戦局の暗転

 大東亜戦争の緒戦における有利な段階で諸外国との講和の機会を逸した我が国は、ミッドウェー海戦の大敗北をきっかけとして次第に戦局が暗転するようになりました。昭和18年2月には前年に上陸した西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島から多くの犠牲者を出しながら撤退せざるを得なくなりました。
 また同年5月には、北太平洋のアメリカ領アラスカ州西のアリューシャン列島の先にあるアッツ島にて日本軍の守備隊が全滅するという、いわゆる玉砕の悲劇が初めて起きてしまいました。
 なお、アッツ島での玉砕直後に悲報を耳にされた昭和天皇は「最後までよく戦った」という惜別の電報を、二度と聞くことのできない部隊に対して発するように命じられたと伝えられています。
 またアッツ島の玉砕を受け、すぐそばにあったキスカ島の約5,000人の部隊も全滅の危機に瀕しましたが、樋口季一郎将軍の指揮によって全員の帰還を達成するという奇跡もありました。
 ただしアメリカ軍は一連のアリューシャン列島の戦いにおいてほとんど無傷の零戦を手に入れており、零戦を徹底的に研究して新鋭機器の開発と大量生産に没頭したアメリカによって零戦の優位性は失われ、やがて我が国は制空権すら奪われるようになっていったのです。
大東亜戦争において我が国が劣勢に転じつつあった昭和18年、ビルマ(ミャンマー)やフィリピンが日本軍の支持のもとで独立を宣言し、インドでは自由インド仮政府が樹立されるなど、それまでの欧米列強による植民地支配から脱しようとする動きがアジアのあちらこちらで見られるようになりました。
 昭和18年11月5日、東条英機首相は大東亜新秩序の建設の方針を協議するため、アジア各地域の代表を東京に集め、世界史上初めて有色人種のみで行われた首脳会議でもあった大東亜会議を開催しました。大東亜会議には東条首相の他に南京国民政府の汪兆銘(おうちょうめい)行政院長、満州国国務総理の張景恵(ちょうけいけい)、タイ首相代理のワン=ワイタヤコーン、フィリピン大統領のラウレル、ビルマ首相のバー・モウ、またオブザーバーとして自由インド仮政府代表のチャンドラ・ボースが出席しました。
 大東亜会議において各国は「お互いを尊重し、それぞれの民族が歴史や文化、あるいは伝統を活かしながら文化交流を深め、経済関係を強化することで相互に発展し、世界各国とも進んで仲良くすべきである」という内容の大東亜共同宣言を採択しました。なお、戦後の昭和35年の第15回国連会議で植民地独立宣言が決議されていますが、その内容は大東亜共同宣言とほぼ同じでした。
 ところで、戦局の悪化につれて中国大陸では日本軍が中国共産党のゲリラ戦に悩まされた際、我が国側から「三光作戦」と呼ばれた虐殺を行ったり、また中国戦線において毒ガスを使用したり、あるいは捕虜の兵士を細菌の生体実験に利用したりしたという記載が歴史教科書に見られますが、これらはいずれも根拠もない捏造であることが今では明らかになっています。 
ミッドウェー海戦の敗北やガダルカナル島からの撤退など、大東亜戦争において守勢に立たされた我が国は、昭和18年9月に敵の第一線から遠く離れた後方に本土防衛の確保や戦争継続のために不可欠である圏域を設定しようとしました。これを絶対国防圏といいます。
我が国は絶対国防圏として千島、小笠原、マリアナ、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏域と定め、この外郭線において敵の侵攻を食い止めながら航空戦力を中心とした反撃戦力を整備し、来襲する敵に対する攻勢を強めようとしました。
その一方で、日本軍はチャンドラ・ボースの自由インド仮政府を支援するためにビルマ(ミャンマー)からインド北東部の要衝であったインパールを攻略しようとして作戦をたて、昭和19年3月に行動を開始しました。これをインパール作戦と言います。
絶対国防圏の基本戦略外でもあったインパール作戦において、日本陸軍は倍近くの兵数を擁したイギリス軍を相手に健闘しましたが、最終的には多数の犠牲者を出した末に同年6月に退却せざるを得ませんでした。
