみを結び、主君・小寺政職に織田氏への臣従を進言した。だが小寺政職は毛利氏との関係を絶たずにいた。また荒木村重が毛利氏に呼応しようとしたために、説得のため荒木村重の有岡城に乗り込んだが、逆に土牢に幽閉された。この時、信長のもとで人質となっていた嫡男・松寿丸(長政)を助けたのが竹中半兵衛であった。
 中国地方の攻略を任された羽柴秀吉の軍勢が播磨に入ると、官兵衛は居城している姫路城を中国攻略の拠点にするべきと進言して姫路城を秀吉に明け渡した。小寺政職の失脚後は竹中半兵衛とともに秀吉の指揮下で才能を発揮してゆく。

 本能寺の変が起きたのは、1582年6月2日未明で、秀吉が中国の毛利攻略で備中高松城を攻めている最中だった。主君を失って泣き崩れる秀吉のそばに官兵衛は黙って寄り添い「織田軍は各地に散らばっている。ただちに大軍を動かせられるのは我が軍のみ。毛利輝元と和睦して、主君を殺しの明智光秀を討ち天下を取るべき」と秀吉に進言した。

 黒田官兵衛が秀吉から警戒されることになったのはこの進言だった。秀吉は天下取りへの野望を周囲に気付かれないように大号泣し、自暴自棄の芝居をしていたのである。ところがその演出を知らずに官兵衛が耳元で「殿、これで天下取りへの道が開けました」と漏らしてしまったのである。

 秀吉はその言葉を聞いて、まだ誰にも気付かれずにいた心の中を見透かされ、官兵衛は善意で提言したのだが、秀吉に官兵衛の末恐ろしさを植え付け、以後秀吉が死ぬまで官兵衛を警戒するようになった。

 本能寺の変で織田信長の死の第一報が入ったのは、毛利に援軍を頼むために光秀が送った密使が、間違えて秀吉軍の陣営に迷い込んだからである。

 秀吉が他の信長の家臣を出し抜いて、京に一番乗りして光秀を討つには、目の前の敵・毛利とすぐに和議する必要があった。ここで黒田官兵衛は交渉人としての非凡さが発揮される。官兵衛は毛利方の外交僧・安国寺恵瓊(えけい)に会い、講和条件をまとめた。もし交渉が長引けば毛利方も信長の死の情報をつかんでしまうので一刻も早く講和をまとめなければならなかった。
 しかし講和を焦り毛利方に有利な条件を出せば、裏に何かあると勘ぐられてしまう。そこで「備中高松城主清水宗治の首と引き換えに、家臣の命と備後、石見、出雲の領地を守る」という講和条件を提示した。毛利方は宗治の首という条件に難色を示したがすぐにこの条件を受け入れた。この交渉にかかった時間はたった1日である。
 これほど短期間に講和ができたのは、官兵衛が講和の落とし所を完璧に見極めていたからである。戦国大名にとって領地安堵は何にも替えがたいことであり、しかも「城主の首を差し出せば家臣と領地を守る」という条件であったので即決することができた。官兵衛は相手が疑問を抱かずに即決できる条件を提示したのである。
 毛利方が信長の死を知ったのは、秀吉軍が京を目指して出発した5時間後だった。騙されたとわかり毛利家の次男・吉川元春は「すぐに秀吉を追うべき」と主張したが、長男・隆元と小早川隆景はそれを押しとどめた。2人は武士としての約束を守ることにしたのである。その功により後の豊臣政権の五大老に毛利輝元と小早川隆景の2人が選ばれている。
 京に向かう秀吉軍にとっての最大の不安は毛利が追撃軍を出すことで、しんがりを黒田官兵衛が務めた。幸いにして追っ手は来ず、無事に姫路城に到着した。ここで1泊して体力を回復させると、秀吉は金銀財宝を家来に大盤振る舞いして士気を高めた。こうして中国大返しを成功させた。

