軍師・黒田官兵衛

 軍師とは「主君に作戦・計略を助言し、最善の判断がくだせるようにする者である」。中国の諸葛孔明になぞらえた印象が大きく、戦術・戦略・兵站の秀才であるが軍の司令官ではない。また軍師は「策謀が狡猾であるが、無欲で忠実な人物」とされている。

 戦国時代から安土桃山時代にかけての、武将というよりは智将で、豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛、黒田官兵衛、武田信玄の軍師・山本勘助らが軍師の代表であるが、当時は軍師という言葉はなく、彼らの逸話は江戸時代の講談で広まったことから、ある程度創作された部分がある。

 戦国武将の軍師としては、さらに小早川隆景、片倉景綱、太原雪斎、鍋島直茂、沼田祐光の計8名が挙げられる。石田三成のような行政官としての側面が強い人物、あるいは真田昌幸のような大名はあえて外してある。他にも軍師と呼べる者は様々いるだろう。たとえば源義経などは軍師以上に戦上手で、織田信長は軍師を必要としない決断力と独創性をもっていた。軍師を「主君の側に長年いて、君主の勢力拡大に貢献した者」という定義で、戦国武将の中から8名を選んでみた。

 

黒田官兵衛

 豊臣秀吉に仕えた黒田官兵衛は戦国時代最強の軍師のひとりであるが、単なる軍師ではなく交渉人として最強と呼べる人物であった。 

 黒田官兵衛は播磨国(兵庫県)の天文15年(1546年)11月29日播磨国の姫路に小領主・黒田職隆の嫡男として生まれた。西播磨に勢力を置く小寺政職に仕えていた。1561年には父の仕える小寺政職の近習となり、翌年には初陣を飾る。居城は世界遺産で有名な姫路城である。

 黒田官兵衛は名軍師として知られる武将で「策が多く野心に満ちた人物」と見なされることが多いが、官兵衛は生涯で一度も主君を裏切ったことはない。官兵衛が秀吉の家臣になる前の播磨国は西に毛利氏、東に織田氏が勢力を競っており、小寺氏は東西の大国に挟まれ微妙な緩衝地帯にあった。まだ国内は統一されておらず、播磨の小豪族は毛利と織田のどちらに付くか日々顔色を窺っている状態にあった。

 当時の播磨は毛利氏の影響が強く、主君の小寺氏や重臣達は毛利氏に付くことを考えていたが、まだ若い官兵衛は「将来性のある織田氏に付くべき」と他の重臣達を説き伏せていた。(左上:黒田官兵衛 福岡市美術館蔵)

 黒田官兵衛は小寺政職に仕え、次に羽柴秀吉に仕えるが、これは小寺政職に裏切られたため、やむを得ず主人を変えただけで、自ら望んで主君を変えたわけではない。しかし小寺政職に裏切られた点から見ると、主君から全幅の信頼を寄せられていな飼ったようである。

 織田家の中国侵攻ではいち早く先鋒の羽柴秀吉によしみを結び主君・小寺政職に織田氏への臣従を進言する。だが小寺政職は毛利氏との関係をも絶たず、荒木村重の謀反ではこれに呼応しようとしたために、説得のため村重の有岡城に乗り込んだが逆に土牢に幽閉されることになる。この時、信長のもとで人質となっていた嫡男松寿丸(長政)を助けたのが竹中半兵衛であった。
 中国地方の攻略を任された羽柴秀吉の軍勢が播磨に入り、官兵衛が居城している姫路城を中国攻略の拠点にするべきだと進言して姫路城を秀吉に明け渡した。小寺政職の失脚後は竹中半兵衛と一緒に秀吉の指揮下で才能を発揮してゆく。

 本能寺の変が起きたのは、1582年6月2日未明で、秀吉が中国の毛利攻略で備中高松城を攻めている最中だった。主君を失って泣き崩れる秀吉のそばに官兵衛は黙って寄り添い「織田軍は各地に散らばってしまっている。ただちに大軍を動かせられるのは我が軍のみ。毛利輝元と和睦して、主君を殺した明智光秀を討ち、天下を取るべき」と秀吉にいった。黒田官兵衛が秀吉から警戒されるきっかけになったのはこの言葉だった。秀吉の天下取りへの野望を周囲に見せてないように、秀吉は大号泣し自暴自棄の芝居をしていたのである。ところがその演出を壊すかのように官兵衛が耳元で「殿、これで天下取りへの道が開けましたな」と漏らしてしまった。

