竹中半兵衛

 軍師とは「主君に作戦・計略を助言し、最善の判断がくだせるようにする者である」。中国の諸葛孔明になぞらえた印象が大きく、戦術・戦略・兵站の秀才であるが軍の司令官ではない。また軍師は「策謀が狡猾で、かつ無欲で忠実な人物」とされている。

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将というよりは智将で、豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛、黒田官兵衛武田信玄の軍師・山本勘助らが軍師の代表であるが、当時は軍師という言葉はなく、彼らの逸話は江戸時代の講談で広まったことから、ある程度創作された部分がある。

 戦国武将の軍師としては、さらに小早川隆景、片倉景綱、太原雪斎、鍋島直茂、沼田祐光の計8名をあげた。石田三成のような行政官としての側面が強い人物、あるいは真田昌幸のような大名はあえて外してある。他にも軍師と呼べる者は様々いるだろう。たとえば源義経などは軍師以上に戦上手で、織田信長は軍師を必要としない決断力と独創性をもっていた。軍師を「主君の側に長年いて、君主の勢力拡大に貢献した者」という定義で、戦国武将の中から8名を選んでみた。

 

竹中半兵衛

 竹中半兵衛は美濃・斎藤氏の家臣で美濃国・大御堂城(岐阜県大野町)の城主・竹中重元の子として生まれた。母は杉山久左衛門の娘である。弟に竹中重矩がいる。

 父・竹中重元は岩手四郡のほか福田、長松、栗原一帯を知行し6000石となり菩提山城を築いた。

 1556年4月、斎藤道三と子の斎藤義龍が戦った長良川の戦いで、竹中家は斎藤道三に味方したため、父・竹中重元が不在の菩提山城に、西保城主・不破光次が来襲するが、父に代わり、竹中半兵衛(13歳)は弟・竹中久作とともに不破勢を撃退している。

 1562年に父・竹中重元(64歳)が死去すると竹中家の家督を19歳の竹中半兵衛が継いだ。菩提山城主となって美濃国の国主・斎藤義龍に仕え、義龍が死去するとその後を継いだ斎藤龍興に仕えた。

 竹中半兵衛の外見は、痩身で「その容貌、婦人の如し」と史料に残る程「女性的」だった。その為、智謀のみに秀でたイメージがあるが、実際には武術にも非凡な才を持ち剣術は皆伝の腕前だった。竹中半兵衛頭脳明晰、常に冷静沈着でありながらも情に厚く、魅力に溢れる人物であった。烈火のごとき武将・織田信長とは正反対の性格であったが、織田信長をも心酔させたほどの能力があった。

 戦国の下剋上の世において、出世欲のない竹中半兵衛は自分の兵法を用いることのみに生きがいを感じ、あえて主張しない控えめな性格だった。竹中半兵衛は智力によって、戦いのない天下統一を目指していた。

 斎藤氏に仕えていたときも、秀吉に仕えていたときも、竹中半兵衛が采配を振るう戦では負け知らずだった。子どもの頃から物静かで、荒々しいことよりも読書を好んでいた。軍記ものを読むことで軍師としての才能を開花させたが、竹中半兵衛の智謀を知らない武将からの評価は低かった。出陣するときも静かに馬に乗り、しかも容姿は女性のように華奢だった。そのため「青ひょうたん」と呼ばれていたが、竹中半兵衛は麗しい容姿にそぐわぬほどの腕前と豪胆さで激動の時代を生きぬいたのである。実際には武術にも非凡な才を持つ豪傑であり、剣術は皆伝の腕前だった。
 
竹中半兵衛は菩提山城主となって美濃国の国主・斎藤義龍に仕え、1561年に義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕えた。当時の斎藤家は尾張の織田家に幾度となく攻め込まれたが、稲葉山城(後の岐阜城)が堅城だったこともあり織田の軍勢を跳ね返し領土を守っていた。
 尾張国の織田信長による美濃侵攻が連年のように激しくなるが、義龍時代は信長の攻勢をよく防いでいた。しかし義龍が死去すると、後を継いだ龍興は若年で凡庸だったために家臣団に動揺が走り、一転して織田氏の侵攻を防ぐことが困難となった。

