戦局の悪化

戦局の悪化
 大東亜戦争の開戦直後は優位に戦いを進めていた日本軍でしたが、講和の機会を得られぬまま、昭和17年のミッドウェー海戦の敗北をきっかけに劣勢に転じました。そして昭和19年7月にサイパン島が陥落すると、我が国の絶対国防圏が崩壊したのみならず、太平洋全域における制海権並びに制空権をアメリカ軍に奪われてしまいました。
サイパンからは新開発の長距離重爆撃機B29の行動範囲に東京が入り、我が国は本土の防衛すらままならない状況となったことから、一連の責任を取って東条英機内閣が総辞職し、昭和19年7月22日に小磯国昭内閣が成立しました。
ところで、昭和19年の夏頃といえば後に激戦となった硫黄島もまだ防衛されておらず、いわゆる本土防衛の準備もなされていませんでしたが、それまでの日本軍の強さを恐れたアメリカ軍は、フィリピン奪回を目論んだマッカーサーの意向もあって、日米の次の戦場をフィリピンとしました。
アメリカの立場からすれば、防衛力が低かった当時の日本本土を早々と攻撃していれば、戦争も比較的簡単に終わらせたはずです。しかし、かつて日本軍に屈辱を味わわされたマッカーサーのいわば「私怨」によってフィリピンは戦場となり、多くの人々が犠牲になってしまったのでした。
 マッカーサーを司令官とするアメリカ軍が昭和19年10月にフィリピンに再上陸すると、日本艦隊も全力で出撃し、激い戦闘となりました。しかし、飛行士の熟練度や航空機の性能に後れを取っていた日本軍は、航空機による特攻隊を編成せざるを得ませんでした。いわゆる神風特攻隊のことです。
 特攻隊の攻撃は「爆弾を載せた飛行機が敵の軍艦めがけて体当たりで突撃する」というものであり、飛行機自体を爆弾ととらえたうえで飛行士もろとも犠牲になりました。この決死の攻撃によって日本軍は多くのアメリカ空母を沈めることができましたが、最終的には翌昭和20年7月にフィリピンを奪還されてしまいました。なお、日米の激戦によってフィリピンの多くが戦場となりましたが、なかでも首都のマニラは日本軍が非武装地帯とする「オープン・シティ」化に失敗したことから多くの被害を出してしまったため、戦後にフィリピンの対日感情が悪化したと伝えられることが多いようですが、マニラの博物館では「米軍の砲撃によって炎上するマニラ市街」と当時の様子が紹介されているとのことです。
要するに、戦争でマニラの市街を破壊したのは日本軍ではなく、一般市民の被害を何とも思わぬアメリカ軍によって甚大(じんだい)な被害を受けたとマニラ市民は考えており、フィリピンの人々にとって対米感情こそが遥かに悪いことを示しているといえるでしょう。
ところで、我が国で初めての神風特攻隊の作戦実行をお聞きになった昭和天皇は「そのようにまでしなければならなかったのか!」と叫ばれ、しばし絶句された後に「しかしよくやった」と仰いました。このお言葉は決して特攻隊を称賛するのではなく、国のために生命を散らした兵士たちの尊い犠牲に対する労りのお気持ちが込められていると考えるべきではないでしょうか。
すでに長距離重爆撃機B29による本土攻撃を開始していたアメリカ軍でしたが、より効果的な爆撃を可能とするため、小笠原諸島の南端近くに位置する硫黄島の占領を決意しました。
硫黄島の重要性を理解していた日本軍は、不充分ながら武装と資材をかき集めて短期間で防衛設備を構築しましたが、昭和20年2月19日に始まった戦闘では、島全体の地表が全部変形するほどの徹底的な艦砲射撃と空爆を受けました。
絶望的な情勢のなか、司令官であった栗林忠道中将の巧みなリーダーシップもあって奇跡的な奮闘を重ねた日本軍でしたが、ついに刀折れ矢尽きて同年3月26日までに守備兵のほとんどが玉砕しました。
戦いに敗れた日本軍ではありましたが、死傷者の全体的な数は圧倒的に優位だったはずのアメリカ軍が上回っており、鬼神に勝る働きを見せる日本軍に対する恐怖をアメリカ軍に嫌でも見せつけることになりました。
ただし、硫黄島を取られたことによってアメリカ軍は日本本土への攻撃をより有利に展開できるようになったことから、この後に行われた悪魔のような本土爆撃が実現してしまったのです。
さて、小磯国昭内閣は戦争を継続しながらも和平工作を何度か試みましたが、陸軍大将とはいえ予備役であった小磯首相自身の指導力不足もあって不調に終わり、我が国と中立条約を結んでいたソ連による和平の仲介も検討しました。
しかし、ソ連は昭和20年2月に、スターリンがアメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相とソ連領クリミア半島のヤルタで協議を行っていました。これをヤルタ会談といいます。