 秀吉はその言葉を聞いて、まだ誰にも気付かれずにいる秀吉の心中を見透かされ、官兵衛は悪意を持って言ったわけではないが、秀吉に官兵衛の末恐ろしさを植え付け、以後秀吉が死ぬまで官兵衛を警戒するきっかけになった。

 信長の死の第一報が入ったのは、毛利に援軍を頼むために光秀が送った密使が、間違えて秀吉軍の陣営に迷い込んだからである。

 秀吉が他の信長家臣を出し抜いて、京に一番乗りして光秀を討つためには、目の前の敵・毛利と早急に和議を締結する必要があった。ここで黒田官兵衛の交渉人としての非凡さが発揮される。官兵衛は毛利方の外交僧の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に会い、講和条件をまとめる。もし交渉が長引けば毛利方も信長の死の情報をつかんでしまうので、一刻も早く講和をまとめなければならない。
 しかし講和を焦り毛利方に有利な条件を出せば裏に何かあると勘ぐられる。そこで「備中高松城主清水宗治の首と引き換えに、家臣の命と備後、石見、出雲の領地を守る」という講和条件を提示した。毛利方は宗治の首という条件に難色を示したがすぐに受け入れた。この交渉にかかった時間はたった1日だった。
 なぜこれほどの短期間に講和できたかといえば、官兵衛が講和の落とし所を完璧に見極めていたからだった。戦国大名にとって領地安堵は何にも替えがたい。しかも「城主の首を差し出せば家臣と領地は守る」という条件であれば即決することができる。官兵衛は相手が疑問を抱かずに即決できる条件を提示したのである。
 毛利方が信長の死を知ったのは秀吉軍が京を目指して出発した5時間後だった。騙されたとわかり毛利家の次男・吉川元春は「すぐに秀吉を追うべきだ」と主張したが、長男隆元と小早川隆景はそれを押しとどめた。その功により後の豊臣政権の五大老に、毛利輝元と小早川隆景の2人が選ばれている。
 京に向かう秀吉軍にとっての最大の不安は毛利が追撃軍を出すことで、姫路城まではしんがりを官兵衛が務めた。幸いにして追っ手は来ず、無事に姫路城に到着した。ここで1泊して体力を回復し、秀吉は金銀財宝を家来に大盤振る舞いして士気を高めた。こうして中国大返しを成功させた。

 豊臣秀吉軍と光秀軍が山崎で対峙し、お互いに牽制してしばらく膠着状態があった。その時、秀吉軍に毛利軍と宇喜多軍の軍旗が翻ったのである。明智光秀軍はそれを見て「毛利までが援軍を出した」と勘違いしみるみる陣形が崩れていった。
 実はこの軍旗は官兵衛が毛利との講和交渉の際、借り受けていたものだった。そこまで見越して講和交渉にあたっていたということには恐れ入るほかない。

 秀吉は家臣たちとの雑談の中で「自分の死後天下を取るのは誰か」と質問したところ、前田利家や蒲生氏郷、徳川家康といった名前が出るなか、秀吉は「末恐ろしきは、自分に代わって天下を取るものがいるとすれば官兵衛よ」と語ったことがある。
 五大老で250万石もの領土を持ち、後に天下を取る徳川家康がいるのに、10万石程度の官兵衛の名前を真っ先に挙げたのである。秀吉は官兵衛の才覚を相当に恐れ、わざと低い石高に抑えていた。実際には4000人しか動員できない10万石の
官兵衛では天下を取ることは不可能であるが、その能力は自分に匹敵するものがあると秀吉は見ていたのであろう。またこの言葉は官兵衛に「お前の能力は評価しているが、信用はしていない」と伝えたことになる。10万石は官兵衛の活躍にはとても釣り合わない石高であるが、秀吉は「奴に100万石も与えてみろ。たちどころに天下を取られてしまう」とも述べている。
 これを聞いて官兵衛は家督を息子の長政に譲り、水のごとくしなやかな意味で自身を「如水」と称して隠居する。時の権力者に目を付けられ、
敵意の無いことを強調したのである。

 

豊臣秀吉の死

 その後も秀吉のもとで小牧長久手の合戦、四国攻め、九州征伐と大活躍する。豊前の領地を嫡男の長政に譲った後は秀吉の側近として京・大坂にとどまり、国内統一最後の小田原征伐では北条氏政・氏直父子を小田原城に入って説得し無血開城させた。

