細川ガラシャ

 細川忠興の妻・細川ガラシャ(おたま)は本能寺の変で織田信長を自刀させた明智光秀の三女である。母は明智光秀の2番目の妻・妻木煕子(ひろこ)で、細川ガラシャは越前で生まれた。

 明智光秀はかつて美濃の斎藤道三に仕えていたが、斎藤道三と斎藤義龍の父子の争い(長良川の戦い)で斎藤道三が自害すると、明智光秀は母方の若狭の武田義統のつてで、越前の朝倉義景に仕えた。明智光秀が越前の朝倉義景に仕えていた時に細川ガラシャは誕生した。

 細川ガラシャは洗礼を受けたクリスチャン名で、旧名は明智玉子あるいは珠というが、その名前の由来は「玉のように愛らしい子」とされ、「珠」は活発で天真爛漫である事を示している。細川ガラシャの名前を聞くと「悲劇の姫」を連想するが、その悲劇とは果たしてどういうものだったのだろうか。

 

明智凞子

 明智光秀の妻になった妻木煕子は美人で頭脳明晰との評判であった。しかし婚姻直前に凞子は疱瘡に襲われ、病気は無事に治ったが瘢痕を残し美貌が失われた。父・妻木広忠は落胆して「凞子を嫁がせても、これでは追い返されてしまう」と、凞子の妹を替え玉にして明智光秀に嫁がせた。当時は婚約者の顔を知らずに結婚するのが普通だったので、妹を代わりに嫁がせても光秀には分からないはずだった。

 しかし明智光秀は妹の態度を見て「どうも様子がおかしい」と思い、妹から真実を聞き出してしまう。すると明智光秀は「私の人生で妻にすると決めたのは、あなたの姉だ」と述べると妹を家に帰し、凞子を妻に迎えたいと申し込んだ。このようなことがあったので、光秀に嫁いだ凞子は「自分を妻にと望んでくれた光秀に一生懸命尽くそう」と誓った。また凞子の内面的な美しさは失わずに生き続けることになる。
 浪人時代の明智光秀の生活は貧しく、家に仲間が集まった時に、お酒の一杯でも出したくても出せないほど貧しい生活をしていた。その時、凞子はどこかに出かけると、なぜか頭巾を被って帰るってきた。そこで光秀の仲間たちに豪華なお酒とおつまみをご馳走したのであsる。これをおかしいと思った光秀は、皆が帰った後で凞子に「どういうことか」と聞きだすと、凞子は被っていた頭巾を取った。すると腰まではあったはずの長い黒髪が肩まで短くなっていた。

 明智光秀に恥をかかせたくないと思った凞子が、自分の髪を売って、それでご馳走を用意したのである。この凞子の健気さに感動した光秀は、当時は当たり前だった側室を一人もつくらず凞子たった一人を愛した。
 光秀が愛した凞子の魅力とは、その健気さと強い心だった。ちなみに疱瘡にかかる前の凞子の美しさは、凞子の子供に受け継がれ、それが戦国の美女として名高い細川ガラシャであった。両親をみて育った細川ガラシャにとって、夫婦とは支え合うことが当然と感じていた。

 1573年に明智光秀が織田信長の直臣になり坂本城主になると、煕子の父の妻木広忠が与力になり明智家を盛り立てた。1578年、明智珠が15歳の時、主君・織田信長のすすめで丹後の宮津城主・細川藤孝の嫡男・細川忠興(15歳)に嫁いだ。織田による政略結婚であったが同じ歳の二人は共に美しく、美男美女のほまれ高く人形のように愛らしいと周囲から祝福された。父の明智光秀は朝倉家・足利家・織田家へ仕官し多難な日々を送った。


細川忠興と玉珠
 細川忠興と珠は仲のよい夫婦で、長女・おちょう、長男・細川忠隆など3男2女をもうけた。細川珠は戦国一の美女で、細川忠興は嫉妬心が異常に強く、細川珠の美しさに見とれた植木職人を手討ちにした話が残っているほどである。また容貌の美しさはとは別に、細川珠は活発で決断力に富み、心情高尚、才智抜きんで誇り高き気品のある女性だった。細川忠興は戦上手で、政治家としても優れていて、1581年の織田信長による京都馬揃えにも若年ながらも参加している。

 3男2女の子宝に恵まれ幸せな新婚生活を送っていた。ところが明智珠が細川忠興に嫁いで僅か4年後の1582年6月、珠の運命が一変する事態が起きる。父の明智光秀が謀反を起こし、織田信長を本能寺で討ちとったのである(本能寺の変)。

