冷戦戦体制の崩壊

冷戦戦体制の崩壊
 第二次世界大戦終結後から激しくなったアメリカとソ連による冷戦は、昭和37年のキューバ危機をきっかけとして核軍縮の動きがみられ、1970年代に入ってアメリカがベトナムから撤退する頃になると、米ソ両首脳は緊張緩和へと向かうようになりました。この動きをデタントといいます。
しかし、デタントによってアメリカの国防費が低く抑えられたのに対して、ソ連は1970年代にかけて大幅な戦略核兵器の増強を行い、大陸間弾道ミサイルや潜水艦発射弾道ミサイルの保有量がアメリカを上回るようになりました。
戦略核兵器でアメリカを抜き去り、優位に立ったソ連は、返す刀で石油の供給地である中東に包囲網を仕掛けるため、1977年にはエチオピア、1978年には南イエメンとアフガニスタンでクーデターを起こさせ、親ソ政権を樹立させました。

ソ連の野望は極東にも向けられ、昭和53年には、我が国固有の領土である北方領土のうち、国後・択捉・色丹島に一個師団(兵力約12,000人)に相当する地上部隊を再配備したほか、長距離砲や対地攻撃用ヘリコプターまで配備するなど、極東における緊張感が高まりました。
その2
ソ連の暗躍によって親ソ政権が誕生したアフガニスタンでしたが、昭和54年9月に再びクーデターが起こって政権が倒れると、ソ連は同年12月にアフガニスタンに軍事介入を行いました。
ソ連による軍事介入は、中東包囲網の一環であるアフガニスタンを手放さないというソ連の意思を世界に示すとともに、ソ連の武力進攻がこの後もあり得るという厳然たる事実を明らかにしましたが、北方領土におけるソ連の軍事力増強を見せつけられていた我が国は、より一層の強い危機感を抱くようになりました。
また、ソ連の野望が世界に示されたことは、同時に米ソ間の緊張が再び高まったことを意味しており、デタントが崩壊するとともに、翌昭和55年に行われた、ソ連でのモスクワオリンピックに対して、アメリカや我が国を含む西側諸国の多くが、アフガニスタン侵攻への抗議を理由にボイコットしました。
なお、1980年夏にポーランドで自主独立の労働組合として「連帯」が結成され、政治の民主化を求めましたが、これに対してソ連が軍事介入をほのめかして圧力をかけると、翌昭和56年にポーランド軍部がクーデターを起こして、ワレサ氏を中心とする「連帯」の幹部が逮捕されるなど、ソ連による脅威は東側諸国にまで容赦なく及びました
ちなみにワレサ氏は、その後昭和58年にノーベル平和賞を受賞したほか、民主化後の1990年には、選挙によってポーランドの大統領に就任しています。
ソ連によるアフガニスタン侵攻
ソ連によるアフガニスタン侵攻を受けて、昭和56年に新たに共和党のレーガンが大統領となったアメリカでは、大幅な減税や規制緩和による経済再建が図られました。
また、当時のイギリスのサッチャー首相(保守党)は、経済に対する政府の過度の介入を避け、民間の活力に重きを置いた「小さな政府」をめざそうとする「新保守主義」を唱えていましたが、レーガンはサッチャー政権と協調したうえで、「強いアメリカ」を標榜して、ソ連に対する強硬姿勢を見せました。
レーガンによる軍備の拡大は、必然的にソ連との軍拡競争をもたらしたため、米ソによる「新冷戦」と呼ばれましたが、果てしない軍拡競争によって、経済が急速に悪化したアメリカは、海外製品の流入などによる国内産業の空洞化や、国家財政と国際収支のいわゆる「双子の赤字」に苦しんだのみならず、世界最大の債務国へと転落してしまいました。
先述したアメリカによる、我が国に対して自動車などの輸出自主規制や、農産物の輸入自由化を強く求めるといった貿易摩擦は、こうした背景から生まれたものでした。アメリカからすれば、「誰がお前の平和を守ってやっているんだ」という思いがあったのかもしれませんね。
さて、イギリスのサッチャー政権と協調したレーガン大統領でしたが、日本に対して貿易摩擦に対する厳しい姿勢を見せた一方で、外交面では我が国との関係をむしろ強めました。
当時の我が国は中曽根康弘首相の時代でしたが、中曽根首相はレーガンと愛称で呼び合ういわゆる「ロン・ヤス」
ほどの関係を構築し、日米関係は一気に緊密化しました。
レーガンが日本を味方に引き入れたのには大きな理由がありました。円高不況を乗り越え、バブル景気を迎えつつあった当時の我が国の国内総生産(GDP)は、アメリカに次いで世界第2位であり、しかもそのアメリカに迫る勢いを見せていました。
アメリカは我が国の力を警戒するとともに、「強い日本」と連携することで、ソ連との果てしない軍拡競争を有利に展開しようと算段したのです。そして、そこに世界に大きな影響力を保持していた、かつての「大英帝国」が加われば、まさに「鬼に金棒」でした。
イギリスと日本との連携によって、アメリカはソ連との軍拡競争に結果として勝ち抜くことになったのですが、裏を返せば、1980年代後半の世界は、日米英の3ヵ国で動かすことが可能であったということを意味していました。
なお、我が国が戦後に「国際情勢をも動かすことができる大国」として本格的に復活したのは、中曽根康弘内閣の頃からです。中曽根氏には「靖国神社への参拝を取りやめた」という大きな失点があり、評価の分かれるところではありますが、レーガンやサッチャーとともに一時代を築き上げたという歴史的意義に関しては、もっと語られてよいと思います。