 ただ、文禄・慶長の役では軍監として参加したが、積極的な活躍はしていない。あまり気が進まなかったのだろう。

 豊臣秀吉が伏見城で没した。秀吉は「私戦は一切許さず、従わない者は天皇の名において討伐する」の言葉は、なにわの露と消え戦国大名が動き出した。官兵衛が秀吉の死去を知ったのは領国の豊前中津においてであった。

 九州にいた官兵衛はすぐに京の伏見の黒田屋敷に入ると、すでに彼の耳には豊臣五大老筆頭の徳川家康が、秀吉の死の直前に浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以・石田三成のいわゆる「五奉行」に対し「秀頼様が御成人されるまでは家臣同士で派閥を作らず、諸大名からの知行に関する訴えを取り次がず、自分が仮に加増されても辞退す」と誓紙を出していたことが分かった。

 しかし官兵衛は「そんな約束など何の保証にもならぬ」と醒めきった考えていた。また秀吉の死の直後に石田・増田・長束・前田の四奉行が毛利輝元に「世間がいかに乱れても協力しよう」という誓紙を出させている。家康と親しい浅野長政を排除し輝元ひとりと同盟を結ぶ内容は、明らかに「派閥を作らない」という秀吉の定めた法度に抵触していた。さらに翌月には薩摩の島津義弘・忠恒父子に対して朝鮮・滑川の大勝の功として五万石弱が加増された。これも「知行は秀頼成人まで変更しない」という定めに背いている。
 しかし文禄の役、慶長の役と2度にわたって実施された朝鮮出兵は、莫大な戦費と多大な将兵の命を消費しただけで、何ら得るところなく秀吉の死によって終わった。戦後になっても論功行賞が行なわれなければ、大名と家臣たちは破産するしかない。だが朝鮮で土地を獲得できなかった豊臣政権には行賞を行なうことができなかった。「秀頼が成人まで」はその言い訳であった。
 だが問題を先送りすることはできない。島津への加増は、大老筆頭の徳川家康が島津氏を手なずけるためだった、朝鮮での抜群の戦功をあげた
島津へ恩賞を与えることによって、諸大名にも加増の期待を持たせたのである。
 戦国の主従は契約関係で成り立ち、主君が気に入らなければ家臣は牢人も辞さない。有能な武士には何度も主家を代える者もいた。恩賞の有無や額の多少が原因で牢人した者も藤堂高虎や渡辺了など数多い。
 秀吉の私戦停止は、秀吉が圧倒的な武力と財力を背景に命令を押しつけ、天下の統一と支配を正当化したものであった。私戦を禁止するために必要な公的論功行賞も行なえなくなれば、それは崩壊すると官兵衛は考えた。

 家康に対抗できる前田利家が病死すると事態は動きはじめた。官兵衛の息子・長政が、加藤清正や福島正則など「武断派」と呼ばれる大名たちと組んで論功行賞凍結を遵守する立場の石田三成を襲撃しようとして三成は隠居に追い込まれた。秋には前田利長(利家の子)に謀反の疑いがかけられ、家康が前田征伐を号令するが、前田利長の必死の陳弁によって回避された。さらに領地を欲する大名たちに歯止めは利かなくなった。
 官兵衛は連歌会など催しながら情勢を観望していたが「病の療養のため」と称して豊前中津に戻り、吉川広家に「
前田利長の処分まで発展するだろうが、まだ世間を観察しなければならない。自分はもう余命も短いから、あとの心配は要らないので道楽がてら準備する」と書き送っている。官兵衛はすでに乱が起これば「道楽」で参戦する心づもりだったとしている。

 

関ヶ原の戦い

 官兵衛の予言通り世の制約は崩れ、戦国の論理が蘇り天下分け目の決戦が迫ってきた。官兵衛は九州で動いた。果たし1600年、家康が会津の上杉景勝に謀反の動きありとする諸大名からの突き上げを受けて征伐を決定し、6月16日に大坂を出陣すると、石田三成が毛利輝元を大将に担いで家康を打倒することを決し、家康派(東軍)、三成派(西軍)の内戦が勃発した。天下をめぐって日本が東西まっ二つに分かれて争う関ヶ原の戦いが勃発する。

 黒田官兵衛(如水)は隠居後に豊前中津(大分県)にて穏やかな余生を過ごしていたが、毛利輝元を擁する西軍と、徳川家康を擁する東軍が覇権を賭けて激突する中、官兵衛は壮大な構想を立てその野望を再燃させた。

