平重盛

  平重盛は平清盛の嫡男で文武両道に優秀れ、武士・貴族両方から信頼され、保元の乱・平治の乱では父・清盛とともに奮戦し、まさに清盛の後継者に相応しい人物だった。平家の棟梁でもある重盛は清盛に対してものを言うことができ、また清盛の横暴を抑えることができる唯一の人物であった。

 平家物語では、清盛はみごとなほどの悪役振りであるが、重盛は好人物に描かれている。しかし人格者・平重盛の生涯の後半はかなり悲惨だった。晩年の平重盛は「早く死んでしまいたい」と嘆くほど精神的に追い詰められていた。なぜ優秀で人望もある平重盛がここまで苦しむ事になったのか。

平重盛の青年期
 平重盛は1138年に生まれ、母の名は不明である。平重盛ほどの人物の母の名がわからないのは、母の身分が低かったからで、当時、父の平清盛はまだ高い身分ではなかったため、その母の身分が低くても不思議ではない。しかしこの母の身分の低さが後に平重盛を苦しめることになる。母は早く亡くなっていたので、母や実家の後押しを受けにくくなっていたのである。
 何はともあれ、平重盛は順風満帆で、文武両道で責任感の強い立派な青年へと成長してゆく。品行方正な好青年・平重盛は18歳の時に保元の乱、21歳の時に平治の乱で大活躍した武勇伝が残されている。保元の乱とは後白河天皇と崇徳上皇の争いで、人間関係が複雑であるが、保元の乱の3年後に起きた平治の乱も複雑な対立関係があった。
 平重盛は保元の乱で、当時随一の荒くれ者で強者と呼ばれていた源為朝(ためとも)と対峙する。この源為朝は巨大な弓を使いこなし、次々と敵兵を射抜いていった。その弓矢の威力は凄まじく、敵兵の鎧と身体を貫通し、後ろの兵にまで矢で殺傷するほどであった。
 平家の兵たちは怪物級の強さを誇る源為朝を突破することができず、次々と犠牲者が出るなか、平清盛は「源為朝を相手にするのは得策ではないとして、源為朝を迂回して攻め立てよ」と冷静な判断を下した。多くの兵がこの清盛の命令に安堵したが、1人だけこの清盛に異を唱える者がいた。その人物こそが平重盛であった。平重盛は破格の強さを誇る源為朝に堂々と戦おうとして立ち向かおうとした。しかし父の清盛に制され、平重盛が源為朝と戦うことはなかった。
  当時、平重盛はまだ18歳であったが、源為朝に果敢に立ち向かう若き平重盛の姿はまさに清盛の嫡男に相応しい姿であった。
 しかし保元の乱の三年後に起きた平治の乱では、関東きっての強者・源義平と重盛は対峙する。源義平は悪源太義平との異名を持つほどで、当時「悪」という字は「異常に強すぎる」という意味だったので、源義平は相当の強さだった。
  源義平は清盛の嫡男である平重盛を見て一騎打ちを申し込むと、両者は橘の木と桜の木の間で激闘を繰り広げた。この場面は平家物語では一番熱い場面になっている。形勢的には平重盛が不利で、最終的には平重盛は撤退するが、撤退は敵をおびき寄せるためで、強者の源義平と互角に戦った。

 さらに平重盛は源義朝(頼朝の父)らの追討を命じられ、「年号は平治、都は平安、我らは平氏」と味方の士気を上げ、自ら源義平と一騎打ちをするなど獅子奮迅の大活躍を見せ、戦局に大きな影響を与えた。平重盛はその功績を認められ、父・清盛の出世とともに着実に出世の道を歩み始めた。


平重盛と藤原成親 
  青年期の平重盛は何かと血気盛んな逸話が多いが、同時に貴族との結びつきも強めていた。特に平重盛が結びつきを強めたのが、後白河上皇の院近臣だった藤原成親(なりちか)で、平重盛は成親の娘の藤原経子を正室とした。
  藤原成親は非常に世渡りが巧みで、おそらくは平重盛と藤原経子の婚姻には、成親の「今はまだ未熟だが、平家は今後大繁栄をする。ここで関係を深めておくのも悪くはない」という思惑があった。
 現に平治の乱では藤原成親は平家と敵対するが、娘が清盛の嫡男・重盛の正室であることから藤原成親は処罰を免れている。この時の藤原成親は「後白河法皇側が勝てばそれでよし。逆に平家側が勝っても平重盛がいるから、どっちが勝っても地位は安泰」と思っていた。
  こうして藤原成親は平重盛を通じて平家の力を利用するが、平家側も貴族である藤原成親を利用する。平清盛は血筋を重んじる朝廷において「武士の朝廷進出」を目指したが、藤原成親は朝廷のしきたりに疎い平家と貴族を結ぶ重要な人物になった。平重盛は平家が朝廷へ進出するための架け橋となり、また藤原成親が後白河上皇の院近臣だったことから、平重盛は後白河上皇とも良好な関係を築き上げることになった。