 豊臣秀吉軍と明智光秀軍が山崎で対峙し、お互いに牽制してしばらく膠着状態があった。その時、秀吉軍に毛利軍と宇喜多軍の軍旗が翻ったのである。明智光秀軍はそれを見て「毛利までが秀吉の援軍を出した」と勘違いをして、みるみる陣形が崩れていった。
 実はこの軍旗は官兵衛が毛利との講和交渉の際、毛利氏から借り受けていたものだった。そこまで見越して講和交渉に当たっていたとは恐れ入るほかない。

 

秀吉の評価

 秀吉は家臣たちとの雑談の中で「自分の死後天下を取るのは誰か」と尋ねたところ、前田利家、蒲生氏郷、徳川家康といった名前が出るなかで、秀吉は「自分に代わって天下を取る者がいるとすれば、末恐ろしきは官兵衛よ」と語ったとされている。
 五大老で250万石もの領土を持ち、後に天下を取った徳川家康がいるのに、13万石程度の官兵衛の名前を秀吉は真っ先に挙げた。秀吉は官兵衛の才覚を恐れ、わざと低い石高に抑えていた。13万石の
官兵衛では実際には4000人程度の兵しか動員できないので天下を取ることは不可能であるが、官兵衛の能力は自分に匹敵すると秀吉は見ていた。またこの言葉は「官兵衛の能力は評価するが、信用はしていない」ということになる。

 官兵衛の活躍にはとても釣り合わない石高であったが、秀吉は「奴に100万石を与えてみろ。たちどころに天下を取ってしまう」と述べている。
 これを聞いて官兵衛は家督を息子の長政に譲り、水のごとくしなやかな意味を込め「如水」と称して隠居した。時の権力者に目を付けられていることを知り、
敵意の無いことを示すためとされている。

 しかしこれは俗説であり、官兵衛が出家をしたのは、これまでの通説とは違い、官兵衛が秀吉の嫌うキリスタンであったこと、また朝鮮半島における作戦をめぐり秀吉から勘気をこうむったという説が根強い。
 このように官兵衛は秀吉と対立していたが、後年、
官兵衛は秀吉に対して憎悪の念がないことを漏らしている。

 

キリシタン黒田官兵衛

 秀吉はときに逆上し厳しい処分を下すことがある。その秀吉の逆鱗に黒田官兵衛が触れたのである。

 秀吉は官兵衛の存在を恐れそのため13万石の小大名にしたが、黒田官兵衛が秀吉から悲惨な目に遭わされたのは、官兵衛がキリシタンだったからである。

 官兵衛がキリシタンに関心を抱いたのは小西行長の勧誘によるもので、官兵衛は「小寺シメアン官兵衛」として洗礼を受けていた。官兵衛は花押の代わりにローマ字印を使うことがあったのでキリシタンだったことは間違いない。官兵衛は熱心なキリスト教信者であり、布教の手助けを行っていた。
 1587年、豊臣秀吉はバテレン追放令を発令し、キリスト教を事実上禁止した。早速、秀吉はキリシタン大名・高山右近に棄教を強制し、右近がこれを拒否すると改易という厳罰に処した。
    九州征伐において輝かしい武勲をたてた
黒田官兵衛に対しては、最初は3カ国を与えると約束をしていたが、それはキリスト教の棄教が条件だった。結局は3カ国どころか豊前の中津だけになったが、官兵衛は豊前を領すると短期間で多くの民衆の改宗に成功している。これは禁教を推進する秀吉の方針に反する行為だった。

 従来から「官兵衛を恐れた秀吉は、官兵衛を九州の僻地に押し込め、石高も最小限に抑えた」というのは、官兵衛を過大評価した典型的な俗説である。秀吉は官兵衛がキリスト教を周囲に勧めるのが気に入らなかったのである。
 秀吉は官兵衛がキリスト教の信仰を止めず、それどころかイエズス会に添った態度を取ったことが気に入らなかった。官兵衛に本来与えるべき領地を取り上げたのは、
官兵衛がキリシタンだったからと秀吉は明快に述べている。
 官兵衛は秀吉に強い憎悪の念を抱き、キリスト教に迫害を加える秀吉について官兵衛は「デウスの意志として、秀吉はそんなに長生きしない」と断じている。主君の死を断言するのだから秀吉への憎悪の念は強かった。ただ官兵衛は秀吉と口論することはなく、一方的に罵詈雑言を浴びせられるだけだった。それは秀吉が主君だったからで、決して口ごたえできなかったからである。しかしキリスト教信者には秀吉への不満を素直に述べている。
官兵衛と秀吉の関係悪化は文禄・慶長の役により決定的になった。

