55体制の崩壊

消費税

 消費税は私たちの生活に直接影響を与える間接税だけに、国民の関心も非常に高いが、日本で消費税が導入されたには、平成元(1989)年4月1日であり、当時の税率は3%だった。また、消費税を導入することを正式に決定したのは前年の昭和63年12月であり、当時の内閣総理大臣は自由民主党(自民党)の竹下登である。
 日本で消費税のような「大型間接税」を導入するかを検討されたのは昭和54年の第一次大平正芳(まさよし)内閣による「一般消費税」が最初だった。しかし、その後に行われた衆議院総選挙で、自民党が過半数を割る大敗を喫したことで、一般消費税の構想は空中分解した。
  その後、昭和61年の衆参同時選挙で、衆議院の512議席中300議席を超える圧勝を果たした第三次中曽根康弘内閣によって、今度は「売上税」の構想が発表されましたがマスコミを中心に反発が多く、内閣支持率が低下するなどして実現しなかった。
  昭和62年11月に成立した竹下登内閣は、絶対多数を占めた与党・自民党の勢力を背景に、消費税を含めた税制改革関連法案を昭和63年12月に成立させ、翌平成元(1989)年4月に3%として導入した。
  しかし消費税の導入には野党や世論に強硬な反対意見も多く、同時に大規模な贈収賄事件となったリクルート事件が発覚したこともあり、竹下内閣の支持率はひとケタにまで急降下し、平成元年6月に総辞職を余儀なくされた。
  景気に直接的な影響を与える消費税の導入は、好景気が続いている間に行うのが原則であるが、当時の我が国がバブル景気の真っ只中であったため、絶好の機会であった。
  なお竹下内閣の後を受けて宇野宗佑(そうすけ)が新たに内閣を組織しましたが、世論の流れを止めることはできず、直後に行われた参議院選挙で自民党が過半数を大幅に割り込んだ責任を取って、わずか2ヵ月余り(69日間)で総辞職した。
  宇野内閣の後継には海部俊樹(としき)氏が首相に選ばれ、1989年8月に第一次内閣を組織した。海部首相は1990年2月に行われた衆議院総選挙で勝利し、新たに第二次内閣を組織したが、同年8月に発生したイラクによるクウェート侵攻から翌1991年1月に勃発した湾岸戦争においては、人的支援の不手際もあってその対策に苦慮することになる。
その後、自らが政策の目玉とした政治改革関連法案が審議未了で廃案となったのを受け、海部内閣は平成3年11月に総辞職し、新たに宮澤喜一が首相となって内閣を組織しました。
  宮澤内閣は、湾岸戦争の反省を受け、翌1992年に国際平和協力法(PKO協力法)を成立させると、同年9月にはカンボジアへの自衛隊の派遣を実現させました。しかし天安門事件によって国際社会の非難を浴びていた中華人民共和国に対して、あたかも「我が国が中国に朝貢する」と受け取られかねない「天皇陛下の訪中」を、平成4年に実現させるという「国賊的」行為も宮澤内閣は行っていた。
55年体制の崩壊
昭和63年に発覚したリクルート事件を受け、国民の政治不信が強まっていたことから、抜本的な政治改革を行って国民の信頼を取り戻すべきだという声が、政府の内外から次第に高まっていきました。
  また宮澤内閣当時の1992年には佐川急便事件が、翌年にはゼネコン汚職事件が相次いで発覚し、国民の激しい非難を浴びたことから、選挙制度改革や政界再編を目指す動きが与野党を巻き込んで見られるようになりました。
  そんな中で宮澤首相が一度は実行を約束した政治改革に対して、そのための法案提出すらしなかったことから、野党が平成5年6月18日に内閣不信任案を提出すると、自民党から同調する議員が続出し不信任案が可決されてしまった。
  宮澤首相は直ちに衆議院を解散しましたが、翌7月に行われた総選挙において、自民党は過半数を大幅に割り込む大敗を喫し、8月に日本新党の細川護熙(もりひろ)を首班とする、非自民8党派による連立内閣が成立しました。
細川内閣の成立によって、分裂した自民党は野党に転落し、40年近く続いた自民党による単独政権は終わったのでした。これを55年体制の崩壊(ほうかい)といいます。
