小早川隆景

 江戸時代の岩国藩(吉川元春の三男・広家が初代藩主)で書かれた「陰徳太平記」には、小早川隆景は危ない戦いをせず、策略を持って敵を倒す事に長けていたとしている。戦国時代に中国地方の領主として栄えた毛利家をここまで強くさせたのは毛利元就のおかげである。

 当時の毛利氏は3000貫の領地を持つ小領主に過ぎなかった。毛利元就も領主になるまでは不幸の連続だった。母には5歳、父には10歳で先立たれ、兄の興元が24歳で亡くなり、もらった領地も後見人に横領されてしまうという不幸っぷりであった。

 毛利家の当主となる毛利元就を支えたのは3人の息子達や家老たちであるが、特に毛利家ではこの三人息子の長男・毛利隆元(たかもと)、次男・吉川元春(もとはる)、三男・小早川隆景(たかかげ)の三兄弟が力を合わせて父・元就を支え毛利家は広大な領土を手に入れるができた。

 

養子縁組戦略

 小早川隆景は安芸国吉田荘の領主毛利元就の3男として生まれ、幼名は徳寿丸である。小早川隆景の幼少期は両親のもとで育ってゆくが、長く毛利の家にいることはなかった。それは当時の毛利家はまだ小名と言われる弱小の豪族で、毛利家の隣国には大領主である大内氏や尼子氏が威勢を誇っており、元就が拠点としていた安芸も小早川家と吉川家の両家が割拠しており、毛利氏がいつ両家や大領主である大内や尼子氏に滅ぼされてもおかしくない状態であった。
 そこで毛利元就は毛利家の基盤を強化するため、次男・元春を吉川家に養子に出し、三男・隆景を小早川家に養子へ出した。毛利元就は自分の子どもを利用して領地を拡大させようとしていた。小領主の毛利氏は戦を仕掛けても、周りの領主から攻められて滅んでしまう。このまま何もせずにいれば他の領主に飲み込まれてしまう可能性があった。血を流さずに領地を増やす。小領主毛利氏の戦略としての養子縁組だった。2男の元春、3男の隆景が駒として活用されたのである。

 その後、元春が養子へ出た吉川家は嫡男と当主が相次いで亡くなったため、元春が吉川家の当主になる。また同様に小早川の家でも当主と後継者が不可解な死を遂げたため、小早川隆景が当主となった。

 こうして元就の毛利家と吉川・小早川の両家が加わり、毛利家の基盤は安定し強化されることになる。

小早川隆景

 小早川氏は平安後期から鎌倉前期にかけて活躍した土肥実平の子から小早川を称している。安芸国沼田荘の地頭職を与えられ、在地領主として成長していき、その後、承久の乱の恩賞として竹原荘地頭職が与えられた。沼田荘を嫡流家としてそれぞれ自分の子に沼田荘、竹原荘を分けて与えている。瀬戸内海に面した領地であり水軍を持っていた。

 当時竹原荘の小早川氏は傍流であったが、その当主興景が病死したのである。家臣の中から「元就の子どもを養子にしては」という声が上がった。それは興景の妻が元就の姪にあたり姻戚関係があったからである。

