戦時下の朝鮮・台湾

戦時下の朝鮮・台湾
戦局の悪化に伴い、日本国内は総力戦の様相を呈するようになりましたが、この流れは当時我が国の領土であった朝鮮半島や台湾においても例外ではありませんでした。
戦時下の朝鮮半島に対して、一般的な歴史教科書では「太平洋戦争が激化して我が国の戦局が悪化すると、数十万人の朝鮮人を日本本土に強制連行し、鉱山や土木工事現場などで無理やり働かせました」という記述がみられることが多いようですが、これらは本当のことなのでしょうか。
確かに朝鮮半島や台湾の人々が日本各地の炭鉱や工場で働いたことは事実ですが、それらは昭和14年7月に制定された国民徴用令に基づくものであり、しかも台湾では本土と同時に施行されたのに対して、朝鮮半島ではしばらく徴用を免除されていました。その後、戦局の悪化に伴って昭和19年9月から朝鮮の人々にも国民徴用令が適用されましたが、日本本土への徴用が行われたのは昭和20年3月までの約7ヵ月間だけでした。
つまり、現代の朝鮮の人々がこれまで主張してきたいわゆる「強制連行」は、当時の「日本国民全員」が等しく受けていた「徴用による労働の強制」に過ぎず、しかもその期間は一般的な日本人よりも遥かに短かったのです。
ちなみに、戦時中に徴用されて我が国に渡航し、戦後の昭和34年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうちわずか245人だった事実が国会での質疑の中で判明しており、しかもその245人は、自分の自由意思によって日本に留まった者か、あるいは日本生まれであり、日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は、犯罪者を除いて一人もいなかったということが明らかになっています。

朝鮮半島に関する我が国の歴史教科書の記述では、明治43年に行われた日韓併合についてその多くが「植民地化された」と書いているようですが、これは正しい表現とはいえません。
植民地とは、一般的に「ある国からの移住者によって経済的に開発され、その国の新領土となって本国に従う地域のこと」を意味しますが、これが世界中で行われるようになったのは、いわゆる大航海時代以降に西欧諸国が海外に乗り出し、アフリカやアメリカ大陸を中心に先住民への侵略を始めてからでした。
西欧諸国はアフリカやアメリカ、あるいはアジアの各地域の先住民を従わせて植民地化すると、本国の経済力を高めるために先住民を奴隷として強制連行したり、白色人種にとって都合の良い作物ばかりを育てさせようとしたりしました。
例えば、ブラジルではサトウキビの栽培を広い範囲で行わせたり、スリランカでは紅茶を栽培させたりしました。これらの利益のほとんどは本国が吸い上げ、先住民はそれこそ無給に等しい状態で過酷な労働を強いられたのです。
なお、このような熱帯・亜熱帯地域の植民地において、奴隷や先住民の安い労働力を使って世界市場に向けた単一の特産的農産物を大量に生産することをプランテーションといいます。プランテーションはその国が輸出によって外貨を得るための唯一の手段となりますから、仮に自然災害などによって農産物が不作になれば経済が立ち行かなくなるという大きな問題を抱えています。

