細川ガラシャ

 1563年、明智珠(玉子=細川ガラシャ)は明智光秀の三女として越前で誕生した。母は明智光秀の2番目の妻である妻木煕子(ひろこ)である。

 明智光秀は美濃の斎藤道三に仕えていたが、斎藤道三と斎藤義龍の父子の争い(長良川の戦い)で斎藤道三が自害すると、光秀は母方の若狭の武田義統を頼りに、後に越前国の朝倉義景に仕えた。細川ガラシャは光秀が越前の朝倉義景に仕えていた時に誕生した。明智珠の名前は玉子とも書くが、その名前の由来は「玉のように愛らしい子」と云われ、「珠」は活発で天真爛漫である事を示している。細川ガラシャの名前を聞くと「悲劇の姫」を想像るが果たして悲劇だったのだろうか。

 

明智凞子

 母の妻木煕子は美人で頭も良いと評判で明智光秀の妻になった。しかし婚姻直前、凞子は疱瘡に襲われ、病気は無事に治ったが瘢痕を残し美貌が失われが、凞子の内面的な美しさは失わず生きていゆく。父親は落胆し「凞子を嫁がせても、これでは追い返されてしまう」と、凞子の妹を替え玉にして光秀に嫁がせた。当時は婚約者の顔を知らないまま結婚するのが普通だったので、妹を代わりに嫁がせても光秀には分からないはずだった。

 しかし明智光秀は妹の態度を見て「どうも様子がおかしい」と思い妹から真実を聞き出してしまう。すると光秀は「私の人生で妻にすると決めたのはあなたの姉だ」と妹を家に帰し、凞子を妻に迎えたいと申し込んだ。このような出来事があって光秀と結婚した凞子は「自分を妻にと望んでくれた光秀に一生懸命尽くそう」と誓う。
 浪人時代の明智光秀の生活の中は貧しく、家に仲間が集まった時に、お酒の一杯でも出そうと思っても出せないほど貧しい生活をしていた。凞子はどこかに出かけて行き、なぜか頭巾を被って帰宅すると、家に集まった光秀の仲間たちに豪華なお酒とおつまみをご馳走した。これをおかしいと思った光秀は、皆が帰った後で凞子にどういうことかと聞きだすと、凞子は被っていた頭巾を取った。すると腰まではあった長い髪が肩まで短くなっていた。光秀に恥をかかせたくないと思った凞子が、自分の髪を売ってお金を作り、それでご馳走を用意したのである。この凞子の健気さに感動した光秀は、当時は当たり前だった側室を一人もつくらず、凞子たった一人を愛した。
 光秀が愛した凞子の魅力とは、その健気さと強い心だった。ちなみに疱瘡にかかる前の凞子の美しさは、凞子の子どに受け継がれ、それが戦国の美女として名前が挙がる細川ガラシャであった。両親をみて育った細川ガラシャにとって、夫婦とは族とは支え合うことが当然だと感じていたのだろう。

 1573年に明智光秀が織田信長の直臣になり坂本城主になると、煕子の父の妻木広忠が与力として明智家を盛り立てた。1578年、明智珠が15歳の時、主君・織田信長のすすめで、以前から交流のあった丹後の宮津城主・細川藤孝の嫡男・細川忠興(15歳)に嫁いだ。同じ歳の二人は共に美しく人形のように愛らしくと周囲からも大層祝福された。さらに明智光秀は朝倉家・足利家・織田家へ仕官という多難な日々を送った。


細川忠興と玉珠
 細川忠興とは仲のよい夫婦となり、長女・おちょう、長男・細川忠隆など3男2女が生まれた。細川珠は美女で、細川忠興は細川珠の美しさに見とれた植木職人を手討ちにしたという話が残るほどである。細川忠興は大変な戦上手で、政治家としても優れていて、1581年の織田信長・京都馬揃えにも若年ながらも参加を許されている。

 子宝にも恵まれ幸せな新婚生活を送っていたが、明智珠が細川忠興に嫁いで僅か4年後の1582年6月、父の明智光秀が謀反を起こし、織田信長を本能寺で討った(本能寺の変)。

