戦争の終局

戦争の終局
小磯国昭内閣が昭和20年4月7日に総辞職すると、元侍従長で予備役海軍大将の鈴木貫太郎が新たに内閣を組織しましたが、その直後の同月12日にアメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領が急死しました。
大統領の訃報を耳にした鈴木首相は、当時存在した同盟通信社の記者の質問に答えるかたちで「大統領の死がアメリカ国民に対して意味する大きな損失は私にはよく同感できる。深い哀悼の意をアメリカ国民に向けて送るものである」との談話を発表しました。
我が国の同盟国であったドイツのヒトラーがルーズベルトの死に際して誹謗中傷の言葉を並べ立てたのとは対照的な、敗色濃厚の窮地に立ちながらも品位と礼節を失わなかった、武士道精神の発露たる鈴木首相の言葉は世界中から称賛されました。
なお、ルーズベルトの急死を受けて、副大統領のトルーマンが新たにアメリカ大統領に就任しました。

我が国で鈴木貫太郎内閣が誕生した頃、ヨーロッパ戦線はナチスのヒトラーが昭和20年4月30日に拳銃自殺を遂げた後に翌5月にドイツが連合国に無条件降伏し、我が国はますます孤立することになりました。
鈴木内閣は、表向きは本土決戦などの強硬策を唱えながら、その裏では密かに戦争終結を図ろうと努力していました。しかし、交渉がなかなか進まない間に、アメリカのトルーマン大統領とイギリスのチャーチル首相、そしてソ連のスターリンが7月にドイツのベルリン郊外のポツダムで第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談を行いました。これをポツダム会談といいます。
会談を受けて、7月26日にはアメリカ・イギリス・中華民国の3ヵ国によるポツダム宣言が発表されました。当時はソ連が対日戦に加わっていなかったため、中国を加えることでカムフラージュしようと考えたのです。
なお、鈴木内閣はソ連が参戦の決定をしていたことを見抜けず、ソ連に対して和平の斡旋を要請していました。このあたりにも当時の我が国の情報戦における決定的な敗北、インテリジェンスの欠如が見受けられます。

ポツダム宣言の内容は「軍隊の無条件降伏」こそ示されているものの、宣言文に「私たちの条件は以下のとおりである」という降伏の条件が記載されており、決して「国全体の無条件降伏」ではありませんでしたが、その一方で宣言文には重大な欠陥がありました。天皇の地位に対する保証が明記されていないのです。
いつの時代であろうとも、天皇なくして我が国の将来は有り得ません。このため、我が国ではポツダム宣言を受けいれるかどうか、態度を明確にしないまま連合国の出方をうかがうことにしたのですが、この裏にはアメリカによるとんでもない謀略が隠されていました。
実は、当初の宣言文には「日本が降伏すれば天皇の地位を保証する」と書かれていたのです。駐日大使の経験者で我が国の実情をよく知っていたグルーによって、我が国が宣言に応じやすいようにつくられていたのですが、土壇場でアメリカ大統領のトルーマンが削除しました。
トルーマンが削除した宣言が発表されたことによって、アメリカは宣言以前に決まっていた計画を実行に移しやすくなったのです。その計画こそが、悪名高い「原子爆弾の日本への投下」だったのでした。

我が国がポツダム宣言を受けいれるか判断に迷っていた隙をついて、8月6日には広島、次いで9日には長崎に、アメリカによって原子爆弾が投下されました。原爆によって両都市の機能は完全に破壊され、何十万もの尊い生命が奪われるとともに、原爆による後遺症は私たち日本人を長い間苦しめ続けるなど、その被害は計り知れません。
我が国が降伏寸前であったにもかかわらず、まるで実験を行うかのように原爆を2つも落としたアメリカによる卑劣極まる暴挙は、東京大空襲とともに国際法上でも決して許されることのない、民間人などの非戦闘員を対象とする空前の大虐殺です。
さらには、アメリカの原爆投下に慌てたのか、ソ連がそれまでの日ソ中立条約を一方的に破って8日に我が国に宣戦布告し、9日から満州北部などへの侵攻を開始しました。
このままでは北海道をはじめとする我が国北部の領土がソ連に奪われてしまいます。我が国はまさに絶体絶命の窮地に陥ってしまったのでした。