「東西を二分するこの戦いは長期化するだろう。戦力が中央に集中している隙をついて九州を席巻し、その余勢を駆って東西両軍が疲弊した中央政権に攻め込み、黒田の旗を立てる」

 

官兵衛の天下取り
 関ヶ原の戦いで長政が活躍していた頃、官兵衛は黒田家の領地である豊前の中津城にいた。主力部隊は上杉討伐から転じて東軍に従軍しているので、200人程度の少数の部隊で留守番をしていた。しかし官兵衛はおとなしく領地や城を守っているつもりはなく、この機に秀吉に警戒された才能を発揮する。

 秀吉がなくなり戦乱が訪れたことで、自分が活躍する舞台が作られたと晴れやかな気持ちでいた。官兵衛は生涯の大半を人に仕え、その対象の勢力の維持や拡大に貢献してきたが、54才を迎えた時期になってはじめて自分の意志と判断だけで行動できる自由を得たのである。官兵衛は本気で天下を狙っていたが、戦乱がもつれればあるいはと考えていたであろう。官兵衛は基本的に欲のない人物で、何がなんでも天下を得なければならぬ、という気負いはなかった。しかし今の状況であれば九州は取れる。九州を抑えて、後は状況を見ながらできるだけ勢力を伸ばせばいい。官兵衛は現実的に物事を考えので、そのように段取りを考えてたと思う。関ヶ原の直後、吉川広家に宛てた書状に「戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで華々しい戦いをするつもりであったが、家康の勝利が早々と確定したために何もできなかった」と書いている。

 生前の秀吉が「10万石やれば天下を取られる」と半ば冗談で如水をからかったのは、自分と同質の才を認めていたために相違ない。


北九州の占領
 官兵衛はたった200人ほどの元手で始め、わずか2ヶ月ほどで九州の大半を占領してしまいまった。まるで魔法のような現象であるが、それは官兵衛が蓄えてきた多額の資金にあった。官兵衛はまず資金を投じて農民や主君を失った浪人などで構成された軍隊をこしらえている。全九州から2ヶ月ほどで9000人が集まり、この戦力をもってがら空きとなっている北九州の諸城に攻めかかる。黒田家と同じく大半の大名の主力部隊は関ヶ原の戦いに参加するべく出払っていた。そのため寄せ集めの軍隊でも官兵衛の優れた指揮とあいまって、九州で猛威をふるった。官兵衛はまず豊前・豊後の大半をわずか10日ほどで占拠してしまったのである。毛利家の支援を受けて豊後に侵攻してきた大友義統に対しても、当初は苦戦するが、やがて討ち破って軍門に下す。


家康の勝利の知らせ
 
官兵衛の軍勢は1万3000に膨れ上がり、さらに勢力の拡大を図ったところで、関が原の戦いがわずか1日で終結したという情報が寄せられた。この瞬間、あきらめのよい官兵衛は「天下を取れるかも」という夢を捨て去ったであろう。関ヶ原の決戦が終わったことを知った官兵衛は、家康に領地切り取りの約束を取り付け、九州の残敵掃討にその軍を用いた。
 やりかけた仕事は最後までしあげてしまおうとの気持ちだった。この後は鍋島や加藤といった九州における東軍側の大名と合流し、西軍についた大名の城を次々と攻め落とし、九州の大半を占領することになる。官兵衛の名声は九州でも広く知れ渡り、もしも攻め手に黒田官兵衛がいたら抵抗せずに降伏せよと留守番部隊に言い残した大名家も複数あった。九州占領の事業も後はいよいよ薩摩・大隅(鹿児島県)の島津を残すのみ、となったところで家康から島津との講和が成ったとの知らせが伝えられ、官兵衛は軍を解散する。官兵衛がその才腕を自由自在に発揮できたのはこの年の9月から11月まで、おおよそ2ヶ月ほどの期間であった。

 なお関ヶ原の合戦は竹中半兵衛の領地内で起きており、半兵衛の息子「竹中重門」と官兵衛の息子「黒田長政」は共に東軍として奮戦する。竹中重門は西軍武将の小西行長を捕縛するという手柄を立て、黒田長政もまた小早川秀秋の調略等で福岡52万石を与えられている。

 

