真珠湾攻撃

 当時の日本は日中戦争で中国と戦争をしていた。資源に乏しい日本は日清戦争、日露戦争が示すように短期決戦を得意としていたが、この日中戦争が長期戦へもつれ込んでしまう。宣戦布告から一気に攻め、ころあいをみて有利な講和条約を結ぶというのが日本の勝利への方程式であった。
 しかし日中戦争では、陸軍が政府の命令も無視してどんどん戦線を拡大していった。拡大する戦線に対応する為、「国家がすべての人的物的財産を自由にできる」という国家総動員法を作り、兵、財産、資源の確保に努めた。
 日中戦争においては、アメリカは中立という立場を守っていたが、当時の首相近衛文博が日本・満州・中国を統合した経済圏を作ることを示唆し、後に東南アジアをも含めた大東亜共栄圏というスローガンを発展した。この声明にアメリカは強く反発し、アメリカは日本に石油や物資などを輸出しないという経済制裁にでることになる。
 当時の日本は、石油の約8割をアメリカに頼っていた。そのアメリカが石油を輸出しないとなったら、もう中国と戦争どろではない。日本はアメリカと交渉をしますが、アメリカの国務長官ハルは、中国から兵を引き上げ、ドイツ、イタリアとの同盟を破棄し、中国を満州事変以前の状態に戻すなと無理な提案をしてきた。日米両国は4月から日米交渉を続けていたが、10月首相に就任した東条英機はついに日本海軍によるハワイのオアフ島真珠湾攻撃、及び陸軍によるイギリス領マレー半島上陸を決意し、12月1日の御前会議で開戦を決定していた。

 アメリカは満州事変など中国大陸への侵出を進めつつあった日本軍の動きを警戒して、1にアメリカ艦隊の主力をハワイの真珠湾(パールハーバー)へ移動させていた。太平洋のほぼ中央に位置し日本に対する示威的・牽制的軍事基地として重要な位置を占めていた。戦力的に不利な日本海軍が勝利を占めるには敵の不意を突く必要があり、緒戦の勝利によって早期の講和に持ち込みたいという考えで、攻撃は宣戦布告直前に行うことが予定された。

  実際には攻撃開始より1時間後に宣戦布告が届いたため、アメリカ側はこれを奇襲と受け取った。アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトは日本のだまし討ちであるとして非難し、国民に「パールハーバーを忘れるな」と呼びかけ、戦争意欲を高めた。なお真珠湾攻撃の日付はハワイ時間では12月7日にあたっている。
 日本の宣戦布告を受け、アメリカもただちに宣戦布告、日米間の太平洋戦争(当時の日本は大東亜戦争と言った)が開始されただけでなく、12月11日はドイツ・イタリアがアメリカに宣戦布告、アメリカも両国に宣戦したので、これによってアメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦することになった

 