我が国を取り巻いた数々の非常事態を受けて、8月9日の夜に鈴木貫太郎首相はポツダム宣言を受けいれるかどうかを決めるために、昭和天皇の御前で会議を開くことを決めました。いわゆる御前会議のことです。
会議は鈴木首相の他に阿南惟幾陸軍大臣、東郷茂徳外務大臣など合計7人で行われ、東郷外相は宣言の受諾を、阿南陸相はいわゆる本土決戦も辞さないと徹底抗戦をそれぞれ主張し、いつまで経っても平行線が続きました。
やがて日付も10日に変わり、開始から2時間経ったある時、鈴木首相は立ち上がって昭和天皇に向かい、こう言いました。
「出席者一同がそれぞれ考えを述べましたが、どうしても意見がまとまりません。まことに畏れ多いことながら、ここは陛下の思し召しをおうかがいして、私どもの考えをまとめたいと思います」。
首相による発言をお受けになって、昭和天皇はお言葉を発せられました。
「それなら意見を言おう。私の考えは外務大臣と同じポツダム宣言を受諾するである」。

昭和天皇のお言葉が発せられた瞬間、大臣らの目から涙がこぼれ落ち、やがて号泣に変わりました。陛下も涙を流されながら、お言葉を続けられました。
「念のため言っておく。今の状態で阿南陸相が言うように本土決戦に突入すれば、我が国がどうなるか私は非常に心配である。あるいは日本民族はみんな死んでしまうかもしれない。もしそうなれば、この国を誰が子孫に伝えることができるというのか」。
「祖先から受け継いだ我が国を子孫に伝えることが天皇としての務めであるが、今となっては一人でも多くの日本人に生き残ってもらい、その人々に我が国の未来を任せる以外に、この国を子孫に伝える道はないと思う」。
「それにこのまま戦いを続けることは、世界人類にとっても不幸なことでもある。明治天皇の三国干渉の際のお心持ちを考え、堪えがたく、また忍びがたいことであるが、戦争をやめる決心をした」。


昭和天皇のご聖断によって、我が国は「国体(天皇を中心とする我が国の体制のこと)を護る」という条件を付けることでポツダム宣言を受諾することを連合国側に通知しました。
我が国の条件に対して、連合国側は8月12日に回答を伝えましたが、その内容は「日本政府の地位は国民の自由な意思によって決められ、また天皇の地位や日本政府の統治権は、連合軍最高司令官に従属する」というものでした。
この条件では我が国が連合国の属国になってしまう危険性があり、また何よりも天皇の地位の保証が不完全なままでした。この内容でポツダム宣言を受けいれるべきか、外務側と軍部側で再び意見が対立しましたが、ソ連による我が国侵略の脅威が間近に迫った現状では時間がありませんでした。
そこで、鈴木貫太郎首相は14日に改めて御前会議を開きました。会議では自らの意見を述べる者も、またそれを聞く者も、すべてが泣いていました。陛下も意見をお聞きになりながら何度も涙を流され、しばしば眼鏡を押さえられました。そして、昭和天皇による2度目のご聖断が下りました。

「私の考えは、この前言ったことに変わりはない。相手方の回答に対する不安もあるだろうが、私はそのまま受けいれて良いと思う。また玉砕して国に殉ずる思いもよく分かるが、私自身はいかになろうとも、国民の生命を助けたい」。
ご聖断が下った後、阿南惟幾陸軍大臣は耐え切れずに激しく慟哭しました。昭和天皇はそんな阿南陸相に対して優しく声をおかけになりました。
「阿南、お前の気持ちはよく分かっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」。
昭和天皇によるご聖断は下りましたが、それだけでは大日本帝国憲法(明治憲法)の規定においては何の効力も持たず、内閣による閣議で承認されて初めて成立するものでした。もし閣議の前に阿南陸相が辞任して、後任者の選任を陸軍が拒否すれば、軍部大臣現役武官制によって鈴木貫太郎内閣は崩壊し、ご聖断をなかったことにすることは可能でした。
陸軍の強硬派は戦争継続のために阿南陸相に辞任を迫りましたが、阿南は以下のように一喝しました。
「ご聖断が下った以上はそれに従うだけだ。不服の者あらば自分の屍を越えてゆけ!」

ご聖断が下った後の閣議では、昭和天皇による「終戦の詔書(天皇の意思を表示した公文書のこと)」の内容についても審議されましたが、阿南惟幾陸軍大臣は黙って閣議の決定に従いました。そして鈴木貫太郎首相に別れの挨拶を告げると、すべての責任を取って翌8月15日午前4時40分に、昭和天皇から拝領したワイシャツを身に着けて割腹しました。
想像を絶する痛みや苦しみのなか、阿南陸相は介錯を断り、午前7時10分に絶命しました。以下は血染めの遺書に残された阿南陸相の最期の言葉です。
「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 神州不滅ヲ確信シツツ」
阿南陸相の自害をお知りになった昭和天皇は仰いました。
「阿南には阿南の考えがあったのだ。気の毒な事をした」。

