細川ガラシャ

 1563年、明智珠(細川ガラシャ)は明智光秀の三女として越前で誕生した。母は明智光秀の2番目の妻である妻木煕子(ひろこ)である。

 明智光秀は美濃の斎藤道三に仕えていたが、斎藤道三・斎藤義龍父子の争い(長良川の戦い)で斎藤道三が自害すると、母方の若狭の武田義統を頼り、後に越前国の朝倉義景に仕えた。細川ガラシャは明智光秀が越前の朝倉義景に仕えていた時に誕生した。

 母である妻木煕子は、妻木城主・妻木広忠の娘で、1553年頃に明智光秀の継室になった。明智光秀が浪人生活さらには朝倉家・足利家・織田家へ仕官という多難な日々で煕子は自分の黒髪を売って、明智光秀を助けたとされている。

 明智光秀も煕子が亡くなるまでは側室を置かず大切にした。明智光秀が1573年に織田信長の直臣になり坂本城主になると、煕子の父の妻木広忠は与力として明智家を盛り立てた。1578年、明智珠が15歳の時、主君・織田信長のすすめによって、丹後の宮津城主・細川藤孝の嫡男・細川忠興(15歳)に嫁いだ。


細川忠興と玉珠
  細川忠興とは仲のよい夫婦となり、長女・おちょう、長男・細川忠隆など3男2女が生まれている。細川珠は美女であったとされ、細川忠興は細川珠の美しさに見とれた植木職人を手討ちにしたという話がある。細川忠興は大変な戦上手で、政治家としても優れており、1581年の織田信長・京都馬揃えにも若年ながらも、一色満信らとともに参加を許されている。

 しかし明智珠が細川忠興に嫁いで僅か4年の1582年6月、父の明智光秀が織田信長を本能寺で討った(本能寺の変)。明智光秀は、当然、親戚である細川藤孝と細川忠興が味方になるように書状を送ったが細川藤孝は拒否した。細川藤孝は剃髪して幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と号して田辺城に隠居し、細川忠興に家督を譲った。

 細川家の協力も得られず、明智光秀と関係の深い筒井順慶にも味方を断られ、窮地に陥った明智光秀は、山崎の戦い(天王山の戦い)で羽柴秀吉・池田恒興らに負けて敗死して滅んだ。そのため細川珠は「逆臣の娘」となった。

 細川珠はいつ離縁されてもおかしくない状況であったが、細川藤孝(細川幽斎)は丹後・味土野(京丹後市京市弥栄町)の山中に明智珠を2年間幽閉し、累が及ばないようにした。幽閉されていた屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷))」が現在も建っている。

 この間の明智珠を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原マリア(公家・清原枝賢の娘)ら侍女達だった。 
  逆臣の娘となり幽閉された細川珠は清原マリアら侍女が世話をした。1584年3月、羽柴秀吉の計らいもあり、細川忠興は細川珠の幽閉を解き細川家の大阪屋敷に移した。この年、細川興秋が誕生している。細川珠は出家した舅・細川幽斎とともに禅宗を信仰していたが、細川忠興が高山右近から聞いたキリスト教の話をすると、その教えに心を魅かれた。 
  1586年、細川忠利(幼名・光千代)が生まれたが、生まれつき病弱で、細川珠は日頃から心配していた。1587年、細川忠興が豊臣秀吉の九州征伐で出陣すると、彼岸の時期である事を利用し、侍女数人と身分を隠して教会に行った。