 

朝鮮侵略

 1592年3月、秀吉は全国の大名たちに朝鮮半島への出兵を指示した。当初、日本軍は破竹の勢いで朝鮮半島全土を占領する勢いだった。しかし義兵が日本軍への抵抗を強め、李舜臣(り・しゅんしん)が率いる水軍が日本軍を打ち破ると、途端に情勢は不利になった。

 苦境に追い込まれた日本軍は新たな手を打たねばならなかった。秀吉は官兵衛を派遣して朝鮮半島の海辺に12の城郭を作ることを現地の武将に命じた。まず官兵衛が全軍の指揮を執り、現地の武将を率いて全羅道を攻略し、その後に12の城を築くという作戦であった。秀吉の命令は絶対であり、決して逆らうことはできなかった。
 しかし現地の武将たちは、まず12の城を築き、その後に全羅道を攻略すべきとの意見が大部分だった。防御施設を作った方が安心できるからである。秀吉の命令とは手順が逆であり、そこで官兵衛は
現地の武将の意向を踏まえ、秀吉のもとに意見を伝えようとした。このことが官兵衛に最悪の事態をもたらすことになる。
 朝鮮に駐屯した武将たちは、現地の情勢から作戦変更を願ったが、秀吉は度重なる敗戦に神経質になっており、反対意見を述べることを許さなかった。秀吉に面会しようとした官兵衛は想定外の悲惨な目に遭ってしまう。
   秀吉にすれば「一度は命令を聞いて朝鮮全羅道を攻撃し、その後に相談に来るべきであって、自分の命令を最初から無視するとはけしからん」ということであった。

 秀吉と官兵衛の関係はキリスト教をめぐって対立しており、秀吉の怒りは激しく増幅し官兵衛の封禄と屋敷は没収された。このことは諸大名に対する見せしめだった
 
官兵衛の逆鱗に触れたため官兵衛は出家に追いこまれ、剃髪して権力・武勲・領地・功績が水泡になって消えていった。その意味で「如水」すなわち水の如しと名乗ったのである。官兵衛はすでに年老いており、長政の所領である豊前に隠居し、救霊に専念したいと装った。
 
若い頃の官兵衛は荒木村重が籠もる有岡城で、1年余にわたる幽閉生活を余儀なくされ、それにより頭髪が抜け落ち膝にも傷病を負っていた。また朝鮮出兵後に病により帰国したこともあった。

 これまで官兵衛の引退の理由については、病気によるものや秀吉を恐れて早い引退を決断したことされているが、現在では秀吉との不仲説が主流である。

豊臣秀吉の死

 官兵衛は秀吉のもとで小牧長久手の合戦、四国攻め、九州征伐と大活躍していた。豊前の領地を嫡男の長政に譲った後は秀吉の側近として京・大坂にとどまり、国内統一最後の小田原征伐では小田原城に入って北条氏政・氏直父子を説得して無血開城させている。

 ただ文禄・慶長の役では軍監として参加したが、積極的な活躍はしていない。あまり気が進まなかったのだろう。

 豊臣秀吉が伏見城で没すると、秀吉は「私戦を一切許さず、従わない者は天皇の名において討伐する」との言葉を残し、なにわの露と消えた。官兵衛が秀吉の死去を知ったのは領国の豊前中津においてであった。

 九州にいた官兵衛はすぐに京・伏見の黒田屋敷に入ると、すでにの官兵衛の耳には豊臣五大老筆頭の徳川家康が、秀吉の死の直前に浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以・石田三成のいわゆる「五奉行」に対し「秀頼様が御成人されるまでは家臣同士で派閥を作らず、諸大名からの知行に関する訴えを取り次がず、自分が仮に加増されても辞退する」と誓紙を出したことを聞いた。