平重盛の憂鬱
 保元の乱・平治の乱で活躍し、貴族と平家の架け橋となった平重盛は、次期平家の棟梁としての道を順調に歩み続けた。「重盛がいれば今後の平家は安泰」と言われていた。そのような平重盛には1つ重大な問題を抱えていた。それは平清盛が平時子と再婚し、その時子との間に嫡男が生まれたのである。
 平清盛は子沢山で、長男は平重盛、次男は平基盛、そして三男は平宗盛であった。重盛、基盛は前妻の子出会ったが、基盛は死去し、重盛以外は後妻の平時子との子だった。
 平時子の子たちが成長するにつれ、前妻の子・後妻の子の問題が浮上したのである。平家一門の中で「平重盛は長男だが、次期平家の棟梁に相応しいのは後妻の長男である平宗盛」という風潮が少しずつ醸成されてゆく。前妻とは言え身分の低い女性であったため、平重盛はこのことに悩んだ。当時は母の身分が重要だった。
 しかし清盛は平重盛を頼りにして、次期棟梁に決めていたため、表面的には大きな確執も生まれず平和な月日が流れていった。しかし同じ前妻の子だった次男の基盛が若くして亡くなると、次第に平重盛は平家一門の中で孤立するようになった。

平清盛と平重盛
 平清盛と重盛との関係も難しいものだった。1168年に平清盛が隠居して以来、平家の棟梁は平重盛が受け継いたが、平重盛は平清盛のように政治の実権を握ることはなかった。
 何かをするにも、隠居した平清盛が口を出してくるので、平重盛も平清盛に頼ることが多かった。清盛は何かあれば隠居先の福原に重盛を呼びつけて報告させ、重盛よりも清盛の判断が優先された。依然として「平家のトップは清盛」という状態で、平重盛は平家の棟梁でありながら、実質的には隠居した平清盛と後白河上皇との調整役に徹するしかなかった。
 大権力者である平清盛と、つかみどころがない後白河上皇との間の意見調整は相当に難航を極め、平重盛は相当のストレスを抱え込んでいた。
 前妻・後妻のことから、平重盛は平家一門の中で肩身が狭くなっていたが、晩期になると政治的にも2人の権力者の間で板挟みとなり、その肩身はさらに狭くなってしまう。平重盛は文武両道で正義感も強く優秀な人物なだけに、このような平重盛の境遇は不憫であった。

平重盛の苦悩と鹿ケ谷の陰謀
 1177年、平重盛の生涯に大きな影を落とした大事件が起こる。それが鹿ケ谷の陰謀と呼ばれる事件で、これまで利害関係が対立しながらも辛うじて保たれていた後白河上皇と平清盛の関係が壊れ「後白河上皇が近臣と共に打倒平家を企てている」との密告を受けた平清盛が、後白河上皇の近臣らを処罰した。平重盛の心境は非常に複雑である。平重盛は院近臣である藤原成親との関係から、後白河上皇とは主君と忠臣の関係にあった。鹿ケ谷の陰謀によって平清盛と後白河上皇の対立が激化するなか、「父のために孝行したいが、後白河上皇に忠義をも尽くしたい」という相反する感情が平重盛の心を苦しめた。

平重盛の名言
 平清盛は牙をむけた後白河上皇に大激怒。院近臣らを処罰した後、後白河上皇を武力で幽閉した。平清盛と後白河上皇の調整役を担っていた平重盛は、事がここに及び清盛を抑えることができれなくなった。精神的に追い詰められた平重盛は、命がけで涙ながらに次のように平清盛に訴えた。

 「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」。これは平重盛の名言として有名で、「後白河上皇に忠義を尽くそうとすれば父清盛への孝行を果たせず、父への孝行を果たそうとすれば、後白河上皇に忠義を尽くすことができなくなる」ということである。
 その後も平重盛は清盛に「私の進退はここに極まった。どうか後白河上皇に剣を向けるならば、私の首をここで刎ねてからにしてください。ここで首を刎ねられれば、私は後白河上皇への忠義も父への孝行も果たす事ができずに死ぬことができます」と必死に訴える

