社会運動の展開

社会主義運動の背景
    日露戦争(明治37年~明治38年)を終わらせたが、ポーツマス講和会議では戦勝国である日本は賠償金を受け取ることができなかった。そのため、戦争犠牲者の遺族や戦費拡大に伴う増税に苦しんできた人々の不満が高まった。
    その不満は東京・日比谷に人々が集結して内務大臣官邸や講和賛成を唱えていた国民新聞社を焼き討ちすることになる。警官隊や軍隊がこれを阻止しようとしたが群衆との衝突が起きました。これがいわゆる日比谷焼討ち事件である。政府が戒厳令を敷くことで騒擾を沈静化した。このような騒擾を契機に中小企業主や商店主といった旧中間層に加え、都市におけるホワイトカラーなどの新中間層、さらに労働者も加わって「民衆」が誕生した。

 

 続く第一次世界大戦の前後のロシア革命をきっかけに共産主義あるいは社会主義の風潮が急速に高まり様々な社会運動が見られるようになった。

 

 第一次世界大戦は総力戦の戦争で、総力戦とは国民全員を動かし資源や生産力など全てを使う戦争のことである。そのため戦時中から戦後にかけて戦争に参加した国では民主主義を求める声が増え、日本でも、ロシア革命や米騒動などをきっかけにして社会運動が起きるようになった。
 日本では大戦景気による産業の発展は労働者の増加をもたらしたが、それは同時に賃金引き上げなどを要求する労働運動や労働争議を招くことになった。日本でも民主主義を求める動きが活発化し、労働運動や労働争議とむすびついたのである。

 

 

 

友愛会
 このことから大正元年に鈴木文治らが結成した友愛会は、労資協調の立場から全国的な労働組合組織して急速に発展し、大正8年には大日本労働総同盟友愛会と改称して、友愛会は翌9年には日本初のメーデーが実行された。友愛会は第一次世界大戦の後の不況の状況での労働運動を引っ張ってゆき、友愛会は大正10年には日本労働総同盟と改称し、階級闘争主義をめざす全国最大級の労働組合に発展したが、大正14年には議会主義の右派と共産主義の左派とに分裂し、左派は日本労働組合評議会を結成した。
 この時期から農村では小作料の減免を求めて、小作人が小作争議という争いが多く起き、小作料の減免を求め小作争議が頻発した。大正11年には賀川豊彦や杉山元治郎らを中心に小作人組合の全国組織たる日本農民組合が結成されている。

 

 

吉野作造(大正デモクラシー

 大正デモクラシー運動を代表する思想として広く知られるのが、東京帝国大学教授の吉野作造博士(1878年~1933年)が唱えた民本主義である。大正5年、東吉野作造は中央公論誌上で「政治の目的は民衆の幸福にあるので、政策の決定は民衆の意向に従うべきである」とする民本主義を提唱した。吉野が言う民本主義は、単に概念的なデモクラシー思想に止まるものではなく、民衆の政治参加や普通選挙制・政党内閣制の実現を体系的な理論として説いたものである。

 吉野は主権在君の明治憲法の下で立憲主義への筋道を切り開くために、「民本主義」という言葉に実践的なデモクラシーの理念を託して果敢に取り組んだのである。この民衆の政治参加や普通選挙制・政党内閣制の実現を説いた民本主義はいわゆる大正デモクラシーの先駆けになり、吉野作造が黎明会を結成して知識人を中心に大きな影響を与えた。

 デモクラシー思想が吉野作造をはじめ、大山郁夫、北澤新次郎といった学者だけではなく、長谷川如是閑や鳥居素川などのジャーナリストを通じて社会に広まっていった。

 吉野作造の教えを受けた東大の学生たちは東大新人会などを結成し、労働運動への参加し次第に共産主義的な傾向を持つようになった。吉野作造は時代の流れは平和や協調にあると考えたのである。吉野作造は次のように「我々は決して生まれながらにして独立自由ではない。独立自由は将来に於いて達成す可き吾人人類の理想的目標」であり、「我々は修養努力によって独立自由の人格者たろうとすることが重要である」と述べている。
 普通選挙については、選挙権をすべての民衆に与えて政治参加を実現し、それを通して人間の能力を自由に開化させること、この民衆の人格の発展を可能にする社会的機能こそ、近代的立憲政治であると考える。自らが信条とするキリスト教の人格主義的価値をもってたえず民衆に寄り添い、現実にある社会問題をどう解決していくのか、これが吉野の終生のテーマとなった。
 大正6年(1917年)3月14日、吉野作造は財団法人東京帝国大学基督教青年会(東大YMCA)と、その社会事業のため貧民に無料診療所、財団法人賛育会を立ち上げて自ら理事長並びに理事に就任する。 吉野作造の紹介で帝大基督教青年会が外務省に外交問題及び外国事情についての講演依頼をしたり、吉野をはじめ学生達の外交問題への関心の高さを知ることができる。また吉野作造が賛育会で中国人医師の世話を積極的に行っていたことを物語っている。吉野の民衆への温かいまなざしは日本の社会的弱者だけではなく、政治的自由を求める五・四運動、三・一独立運動を展開する中国や朝鮮の民衆にも注がれていた。
 このような革新的な雰囲気は大逆事件以来の「冬の時代」を余儀なくされていた社会主義者の活発な行動をもたらし、大正9年には様々な立場の社会主義者が結集して日本社会主義同盟をつくったが、翌年には禁止された。社会主義の研究は制限され、大正9年には東京帝国大学助教授の森戸辰男はロシアの無政府主義者クロポトキンに関する「クロポトキンの社会思想の研究」という論文を発表するが、危険思想の扱いとして論文は回収され、森戸辰男は休職処分になっている。

