平城京まで

天武天皇から平城京へ
 天智天皇(大化の改新の中大兄皇子)が近江宮で没すると、天智天皇の弟の大海人皇子と長男の大友皇子の間で政権争いが起き、これが「壬申の乱」である(672年)。この戦いで大海人皇子が勝利し、大海人皇子は都を飛鳥に戻すと飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。

 現代人の感覚では、親の相続権を子が持つことは何の疑問もないだろうが、この当時の天皇家は「兄から弟」に相続するのが通常だった。そのため天智天皇から天武天皇へ譲渡するのが常識であり、自分の嫡男・大友皇子に皇位を継続させること自体が無理な話であった。しかも大友皇子の母は皇族ではなく豪族の娘であった。

 大海人皇子は自分の娘を人質として天智天皇に差し出し、天皇になる意志がないことを示し、また自分の命が狙われていると直感すると、髪を切り出家を偽装して吉野に隠棲した。大海人皇子は天智天皇の生前は恭順を装い、死後にすざましいほどの牙を剥いた。この権力闘争は宮廷クーデターと呼ぶにふさわしい。

 天智天皇の崩御から大友皇子が自決するまでの半年間、大友皇子の即位に関する儀式がなかったため、大友皇子は歴代天皇とみなされていなかった。しかし明治3年になって初めて大友皇子は弘文天皇として追号された。

 壬申の乱で勝利した天武天皇の皇后は、天智天皇の娘の鵜野讃良(うののさらら)である。鵜野讃良は13歳で大海人皇子(天武天皇)に嫁ぎ、661年に大海人皇子に随行して九州まで行き草壁皇子を産んでいる。さらに壬申の乱で大海人皇子が吉野に隠棲したときも草壁皇子を連れて大海人皇子従った。父の天智天皇よりも夫の大海人皇子の将来性を信じた冷静な行動であるが、夫・大海人皇子を慕っていたと受け止めたい。

 大海人皇子は壬申の乱で勝利すると、飛鳥に凱旋して天武天皇として即位し、天皇中心の中央集権を推し進め、皇后・鵜野讃良(持統天皇)が律令国家としての日本を完成させた。天武天皇は大臣を置かず、自らが先頭に立って政治を仕切った。天武天皇の即位により天皇の権威が高まったが、それは壬申の乱で天皇に対抗する大豪族が、負けた大友皇子側についたからである。その結果、天武天皇の力が圧倒的に強くなった。天武天皇と辛苦を共にした鵜野讃良は正式に皇后となり政治の実務を担当した。

 天武天皇と鵜野讃良(持統天皇)は権威を背景に、崩れかけていた公地公民制を復活させ、豪族の私有地と私有民の廃止を徹底させた。684年には天皇・皇族を中心とする身分秩序である八色の姓(やくさのかばね)を定め、我が国初の通貨(富本銭)を流通させた。外交面では新羅や唐と和睦を結び、唐や新羅と巧みな外交を続けると共に、新しい社会システムや、法律、国史編纂などに取り組み、歴史書・日本書紀の作成を命じた。日本書紀はいわゆる勝者の歴史書であるが、渡来人が加わって編纂された。

 天武天皇は天皇中心の強い国家体制を目指し、本格的な宮都である藤原京の造営を開始した。それまでの都は天皇が変わるたびに移っていたが、藤原京は代々使える都であった。都は皇族の住まいや官舎だけでなく、誰もが住める都市機能を持っていた。事実、次の持統天皇、文武天皇、元明天皇が藤原京で政務についいる。しかし天武天皇はその完成を見られることなく686年に崩御している。

持統天皇
 壬申の乱以降、天皇の血統が一本化され、天武天皇の子孫が絶えた後は、血縁関係にある天智天皇の子孫が平和的に後を継ぐことになった。

 694年に藤原京が完成すると、飛鳥浄御原宮から藤原京へ遷都することになった。藤原京は畝傍山,耳成山,香具山に囲まれた平野で,唐にならって,それまで見られない大きな都が造られた。

 697年、天武天皇の皇后・鵜野讃良(持統天皇)は自分の子の草壁皇子を天皇にしたかった。そのために皇位継承の有力候補だった大津皇子を謀反の疑い殺害するが、肝心の草壁皇子が28歳で死んでしまった。これは持統天皇の誤算であった。

 天武天皇の子で皇位継承候補は他にもいたが、持統天皇は草壁皇子が死去しても、その嫡男である孫の軽皇子に天皇の座を譲りたかった。しかし軽皇子はまだ7歳だったため、自らが皇后から持統天皇(女帝)に即位した。天智天皇,天武天皇に続き,天皇中心の政治をすすめ、孫の文武天皇(もんむ)に譲位すると、703年に崩御され、天皇として初めて火葬にされた。文武天皇が即位したのは壬申の乱が影響していた。内乱が起きないように、持統天皇は皇位継承はそれまでの兄弟間ではなく直系にするべきと力で反対派を抑えたのである。  

 701年、文武天皇の治世に、我が国初の本格的な法令である大宝律令が、天武天皇の子である刑部親王(おさかべしんのう)と藤原鎌足の子である藤原不比等らによって完成した。大宝律令の「律」は刑法、「令」は国家統治のための行政法や民法を意味し、大宝律令によって律令国家の基盤が整ったのである。文武天皇が25歳で崩御すると、文武天皇の母親で、天智天皇の娘である元明天皇が第43代天皇として即位された。