では、西欧諸国やアメリカによって行われたプランテーションや、奴隷制度に代表される一方的な植民地支配に対して、我が国は日韓併合後に朝鮮半島をどのように統治したのでしょうか。
こういう場合、一番分かりやすいのは国内における総人口の違いを調査することです。なぜなら、もし我が国が朝鮮半島を植民地化して朝鮮の人々を強制的に労働させているのであれば、結果として人口が減少するのが当然だからです。
日韓併合後に我が国が朝鮮半島を統治するために置いた朝鮮総督府が記録として残した「朝鮮総督府統計年報」によると、併合した明治43年の朝鮮の人口は1,312万8,780人でした。一方、大東亜戦争末期の昭和19年では2,512万174人です。
すなわち、わずか35年足らずで朝鮮半島の人口が倍増しているのです。植民地化で朝鮮人が被害を受けているのであれば減っていてもおかしくないのに、逆に2倍になっているのはどうしてでしょうか。
では次に、我が国が朝鮮半島に対して搾取してきたかどうかに関する事実を検証してみましょう。植民地化するということは、当然朝鮮半島の資産を我が国が奪ってきたはずなのですが、併合される直前の保護国の時代では、当時の費用で1億円(現在の価値で約3兆円)を我が国が支援しています。
我が国は併合の段階で朝鮮半島に対してかなりの負担をしていたことになりますね。だとすれば併合後には搾取していたのでしょうか。
事実は全く逆です。我が国が終戦を迎えるまでの35年間の統治において、我が国は朝鮮半島に対して約20億円(現在の価値で約60兆円を支援し続けています。この他にも朝鮮半島への鉄道建設に当時で6,600万円の巨費をかけるなど、軍事関連を除く民間資産は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部の調査で53億ドル(現在の価値で約15兆円)にものぼっています。
我が国が朝鮮半島にもたらした資源は金銭などのモノばかりではありません。我が国は併合当時100校に過ぎなかった朝鮮半島における小学校を5,000校にまで増やしました。また、帝国大学を京城(ソウル)に設置しましたが、これは大阪や名古屋よりも早かったのです。この他にも京城医学専門学校をはじめとした各種単科大学を設立し、朝鮮人弁護士制度もつくりました。

これまで述べてきたように、我が国は毎年のように朝鮮半島に対して多額の資金を投入していましたが、その一方で本土への予算が十分に行きわたらなかったことが、恐慌や飢饉が連続して発生したことも重なって、昭和初期を中心に我が国で不穏な動きが相次いだ遠因になったとも考えられています。
さて、朝鮮半島で小学校を増やした際に、我が国は李氏朝鮮時代に作られたハングル文字を半島全土へ普及させましたが、同時に普及させようとした日本語の方は、朝鮮の人口全体のわずか16%に留まりました。歴史教科書を中心に「日本は朝鮮人から朝鮮語を奪った」という主張がよくなされているようですが、事実は全く逆です。
また、同じように「朝鮮人から名前を奪った」とされる、いわゆる「創氏改名」ですが、これも実際には全く逆であって、元々は朝鮮人が日本名を名乗るのを禁止していたのを、1930年代に「同じ日本人でありながら半島の人間が日本名を名乗れないのは差別である」との声が高まったことで昭和14年に導入されたものであり、その件数は届け出期間中に全戸数の79%にまで達しています。
しかも、この制度は日本名を強制させるものではなく、当時の朝鮮総督が「氏の創設は強制ではない」と何度も指示を出しています。また、改名しなかったからといって差別を受けることもなく、新聞紙上において朝鮮名の選手の活ぶりを称える記事が、創氏改名後の当時の大阪朝日新聞に掲載されています。

戦局の悪化に伴って、朝鮮半島においても徴兵制が実施されたのは事実ですが、その前提として志願兵の募集倍率の高さがあったことを忘れてはいけません。
朝鮮半島では昭和13年に志願兵の募集が始まりましたが、定員の7倍以上の応募がありました。その後も驚くべき高倍率が続いて志願者が殺到し、昭和17年には62.4倍にも達しました。
高倍率の背景には一部の下級官吏による説得があったとされていますが、血書嘆願して志願する者もいたなど、朝鮮人全体の士気が高かったことは間違いなく、こうした流れがあったからこそ、昭和19年になってからようやく朝鮮半島でも徴兵制が実施されたのです。
ちなみに、朝鮮人で兵役に就いた人々の中には難関を突破して陸軍士官学校や海軍兵学校に進み、日本軍の将校となったのも少なくありませんでした。軍の世界においても民族差別が存在しなかった何よりの証拠ですね。
なお、朝鮮人の将校としては本名のまま陸軍中将にまで昇進した洪思翊が有名ですが、彼は大東亜戦争後にB級戦犯として裁かれ、フィリピンで処刑されています。