 明智光秀は、親戚である細川藤孝と細川忠興が味方になってくれると思い書状を送るが、細川藤孝は書状の受取りを拒否すると、剃髪して幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と号して隠居して家督を細川忠興に譲ってしまった。父・明智光秀の謀反の真意は分からなかったが、珠姫は細川家が明智家の味方をしてくれると信じたかった。しかし明智光秀は細川家の協力を得られず、関係のある筒井順慶からも味方を断られ、窮地に陥って山崎の戦い(天王山の戦い)で羽柴秀吉・池田恒興らに敗れて敗死した。

 父や母が死に明智家の滅亡を知ると同時に珠姫は逆臣の娘となった。本来ならば細川家から離縁されて当然であったが、形の上で離縁され、丹波山中(味土野)に幽閉された。細川藤孝(細川幽斎)は危険を冒して丹後・味土野(丹後市弥栄町)の山中に明智珠を2年間幽閉し、珠を守ったのである。現在、その屋敷跡には「女城跡(御殿屋敷)」が建っている。

 父の叛乱の衝撃、大切な親兄弟を失い、子供は夫に見限られ、細川珠は山奥に一人ただ生かされるのであった。この間の明智珠を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従と、細川家の親戚筋にあたる清原マリアら侍女達だった。 清原マリアの父は公家の清原枝賢で、清原枝賢は儒家でありまたキリシタンでもあった。この山中での瞑想生活が細川珠にとってキリスト教入信の契機になった。
 逆臣の娘となり幽閉されていた細川珠は、清原マリアら侍女が世話をしていたが、1584年3月、信長に代わって天下を統一した秀吉に許され、大坂玉造で忠興と生活できるようになった。しかし珠のいないあいだに忠興が側室を娶っており、珠は忠興の嫉妬心から屋敷から外出が許されない生活がはじまった。また織田方が珠の命を狙う可能性があったため、屋敷の奥に閉じこもり外出できない生活を送ることになる。この年、細川興秋が誕生している。

 

洗礼

 細川珠は出家した舅・細川幽斎とともに禅宗を信仰していたが、細川忠興が高山右近から聞いたキリスト教の話をするとその教えに心が魅かれた。 
  1586年、細川忠利(幼名・光千代)が生まれたが、生まれつき病弱で、細川珠は日頃からそのことを心配していた。1587年、細川忠興が豊臣秀吉に従い九州征伐に出陣すると、珠は侍女数人と身分を隠して教会に行きキリスト教に深く触れた。

 教会ではそのとき、復活祭の説教を行っており、細川珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。細川珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会は彼女が誰なのか分からなかった。身なりなどから、高い身分であると察したが、この日の洗礼は見合わさられた。
  留守を守る細川邸では、侍女の帰りが遅いことから細川珠が外出した事に気づき、教会まで迎えにやってきて駕籠で珠を連れ帰った。この時、教会の若者が尾行して、彼女が細川家の奥方であることを知った。九州征伐から戻った忠興は側室を5人迎えるなど細川珠に冷たく当たった。
  これ以降、細川忠興はガラシャを厳しく監視し、外出する事も困難となった。キリシタン禁止令はまだ出ておらず、細川忠興の嫉妬心がら細川珠は教会への礼拝さえ思うにならなかった。洗礼を受けられないまま、侍女たちを通じて教会とやり取りして、教会から送られてきた書物を読みキリスト信仰を深めていった。この時、清原マリアら侍女たちを教会に行かせ、洗礼を受けさせている。
  豊臣秀吉がバテレン追放令を出すと、イエズス会宣教師たちは長崎の平戸に集められる事になった。明智珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、1587年6月19日に自邸で清原マリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という霊名を受けた。この時、3歳の細川興秋も受洗を受けた。
 それまでの細川珠は気情が高く、怒りやすい性格だったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになった。なお洗礼を受けた時は、バテレン追放令が発布されていたので、夫・細川忠興には改宗を告げなかった。しかし、1595年に、細川ガラシャは改宗を告白して、屋敷内に小聖堂を造り、次女・たらも洗礼を受け、翌年には長女・おちょうも受洗を受けた。
 細川忠興は禁教令発布直後にキリシタンになったことを知ると激怒し、侍女の鼻をそぎ、さらに細川ガラシャに改宗を迫った。細川忠興はさらに側室を持つと言い出すなど、細川ガラシャに対して辛く当たるようになった。

 細川ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けたが、キリスト教では離婚は認められないと悟され「誘惑に負けてはならない。困難に立ち向かってこそ徳は磨かれる」と説得された。