た。平清盛は普段は冷静で毅然とした重盛が「私を殺してくれ」と涙に訴える様子に相当ショックを受けたのか、後白河上皇と平清盛の対決は辛うじて回避された。

平重盛の死
 後白河上皇と平清盛との直接対決は回避できたが、鹿ケ谷の陰謀事件によって平重盛の凋落は決定的になる。それは鹿ケ谷の陰謀によって後白河上皇の側近だった藤原成親が処罰されたからである。藤原成親は平重盛の正室の父で、重盛の平清盛への必死の懇願により、藤原成親は死刑をまぬがれるが、流罪となり流罪地で謎の死を遂げる。
 平重盛は平清盛の調整役に徹していたとはいえ、平家の棟梁である。棟梁でありながら正室の父を救うことのできなかった平重盛は面目を失い、事実上ほぼ失脚となる。そもそも鹿ケ谷の陰謀事件は、平清盛が「もはや後白河上皇に譲歩する必要はない」という意思表示であり、そうなると調整役だった平重盛の存在意義はなくなり、平重盛は政治的な地位を失ってしまったのである。
 さらに平重盛自身も鹿ケ谷の陰謀事件により、長年気張っていた心が折れ、気力を失っていた。平重盛は隠居生活を始め、政治の世界からは姿を消すことになる。
 1179年、平重盛は熊野詣の後、日を経ずして病にかかった。重盛は「熊野権現がすでに願いをご納受してくださったのだから」といって治療も祈祷もしなかった。清盛は病の治療に宋の名医を差し向けたが、重盛は「異国の医師を都に入れることは国の恥」と断った。そして7月28日に剃髪して、穏やかな最期を迎える準備を始め、その3日後の8月1日に42歳で死去した。

 平清盛と後白河上皇という2大権力者の調整役という重要な仕事が平重盛の寿命を縮めたのである。

 重盛は後白河上皇と平清盛の協力体制を望んでいたが、皮肉にも平重盛の死により両者の関係は崩壊してしまう。鹿ケ谷の陰謀以降、平清盛と後白河上皇の対立が決定的になり、後白河上皇は平重盛が死去すると重盛の所領を全て没収した。これは平家の力を抑えるための露骨な嫌がらせだった。
 これに平清盛はまた大激怒し「鹿ケ谷の陰謀の際は、息子の重盛の必死のお願いで大目に見てやったのに、それが重盛の所領を奪うとは息子を愚弄するものであると後白河上皇を幽閉した。
 平重盛はすでに亡くなっており、もはや平清盛の暴走を抑える人物はいなかった。清盛には多くの息子がいたが、清盛に物を言えるのは平重盛だけだった。暴走した平清盛は遂に後白河上皇に対してクーデターを起こし、後白河上皇を幽閉し、政治の実権を奪ってしまった。これが「治承三年の政変」と呼ばれる事件である。

平重盛まとめ
 平重盛は貴族からも武士からも慕われる非常に優秀な人物だったが、晩年は不遇であった。1197年の平重盛は誠実・温厚な人柄で人望の厚かった重盛の死に京中の人々が嘆きあった。平家のその後にも大きな影響を与えた。暴走気味の平清盛を止める人物がいなくなったからである。

 清盛は重盛の死去後、治承三年の政変や福原遷都など暴挙を行い、飢饉や重税で苦しむ人々は平家への反感を強めた。これが源平合戦へと繋がるが、平重盛が棟梁として活躍していればこのようなことにはなかっただろう。
 また平重盛の死後、平家の棟梁となるべき器の人間は平家にはいなかった。平重盛失脚後、平時子の子である平宗盛が棟梁となるが、統率性や責任感は平重盛とは比べものにならず、1181年の清盛死後、頼れる存在を失った平家は凋落の道を歩み始める。
 平重盛の生涯は平清盛と後白河上皇の2大権力者に振り回され、精神をすり減らし大変不遇な生涯であった。これだけならまだしも、平重盛自身、頭も良く、武勇にも長け、貴族・武士両方からの信頼も厚く、正義感も責任感もある平家の棟梁として完璧すぎる人物だった。このことが平重盛の生涯をより一層悲劇的なものにした。平重盛の屋敷には48の灯篭を置いていたことから「灯篭大臣」とも呼ばれていた。

 平家物語は盛者必衰を説いたが、平家が衰えたのは平重盛の死がきっかけであった。平清盛が亡くなったのは重盛の死後2年後のことである。