人望が厚かった阿南惟幾陸軍大臣の割腹自害は陸軍全体に大きな衝撃を与え、若干の離反はあったものの、その後の徹底抗戦への動きを封じることができました。阿南陸相は昭和天皇のご聖断を確かなものにするため、自ら命を絶つとともに、責任の重さから介錯を断って、最期を迎えるまで苦しみ抜いたに違いありません。
陸軍の最高責任者として、戦争への責任などが何かと問題視される阿南陸相ですが、昭和天皇のご聖断を受けて陸軍全体をまとめ上げ、最後にはすべての責任を一人で取ったその潔い姿勢は、立派なものであったというべきでしょう。
また、陛下の侍従長として長く仕えたことで、昭和天皇とまさに阿吽の呼吸でご聖断を導き出し、本土決戦による我が国滅亡の危機や、ソ連の参戦による北海道などの侵略をギリギリのタイミングで防ぎきった鈴木貫太郎首相の政治力も素晴らしいものがありました。
国民のことのみを考え、自らを顧みずに下された昭和天皇のご聖断の背景には、こうした「忠臣」による我が国への無私の行動もあったのです。

昭和20年8月15日の正午、昭和天皇がお自ら録音された「終戦の詔書(しょうしょ)」が、ラジオを通じて全国民に伝えられました。これを玉音放送ともいいます。国民は戦争に負けたことを初めて知り、悔し涙を流しました。
「終戦の詔書」は御前会議での陛下のお言葉を基に起草されましたが、その一番重要な部分が実は最後に記されていることを皆さんはご存知でしょうか。
「爾(なんじ)臣民(しんみん)其(そ)レ克(よ)ク朕(ちん)ガ意(い)ヲ体(たい)セヨ」
(訳:我が国民は以上の私の意思に基づいて行動してほしい)
この最後のお言葉があったからこそ、敗戦後に連合国軍が上陸しても、軍人は粛々と武装解除に応じ、国民も黙って現実を受けいれたのです。

終戦にともなって、日本本土及び戦地からの軍人の復員や一般邦人の引揚げが始まりましたが、本土の軍人は比較的早く復員できたものの、中国大陸では国民政府軍と中国共産党軍との内戦や、満州を中心とするソ連の参戦、あるいは戦犯としての裁判などによって帰国が遅れました。
一般邦人の帰国は困難を極め、終戦時にいわゆる外地にあった邦人居留民のうちソ連の支配下に入った満州や、北朝鮮からの引揚げの際には多くの犠牲者が出ました。後に横綱に昇進し、国民栄誉賞を受賞した大鵬関も、幼少の頃に命からがら南樺太から引揚げています。
ソ連軍は我が国がポツダム宣言を受けいれた後も侵攻を重ね、8月18日には千島列島の北東端に位置していた占守島に攻め込みましたが、樋口季一郎司令官の決断によって日本軍が勇敢に戦ったこともあり、北海道をソ連に占領されることは免れることができました。
しかし、ソ連の理不尽さはこの後も止まることを知らず、占守島上陸作戦の後も南樺太を占領したほか、択捉島や国後島なども不法に支配し、我が国固有の領土である北方領土はいまだにロシアから返還されていません。
加えて、ソ連軍が侵攻した満州や北朝鮮・南樺太・千島列島で武装解除された軍人のうち、60万人近くがシベリアなど各地の収容所に送られるという抑留を受け、長期間の過酷な強制労働によって約6万人もの人々が亡くなったという悲劇があったことを、私たちは決して忘れてはならないでしょう。

我が国は大東亜戦争で敗北となりましたが、自衛のために多くの血を流した努力は、別の意味で大きな花を咲かせました。
開戦前まで長い間アジアを抑圧してきた欧米列強の支配が、大東亜戦争をきっかけに急速に崩壊への道を歩んだからです。緒戦の日本軍の勝利によってイギリスやアメリカ、オランダの支配から脱出したアジアの諸民族は、日本軍の占領統治を受ける間に独立心を高めました。
そして、我が国の敗戦後に再び植民地として支配しようとした欧米列強と激しい戦闘を重ねた諸民族は、インドネシアのように現地に残った日本軍将兵の協力もあって次々と独立を果たしたのです。こうした動きはやがてアジアからアフリカ・アメリカ大陸に広がり、多くの国家が独立する流れへとつながっていきました。
大東亜戦争は我が国に敗戦という厳しい結果を課した一方で、戦前からの日本など有色人種の国家にとって悲願でもあった「人種差別の撤廃」という大きな理想を実現したといえるのではないでしょうか。
では、アジアの諸民族は大東亜戦争をどのようにとらえているのでしょうか。タイの元首相であるククリット=プラモートが現地の新聞紙に寄稿した「十二月八日」を紹介します。
「日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている」。
「今日、東南アジアの諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである」。
「十二月八日(大東亜戦争の開戦日)は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない」。