作戦の立案
 真珠湾攻撃を提唱したのが山本五十六連合艦隊司令長官で、当時の日本海軍の基本戦術は本土近海で敵艦隊を迎え撃つという守りの戦術であった。そのため軍部らも反対の声が出てきたが、山本五十六は「真珠湾攻撃は私の信念」とまで言って真珠湾攻撃を実行に移した。1941年(昭和16年)1月14日頃、連合艦隊司令長官山本五十六大将から第十一航空艦隊参謀長の大西瀧治郎に手紙があり、1月26日、27日頃長門を訪ねた大西は山本からハワイ奇襲作戦の立案を依頼された。手紙は「国際情勢の推移如何によっては、あるいは日米開戦の已むなきに至るかもしれない。日米が干戈をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。それには開戦劈頭、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す。目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいたい。」という要旨であった。
 鹿屋司令部に戻った大西は、幕僚である前田孝成に詳細を伏せて真珠湾での雷撃攻撃について相談したが、真珠湾は浅いため技術的に不可能という回答だった。2月初旬、今度は第1航空戦隊参謀源田実を呼びつけ、中旬に訪れた源田に大西は同様の質問をした。源田からは、雷撃は専門ではないから分かりかねるが、研究があれば困難でも不可能ではないという回答があった。大西は源田に作戦計画案を早急に作るように依頼する。源田は2週間ほどで仕上げて提出、それに大西が手を加えて作案し、3月初旬頃、山本に提出した。源田案は、出発基地を父島か厚岸として、空母を200海里まで近づけて往復攻撃を行う二案であった。一つ目は雷撃可能な時、艦攻は全力雷撃を行い、艦爆で共同攻撃する案、二つ目は雷撃不可能な時、艦攻を降ろして全て艦爆にする案である。戦闘機は制空と飛行機撃破に充当し、使用母艦は第一航空戦隊、第二航空戦隊の全力と第四航空戦隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を使う。航路は機密保持のために北方から進攻する。急降下爆撃で攻撃し、主目標を空母、副目標を戦艦とした。水平爆撃は当時命中率が悪く大量の艦攻が必要になるため計算に入れなかっ。これに対して大西は、戦艦には艦攻の水平爆撃を行うこと、出発を単冠湾として作案した。9月頃、源田が大西から参考のために手渡されたものには、雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず、小爆弾を多数搭載して補助艦艇に攻撃を加え、戦艦に致命傷がなくても行動できなくすることになっていたという。 山本は真珠湾の水深の関係から雷撃ができなければ所期効果を期待しえないので空襲作戦は断念するつもりであった。しかし、不可能ではないと判断されたため、戦艦に対して水平爆撃と雷撃を併用する案になった。
 攻撃順序の主目的は戦艦・空母、副目的は航空基地・敵飛行機となった。その意図は、心理的効果と、敵艦隊が西太平洋を進攻する機動能力を奪うためには、戦力を二分して敵艦隊と工廠、油槽等施設を攻撃していずれも不徹底に終わるより水上艦艇に集中して確実徹底を期すべきと考えたためである。水上艦艇を徹底的に叩けば、大西洋艦隊を割いて太平洋艦隊を増強しても相当長期間その進攻能力を回復しえないと判断したため、工廠や油槽などの後方施設の戦略的価値の重要性は認めながらも、兵力の関係から見逃さざるを得なかった。山本はハワイ空襲と関連し、ハワイにはアメリカ海軍の半数が存在したため捕虜にすれば回復が困難と見てハワイ上陸も相談していた。
 実施部隊に作戦が伝えられると、第一航空艦隊では、先任参謀大石保と航空参謀源田実にハワイ奇襲作戦実行計画の完成を命じた。企図秘匿のために航海条件の悪い北方航路を選んだため、予定通り洋上燃料補給ができない場合を考慮して艦艇の航続力が問題となったが、燃料問題は一航艦長官南雲忠一の責任で軍務局の暗黙の了解を得て、燃料庫以外にもドラム缶で、法規上許されない各艦の強度が許すかぎりの燃料を搭載することで解決した。
 使用航空母艦は当初第一、第二航空戦隊の4隻を胸算していたが、9月末「瑞鶴」の就役で第五航空戦隊は「翔鶴」、「瑞鶴」の新鋭大型空母2隻となり、連合艦隊ではハワイ空襲の成功を確実にすること、山本の抱く作戦思想に基づく作戦目的をより十分に達成することから、搭乗員や器材の準備が間に合うなら五航戦も使用したいと考えた。山本はかねがね日露戦争劈頭の旅順港外の敵艦隊の夜襲失敗の一因は兵力不足によると述懐していた。しかし、軍令部は4隻案で考えていた。1941年10月9日-13日に連合艦隊司令部で研究会が行われる。軍令部航空部員三代辰吉はこの研究会出席のため出張してきたが、研究会に間に合わず終了後来艦し、6隻使用は到底望みがたい旨を伝えて東京に帰った。
 軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに味方正規空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果に終わり、軍令部の危惧を裏付ける結果となった。
 第十一航空艦隊参謀長大西瀧治郎と第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介は、蘭印(オランダ領東インド)の石油資源獲得のために、アメリカの植民地のフィリピン方面に集中するべきとしてハワイ奇襲作戦に反対したが、山本は両者に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話して説得した。
 10月19日連合艦隊参謀黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長伊藤整一中将に言い、これに驚いた軍令部総長永野修身大将は作戦実施を認めた。
 また、草鹿龍之介によれば、山本は自らを連合艦隊司令長官から機動部隊司令長官に格下げして陣頭指揮に当たり、連合艦隊司令長官には米内光政を据えると言う腹案も抱いていたようだという。
 真珠湾航空奇襲の訓練は鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に、鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、七尾島、志布志湾の各地で行われた。従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていたが、第一航空艦隊の航空訓練は機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた。また、この作戦のため空中指揮官淵田美津雄と雷撃専門家村田重治が指名されて一航艦に異動した。海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とするため、空母の集中配備が採用された。敵から発見された際、一挙に攻撃を受ける弱点があるが、集中配備で防空戦闘機を多く配備できる利点もあった。
 当初、真珠湾の北200海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ300海里圏外に脱出する案だったが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田から反対があり、フォード北230海里で一次攻撃、南下して200海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された。
 技術的な課題は、第1に水深12mという浅瀬でどうやって魚雷攻撃を行うか、第2に戦艦の装甲をどうやって貫通させるか、の2点であった。
 第1の点に対しては、タラント空襲を参考に着水時の走行安定性を高めた九一式魚雷を航空技術廠が改良し、ジャイロを用いて空中姿勢を安定させて沈度を抑えることに成功したことと、鴨池航空隊による超低空飛行訓練により、最低60mの水深が必要だったものを10m以下に引き下げることに成功、実際の攻撃では投下された魚雷40本のうち、射点沈下が認められたのは1本のみであった。第2の点に対しては、戦艦の装甲を貫徹するために水平爆撃で攻撃機の高度により運動量をまかなう実験が鹿屋、笠之原で実施され、模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール製、ドイツのクルップ製、日本の日立製作所安来工場(現;日立金属安来工場)製の高張力鋼である安来鋼などの鋼板を用い、貫通するための運動量の計測などが行われた。
 鹿児島県での訓練を終えた艦隊は大分県の佐伯湾に集結し、最終演習の後、11月18日に択捉島の単冠湾へと向かった。ワイキキやダウンタウンなどの市街地や非戦闘地域に対する攻撃、非武装の民間人に対する攻撃を禁止する旨が厳重に言い渡されていた。
 また、日本海軍は攻撃に備えて真珠湾を調査するため、スパイとして吉川猛夫をハワイの領事館員として送り込んだ。吉川は日系人を利用し真珠湾のアメリカ軍艦艇の動向を日々調査し、真珠湾のアメリカ軍兵力の詳報を作り上げた。他にも軍令部第3部の鈴木英らが、仏印進駐による経済制裁によりアメリカ行き商船の最終便となった大洋丸に乗り込み、攻撃部隊の予定進路に沿って航海し気象条件やアメリカ軍の警戒態勢などの情報を収集している。鈴木らは1941年11月1日にハワイに到着すると、安全を期して直接吉川と接触は避け、日本総領事の 喜多長雄から吉川の調査結果を受け取った。鈴木は無事に日本に情報を持ち帰り、源田らに真珠湾の最新情報を伝えることが出来た。吉川は攻撃直前まで真珠湾の艦艇の動向を調べ、その情報は暗号電文で総領事館から海軍に伝えられ、第一航空艦隊に伝えられた。