 しかし毛利元就は本家の沼田小早川氏が欲しい。隆景が竹原城に入る1年前に嫡流の沼田小早川氏に悲劇が起こった。当主の正平が出雲で戦死したのである。子の繁平も病気で失明してしまうという不運の連続だった。ここで家臣団は2つに割れる。目が見えなくても周りが盛り立てて行けばいい。武将は目が見えなければ務まらないというように。どちらが優勢だったのかというと、後者の方だった。
 周りは虎視眈々と領土の拡大を狙っています。盲目では敵に侮られてしまう。
ではここで誰の名前が上がったのでしょうかそれは隆景でした。竹原小早川へと養子縁組で入り、この際沼田小早川の当主となってもらおうという事です。結局隆景は沼田小早川氏を継ぎます。繁平に妹がおり結婚をすることで。ここに鎌倉時代から分かれていた沼田・竹原小早川氏は統一される。
 特に不審な部分はないのではないかと思われるが、しかし
目が見えなくても周りが盛り立てて行けばいいと主張していた家臣団が、その後粛清されている。ここからが謀略があったことへの傍証となります。毛利氏による小早川氏乗っ取りを察知したのかもしれません。
 いずれにしても家臣団は粛清されたという事実がありますので推測としてはお家乗っ取りだったのだろうと思います。ここに毛利の両川小早川隆景が誕生する隆景は小早川家の当主に就任すると小早川家の居城であった高山城を放棄し自分の城を建築する。隆景は瀬戸内海にほど近い場所に新たな城を建築した。この新城の築城は自分が小早川の家の新当主になったことを内外に示し、瀬戸内海の勢力をまとめるためであった。

 隆景は海上を制するため、小早川家の重臣乃美氏を右腕として活用し、乃美氏の妹を瀬戸内海で勢力を張っていた水軍である因島村上氏へ嫁がせて、小早川家との協力体勢を構築した。隆景はこの強力な水軍を率いて大内家に対して謀反を起こした陶晴賢(とうはるかた)を厳島(いつくしま)の戦いで打ち破るなどの功績を残す。この戦いで功績を残した小早川隆景率いる水軍はその後も山陽方面での戦いや大友家との門司城攻防戦などで活躍することになる。

 

三矢の教え
 毛利家といえば「三矢の教え」だ有名である。この教えは毛利元就が嫡男・次男・三男を呼んで三人が力を合わせて、毛利家を支えていくようにとの内容である。この元就の教えを聞いた三人は力を合わせて毛利家を支えていくが、それは嫡男である隆元と元春・隆景が実は仲が悪く、元就がいる吉田城に立ち寄っても隆元がいると急いで吉田城を跡にした。このようにすこぶる仲の悪かった兄弟でるが、隆元が亡くなると彼の子供である輝元が毛利本家の当主となり、元春と隆景は輝元を支えるため兄弟力を合わせて「両川体勢」を築き上げ毛利家のために尽くして行った。
 隆景と元春は毛利本家を支えていくために協力体制を築くことになりますが、「陰徳太平記」によると元春は「戦闘型のスタイルで勇将」とある。つまり隆景は「大局を見通すことができる人物で、外交力とその智謀で毛利本家を支えていた」のである。毛利元就の嫡男隆元が亡くなると幼い当主である輝元が毛利本家の後継になるが、この元春と隆景が毛利本家の両輪となって毛利氏を支えたため、戦国の荒波を乗り越えることができたのである。

 また本能寺の変の後に豊臣秀吉の力が強くなると、隆景は秀吉に協力し、最終的には主君の輝元に112万石の所領を安堵させた。また小早川隆景自らも伊予や筑前に所領を与えられ信頼され、隆景は輝元だけではなく豊臣政権の軍師だったとすら思えてしまう。しかし隆景はこれに奢る事はなく、輝元を支え、秀吉が甥の小早川秀秋を毛利本家の養子に出そうとするのを防ぎ小早川家を継がせた。毛利家において小早川隆景がどれだけ重要な軍師だったかは、関ヶ原の戦いの後、毛利家の所領が全盛期の3分の1以下になっている事からも分かる。そして政家に遠ざけられた事でも知られています。1581年以降、鍋島直茂は筑後の柳側城に入り、同地の内政を担当しているのですが、これは肥前を本領とする隆信が直茂を疎ましく思い、彼を遠ざけた為に起こったと言われています。
また朝鮮出兵において、直茂は隆信の長男、龍造寺政家を毒殺しようと疑惑を突き付けられ、これを否定する起請文を書いているほど。隆信、政家親子に直茂を使いこなすに器量があれば、幕末の佐賀にあったのは鍋島藩ではなく龍造寺藩だったかもしれませんね。