 しかし官兵衛は「そんな約束など何の保証にもならぬ」と醒めきっていた。また秀吉の死の直後に石田・増田・長束・前田の四奉行が毛利輝元に「世間がいかに乱れても協力する」という誓紙を出させている。家康と親しい浅野長政を排除し、輝元ひとりと同盟を結ぶ内容は明らかに「派閥を作らない」という秀吉の定めた法度に抵触していた。

 さらに翌月には家康は薩摩の島津義弘・忠恒父子に対して朝鮮・滑川の大勝の功として五万石を加増している。これも「知行は秀頼成人まで変更しない」という定めに背いていた。
 文禄の役・慶長の役の朝鮮出兵では莫大な戦費と多大な将兵の命を奪っただけで、何も得るところがなかった。しかも戦後になっても論功行賞が行なわれなければ、大名と家臣たちは破産するしかなかった。朝鮮で土地を獲得できなかったため「
知行は秀頼が成人まで変更しない」はその言い訳であった。
 だが問題を先送りすることはできない。島津への加増は大老筆頭の徳川家康が島津氏を手なずけるためだった、朝鮮での抜群の戦功をあげた
島津恩賞を与えたことによって、諸大名にも加増の期待を持たせたのである。
 戦国の主従は契約関係で成り立っている。主君が気に入らなければ家臣は牢人(浪人)も辞さず、有能な武士は何度も
主君を代える者もいた。恩賞の有無により牢人(浪人)となった者も藤堂高虎や渡辺了など数多くいた。
 秀吉の私戦停止は、秀吉が圧倒的な武力と財力を背景に命令を押しつけ、天下の統一を正当化したものであった。私戦を禁止し、必要な論功行賞もしなれば、
私戦停止は崩壊すると官兵衛は考えていた。領地を欲する大名たちの歯止めがきかなくなるからである。

 家康に対抗できる前田利家が病死すると事態は動きはじめた。官兵衛の息子・長政は加藤清正や福島正則など「武断派武将」と組んで、論功行賞凍結を守る石田三成を襲撃し、石田三成は隠居に追い込まれた。また同年秋には前田利家の嫡男・利長に謀反の疑いがかけられ、家康は前田征伐を号令するが、前田利長の必死の陳弁によって回避された。
 官兵衛は連歌会など催しながら情勢を観望していたが「病の療養のため」と称して豊前中津に戻り、吉川広家に「
前田利長の処分が決まるまで発展するだろう。だがまだ世間を観察しなければならない。自分はもう余命も短いから、あとの心配は要らないので道楽がてら準備する」と書き送っている。官兵衛は乱が起これば「道楽」で参戦するつもりだった。

 

関ヶ原の戦い

 官兵衛の予言通り世の制約は崩れ、戦国の論理が蘇り天下分け目の決戦が迫ってきた。

 1600年、家康が会津の上杉景勝に謀反の動きありとして上杉征伐を決定し、それに対し石田三成は毛利輝元を西軍の大将に担いで家康打倒を決意した

 家康派(東軍)と三成派(西軍)の戦いが始まり、天下をめぐって日本が東西に分かれて関ヶ原の戦いが勃発した。

 黒田官兵衛(如水)は隠居して豊前中津(大分県)にて穏やかな余生を過ごしていた。しかし毛利輝元を擁する西軍と、徳川家康を擁する東軍が覇権を賭けて激突する中、官兵衛は壮大な構想を立てていた。「東西を二分するこの戦いは長期化するだろう。戦力が中央に集中している隙をついて九州を席巻し、その余勢を駆って疲弊した東西両軍の中央政権に攻め込み、黒田の旗を立てる」とその野望を再燃させていたのである。

 

官兵衛の天下取り
 関ヶ原の戦いで嫡男・黒田長政が活躍していた頃、官兵衛は黒田家の領地である豊前の中津城にいた。主力部隊は
黒田長政に従い東軍に加勢しており、官兵衛は200人程度の少数部隊で留守番役をしていた。しかし官兵衛はおとなしく領地や城を守っているつもりはなかった。この機に乗じて秀吉に警戒された才能を発揮しようとしていた。