それでなければ、我が国の最高勲章の一つである大勲位菊花大綬章を、存命中に授与されるということもなかったでしょう。
昭和54年に社会学者エズラ・ヴォーゲル氏の著書である「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が発表され、世界的ベストセラーとなりましたが、中曽根内閣の頃には「日本はアメリカ以上の大国になるかもしれない」と世界中の人々が本当に考える時代を構築していたのです。
ちなみに、我が国が安定成長期からの円高不況を乗り越え、空前の好景気を迎えた1980年代に関しては、一般的には「バブル景気」と否定的に語られることが多いですが、その一方で「黄金の80年代」という呼び方も有名です。
ところが、冷戦の終結とソ連崩壊後の1990年代に入ると、「世界の警察」を自認したアメリカは、それに伴う国際的な非難や、軍事費の莫大な増強もあって、かつての勢いに陰りが見られるようになりました。
我が国もバブル崩壊後の不況が長引いたこともあって、国内総生産(GDP)が20年以上前からほとんど上昇していないほど経済が停滞していますし、またイギリスもヨーロッパ連合(EU)の設立以後はその影響力が低下するなど、世界の情勢はすっかり様変わりしました。
そんな中、勢いを増しつつあるのが、日米英の連携時代にはGDPが日本の10分の1ほどしかなかった中華人民共和国です。GDPで既に我が国を上回った中華人民共和国は、年間予算の多くを軍事費に回すことで、世界での影響力をますます強めています。
それに対して、GDPが横ばいのままのみならず、後述する歴史問題での「いわれなき誹謗中傷」を受けている我が国の停滞ぶりが、中華人民共和国の増大にますます拍車をかけているのが今の世界情勢であることを、私たち日本国民はもっと理解すべきではないでしょうか。
さて、ソ連との軍拡競争によって、先述したように世界最大の債務国に転落したアメリカでしたが、自由主義(資本主義)国家であったことから、景気の回復などによって財政再建を実現できる余地(よち)が残されていました。
なぜなら、自由主義社会を本当に回しているのは、他でもない資産家、すなわち「金持ち」だからです。金持ちが産業を創造し、人を雇(やと)い、また贅沢をすることによって、国の資産が循環(じゅんかん)するとともに、新たな文化が栄えて、さらなる経済発展が望めるのです。
しかし、軍拡競争によって軍事費が増大したことで、アメリカと同様に財政状況が悪化したソ連は、もっと深刻な問題と化しました。なぜなら、ソ連の国家体制が「社会主義(共産主義)」だったからです。
本来であれば、金の産出や石油の埋蔵といった資源に恵まれ、世界有数の大穀倉地帯(だいこくそうちたい)であるウクライナを支配に置き、無限大に広がる森林や広い国土を有していたソ連は、世界一の裕福な国家になれる素地を充分に持っていました。
ところが、私有財産を敵視し、富を国家で分配するという社会主義体制において、自らの能力で稼いだ資産がすべて「悪」とみなされたことが、ソ連にとって致命傷となったのです。なぜそう言い切れるのでしょうか。
私有財産を認めない社会主義国家では、経済の運営を国家が計画的に管理するという、いわゆる「計画経済」が行われました。
ということは、仮に事業に成功しても、国民は私産を一切得られませんし、それどころか、どれだけ頑張って働いたとしても、計画経済の下では、ノルマのみを実現させた人間と同じ価値としか見られないのです。
このような体制で、どうやって労働意欲を高められるというのでしょうか。計画経済が長く続いたことは、必然的に労働力の低下をもたらしたことで、結果として「計画が実現できない経済」と化しました。
それでも、かつての五ヵ年計画のように、資源が豊富な間は、まだ国家として十分に機能していました。しかし、有り余る資源を使い切るか、あるいは国家として使えなくなるまでに体制が低下したことによって、もはや修復が不可能になるまで財政状況が悪化してしまったのです。
アメリカとの軍拡競争によって経済状況が極端に悪化したソ連でしたが、何とか体制を立て直そうとする政治家があらわれました。昭和60年に共産党書記長に就任したゴルバチョフです。
就任当時54歳の若さだったゴルバチョフは、それまでの社会主義体制の立て直し(これを「ペレストロイカ」といいます)に着手し、情報公開(グラスノスチ)を軸とした政治や社会の自由化を推進しました。
また、アメリカとの軍拡競争が国家財政の危機を招いたことから、ゴルバチョフはアメリカなどの西側諸国と折衝(せっしょう)を重ね、昭和62年に中距離核戦力(IMF)全廃条約をアメリカと調印したほか、翌昭和63年には国連総会に自ら出席して50万人の兵力削減を約束し、また同年には軍事介入したアフガニスタンからの撤退を始めました。
さらには、1989(平成元)年12月に地中海のマルタ島で、アメリカのブッシュ大統領(共和党)との会談に臨んだ後に、米ソ両首脳による「冷戦の終結」が宣言され、東西冷戦が事実上の終止符を打ちました。これをマルタ会談といいます。