学問と教育

学問と教育の発展
 大正時代には学問も各分野において様々な発展を遂げました。人文科学においては東洋史学の白鳥庫吉(くらきち)や内藤虎次郎(別名湖南)が、日本古代史の研究として津田左右吉(そうきち)らがあらわれた。それ以外には政治学で吉野作造(よしのさくぞう)が民本主義を唱えたほか、法学では美濃部達吉が、民俗学では柳田国男らがあらわれた。美濃部達吉は大正元年に「憲法講話」を刊行して、法人としての国家が統治権の主体であり、天皇は憲法に従って統治権を行使する国家の最高機関として存在するという天皇機関説を唱えました。また、柳田国男は農村に古くから伝わっている民間伝承や風習・祭礼などを通じて我が国の民衆文化を明らかにする民俗学を確立しました。この他、ロシア革命の影響は学問研究の分野にも及び、経済学では河上肇(はじめ)が大正5年に「貧乏物語」を著してマルクス経済学を紹介した。自然科学では、野口英世による黄熱病の研究や本多光太郎のKS磁石鋼の発明、八木秀次(ひでつぐ)による今のテレビ用アンテナの原型となる八木アンテナの発明などの業績があった。研究機関として理化学研究所が大正6年に創立され、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次いで設立された。この当時の教育の普及はめざましく、義務教育の就学率はほぼ100%となったほか、中等・高等教育機関も充実した。例えば中学校の数は大正4年には321校であったのが大正14年には500校を超え、また生徒数も大正9年の約17万人から昭和5年には約34万人と倍増している。 原敬内閣は高等教育機関の充実を進め、旧制高等学校が大幅に増加したほか、大正7年には大学令を公布して、総合大学である官立の帝国大学以外にも単科大学や公立・私立の設置を認めた。

文学と芸術
 大正期の文学は「こゝろ」や「明暗」などの夏目漱石や「阿部一族 」などの森鴎外の影響を受けた若い作家たちが次々と登場した。人間社会の現実をありのままに描く自然主義が、作者自身のありのままを写しとる私小説へ変化し、芥川龍之介や菊池寛らは雑誌「新思潮」を発刊して知性を重視し、人間の心理を鋭くえぐる理知的な文学を発表し新思潮派と呼ばれた。芥川龍之介の作品には「羅生門」「鼻」「杜子春」「河童」などがあり、国語の教科書にも採用されている。菊池寛の代表的な作品には「恩讐の彼方に」「父帰る」などがある。また菊池寛は月刊誌「文藝春秋」を創刊している。
 明治43年に創刊した雑誌の「白樺」では武者小路実篤や志賀直哉、有島武郎らが活躍し、個人主義、人道主義、理想主義を追求する作風を残し白樺派と呼ばれた。武者小路実篤は「その妹」、志賀直哉は「暗夜行路」、有島武郎は「或る女」などの作品がある。また独自の耽美派があらわれ、永井荷風が「腕くらべ」、谷崎潤一郎が「痴人の愛」を著した。さらに横光利一や川端康成らは新しい感覚と表現を用いた新感覚派としてこれに続いた。
 詩では高村光太郎や萩原朔太郎らが口語による自由詩を発表し、短歌では伊藤左千夫門下の斎藤茂吉がアララギ派を確立した。この他、俳句では河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らが従来の五七五調の形にとらわれない新自由律俳句を開拓している。
 第一次世界大戦を経て社会主義運動や労働運動が高まりプロレタリア文学運動が興り、雑誌「種蒔く人」「戦旗」などが創刊され、小林多喜二の「蟹工船」、徳永直の「太陽のない街」などが読まれた。
 大正時代には庶民の大衆文学も流行し、大正14年に大衆雑誌の「キング」が創刊され100万部を突破した。大正11年には「サンデー毎日」が創刊され週刊誌も人気を集め、関東大震災後には「現代日本文学全集」のように一冊一円の円本や岩波文庫などの文庫本が登場した。その他の大衆文学としては、鈴木三重吉が創刊した児童文学雑誌「赤い鳥」、北原白秋らによる童謡運動が始まり、中里介山の「大菩薩峠」や吉川栄治・直木三十五らの時代小説、江戸川乱歩らの探偵小説などが人気を呼んだ。
 演劇では大正13年に小山内薫や土方与志らによって築地小劇場がつくられ、知識人を中心に反響をよんだ。
 音楽では山田耕筰が交響曲の作曲や演奏を行い、大正14年には日本初の交響楽団である日本交響楽協会が設立し、翌年には日本交響楽協会から近衛秀麿が脱退してNHK交響楽団の元である新交響楽団を立ち上げた。声楽家ではオペラ歌手の三浦環が国際的な名声をえた。
 大正から昭和にかけて文部省唱歌や童謡も親しまれ、山田耕筰は「この道」「からたちの花」「赤とんぼ」「ペチカ」「待ちぼうけ」など数多くの作品を残している。また山田耕筰は関西大の学歌も作曲している。
 美術では日本画の横山大観や下村観山、安田靫彦らによって大正3年に日本美術院が再興され、現代も続く院展(日本美術院主催の展覧会)が開催された。横山大観は「生々流転」、下村観山は「白狐(びゃっこ)」などの作品がある。
 洋画では文展から分離した美術団体の二科会の梅原龍三郎、安井曽太郎、春陽会の岸田劉生らが活躍した。岸田劉生は娘の麗子を描いた作品で知られており、二科会が開催する二科展は芸能人がしばしば入選することでも有名である。また彫刻では詩人でもある高村光太郎の「手」が知られている。