 

奇襲とその結果
 日本海軍の連合艦隊機動部隊は赤城以下6隻の空母から、第一陣が戦闘機(ゼロ戦)43機、爆撃機51機、魚雷攻撃機89機で行われ、真珠湾などに停泊中のアメリカ海軍の艦船を破壊し、約2000人の死者をさした。第2次攻撃隊も発進したが、敵の反撃が想定されたため引き返し、機動部隊の南雲忠一中将の指揮でそれ以上の深追いをせず攻撃を切り上げた。アメリカの空母エンタープライズは外洋におり、戦闘には間に合わなかったが生き残った。
 この奇襲成功は国民の愁眉を開いたとして歓迎され、日本中が勝利に沸いた。さらに翌42年春まで、香港、マレー、マニラ、シンガポール占領という勝利が続き、戦争の行方は楽観視されるようになったが、東南アジアから太平洋におよぶ広大な戦線を維持するための兵力や石油を始めとする物資の補給に次第に苦しむこととなる。

真珠湾攻撃
 1941年(昭和16年)12月8日未明、山本五十六司令長官率いる日本海軍連合艦隊は、ハワイのオアフ島にある真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊を攻撃した。

 この日本の真珠湾攻撃によって太平洋戦争は始まったが、アメリカ側への宣戦布告もなく攻撃したことで、日本軍による真珠湾攻撃を「卑怯な奇襲、騙し打ち」とフランクリン=ルーズベルト大統領が主張したことによって、アメリカの世論は一気に日本への戦争賛美となり、日本を叩き潰すことが正義とまで考えられるようになった。
 しかし我が国は真珠湾をまるで騙し討ちのように奇襲する意図は全くなかった。日本では事前の会議でアメリカ側への宣戦布告は攻撃の30分以上前に行う予定だった。開戦の通告を行ってから連合艦隊が真珠湾攻撃を開始することで周到な準備を重ね、開戦の30分前にはアメリカのハル国務長官に対して国交断絶の通告を渡す予定であった。しかし実際にハル国務長官に手渡すことが出来たのは、真珠湾攻撃から遅れること約1時間の午後2時20分だった。なぜ予定通りに渡せなかったのか、その経緯を追ってみる。
 それなのにワシントンの日本大使館の大失態でアメリカへの伝達が遅れ、アメリカ国民に「日本軍が奇襲攻撃を仕掛けた」と誤解されてしまったのである。
 開戦前日の午前中、外務省から野村吉三郎駐米大使に「これから重大な外交文書を送るから準備しておくように」という予告電報を送った。当時は開戦前夜の雰囲気がいやがうえにも高まっていたので、万全の態勢を整えて電報の到達を待つのが常識のはずだった。

 

大使館員の怠慢
 ところが当日夜、日本大使館の職員が同僚の寺崎英成の送別会を行うために総出で引き上げてしまい、夜遅くまで送別会で飲み、食べ、大使使館員は楽しい一晩を過ごしだった。しかし、その「楽しい一晩」は、将来の日本に大きな打撃をもたらしてしまった。翌朝大使館員が出勤したとき、ドアに紙の束があった。その紙の束こそが、前日のうちに解読しておかなければいけない「宣戦布告」の文章だった。大使館員は前夜の飲み会で酔っていたので、とうていまともな作業が出来るはずもなかった。国交断絶の通告たる「対米覚書」の解読が遅れてしまったのである。これはまさに大使館員の怠慢と言える。

 電報は秘密漏洩を懸念してタイピストを使ってはいけないと指示があった。当時はワープロの様な便利なものはなく、修正や削除する場合は最初からやり直さなければならない。そのため時間がかり、午後1時には間に合わない状態だった。
 電報は日米交渉打ち切り、宣戦布告の内容でしたが、長文のため14に分割されていて、その中の最後の14部が宣戦布告の内容であったが、長文にしたのは宣戦布告の暗号をアメリカに解読されないためであった。またこの電報は「大至急」ではなく「至急」となっていた。
 この状況下で大使館では暗号を解読し翻訳からタイプで清書し指示された時間に渡すのは難しいとも考えられる。それは陸軍参謀本部と外務省が奇襲を成功させるため、故意に遅れるようにした可能性も考えられる。この電報の到着が大幅に遅れたことがが奇襲作戦を成功させる日本側の意図があったのではないかとの説もある。
 対米覚書は現地時間の12月7日午後1時にアメリカに手渡さなければならなかったが、解読に手間取った大使館側はアメリカに対して独断で「約束の時間をもう1時間延ばしてほしい」と頼み込んだ。
 しかし大使館の身勝手な都合が遥か遠くで攻撃の準備を進めていた連合艦隊に即座に伝わるはずはない。結局、大使館側が対米覚書をハル国務長官に届けたのは同日の午後2時20分で、真珠湾攻撃が終わってから約1時間も経ってからのことであった。
 このようにして日本大使館員の常識外れの怠慢によって、真珠湾攻撃は我が国による「奇襲」とみなされ、ルーズベルト大統領が「奇襲攻撃後に断交通知を持ってきた日本ほど卑劣な国はない」と喧伝し、日本の大失態を最大限に利用する流れをつくったのである。
 大使館員の怠慢によって我が国が奇襲で真珠湾攻撃を行った誤解は、戦後に開かれた極東国際軍事裁判(東京裁判)において「日本が真珠湾攻撃を事前に通告する意思があった」と認められたが、こうした「日本に有利な事実」は我が国や世界の常識とならずに、ルーズベルト大統領が喧伝した「リメンバー・パールハーバー」の精神は、今もアメリカの間で広がりを見せている。