官兵衛と長政
 
この天下取りの心境は官兵衛にしか分からないが、実際に官兵衛は貯め込んでいた私財を投げ売って民兵を組織し九州の諸城を落としていく。ところが皮肉なことに息子の黒田長政が調略した小早川秀秋の寝返りがあり、関ヶ原の戦いはたった一日で終わってしまう。その後は東軍の家康に戦勝祝いをするとともに、兵をまとめて豊前中津に凱旋帰国しる。黒田官兵衛は表向きは東軍として動いていたので、官兵衛の野望が明るみに出ることはなかった。

 関ヶ原の戦いの始末がついたところで長政が帰国し、官兵衛はそれを出迎えた。その時、領地を大幅に加増された長政は「家康は自分の手を3度とって感謝してくれた」と官兵衛に報告した。これを聞いた官兵衛は、どちらの手を家康が取ったかをたずね、長政が「右手です」と答えると、「その時左手は何をしていた」と長政に言った。左手でどうして家康を刺さなかったのかと示唆したのである。官兵衛からすれば、息子の長政が活躍したことによって自分の夢が絶たれてしまったわけで、複雑な心境だったことであろう。


優秀な補佐役としての黒田家
 黒田家は官兵衛の祖父の代から播磨(兵庫県)の小大名である小寺家の家老となり、その運営を補佐してきた。この時代に黒田家の基盤が築かれ、やがて官兵衛の代になると織田家の勢力が伸び、播磨にまで影響を及ぼすにいたり、官兵衛は織田家の中国方面の司令官であった羽柴秀吉の下について織田家のために働く。
 信長が倒れ秀吉が天下を取ると17万石の大名になり、長政の代には家康に貢献することで52万石という大大名にまで発展する。織田・豊臣・徳川と、各時代の覇権を握った勢力に仕えることで順調に成長した大名家だった。また補佐役としては最も活躍した一族だった。
 黒田家以上の大名家は、織田家の家臣として活躍し、秀吉とも親しかった前田利家の前田家100万石、鎌倉時代から薩摩を支配していた島津家77万石、同じく陸奥を支配していた伊達家62万石、など数えるほどしか存在していない。このことを思うと的確に仕える相手を選び活躍することの価値が伺い知れます。
 しかしながら運に恵まれれば天下を取れるかもしれないほどの才能を持って生まれた官兵衛みすると、生まれた環境の限界と順応しきっている息子の長政の存在に苦いものを感じたかもしれない。ちなみに長政は関ヶ原の戦功によって2万もの軍勢を率いるほどの実力を得たが、一度も自分の思うとおりにその軍を指揮して戦う機会が得られなかったことを悔しく思っていた。


戦後の官兵衛
 関ヶ原の戦いで長政は活躍したが、九州の大半を東軍の支配下においた官兵衛の活躍もまた特筆すべきものであった。官兵衛にも長政とは別に恩賞があるべきではないか、という声が徳川家の中であがった。関ヶ原で活躍した息子の長政は豊前国中津12万石から筑前国
名島(福岡)52万石へ加増移封を受けたが、
官兵衛は加増を断り、太宰府天満宮内に草庵や伏見藩邸で茶人として過ごした。「天下取りの夢は終え、いまさら領地をもらっても価値はない」と思ったのだろう。

 官兵衛は出家してからは如水、すなわち「水の如し」と名のっていた。この名前からは大きな才能を持ち合わせ、それを表現する欲求を持っていながらも、一方では世の騒がしさに煩わされたくもない、とも思っていたのだろう、官兵衛のあっさりとした静謐な心境の一面がうかがえる。

 真に有能な軍師とは、才能ある武将や外交官であらねばならない。官兵衛の場合、絶対絶命だった荒木村重の有岡城幽閉を耐え抜いたことや、落城間際で殺気立っていた小田原城への使者など話し合った相手の共感を得る天与の才があったに違いない。
 黒田長政は遺言状を残している。「俺は関ケ原でこれだけの働きをしたら、これぐらいの大きな国をもらえた。徳川は黒田家は粗略にしない。このまま
博多を領有していたら、天下の富の大半はこの町に集まる。よく考えろ」と書いている。中国相手、朝鮮相手の貿易が制限されなかった場合、貿易の王者の博多黒田家ができあがる。貿易で得たカネで、徳川が弱ったときにとどめを刺しにいく。おそらく黒田官兵衛と息子の黒田長政は生前2人で話していたのだと思割れる。
 黒田官兵衛と息子の黒田長政はともに有名である。息子の黒田長政は初代福岡藩主で、福岡民謡「酒は呑め呑め 呑むならば」の黒田節で有名な「黒田」とは、この黒田氏のことである。