 そのような状況を見た信長が、1561年7月に美濃に侵攻してくるが、斎藤勢は竹中半兵衛の十面埋伏陣という独特の伏兵戦術で織田勢を破った。十面埋伏陣とは 全軍を伏兵させ、敵を一旦通り過ぎさせた後、まず背面の兵を後ろから奇襲させ、その後、残りの九面、つまり全方位から敵に奇襲する作戦であった。1563年にも新加納で織田勢と戦い、このときも竹中半兵衛の戦術のために斎藤勢は勝利した。
 ところが斎藤龍興はまだ10代で経験も浅く、政務に関心を示さず女と酒に溺れていた。さらに有力家臣だった美濃三人衆や竹中半兵衛を政務から遠ざけ、斎藤飛騨守などの側近だけを寵愛した。そのため家臣の忠誠は離れかけていた。 

稲葉山乗っ取り事件

 竹中半兵衛は体が弱く見た目は痩身で女性のようであった。出陣するときも静かに馬に乗っているだけだった。斎藤氏に仕えていたが、主君の斎藤龍興からも、その臣下からも半兵衛は武士らしくない華奢な様子を馬鹿にされていた。これは主君・龍興の態度を家臣が真似たものだった。

 竹中半兵衛は周りの嘲弄をそれほど気にしていなかったが、稲葉山城に出仕した帰りに、半兵衛の怒りが爆発する出来事が起きた。いつものように城内を歩いていると、櫓から半兵衛を嘲弄していた龍興の家臣・斎藤飛騨守が半兵衛に向かって放尿し、小便を顔にかけられたのだった。

 その時は、なんの表情も変えずに帰ったが、竹中半兵腸は煮えくり返っていた。そのため城から帰った後、竹中半兵衛は義父・安藤定治に戦闘要員を借りたいと申し出てた。妻の父・安藤定治は「仕返しなんて馬鹿なことは考えるな」と諭すが、半兵衛は冷静だった。半兵の作戦は美濃4人衆の安藤定治を唸らせ、何かあれば救援することを約束した。

 そこで実弟で人質として稲葉山城に住んでいた弟・重矩に協力を求め、の看病のためと称して屈強の配下14人に武器を隠した箱をもたせて稲葉山城に登城した。夕刻になり竹中半兵衛は弟の居室で武装を整えると、家臣とともに宿直屋を突如として急襲して、番士を討ち取り城を乗っ取ってしまった。

 たったの16人で城内を急襲し、半兵衛に放尿した侍大将の斎藤飛騨守ほか5名を討ち稲葉山城を占領した。安藤守就は兵2000で稲葉山城の城下を制圧し、斎藤龍興は城外へ脱出して稲葉山城は竹中半兵衛の策により乗っ取られたのである。

 織田信長が何度も攻めあぐねていた稲葉山城をたった16人で占領してしまった。これを知った信長は、自分が攻め落とせなかった城を少ない手勢で、しかもたったの1日で制圧した竹中半兵衛の才能に目を付け、家臣になるよう半兵衛に働きかけた。信長は半兵衛に「美濃半国を与えるから、稲葉山城を明け渡さないか」と持ちかけるが、半兵衛はこれを一蹴して、半月後に主君の龍興に城を返還している。半兵衛はそのまま謀反を起こすでもなく、あっさりと龍興に稲葉山城を返還したのである。

 半兵衛の目的は、自分の野心から稲葉山城を乗っ取ったのではなく、政務を怠る主君をいさめるためだった。稲葉山城を龍興に返すと、22歳の半兵衛は謀叛の罪の責任を取るとして自ら斎藤家を離れ、伊吹山の麓に隠居したのである。下剋上の戦国時代において半兵衛は清廉潔白・無欲な人物であった。
 