 これだけの弁解の余地もない大失態をやらかした大使館員たちは、彼らは自らの怠慢を「タイピングに手間取って遅れた」と言い訳したのみならず、その後も口を堅く閉ざして一切の責任を取ることなく戦後に出世を重ね、戦後外務省の最高ポストである事務次官になったものもいれば、昭和天皇の側近として仕えた者までいる。
 国交断絶の通告を手渡すことは、それこそ国家の命運がかかった重要な手続きである。解読が遅れそうであれば清書せずに手渡したり、最悪の場合は要旨を口頭で伝えて文書を後回しにしたりする、電話をするなどやり方があったはずである。
 重要な局面で信じられないような失態を重ね続けた当時の大使館員の責任問題をこのまま風化させることが許されるのだろうか。
 昭和16年12月8日に我が国がハワイの真珠湾を攻撃したことによって、日米はついに開戦を迎えることになった。その際、日本軍による「卑怯な騙し討ち」とみなされたことでルーズベルト大統領は「リメンバー・パールハーバー」と唱え、それまで反戦気分の強かったアメリカ国民の日本に対する敵愾心を一気に高め、国家を挙げて対日参戦のムードをつくり上げることに成功した。


ルーズベルト大統領
 ところが我が国が真珠湾攻撃を行うことをルーズベルト大統領やアメリカ政府首脳が事前にすべて察知しており、我が国が「先制攻撃」を仕掛けてくるのを待ち構えていたという説がある。アメリカ側は日本の秘密文書の暗号をことごとく解読しており、怠慢の日本大使館が慌てて準備していた国交断絶の通告たる「対米覚書」も解読のうえ、ルーズベルト大統領に事前に手渡されていたのである。もしルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を事前に知っていたのなら、かけがえのない自国民や兵隊らを守るために最大限の努力をするのが当然のはずだが、彼がとった行動は疑問符が付くようなことばかりだった。
 真珠湾攻撃の以前、真珠湾を母港とする2隻の空母が本国の命令で新鋭艦を伴って出港していた。この結果、真珠湾に残った軍艦はそのほとんどが第一次世界大戦以来の旧型艦しかなく、しかも空母が存在しないという状態となっていた。
 またアメリカは暗号の解読によって我が国の開戦決定と真珠湾攻撃の予定日を事前に知りながら、極めて重要なはずのその情報をハワイに知らせるのを何故か遅らせた。現地の太平洋艦隊司令官が実際に情報を受け取ったのは、真珠湾攻撃が終わってから6時間以上も経ってからだった。
 真珠湾が攻撃された昭和16年12月7日(現地時間)は日曜日だったため、何も知らされていない現地の司令官は当日にゴルフを楽しむ予定だった。この事実は何を意味しているのだろうか。
 真珠湾攻撃が行われた前後に、アメリカの最高責任者であるルーズベルト大統領は何をしていたのか。暗号の解読によって事前に攻撃されるのが分かっている以上、ルーズベルト大統領をはじめ政府首脳は日本軍による攻撃の回避や、アメリカからの先制攻撃の可能性を探るなど、それこそホワイトハウスに缶詰状態となって最大限の努力を重ねるのが当然のはずである。しかし実際に取った行動はホワイトハウスに家族を招いての食事会であった。その際、ルーズベルト大統領は「戦争は明日始まる」と家族に満足そうに言ったとされてる。

なぜ嬉しそうだったのか、それは「日本を挑発し続けることで先制攻撃させて、その結果アメリカが第二次世界大戦に堂々と参戦できる」という目標が達成されようとしていたからである。その悲願は大西洋を越えたイギリスの首相であるチャーチルにとっても同じであった。
 当時のイギリスは、勢いに乗るドイツの攻撃によって、本土を空爆されるなど追いつめられていた。この事態を打開するには、ヨーロッパ戦線にアメリカを参戦させる以外にないとチャーチル首相は覚悟を決めていた。当時ルーズベルトはドイツと開戦を主張していたが、反戦世論があり実行できずにいた。しかし真珠湾攻撃は格好の開戦理由になったのである。チャーチル首相はルーズベルト大統領と連携して日本にアメリカを先制攻撃させるよう仕向けたのである。
 そして我が国が真珠湾攻撃を行うと、アメリカの参戦を心待ちにしていたチャーチルは、日本軍の真珠湾攻撃の知らせを聞いて「これでこれで戦争に勝てる」と確信し、その夜はぐっすりと眠れたと『第二次世界大戦回顧録』に書いている。
 ルーズベルト大統領は、アメリカをヨーロッパ戦線に参加させるために日本を追い込み先制攻撃させるように罠を仕掛けた。

 しかしそれは同時に真珠湾攻撃よって戦死した、ハワイの太平洋艦隊の兵士たち数千人を「生贄」にしたことも意味していた。ルーズベルト大統領の政敵で、当時は野党だった共和党のリーダーを務めたハミルトン=フィッシュは、後に出版した回顧録の中で「私たちはルーズベルトが欺いて戦争に導いたなどとは疑いもしなかった」と述べている。
 先制攻撃させるよう我が国を過剰に追いつめただけでなく、真珠湾攻撃の際に自国の兵士数千人を「見殺し」にしたルーズベルト大統領の当時の行動に対して、私たち日本人の多くが卑劣であると強く感じるのは無理もない。