 明智光秀は、親戚である細川藤孝と細川忠興が味方になってくれると思い書状を送ったが、細川藤孝は書状を拒否した。細川藤孝は剃髪して幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と号して田辺城に隠居して細川忠興に家督を譲ってしまった。父の謀反の真意は分からないが、玉子姫は細川家が明智家の味方をしてくれると信じたかったであろう。しかし明智光秀は細川家の協力も得られず、関係の深い筒井順慶にも味方を断られ、窮地に陥り、山崎の戦い(天王山の戦い)で羽柴秀吉・池田恒興らに負けて敗死して滅んだ。ほどなくして父や母の死、明智家の滅亡を知り「逆臣の娘」となった玉子姫は丹後の味土野へ幽閉されてしまう。 

 逆臣の娘・細川珠はいつ離縁されてもおかしくない状況であったが、細川藤孝(細川幽斎)は丹後・味土野(丹後市弥栄町)の山中に明智珠を2年間幽閉し、累が及ばないようにした。危険を冒して細川珠を守ってくれたのである。現在、屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が建っている。

 大切な家族を失い、その家族は夫に見限られ、山奥に一人ただ生かされるのであるた。この間の明智珠を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原いとら侍女達だった。 清原いとの父親は公家の清原枝賢で、清原枝賢は儒家でありまたキリシタンでもあった。
 逆臣の娘となり幽閉された細川珠は清原いとら侍女が世話をしていたが、1584年3月、羽柴秀吉の計らいで、大坂玉造で忠興と暮らせるようにはなった。しかし織田方が玉子の命を狙う可能性から、屋敷の奥から外出できない生活を送ることになる。この年、細川興秋が誕生している。

 

洗礼

 細川珠は出家した舅・細川幽斎とともに禅宗を信仰していたが、細川忠興が高山右近から聞いたキリスト教の話をするとその教えに心を魅かれた。 
  1586年、細川忠利(幼名・光千代)が生まれたが、生まれつき病弱で、細川珠は日頃から心配していた。1587年、細川忠興が豊臣秀吉の九州征伐で出陣すると、彼岸の時期を利用し、侍女数人と身分を隠して教会に行った。

 教会ではそのとき復活祭の説教を行っており、細川珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。細川珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からない。身なりなどから高い身分である事を察したが、この日の洗礼は見合わさられた。
  留守を守る細川邸では、侍女の帰りが遅いことから細川珠が外出した事に気づき、教会まで迎えにやってきて駕籠で珠を連れ帰った。この時、教会の若者が尾行して、彼女が細川家の奥方であることを知った。
  これ以降、細川珠は厳しく監視され、外出する事も困難となった。細川珠は洗礼を受けられないまま、侍女たちを通じて教会とやり取りして、教会から送られた書物を読むことによってキリスト信仰を深めていった。この時、清原マリアら侍女たちを教会に行かせ、洗礼を受けさせている。
  1587年6月19日に、豊臣秀吉がバテレン追放令を出すと、イエズス会宣教師たちは長崎の平戸に集結する事になった。明智珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸で清原マリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けた。この時、3歳の細川興秋も受洗を受けている。
 それまで細川珠は気情が高く、怒りやすい性格だったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになった。なお洗礼を受けたことは、バテレン追放令が発布されていたので、夫・細川忠興に改宗したことを告げなかった。しかし、1595年に、細川ガラシャは改宗を告白して、屋敷内に小聖堂を造り、次女・たらも洗礼を受け、翌年には長女・おちょうも受洗を受けた。
 細川忠興は禁教令発布直後にキリシタンになったのを知ると激怒し、侍女の鼻をそぎ、さらに細川ガラシャに改宗を迫った。細川忠興は5人の側室を持つと言い出すなど、細川ガラシャに対して辛く当たるようになった。

 細川ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けたが、キリスト教では離婚は認められないと悟され「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ徳は磨かれる」と説得された。