 教会ではそのとき復活祭の説教を行っており、細川珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。細川珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からない。身なりなどから高い身分である事を察したが、この日の洗礼は見合わさられた。
  留守を守る細川邸では、侍女の帰りが遅いことから細川珠が外出した事に気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で珠を連れ帰った。この時、教会の若者が尾行して、彼女が細川家の奥方であることを知った。
  これ以降、厳しく監視され、外出する事が困難となった為、細川珠は洗礼を受けないまま、侍女たちを通じて教会とやり取りし、教会から送られた書物を読むことによってキリスト信仰を深めていった。
  この時、清原マリアら、侍女たちを教会に行かせては洗礼を受けさせている。
  1587年6月19日に、豊臣秀吉がバテレン追放令を出すと、イエズス会宣教師たちは長崎の平戸に集結する事となり、明智珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸で清原マリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けた。この時、3歳の細川興秋も受洗を受けている。
 それまで細川珠は気情が高く、怒りやすい性格だったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになった。なお、洗礼を受けたことは、バテレン追放令が発布されていた経緯もあり、夫・細川忠興にも改宗したことを告げなかった。しかし、1595年に、細川ガラシャは改宗を告白して、屋敷内に小聖堂を造り、次女・たらも洗礼を受け、翌年には長女・おちょうも受洗を受けた。
 細川忠興は禁教令発布直後にキリシタンになったのを知ると激怒し、侍女の鼻をそぎ、さらに細川ガラシャを脅迫して改宗を迫ったとも言われており、細川忠興は5人の側室を持つと言い出すなど、細川ガラシャに対して辛く接するようになった。細川ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けたが、キリスト教では離婚は認められないと悟られ「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ徳は磨かれる」と説得された。ただし朝鮮出兵中、細川忠興は細川ガラシャに何通もの手紙を書いているが「秀吉の誘惑に乗らないように」と、豊臣秀吉に見初められるのを警戒するように書かれた文書だった。
 1598年8月に豊臣秀吉が死去すると、細川家は徳川家康に誼を通じた。1599年には加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らと共に、細川忠興も、石田三成襲撃に加わっている。徳川家康は、細川家に丹後12万石に加え、九州豊後・杵築60000石を加増した。
  1600年、細川忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣。細川忠興は大阪屋敷を離れる際「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺して、全員切腹してわが妻とともに死ぬように」と、屋敷を守る家老・小笠原秀清、河喜多(川北)石見一成、稲富祐直たちに命じた。武家の習いとしては、他家でも同様に命じていた時代である。

 この隙に、石田三成は挙兵すると、まず徳川家康に味方している武将の奥方を人質にと考え、大阪屋敷に滞在していた加藤清正の正室・徳川家康の養女、黒田官兵衛の正室・光姫(幸円)、黒田長政の正室・保科栄姫、細川忠興の正室である細川ガラシャを人質に取ろうした。
  7月16日に、石田三成の使者が細川邸を訪れたが、細川ガラシャは使者に屈せず拒否。拒否された石田三成は翌日、実力行使に出て兵で細川屋敷を囲んだ。これを受けて細川ガラシャは屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り、自分だけが死にたい」と言い、侍女たちを屋敷から逃亡させた。

 キリストの教えでは自殺も禁止されているため、家老の小笠原秀清が、細川ガラシャの胸を長刀で突いて介錯した。享年37。さらに細川ガラシャの遺体が残らぬよう、屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて、小笠原秀清らは河喜多らと共に自刃した。
  辞世の歌は「散りぬべき時知りてこそ 世の中の花も花なれ人も人なれ」
  黒田官兵衛の正室・光姫、黒田長政の正室・保科栄姫は細川邸から火の手が上がった隙に、石田三成の包囲を突破して、九州に逃亡する事に成功している。

 正室が自害しては細川忠興ら諸将を憤慨させるだけでなく、石田三成の評判にも影響すると判断し、すぐに石田三成は人質作戦を中止した。
  細川ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは、細川屋敷の焼け跡から細川ガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬ったと言う。
 細川忠興は、死を選んだ細川ガラシャの細川家への忠節を痛み、1601年にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列。後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬している。
  しかし、細川ガラシャが大坂屋敷で自害した際、嫡男・細川忠隆の正室である千世は、屋敷を脱出して、姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。細川忠隆は関ヶ原の戦いでも武功を上げ、徳川家康より感謝状も受け取っていたが、1600年10月になって、細川忠興は、千世が屋敷を脱出して生き延びたことを咎め、千世は前田利家の娘であったが、離縁するように細川忠隆に命じる。これに細川忠隆は反発し、千世をかばい、離縁を承知しなかったため、前田利長に相談もしたが効果は無く、細川忠隆は追放・廃嫡とされた。
  細川忠隆は千世と長男を連れて6000石を知行していた祖父である細川幽斎を頼って京都で隠居した。このため細川家は細川ガラシャが3歳で洗礼を受けさせた細川忠利が熊本藩の初代藩主となっている。

 次男の細川興秋は、藩主になれなかったことから、細川家を出奔し、大坂の陣で豊臣勢に加わり、道明寺の戦い、天王寺・岡山の戦いなど転戦したが、戦後に父・細川忠興の命で切腹した。
大阪城からほど近い場所に「越中井」と呼ばれる井戸があります。この井戸は細川家の大阪屋敷の井戸であったとの伝承があり、細川越中守忠興の官位から「越中井」と呼ばれている。

越中井
現在は道路の真ん中に取り残されたように保存され、繁みのようになっている。その繁みをわざわざ道路が迂回しているような感じです。当然、屋敷に火を放ち、家臣に自らの胸を突かせた細川ガラシャの最後の地とされており、南へ200m行ったところにある聖マリア大聖堂(カトリック玉造教会)の正面には細川ガラシャの像と高山右近の像が並んである。