 ただし朝鮮出兵中、細川忠興は細川ガラシャに何通もの手紙を書いているが「秀吉の誘惑に乗らないように」と、豊臣秀吉に見初められることを警戒する文を書いている。
 1598年8月に豊臣秀吉が死去すると、細川家は徳川家康に通じ、1599年には加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らと共に、細川忠興も石田三成襲撃に加わった。徳川家康は、細川家に丹後12万石に加え、九州豊後・杵築60000石を加増している。
  1600年、細川忠興は徳川家康に従い上杉征伐に出陣し、細川忠興は大阪屋敷を離れる際に「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺して、全員切腹してわが妻とともに死ぬように」と、屋敷を守る家老・小笠原秀清、河喜多、石見一成、稲富祐直らに命じた。武家の習いとして、他家でも同様に自決を命じていた。

 石田三成は挙兵すると、まず徳川家康に味方している武将の奥方を人質にとることを考え、大阪屋敷に滞在していた加藤清正の正室・徳川家康の養女、黒田官兵衛の正室・光姫(幸円)、黒田長政の正室・保科栄姫、細川忠興の正室である細川ガラシャを人質に取ろうした。

 

細川ガラシャの死
 豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成が対立し、夫の忠興は関ヶ原の戦いを前にして家康に味方したため、西軍の石田三成は豊臣家に縁のある大名を味方につけようとして、その妻子を大阪城内に移そうとした。7月16日、石田三成の使者が細川邸を訪れたが、細川ガラシャは人質になることを拒否した。

 拒否された石田三成は翌日、実力行使に出て細川屋敷を兵で取り囲んだ。細川ガラシャは屋敷内の侍女・婦人を集め「わが夫が命じている通り、自分だけが死にたい」と言い、侍女たちを屋敷から逃亡させた。

 キリストの教えでは自殺を禁止しているため、家老の小笠原秀清が、細川ガラシャの胸を長刀で突いて介錯した。細川ガラシャ、享年37。さらにガラシャの遺体が残らないように、小笠原秀清らは屋敷に爆薬を仕掛け火をかけて自刃した。

 当時の細川ガラシャは朝夕のお祈りなど精神的にはクリスチャンとしての生活を送っていたが、最後は「日本の武士の妻」として清らかに波乱万丈の生涯を全うした。そのことが後世の人の、細川ガラシャに対する哀憐の情を深めたことは言うまでもない。 
  細川ガラシャの辞世の歌は「散りぬべき時知りてこそ 世の中の花も花なれ人も人なれ」(花は散るべき時を知っている だからこそ花として美しい 花も人も散り時を心得てこそ美しい わたくしもそうでありたい)である。
  黒田官兵衛の正室・光姫、黒田長政の正室・保科栄姫は細川邸から火の手が上がった隙に、石田三成の包囲を突破して九州に逃亡している。細川ガラシャは自害したが、このことは細川忠興らの諸将の憤慨を招いた。石田三成は評判を悪くすると判断してすぐに人質作戦を中止した。

 細川ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは、細川屋敷の焼け跡から細川ガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。
 細川忠興は、死を選んだ細川ガラシャの忠節を痛み、1601年にガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬している。
 細川ガラシャが大坂屋敷で自害した際、嫡男・細川忠隆の正室である千世は屋敷を脱出して、姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。細川忠隆は関ヶ原の戦いでも武功を上げ、徳川家康より感謝状を受け取ったが、細川忠興は千世が屋敷を脱出して生き延びたことを咎め、千世は前田利家の娘であったが離縁するように細川忠隆に命じた。これに細川忠隆は反発し、千世をかばい離縁を承知しなかっため嫡男・細川忠隆は追放された。細川忠隆は千世と長男を連れて祖父の細川幽斎を頼って京都で隠居した。このため細川ガラシャが3歳で洗礼を受けさせた細川忠利が熊本藩の初代藩主となっている。

 次男の細川興秋は藩主になれなかったことから細川家を出奔し、大坂の陣で豊臣勢に加わり、道明寺の戦い、天王寺・岡山の戦いなど転戦したが、戦後に父・細川忠興の命で切腹した。

 

越中井
  大阪城からほど近い場所に「越中井」と呼ばれる井戸がある。この井戸は細川家の大阪屋敷の井戸であったとされ、細川越中守忠興の官位から「越中井」と呼ばれている。

 現在は道路の真ん中に取り残されたように保存され、繁みのようになっている。その繁みをわざわざ道路が迂回しているが、ここが屋敷に火を放ち家臣に自らの胸を突かせた細川ガラシャの最後の地とされている。また南へ200m行ったところに聖マリア大聖堂があり、大聖堂の正面には細川ガラシャの像と高山右近の像が並んである。キリスト教がガラシャの女性としての美しさをさらに引き立ている。キリスト教が波乱万丈のガラシャの人生のなかでガラシャの心を平穏にしたのであろう。