ヤルタ会談において、ルーズベルト大統領は日本の領土である南樺太や千島列島全体、さらには満州など日本が有する数々の権益をソ連に与える見返りとして、中立条約を無視してソ連に対日参戦をさせることをスターリンに約束させました。
ソ連のこうした動きを全く知らずに、中立国だからという理由で社会主義国家に仲介を頼もうという姿勢に、当時の我が国における政略の大きな欠如がうかがえるのではないでしょうか。ちなみにヤルタ会談における密約が、我が国とソ連(ロシア)との「北方領土問題」の原因の一つとなっています。
硫黄島の陥落後に日本本土への空襲が激しさを増すようになっていきましたが、その兆候はすでに同盟国のドイツにも現れていました。昭和20年2月13日に、世界でもっとも素晴らしいバロック建築の多く残っていたドイツのドレスデンに対して、イギリスとアメリカが激しい空襲を加えました。
空襲はイギリス軍が何百機もの航空機で市街地を爆撃した後、アメリカ軍による何百機ものB29爆撃機が約65万個の焼夷弾を落とし、さらに戦闘機が機銃掃討を行うという徹底ぶりであり、約135,000人もの死者を出してしまいました。
やられたのはドイツだけではなく、イタリアのベネディクト会修道院発祥の地であるモンテカッシノの修道院が破壊されるなど、無差別に民間人を殺戮するという明らかな戦時国際法違反の虐殺が繰り広げられました。
そして、米英による無慈悲な爆撃は、ついに我が国に対しても牙をむくようになってしまうのです。
昭和20年3月9日の夜から10日にかけて、アメリカのB29爆撃機が東京に大挙して襲来し、あちらこちらで焼夷弾による爆撃を行いました。いわゆる東京大空襲です。
わずか1回の空襲で約26万戸の家が焼かれ、12万以上の人々が死傷し、100万人を超える人々が焼け出されるという甚大な被害をもたらすなど、世界史上でも例を見ない非戦闘員に対する大虐殺となりました。
空襲後、昭和天皇はご自身で被災地を訪問したいと希望なされ、約1週間後の18日に実現しました。空襲から間もない東京は焼け野原と化しており、焼け死んだ人々の遺体もそのままになっていました。陛下は被災者をお励ましになりながら、東京の変わり果てた姿に胸が痛む思いでいらっしゃいました。
「もはや一刻の猶予もなく、一日も早く戦争を終わらせないといけない」。そうお考えになった昭和天皇は、翌4月の小磯国昭内閣の総辞職後に、次の内閣総理大臣として元侍従長の鈴木貫太郎を指名されました。ご自身との縁が深い鈴木ならば、この戦争を終わらせることができると期待されたのです。
なお、東京大空襲の日を3月10日としたのは、この日が陸軍記念日であったからだという説があります。また、こうしたB29による焼夷弾を使用した集中爆撃は、東京だけでなく大阪など全国の60余りの都市がその被害を受けました。これを本土爆撃といいます。 
硫黄島を手に入れたアメリカ軍は、ついに沖縄を支配すべく攻め込み始めました。沖縄は無論我が国固有の領土であり、どうしても救わねばならない場所でもありました。
日本陸軍は制空権を失った状況の下で懸命な指揮を執り、一般県民の防衛隊も兵力に加えた守備隊が軍民一体となって、上陸したアメリカ軍と激しい戦闘を続けました。
また多数の神風特攻隊が出撃したほか、潜航艇も「人間魚雷」などの特攻隊としてアメリカ艦隊に大きな損害を与え、さらには沖縄を助けるべく戦艦大和も出撃しました。
しかし、戦艦大和は昭和20年4月7日に撃沈され、アメリカ軍の攻撃によって沖縄は一般県民を含む多くの死傷者を出した末、6月22日の攻撃を最後として守備隊が全滅しました。沖縄はアメリカによって占領され、昭和47年まで我が国に返還されなかったのです。
 当時の沖縄では日本軍の敗北が決定的となったこともあって多くの民間人が集団自決を遂げるという悲劇が見られましたが、この集団自決は「日本軍の命令」によって行われたという説が小説家やマスコミを通じて広く流布され、歴史教科書にも載せられました。しかしこれは「自決では年金が出ないので、軍の命令があったことにした」という背景があり、当時の指揮官が敢えて罪をかぶることで多くの住民を救おうとした自己犠牲の精神がその真実だったのです。
 沖縄戦から60年が経った平成17年、当時の指揮官や遺族が小説家やその出版社を相手に名誉毀損で訴えました。これを沖縄集団自決冤罪訴訟といいます。
冤罪訴訟は損害賠償請求を目的とする民事訴訟だったので、「損害賠償金を取れなかった」という点では原告側の敗訴に終わりましたが、その一方で裁判所は「軍による自決命令は証明されていない」と判断しました。歴史の真実を明らかにするという点では実質的に勝訴だったのであり、こうした流れを受けて、最近の教科書からは「軍命による自決」の記載が削除されてい。