 秀吉が死去し戦乱が訪れたことで、官兵衛は自分が活躍する舞台が出来たと晴れやかな気持ちでいた。官兵衛は生涯の大半を人に仕え、その勢力を維持してきたが、54才を迎えた時期になってはじめて自分の意志だけで行動できる自由を得たのである。

 官兵衛は本気で天下を狙い、戦乱がもつれれば天下を取れると考えていた。官兵衛は欲のない人物で「何がなんでも天下を得なければならない」という気負いはなかったが、しかし今の状況であれば九州は取れると確信していた。まず九州を抑えて、後は状況を見ながらで勢力を伸ばせば良いと現実的に考えていた。

 関ヶ原の直後、吉川広家に宛てた書状には「戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方へも攻め込んで華々しい戦いをするつもりであったが、家康の勝利が早々に確定したために何もできなかった」と書いている。

 生前の秀吉が「100万石をやれば天下を取られる」と冗談で如水をからかったのは、官兵衛に自分と同質の才を認めていたからである。


北九州の占領
 官兵衛は
始めはたった200人ほどの手勢で、わずか2ヶ月ほどで九州の大半を占領した。まるで魔法のような成果であるが、それを支えたのは官兵衛が蓄えていた多額の資金であった。

 まず官兵衛は資金を投じて農民や主君を失った浪人などで構成された軍隊をこしらえた。2ヶ月ほどで全九州から9000人ほどが集まり、この戦力をもって空洞化した北九州の諸城を攻めにかかった。黒田家と同じく大半の九州大名の主力部隊は関ヶ原の戦いに参加していた。そのため官兵衛の優れた指揮とあいまって官兵衛の軍勢は九州で猛威をふるった。官兵衛はまず豊前・豊後の大半をわずか10日で占拠し、毛利家の支援を受けて豊後に侵攻してきた大友義統に対しても、当初は苦戦するがやがて討ち破って軍門に下した。


家康の勝利の知らせ
 
官兵衛の軍勢は1万3000に膨れ上がり、さらに勢力の拡大を図ったが、関が原の戦いがわずか1日で終結したという情報が寄せられた。この瞬間、官兵衛は「天下を取れるかもしれない」という夢を捨て去った。

 関ヶ原の決戦が終わったことを知った官兵衛は、家康に「領地切り取り」の約束を取り付け、九州の残敵掃討にその軍を用いた。やりかけた仕事は最後まで仕上げてしまうつもりだった。その後は鍋島や加藤といった九州の東軍側の大名と合流して、西軍についた大名の城を次々と攻め落とし、九州の大半を占領した。

 官兵衛の名声は九州で広く知れ渡り「もしも攻め手に黒田官兵衛がいたら抵抗せずに降伏せよ」と留守部隊に言い残した大名家が多くいた。九州占領の事業はいよいよ薩摩・大隅(鹿児島)の島津を残すのみとなったが、家康と島津との講和が成り立ったとの知らせが伝えられると官兵衛は軍を解散した。官兵衛がその才腕を自由自在に発揮できたのは9月から11月までの、およそ2ヶ月ほどであった。
 なお関ヶ原の合戦は竹中半兵衛の領地内で起きており、半兵衛の息子「竹中重門」と官兵衛の息子「黒田長政」は共に東軍として奮戦した。竹中重門は西軍武将の小西行長を捕縛する手柄を立て、黒田長政も小早川秀秋の調略などの活躍で福岡52万石を家康から与えられた。

官兵衛と長政
 
この天下取りの心境は官兵衛にしか分からず、実際に官兵衛は貯め込んでいた私財を投げ売って、民兵を組織し九州の諸城を落とした。ところが皮肉なことに息子の黒田長政が調略した小早川秀秋の寝返りがあって、関ヶ原の戦いはたった一日で終わってしまった。

 その後、黒田長政は東軍の家康に戦勝祝いをすると、兵をまとめて豊前中津に凱旋帰国した。黒田官兵衛は表向きは東軍として動いていたので、官兵衛の天下取りの野望は明るみに出ることはなかった。

