政党の結成

明治十四年の政変と政党の結成
 明治11年5月、最高実力者の大久保利通が暗殺され、強力な指導者を欠いた政府は、自由民権運動が高まるなかで分裂状態となった。肥前(佐賀)藩出身の参議兼大蔵卿(おおくらきょう)の大隈重信は、イギリスを模範とした議院内閣制に基づき、国会の即時開設と政党内閣の早期実現などをめざした。しかし大隈重信の動きは、議会政治の実現に時間をかけて取り組もうとしていた、右大臣の岩倉具視や参議の伊藤博文とは相反するもので、やがて両派は政府内で激しく対立した。その最中に、政府内で発覚した一つの事件をきっかけに、国会開設に向けて大きく前進することになった。
 北海道に開拓使を設置して以来、政府は多額の事業費を投入したが北海道は赤字が続いていた。このため旧薩摩藩出身で開拓長官の黒田清隆は、開拓の官有物を民間に払い下げようとした。黒田清隆は同じ薩摩出身の政商である五代友厚に安く有利な条件で官有物を払い下げしようとした。しかし明治14年7月にその内容が新聞にすっぱ抜かれ、政府に対する非難の声が民間から挙がった(開拓使官有物払下げ事件)。この事件に乗じて民権派は藩閥政府を攻撃して、国会開設の早期実現を主張したが、この民権派の動きは同じ考えを持つ大隈の策謀があると政府は判断した。そのため政府は同年10月に大隈を罷免し、民権派の動きを抑える意味から、約10年後の明治23年に国会を開設することを公約した。国会開設は勅諭であり、勅諭とは天皇のお言葉を意味するので、政府は後に引けない覚悟を示すとともに、天皇の権威で民権派を納得させようとした(明治十四年の政変)。
 自由民権運動の悲願であった、国会開設に関する具体的な時期が決まったことから、民権派は政党の結成へ向けて動き出した。国会開設の勅諭が出された直後の同年10月、国会期成同盟を母体として、板垣退助が党首となった自由党が結成された。次いで翌15年には、大隈重信を党首とする立憲改進党が結成された。自由党はフランス流の急進的な自由主義をめざし士族や豪農などの支持を得た。立憲改進党はイギリス流の議院内閣制をめざし、都市部の知識人や実業家の支持を集める違いがあった。また政府が国会開設の勅諭を出した際に、天皇が定める欽定憲法によって制定する基本方針を明らかにしたことから、民間においても様々な私擬憲法(しぎ)がつくられた。福沢諭吉系の交詢社(こうじゅんしゃ)による私擬憲法案、植木枝盛(えもり)による東洋大日本国国憲按などの急進的なものが有名である。こうした国会開設への具体的な動きを受けて、自由民権運動はさらに発展を見せようとしたが、この後に大きな挫折を経験することになった。なお民間における政党の結成を受けて、政府側においても、明治15年に福地源一郎らによって立憲帝政党がつくられたが、民権派に対抗できるだけの勢力になりえないまま、翌年に解党している。