日本共産党
 1922年7月15日、堺利彦・山川均・荒畑寒村らを中心に日本共産党が設立され、一般には「第一次日本共産党」と称されている。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいる。コミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながした。
「冬の時代」から立ち直りつつあった社会主義勢力の内部では、ロシア革命の影響もあって共産主義者が大杉栄らの無政府主義者を抑えて影響力を著しく強め、大正11年にはソビエトのコミンテルンの指導によって堺利彦や山川均らが日本共産党を秘密裏に組織した。  
 しかし当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」として違法の存在でしかなく、結成後にコミンテルンから示された「22年テーゼ(日本共産党綱領草案)」には「君主制の廃止」が求められたが、党内における議論すらまとまらない状態であった。「22年テーゼ」には政治面では君主制の廃止、貴族院の廃止、18歳以上のすべての男女の普通選挙権、団結・出版・集会・ストライキの自由、当時の軍隊・警察・憲兵・秘密警察の廃止などが求められており、経済面では8時間労働制の実施、失業保険をふくむ社会保障の充実、最低賃金制の実施、大土地所有の没収と小作地の耕作農民への引き渡し、累進所得税などによる税制の民主化を求められていた。さらに外国にたいするあらゆる干渉の中止、朝鮮・中国・台湾・樺太からの日本軍の完全撤退を求めた。しかしその後、政府が過激な社会主義運動の取り締まりを強め、翌年に一斉検挙を行ったため、日本共産党はいったん解散状態となった。

 日本共産党は「君主制の廃止」や「土地の農民への引きわたし」などを要求したため創設当初から治安警察法などの治安立法により非合法活動という形で行動せざるを得なかった。日本共産党は一斉検挙前に中心人物が中国へ亡命したり、主要幹部が起訴されるなどにより、運動が困難となった。

 ほかの資本主義国では既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され非合法政党となったが、日本では逆に非合法政党である共産党から離脱した労農派などが、合法的な社会民主主義政党を産みだした。
 大正15年には労働者や小作人などの無産階級の意見を代表する労働農民党が合法的に組織され、労働者の政治的主張が議会に反映されるようになった。しかし労働農民党は結成後まもなく共産党系の左派を中心とする内部対立によって分裂し、中間派が日本労農党を、右派が社会民衆党をそれぞれ結成した。その後、1925年には普通選挙法と治安維持法が制定された。

婦人運動

 大正デモクラシーの流れを受けて婦人運動も活発となり、明治44年には平塚らいてうが女流文学者の団体・青鞜社を結成した。青鞜は最初は女性の文芸誌だったが、しだいに女性問題を専門的に扱う雑誌に変わっていった青鞜社が発行した「青鞜」発刊には「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名である。
 青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していった。大正9年には平塚や市川房枝らが新婦人協会を結成し、婦人参政権の要求など女性の地位を高める運動を進めた。
 同年には山川菊枝や伊藤野枝(のえ)らによって赤瀾会(せきらんかい)が結成され、赤瀾会は社会主義の立場から女性運動を行った。その後大正10年には治安警察法第5条が改正されて婦人も政治演説会に参加できるようになったが政党への加入は認められなかった。

部落解放運動
 被差別部落の住民からも自主的な社会的差別の撤廃をめざして部落解放運動が進められ、大正11年には西光万吉(さいこうまんきち)らが中心となって全国水平社が結成された。

男性普通選挙権
 男子普通選挙権を得るための運動は、世界的にデモクラシーが叫ばれたこともあり、友愛会の労働者や学生などを中心にして盛り上がり、加藤友三郎内閣の時に普通選挙制については本格的に取り入れることを検討するようになった。山本権兵衛内閣は普通選挙制を取り入れることに賛成だったが、内閣が出来た直後に起きた関東大震災と虎ノ門事件が原因で、第2次山本権兵衛内閣が総辞職をしてしまったため、普通選挙を取り入れることが出来なかった。虎の門事件とは無政府主義者の難波大助が、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)を虎ノ門近くで狙撃するという出来事である。摂政宮は難を逃れたものの、難波大助は大逆罪で死刑にさせられた。この事件を虎の門事件といい、内閣はこの責任を取るために総辞職をした。第一回普通選挙が実現するのは大正14年(1925年)である。