現代の我が国と韓国との間で論議を呼んでいるものの一つに、韓国側や日本人の一部がしきりに主張している、いわゆる「従軍慰安婦問題」があります。
歴史教科書の中には「日本軍が朝鮮人などの女性を強制的に集め、従軍慰安婦として働かせた」と書かれているものが少なくないですが、確かに朝鮮人の慰安婦が存在したのは事実であるものの、彼女らを日本軍が強制連行したという証拠は一切存在しません。
にもかかわらず、平成5年に当時の河野洋平官房長官が慰安婦募集における強制性を認めたいわゆる「河野談話」を発表したことから、韓国側がこれを根拠として世界各国に「当時の日本軍が従軍慰安婦を性奴隷として強制連行した」などと訴えるなど、我が国の国益は著しく損なわれ続けています。
現在では河野談話の根拠となった当時の慰安婦の聞き取り調査があやふやで信頼できないものであったことが産経新聞などによって明らかになっていますし、何よりも健全な青少年の育成に欠かせない歴史教科書において、慰安婦の存在自体を掲載することの是非を考慮すべきではないでしょうか。
なお、戦後の朝鮮に関する様々な動きに関しては、別の機会に改めて詳しく紹介します。

これまで戦時下を含んだ我が国が併合していた当時の朝鮮半島の様子を紹介してきましたが、同じように我が国の領土となっていた台湾ではどうだったのでしょうか。
台湾における徴用は、先述のとおり昭和14年に国民徴用令が施行された際に本土と同時に適用され、台湾本島や内地(日本本土)、あるいは南方占領地への動員が開始されました。
また、日本統治下の台湾においては日本語が国語とされましたが、大正11年に新教育令が発布された当初は、日本語の習熟度の違いによって初等教育機関を区別するなど、台湾人と日本人との差別をなくそうとする姿勢が見られました。
この他、朝鮮半島での創氏改名にあたる改姓名も行われましたが、朝鮮と違って希望者の届け出を受けて台湾総督府が特別に許可する制度であったためか、手続きが無期限であったにもかかわらず、改姓は全人口のわずか1.6%に留まりました。

台湾での兵役は、朝鮮半島よりも遅れて昭和17年より陸軍特別志願兵制度が実施されましたが、朝鮮同様に志願者が殺到し、翌昭和18年には実に600倍近くの倍率となりました。
これを受けて台湾でも昭和20年から徴兵制が始まりましたが、同年のうちに終戦となったために短期間で終わっています。
ところで、台湾における兵役の歴史は「高砂義勇隊」の存在抜きに語ることはできません。昭和17年に軍の要請を受けた台湾総督府が高砂族に対する従軍者の募集を発表すると約5,000人の応募者が殺到し、中には血書や血判の志願書を持参して嘆願する者まで現われました。
軍は応募者の中から500人を「高砂挺身報国隊(後に高砂義勇隊と改称)」として採用し、道路の構築や物資の輸送を主たる任務として、以後も7回まで募集を続けました。
また昭和19年からは正規の軍人の募集が「高砂特別志願兵」として始まり、ニューギニアなどの密林での戦闘に力を発揮するなど、我が国の戦争遂行に大きく貢献しました。

私の知人が「台湾の中学校を卒業後に志願兵として『大日本帝国軍人』となった台湾人」から直接伺(うかが)った話を、又聞きで私も拝聴しましたが、非常に印象深かったので皆様にもご紹介します。
「日本軍がシンガポールを占領したとき、私たちの乗っている船に、現地の我々と同い年くらいの若い青年たちが物売りにたくさん来ました。その現地人たちと英語で話をするわけですが(当時の日本の中学生の学力なら簡単な英語は誰でも話せました)、彼らの誰一人として英語を文字で書ける人がいませんでした」。
「彼らは学校に行っていないから、英語を話しているのに書くことができないのです。私はこのときほど、台湾が日本に統治してもらって良かったと思ったことはなかったです」。
「私は小学校の成績が良かったから、家が貧乏だったのに、日本人の担任の先生のおかげで中学校まで卒業させてもらいました。当時は小学校に行っていない者など誰もいないし、小学校を卒業すれば、皆が日本語も中国語(漢文)も文字が書けるようになりました」。
「しかし、イギリスの植民地となっていたシンガポールの現地人たちは誰一人英語が書けませんでしたし、地図を示しても、見たことがないので全く理解できなかったのです。私は『日本人』であることが本当に嬉しかったですし、日本という国が本当に偉大だと思いました」。