大衆文化の広がり
明治から大正にかけて、我が国の人口は大幅に増加しました。明治初年には約3,300万人に過ぎなかったのが、我が国初の国勢調査が行われた大正9年には約5,600万人近くにまで増えたのです。
こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養えるだけの食糧が確保できたことや、目覚ましい工業化に伴う経済発展や国民の生活水準の向上、加えて医学の進歩や内乱のない平和な社会の構築などが挙げられます。
人口の増加は特に工業都市において著しく、大正9年には全国の人口の3割以上が都市に居住しましたが、多くの人口を抱えることになった都市部では鉄筋コンクリート造りの銀行や会社、あるいは百貨店などの西洋建築物が次々と建てられました。
当時の人々の間ではトンカツ・コロッケ・カレーライスといった洋食が流行し、西洋風の応接間が設けられた文化住宅が建てられたほか、電灯や水道・ガスも本格的に普及して国民生活の様式は大きく変化しました。
産業構造の変化によって労働者人口が増加したことで、俸給生活者(サラリーマン)などの一般勤労者が誕生したほか、バスガールや電話交換手など女性が職業婦人として社会に進出               しました。
都市が繁栄した一方で農村の近代化は遅れていましたが、大正時代の頃には近代的な技術の導入によって耕地面積が増加したほか、化学肥料の普及もあって農業は集約化され、米の総収量は江戸時代末期の約二倍にまで増えました。
大戦景気は我が国に大きな経済の繁栄をもたらしましたが、その後も国際交流の活発化もあって、大正から昭和初期にかけて我が国では独自の文化が生まれました。
文化の担い手が一般大衆だったことから当時の文化は大衆文化と呼ばれており、教育の普及もあって活字文化や情報文化も発達しました。
大正時代には新聞や雑誌が発行部数を飛躍的に伸ばしました。大正末期には「大阪朝日新聞」や「大阪毎日新聞」など発行部数が100万部を超える新聞もあったほか、「中央公論」や「改造」などの総合雑誌が知識人層を中心に急速な発展を遂げました。
大正9年にアメリカで定期放送が始まったラジオ放送は、その5年後の大正14年に東京・大阪・名古屋で開始されると翌年には日本放送協会(NHK)が設立され、ニュースやラジオ劇、スポーツ中継の実況など様々な情報や娯楽を楽しめるようになりました。
ラジオのスポーツ中継で特に人気だったのは、大正4年に始まった全国中等学校優勝野球大会(ぜんこくちゅうとうがっこうゆうしょうやきゅうたいかい、現在の全国高等学校野球選手権大会や大正14年に発足した東京六大学野球などでした。また昭和3年には大相撲のラジオ中継も始まりました。
この他、明治中期に我が国に伝わった映画は、当時は活動写真と呼ばれて急速に普及し、優れた国産映画がつくられました。なお、当初は無声の映像を弁士が説明する形式でしたが、昭和初期にはトーキーと呼ばれた有声映画の制作や上映が始まりました。また明治10年にアメリカのエジソンが発明した蓄音機が我が国に普及したことでレコードが大量に売れ、流行歌が全国に広まりました。