ただし、日本軍の鬼気迫る奮闘ぶりはイギリス軍を恐怖に陥れ、作戦後のインドにおけるイギリスの支配に重大な影響を与えるとともに、戦後のインドの独立につながっていったとも考えられています。
絶対国防圏を設定して防備を強化しながら反転攻勢の機会を狙っていた我が国でしたが、その作戦準備が不十分なうちにアメリカ軍の圏内への侵入を許すようになっていきました。
昭和19年6月にアメリカ軍がマリアナ諸島のサイパン島に上陸すると、日本軍は同月のマリアナ沖海戦に大敗するなど、圧倒的物量を誇るアメリカ軍の前に次第に追いつめられるようになりました。
そして7月7日には「今ここに米軍に一撃を加え、太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす。勇躍全力を尽くして従容として悠久の大儀に生きるを悦びとすべし。米鬼をもとめて攻勢に前進し、 一人よく十人をたおし、以て全員玉砕せんとす」との最後の命令を発して指揮官が自決しました。
指揮官の命令を受けた我が国の将兵は、同日から8日にかけてアメリカ軍めがけて最後の突撃を敢行して壮絶な玉砕を遂げ、多くの民間人も自決した末に、翌9日にアメリカ軍はサイパン島占領を宣言しました。 
 最後の突撃に参加した日本軍の兵士は約2,000人とされ、いずれも「ワッショイ、ワッショイ」「バンザイ、バンザイ」の叫び声とともに敵の弾丸をものともせずに突進していく「バンザイ攻撃」を行い、アメリカ軍兵士を恐怖のどん底に陥れるとともに多数の死傷者を出させました。
一方、サイパン島のマッピ岬に取り残された民間人がアメリカ軍の目前で岬の絶壁から「天皇陛下、万歳!」と叫びながら次々に身を投げて自決したことから、マッピ岬はやがて「バンザイクリフ」と呼ばれるようになりました。
なお、平成17年6月には天皇・皇后両陛下が戦没者慰霊の目的でバンザイクリフをご訪問され、岸壁まで歩まれた後に多くの方々が身を投げた海に向かわれ、黙祷を捧げられました。
さて、サイパン島の陥落によって日本軍は絶対国防圏が崩壊したのみならず、太平洋全域における制海権並びに制空権をアメリカ軍に奪われました。さらにはサイパン島の基地を飛び立った新開発の長距離重爆撃機B29が日本本土の工業地帯に爆撃を加え始めるなど、我が国は本土の防衛すらままならない状況へと追いつめられていったのです。
大東亜戦争における我が国の戦局が暗転していくなかで、枢軸国として同盟を結んでいたドイツやイタリアにも大きな動きが見られるようになりました。
当初はドイツが優勢だったヨーロッパ戦線は、昭和18年を境にイギリスやアメリカ・ソ連などの連合国が反攻に転じ、同年2月にはドイツが東部戦線で壊滅的な打撃を受けました。
さらに同年7月にイタリアのムッソリーニが国王に解任され、彼が率いたファシスタ党が解散すると、連合軍がイタリア本土に上陸した9月にはイタリア新政府が降伏し、枢軸国の一角が崩れ落ちました。
その後、同年11月にイランのテヘランでアメリカ・イギリス・ソ連の首脳が一堂に会した初めての会談が行われ(テヘラン会談)、ドイツに占領されていた北フランスの上陸作戦が協議されると、これにもとづいて昭和19年4月には連合軍がノルマンディに上陸しました。
昭和18年11月、テヘラン会談の前にアメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相、中華民国国民政府の蒋介石主席が北アフリカのカイロで会談し、対日戦争方針を決定したカイロ宣言を発表しました。
 カイロ宣言の主な内容は第一次世界大戦後に日本が取得した南洋諸島の奪還や満州・台湾などの中国への返還、朝鮮の独立などに向けた同盟諸国の行動継続を呼びかけたものであり、日本の無条件降伏も求めていました。
 カイロ宣言がもたらした影響は、後に昭和20年に発表されたポツダム宣言において「カイロ宣言を履行すべきである」と書かれるなど、決して少なくありませんでした。ただし、カイロ宣言には3首脳の署名がないこともあり、最近では「カイロ宣言は外交的に有効な宣言ではなかった」とする説も主張されています。