稲葉山城を乗っ取った際、堅固な守りを誇る立派なお城があったとしても、人の心が一つにならなければ無意味と云ったのは、斎藤龍興への助言の言葉だった。難攻不落な城であっても、半兵衛が稲葉山城を乗っ取ったように、城内のものがバラバラでは城の強さや堅固さは意味をなさない。「領土を守という強い意志があってこそ、堅固なお城をさらに安全な場所にすることができる」という斎藤龍興への戒めだった。嫌味に聞こえそうだが、わずかの時間で、かつ少人数で稲葉山城を制圧した竹中半兵衛だからこそ堂々と言うことができた名言である。

 

秀吉の軍師としての竹中半兵衛 

 その後、1567年8月15日、織田信長は斎藤龍興の稲葉山城を攻め落とし美濃を平定した。織田信長は竹中半兵衛を出仕させようとしたが、竹中半兵衛は病を口実に仕官を断り、弟・竹中久作を織田信長に仕えさせた。
 竹中半兵衛は近江・浅井長政の家臣である樋口直房のもとに身を寄せていた。信長は上京を考え、
半兵衛を家臣にしようとするが半兵衛はそれを断わっている。

 1570年4月、織田信長は越前の朝倉義景を攻めるが、同盟していた浅井長政の裏切りにより金ヶ崎より撤退。明智光秀、木下藤吉郎秀吉、池田勝正らの奮戦で織田信長は辛くも京都に撤退する事に成功した。1570年6月、織田信長は再度、浅井長政を攻めるべく、それに先立ち木下藤吉郎秀吉を松尾山に向かわせ、隠棲中の竹中半兵衛に織田家に仕えるよう説得させた。そこへ秀吉が何度も足を運び、織田家に仕えてほしいと懇望して、結局、秀吉の家来になった。

 秀吉の客将としてならと条件を出しそれに応じた。信長の配下として仕えることを拒んで秀吉の客将として仕えることになったが、実質的には織田家の武将であった。竹中半兵衛の辛抱強い執着心のない性格を知ることができる。

木下藤吉郎秀吉が三顧の礼を尽くして、木下藤吉郎秀吉の軍師として招くことに成功したとされたとの俗説ができたが、実際には、当初、織田信長直属の家臣になったものと推測される。竹中半兵衛は、織田信長から守光の太刀、国光の短刀、甲冑、黄金50枚などを与えられている。

 信長包囲網が敷かれ、信長と浅井長政が敵対関係になると、半兵衛は浅井家臣団との人脈を利用して調略活動で活躍し、浅井方の長亭軒城や長比城を調略によって織田方に寝返りせている。直後の姉川の戦いでも安藤守就の部隊に参加した

 この合戦の後に信長の命で、横山城に秀吉とともに守備につくが、この頃から信長から秀吉の与力へと転じたとされている。

 武田勝頼と雌雄を決する長篠の戦いでは、柵を設けて鉄砲隊の活躍が有名であるが、柵は設けても全てを柵で守れるものではない。武田軍勢が柵の一部に攻撃を集中すれば柵を破ることができた。武田軍勢が守りの薄い柵を破ろうとして左側に移動してた。秀吉は回りこまれると焦ったが、半兵衛は織田勢の陣に穴を開けるための陽動作戦と進言した。秀吉は半兵衛の進言に従わず迎撃のため兵を左側に動かしたが、半兵衛は手勢と共に持ち場を離れなかった。まもなく武田勢は元の位置に戻って、秀吉が不在の地点に攻めてきた。半兵衛が守っている間に秀吉もあわてて帰還し、半兵衛の考えたが正しかったことが証明された。

 秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加する。宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城させ信長に賞賛された

 半兵衛が得意とするのは説得による制圧であった。敵味方お互いの犠牲を最小限に抑えることに重きを置いた。この方法は以後秀吉に受け継がれるが、信長は反抗勢力に対して徹底的な殲滅策を取るが、この辺りの違いからも、信長とは折り合いがつかなかったと想像される。