 ただし朝鮮出兵中、細川忠興は細川ガラシャに何通もの手紙を書いているが「秀吉の誘惑に乗らないように」と、豊臣秀吉に見初められるのを警戒するように書かれた文書だった。
 1598年8月に豊臣秀吉が死去すると、細川家は徳川家康に通じ、1599年には加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らと共に、細川忠興も石田三成襲撃に加わっている。徳川家康は、細川家に丹後12万石に加え、九州豊後・杵築60000石を加増した。
  1600年、細川忠興は徳川家康に従い上杉征伐に出陣。細川忠興は大阪屋敷を離れる際に「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺して、全員切腹してわが妻とともに死ぬように」と、屋敷を守る家老・小笠原秀清、河喜多、石見一成、稲富祐直たちに命じた。武家の習いとして、他家でも同様に自決を命じていた。

 この隙に、石田三成は挙兵すると、まず徳川家康に味方している武将の奥方を人質にと考え、大阪屋敷に滞在していた加藤清正の正室・徳川家康の養女、黒田官兵衛の正室・光姫(幸円)、黒田長政の正室・保科栄姫、細川忠興の正室である細川ガラシャを人質に取ろうした。

 

細川ガラシャの死
  7月16日に、石田三成の使者が細川邸を訪れたが、細川ガラシャは使者に人質になることを拒否。拒否された石田三成は翌日、実力行使に出て兵で細川屋敷を囲んだ。細川ガラシャは屋敷内の侍女・婦人を集め「わが夫が命じている通り、自分だけが死にたい」と言い、侍女たちを屋敷から逃亡させた。

 キリストの教えでは自殺を禁止しているため、家老の小笠原秀清が、細川ガラシャの胸を長刀で突いて介錯した。享年37。さらに細川ガラシャの遺体が残らぬよう、屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて、小笠原秀清らは自刃した。
  細川ガラシャの辞世の歌は「散りぬべき時知りてこそ 世の中の花も花なれ人も人なれ」~ 花は散るべき時を知っている だからこそ花として美しい 花も人も散り時を心得てこそ美しい わたくしもそうでありたい ~である。
  黒田官兵衛の正室・光姫、黒田長政の正室・保科栄姫は細川邸から火の手が上がった隙に、石田三成の包囲を突破して、九州に逃亡している。

 正室は自害したが、このことは細川忠興らの諸将の憤慨を招いた。石田三成は評判にも影響すると判断し、すぐに石田三成は人質作戦を中止した。

 細川ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは、細川屋敷の焼け跡から細川ガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。
 細川忠興は、死を選んだ細川ガラシャの忠節を痛み、1601年ににガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬している。
  細川ガラシャが大坂屋敷で自害した際、嫡男・細川忠隆の正室である千世は屋敷を脱出して、姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。細川忠隆は関ヶ原の戦いでも武功を上げ、徳川家康より感謝状を受け取ったが、細川忠興は千世が屋敷を脱出して生き延びたことを咎め、千世は前田利家の娘であったが離縁するように細川忠隆に命じた。これに細川忠隆は反発し、千世をかばい離縁を承知しなかったため、前田利長に相談もしたが効果は無く、細川忠隆は追放・廃嫡とされた。
  細川忠隆は千世と長男を連れて祖父の細川幽斎を頼って京都で隠居した。このため細川ガラシャが3歳で洗礼を受けさせた細川忠利が熊本藩の初代藩主となっている。

 次男の細川興秋は、藩主になれなかったことから細川家を出奔し、大坂の陣で豊臣勢に加わり、道明寺の戦い、天王寺・岡山の戦いなど転戦したが、戦後に父・細川忠興の命で切腹した。
 

越中井
  大阪城からほど近い場所に「越中井」と呼ばれる井戸がある。この井戸は細川家の大阪屋敷の井戸であったとされ、細川越中守忠興の官位から「越中井」と呼ばれている。

 現在は道路の真ん中に取り残されたように保存され、繁みのようになっている。その繁みをわざわざ道路が迂回しているような感じです。当然、屋敷に火を放ち、家臣に自らの胸を突かせた細川ガラシャの最後の地とされており、南へ200m行ったところにある聖マリア大聖堂(カトリック玉造教会)の正面には細川ガラシャの像と高山右近の像が並んである。