 しかし大統領の行動を卑劣と感じるということは、裏を返せば我々が第二次世界大戦当時から「全く成長していない」ことを示している。ルーズベルト大統領がアメリカの大統領である以上、彼がアメリカの国益を第一に考え、日本がその障害になるのであれば取り除こうとするのはむしろ当然だからである。アメリカ側から見れば、彼の一連の行動は当時のアメリカは少しも悪くない。
 昭和8年にアメリカ大統領に就任したルーズベルトは、世界恐慌がもたらした不況にあえぐアメリカ経済を立て直すためにニューディール政策を始めましたが次第に行きづまり、失業者が増加するなど経済的に疲弊していた。
 こうした事態を打開するためには、イギリスの要請を受けて第二次世界大戦に参戦し、戦争がもたらす様々な特需によって経済を発展させるしかないとルーズベルトは考えたが、当時のアメリカは伝統的に孤立主義で、他国の戦争に介入することを嫌っていた。
 反戦ムードに満ちた国内の雰囲気を察したルーズベルトは、自らの本音を封印して「攻撃を受けた場合を除いて絶対に戦争はしない」と公約し、昭和15年に三選を果たすと、イギリスなどと連携して日本を挑発し、先制攻撃をさせることでアメリカがヨーロッパ戦線に参戦できるように仕向けました。
 ありとあらゆる工作や謀略を行ったルーズベルトは、最終的にハル・ノートを突き付け日本に真珠湾攻撃をさせるとともに、現地の司令官だけに情報を流さなかったりしたしてわざと日本を勝たせ、空母や最新鋭の軍艦を事前に真珠湾から脱出させて実際の被害を最小限に食い止めた。
 こうしてアメリカの第二次世界大戦への参戦の大義名分をつくり出し、ルーズベルトは、日本大使館の怠慢で国交断絶の通告が遅れたことも最大限に活用して「リメンバー・パールハーバー」の扇動を完成させ、彼の予想どおりに戦争特需が起きてアメリカ経済は劇的な回復を遂げたのである。
 これらの歴史の流れを見れば、ルーズベルト大統領が手段を選ばずにアメリカの国益だけを追求したからこそ経済復興を成し遂げることができ、その意味においてルーズベルトは「アメリカの最高責任者」としての役割を果たしたと言える。
 ただし、アメリカのもう一つの悲願であった「東アジアにアメリカの権益を構築する」ことは、ルーズベルトが昭和20年に急死した後を継いだトルーマン大統領も果たすことができず、それどころかソ連や中華人民共和国といった共産主義国家を戦後に急成長させるとになった。
 これはルーズベルトの周囲にソ連のスパイが多数存在し、それ以外にも日本との戦争が長期間にわたり、約10万人という予想外の多数の戦死者を出したことが、戦後のルーズベルトの評価を下げることになった。
 ルーズベルト大統領に関する様々な評価を見れば、国益を追求し続けることの難しさや、謀略を仕掛けた一方で自分自身が謀略に引っかかっていたことなど、人間の生き様の複雑さや困難さを思い知らさる。
 ここまでルーズベルト大統領のアメリカに対する功績などを振り返りましたが、その一方で当時の我が国にルーズベルトの工作や謀略などに太刀打ちできるだけの人材が存在しなかったことが、当初は望んでもいなかった日米開戦を行わざるを得なかったという歴史の流れにつながったといえる。
 私たち日本国民がルーズベルトの一連の手法を「卑劣」と断じることは無理もないが、それならそれで当時の日本政府の首脳がなぜルーズベルトに勝てなかったのかを「反省」する必要も同時にあるのではないか。戦いに敗れた相手を罵るだけでは、私たちは永遠にその相手には勝てない。もし将来にリベンジの機会があった場合、絶対に負けないようにするには私たちに何が足りないのか。あるいはどの部分を「改良」すれば勝てるのかを考察しなけれはならない。
 二度と負けられない「次」のためにあらん限りの対策を考え、それを実行することこそが、我が国の輝かしい未来を信じて潔く散っていった無数の戦死者や犠牲者、すなわち「英霊」の皆様に報いる道である。