 関ヶ原の戦いの始末がつき長政が帰国すると、官兵衛は長政を出迎えた。その時、領地を大幅に加増された長政は「家康は自分の手を3度とって感謝してくれた」と父・官兵衛に報告した。これを聞いた官兵衛は、家康がどちらの手を取ったかをたずね、長政が「右手です」と答えると、「その時左手は何をしていた」と長政に尋ねた。これは左手でどうして家康を刺さなかったのかを示唆した言葉であった。官兵衛にすれば、息子の長政の活躍によって自分の夢が絶たれてしまったわけで複雑な心境だった。

 

補佐役としての黒田家
 黒田家は官兵衛の祖父の代から播磨(兵庫県)の小大名・小寺家の家老となり、くにの運営を補佐してきた。この時代に黒田家の基盤が築かれ、やがて官兵衛の代になると織田家の勢力が伸び、播磨にまで影響を及ぼすようになり、官兵衛は織田家の中国方面の司令官であった羽柴秀吉の下について織田家のために働いた。
 信長が倒れ秀吉が天下を取ると17万石の大名になり、長政の代には家康に貢献したことから52万石という大大名にまで発展した。
黒田家は織田・豊臣・徳川と、各時代の覇権を握った勢力に仕えることで順調に成長した。また補佐役とし最も活躍した一族だった。
 黒田家以上の大名家は、織田家の家臣として活躍し、秀吉とも親しかった前田利家の前田家100万石、鎌倉時代から薩摩を支配していた島津家77万石、同じく陸奥を支配していた伊達家62万石、など数えるほどである。このことを思うと的確に仕える相手を選び活躍することの価値が分かる。
 しかし「運に恵まれれば天下を取れるかもしれない」と言うほどの才能を持った官兵衛は環境の限界と、順応しきった息子の長政に苦い思いを感じていた。ちなみに長政は関ヶ原では2万もの軍勢を率いるほどの実力を得ていたが、
官兵衛は思うとおりに自軍を指揮する機会が得られなかったと悔しく思っていた。


戦後の官兵衛
 関ヶ原の戦いで嫡男・長政は活躍に加え、九州の大半を東軍の支配下においた官兵衛の活躍も特筆すべきである。「官兵衛にも長政とは別に恩賞があるべき」との声が徳川家の中にあった。関ヶ原で活躍した息子の長政は豊前国中津13万石から筑前国
名島(福岡)52万石へ加増を受けたが、
官兵衛は加増を断り、太宰府天満宮内の草庵や伏見藩邸で茶人として過ごし「天下取りの夢は終え、いまさら領地をもらっても価値はない」としていた。

 官兵衛は出家してからは如水、すなわち「水の如し」と名乗っていたが、この名は「大きな才能を持ち、それを表現する欲求を持ちながらも、世の騒がしさに煩わされたくない」と思っていたのだろう。官兵衛のあっさりとした静謐な心境の一面であった。

 真に有能な軍師とは才能ある武将や外交官である。官兵衛の場合、絶対絶命だった荒木村重の有岡城幽閉を耐え抜き、落城間際で殺気立っていた小田原城へ使者として乗り込み、話し合いで北条家の降伏を得ていた。
 
官兵衛は嫡男・黒田長政に「長政は関ケ原で大きな働きをしたので、これだけの国をもらえた。徳川は黒田家を粗略にはしないだろう。また博多を領有したのだから、天下の富の大半はここに集まる。しかしよく考えろ」と遺言を残している。

 朝鮮との貿易が盛んになれば、貿易の王者・博多黒田家ができあがる。貿易で得た資金で、徳川が弱ったときにとどめを刺しにいけばよい。おそらく黒田官兵衛と黒田長政は生前2人でこのことを話し合っていたのであろう。
 黒田官兵衛と黒田長政はともに有名である。黒田長政は初代福岡藩主で、福岡民謡「酒は呑め呑め 呑むならば」の黒田節で有名な「黒田」とは、この黒田氏のことである。

 (下:黒田官兵衛 福岡市美術館蔵)