 竹中半兵衛は持病の労咳(結核)を押して三木城包囲し兵糧攻めを秀吉に進言し、別所長治を降伏させている。この無血開城戦法は、後の備中高松城の水攻めも同じである。敵味方の犠牲をいかに少なくするかが半兵衛の基本的戦略であった。

 

死因と病気

 竹中半兵衛は播磨三木城(現在の兵庫県三木市)に立てこもった別所氏を包囲中、病に倒れた。播磨一帯を平定できるかどうかの大切な戦局の中に倒れてしまったのである。羽柴(豊臣)秀吉は心配し、京都での療養を命じるが、半兵衛は「陣中で死ぬこそ武士の本望」と断っている。竹中半兵衛の武士としての誇りがを療養を許さなかったのである。いったんは命令に従って京都に行くが、夜半にカゴに乗って本陣に舞い戻ってきた。

 主君はもちろん、これまで苦楽を共にした戦友たちを残して戦場を去ることは、情に厚い竹中半兵衛には到底できることではなかった。竹中半兵衛はすでに自分の死期を悟っていた。自らの死を覚悟した竹中半兵衛は「なぜ帰ってきた」と問う秀吉に対し「武士なら、武士らしく戦場で最期を迎えたい」と願い出る。結局この戦は、秀吉の兵糧攻めという戦略で勝利するが、竹中半兵衛はそれを見ることなくこの世を去っていった。

 武士としての誇り、軍師としての誇りを何よりも大切にした半兵衛は、武士(もののふ)の生き様として「いかに死ぬか」を体現した人物であった。

 

黒田官兵衛

 黒田官兵衛が秀吉が約束した知行の加増をいつまでたっても実行しないことに不満を覚え、秀吉の花押が入った書状を持って秀吉の前に現れて不満を述べたことがある。そのとき秀吉の側にいた竹中半兵衛が書状を手に取り破って燃やしてしまった。驚く官兵衛に対して「こんな文書があるから不満を感じるのだ。それに貴殿の身のためにもならない」と述べた。

 信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して、黒田官兵衛は荒木村重の有岡城へ単身で説得に乗り込んだが説得でず、逆に官兵衛は荒木村重によって土牢に幽閉される。官兵衛との連絡が途絶えた織田信長は官兵衛が荒木側に寝返ったと思い込み「人質の松寿丸(黒田長政)を殺せ」と秀吉に命じた。官兵衛のことを信じていた竹中半兵衛は信長の命に背き、全責任を持ち、信長の首実検に際し、偽の首を提出させることで松寿丸の命を助け、密かに松寿丸を自分の領地に引き取り家臣の不破足矢の屋敷に匿った。

 黒田官兵衛が幽閉されて1年後、有岡城は織田軍によって陥落し、土牢から官兵衛が発見された。これで官兵衛の無実が証明されたが、信長は人質の嫡男・松寿丸を殺してしまったことを悔やんでいた。しかし後に竹中半兵衛によって匿われていたことを知り胸をなでおろす。
 
黒田官兵衛もまたこの件を聞いて半兵衛に大変感謝をし、お礼を言うため半兵衛の元へ訪れようとするが、それは叶わぬものとなっていた。竹中半兵衛は黒田官兵衛が幽閉されてる間、三木陣中にて没していた。 墓所は陣地のあった兵庫県三木市平井山観光ぶどう園内にある。三木を攻めた秀吉側であったにもかかわらず、今でも地元老人会などで手厚く供養されており、墓には献花が途切れることがない。6月13日の命日と、地元の農作業が落ち着いた7月13日には「軍師竹中半兵衛重治公を偲ぶ法要」が行われている。他にも三木市志染町の栄運寺、岐阜県垂井町の禅幢寺、滋賀県能登川町の浄土寺などにも墓所がある。(上:竹中半兵衛が眠る岐阜県垂井町の禅幢寺の墓)