  衆議院総選挙に敗北し、宮澤内閣が退陣する直前の1993年8月4日に、当時の河野洋平内閣官房長官による、慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(河野談話)が発表された。
この談話は、主として1990年代から、朝日新聞などの日本のマスコミや韓国によって盛んに主張され始めた、いわゆる「従軍慰安婦問題」に関して、その幕引きを図るべく、当時の宮澤首相と河野官房長官とが、旧日本軍の関与を認めて「反省とお詫び」を発表したのが主な内容でした。
  ところがこの談話によって「日本政府が旧日本軍による慰安婦の強制連行を認めた」と受け取られてしまい「歴史の被害者」を主張する韓国によって、単なる売春婦に過ぎない慰安婦が「性奴隷(sex slave)」であるというデマが拡散され、アメリカのグレンデールを中心に世界各地で慰安婦の像が勝手に建てられてしまう。
  しかしその後の慎重かつ詳細な調査によって、現在ではこの談話が杜撰な経緯でつくられたことが明らかになったほか、朝日新聞も2014年の8月に、「従軍慰安婦問題」の根拠の一つとなった、いわゆる「吉田証言」の取り消しを発表しています。
  その内容が極めて疑わしくなりつつある「従軍慰安婦問題」によって、我が国が長年にわたってこうむってきた様々な問題を解消する流れを形成するためにも、河野洋平氏自身から、談話を発表するに至った「真実」を公表すべきではないだろうか。
  1993年8月に成立した、非自民8党派による連立である細川護熙内閣は、小選挙区比例代表制を導入し、選挙制度改革を含んだ一連の政治改革法案を成立させた。しかし細川首相が3%の消費税を新たに7%の税率による国民福祉税を導入する構想を発表し政権の求心力が低下し、また首相自身による佐川急便グループからの借入金処理問題の発覚もあって、細川内閣は1994年に1年足らずで総辞職しました。
  細川内閣の後継には羽田孜(つとむ)が首相に選ばれましたが、社会党が連立を離脱したことから、少数与党の内閣でスタートせざるを得なくなり、遅れていた平成6年度予算を通した直後の同年6月に総辞職を余儀なくされた。羽田内閣の在任64日間は史上3番目の短命となっています。
  羽田内閣の退陣後には、長年の宿敵同士であった自民党と社会党が、新党さきがけとともに3党で連立を組み、社会党委員長の村山富市が首相となり、6月30日に内閣を組織しました。これによって自民党は約10ヵ月ぶりに与党として復帰したことになった。ところが、社会党の党首が首相となったこの時期に、我が国史上に残る二つの大事件が起きてしまうのである。
  村山内閣のときの1995年に、我が国を震撼させる大きな出来事が二つも起こりました。そのうちの一つは、1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災であった。阪神・淡路大震災は関西地方一帯を襲ったマグニチュード7.2の巨大地震でした。約6,000人の生命が失われたほか、高速道路や新幹線、あるいは在来線といった鉄道が寸断され、ライフラインを失った人々の生活は、長期にわたって不便を余儀なくされた。1923年に発生した関東大震災など、我が国はこれまでに何度も地震などの災害を経験してきましたが、阪神・淡路大震災の際には、村山首相自身が危機管理に対するノウハウを全く欠如していたり、また災害救助としての自衛隊派遣が遅れたりするなどあり、我が国の防災対策の様々な問題点が浮き彫りになりました。
さらに、関西の大地震の影響がまだ色濃く残っていた同年3月に、今度は東京で大事件が起きてしまうのです。
  1995年3月20日の朝、東京の地下鉄の車内や駅の数ヵ所で毒物サリンがばらまかれ、都心は大パニックとなりました。いわゆる地下鉄サリン事件です。サリンを製造したのはオウム真理教であり、計画的なテロであったことが後に分かりましたが、我が国では化学物によるテロを想定していなかったため、消防や警察では毒物が除去できず、化学兵器に対する防護服を持っていた、陸上自衛隊の化学防護隊のみが対応可能だった。
  平成7年に相次いで起きた二つの大事件は、我が国における危機管理の在り方が再認識されるとともに、私たち一人ひとりに大きな教訓を残したのでした。
なお、その後の村山首相は、大東亜戦争の終戦から50年の節目となる同年8月15日に、「痛切な反省と心からのお詫び」を中心とした、いわゆる「村山談話」を発表した後、翌1996年1月に首相を辞任しています。
  村山首相の辞任を受けて、自民党・社会党・新党さきがけの3党の連立によって、自民党総裁の橋本龍太郎が、1996年1月に第一次内閣を組織しました。橋本首相は、冷戦終結後の新たな日米の安全保障体制を目指した日米安保共同宣言に調印したほか、自身の誕生日でもあった7月29日には、首相として11年ぶりに靖国神社に参拝しました。
  同年10月に小選挙区比例代表並立制で初の衆議院総選挙が行われ、首相自身の人気もあって議席数を伸ばした自民党を中心として、第二次橋本内閣が成立しました。橋本首相は財政構造改革法の制定など、行財政改革への取り組みを進めました。
しかし、バブル経済の崩壊によって不況に苦しんでいた中で、1997年4月に消費税を5%に引き上げたことや、同年に発生した、アメリカの機関投資家の通貨の空売りを原因とするアジア通貨危機の影響で、日本経済の不況が深刻化してしまいました。
  平成9年の経済成長率は、バブル崩壊後の1992年以来となるマイナスとなったほか、大手金融機関の経営破綻や、倒産あるいはリストラによって大量の失業者が出る事態となり、混乱の中で行われた1998年の参議院選挙で自民党が大敗すると、その責任を取るかたちで第二次橋本内閣は総辞職しました。
なお、橋本氏は首相辞任後に「消費税の増税は間違いだった。また、私が行った緊縮財政は国民に迷惑をかけ、私の友人も自殺した。本当に国民に申し訳なかった。深くおわびしたい」と述懐しているとのことです。
ところで、平成1993年に55年体制の崩壊が起きる前後から、政党の離合集散が相次ぎました。宮澤内閣による衆議院解散を受けて、自民党を離党したグループから平成5年に新生党が誕生すると、これに日本新党や民社党、公明党が合流して、1994年に新進党が誕生した。
  しかしやがて新進党からの離党者が相次ぐようになり、1996年には、社会党から改称した社会民主党(社民党)の一部などが合流して民主党が結成された。
  新進党は1998年には多数の党に分裂し、その中から民主党に合流する者が現れたり、新たに自由党が結成され、公明党が再結成されたりしたほか、第二次橋本内閣の途中から社民党と新党さきがけが連立を離脱するなど、目まぐるしい動きを見せた。
そして、平成10年の第二次橋本内閣の退陣後に、自民党単独で組閣された小渕恵三(おぶちけいぞう)内閣が、翌1999年に2度の内閣改造を行い、自民党・自由党・公明党による3党の連立政権が誕生したのです。
  1998年に誕生した小渕恵三内閣は、翌1999年に自由党との連立で内閣を改造して政権を安定させると、重要な政策に取りかかり始め、平成11年5月には情報公開法や周辺事態法、8月には通信傍受法を次々に成立させました。
一方、広島県の公立高校の校長が、勤務校の卒業式での国歌斉唱に反対した教職員組合などのつるし上げを苦にして、平成11年2月に自殺するという事件が起こりました。
  この事件をきっかけとして、国歌や国旗を法律化しようという動きが政府内で起きたほか、世論の多くの支持も集めて、同年8月に日章旗(日の丸)を国旗、「君が代」を国歌とする国旗・国歌法が制定された。この他、公共事業の推進といった積極財政による経済回復など、小渕内閣を評価する声も次第に高まりつつありましたが、2000年4月に自由党から連立解消の通告を受けた直後に、小渕首相が脳梗塞で倒れ、内閣総辞職した後の同年5月に62歳で死去した。