第一次安倍内閣

第一次安倍内閣
  平成18年9月20日、小泉純一郎自民党前総裁の任期満了に伴い、新たに総裁に選出された安倍晋三は、続く9月26日の臨時国会において内閣総理大臣に指名された。第一次安倍内閣の誕生である。
 安倍晋三は戦後生まれであり、戦後最年少(52歳)の総理大臣となった安倍首相は、戦後レジューム(体制)からの脱却」を唱え、戦後日本のあり方を根本から見直すと宣言した。
  壮大な国家としての目標に、既得権者やマスコミを中心に就任直後から様々なバッシングを受けながら、第一次内閣のわずか1年余りの任期中に、就任直後の所信表明演説で掲げた政策の多くが法律として成立したほか、ほとんどの項目を答申や政策として着手した。その安倍首相が第一の目標に定めたのが、昭和22年の制定以来、そのままにされ続けた教育基本法の改正であった。

教育基本法の改正
 日本がGHQによる占領政策を受けていた際に成立した教育基本法には、同時期に施行された日本国憲法における「個人の権利や自由」や「平和主義」などが強調される一方で、教育勅語などで示された古来の道徳や倫理観、あるいは公共の精神といったものがなおざりにされる傾向にあった。これを憂えた安倍首相は、教育基本法に関する特別委員会を設置して、国会会期中の平日の大部分を充当するという、まれにみる長時間の審議を重ねた末に、政権誕生からわずか3ヵ月後に改正法を成立させた。
 しかしこれだけの慎重な審議に対して、一部のマスコミが反対のキャンペーンを連日のように展開したほか、日本教職員組合(日教組)が3億円もの予算を投入して、組合所属の教師など約15,000人が、平日に国会前のデモに参加するなどの抵抗を見せた。改正された教育基本法では、教育の目標として「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた日本と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」ことなどが明記された。教育基本法の改正にもとづいて、学校教育法などの教育改革関連三法も改正され、2007年6月に成立している。
 一部マスコミなどによる様々なネガティブキャンペーンにさらされ、卓越した実行力で教育基本法の改正を成し遂げた安倍首相は引き続き国内外の重要な政策に次々と取り組んだ。同年12月には防衛庁設置法を改正し、それまで内閣府の外局としての存在でしかなかった防衛庁を、独立した行政組織となる「防衛省」に昇格させた。
 また翌年5月には、憲法改正を実現するための「国民投票法」を成立させました。日本国憲法第96条に明記されている憲法改正に関する規定に関しての重要な手続きたる国民投票についての法律が、憲法施行から60年経ってようやく誕生した。
 さらに同じ5月には、イラクにおける支援活動を2年延長するため、イラク復興支援特別措置法を改正するなど、第一次安倍政権は着実に実績を積み重ね、それを評価した市場によって低迷を続けていた日経平均株価が18,000円台にまで上昇した。しかし安倍首相に対してマスコミは閣僚を対象に執拗なスキャンダルの追及を重ねるなど、政権を側面から追い込もうと懸命になり、そんな中で一つの悲劇が起きてしまった。
 2007年5月28日、松岡利勝(としかつ)農林水産大臣が議員宿舎で首をつっているのが発見され、直ちに救急車で病院に運ばれましたが死亡が確認された。当時、安倍首相にさしたるスキャンダルが見当たらなかったことで、その代わりに一部マスコミが閣僚のスキャンダル探しに躍起となり、自らの事務所費問題などを抱えていた松岡農水相がマスコミの「スケープゴート」として「自殺」に追い込まれた。
 信頼していた閣僚に自殺されるという衝撃を受けた安倍首相に、さらなる大きな問題が浮上した。折からの社会保険庁改革関連法案の審議中に、「年金記録が五千万人分も消失していた」という事実が明らかになったのである。しかしこれは基本的に「社会保険庁管轄の事務処理の問題」であり、歴史的な怠慢の結果であって、安倍政権が責任を負うものではないにもかかわらず、マスコミは「安倍叩きの絶好のチャンス到来」とばかりに、安倍首相に責任を全部押しつける言いがかりとしか思えないネガティブキャンペーンを始めた。
 社会保険庁による年金記録問題の追及は、まるで松岡農水相というターゲットが姿を消したことに対する埋め合わせであるかのように、彼が自殺した2007年5月28日以降に急激にヒートアップした。
 朝日新聞では年金記録問題が6月中には毎週平均で50件、7月には30件も記事にされるという驚異的な数字を続け、マスコミの意図的な誘導によって安倍首相の内閣支持率は急激に低下し始めた。
 安倍首相は松岡農水相の自殺と前後して、年金記録問題に対して驚異的なスピードで対処しはじめ、6月30日には年金時効特例法を国会で成立させたほか、同じ日には懸案だった「公務員制度改革関連法」も成立させた。しかしこれだけの実績をマスコミが一切報道せず、悪意あるネガティブキャンペーンを演出し続けたことによって、安倍政権は国民の信頼を失い、同年7月29日に行われた参議院選挙において自民党が大敗を喫してしまう。
年金記録問題の新聞記事は、選挙後には毎週平均10件以下にまで激減しており、この事実をみれば年金記録問題が「安倍潰しのキャンペーン」に使われ、それが成功したといえる。
 参院選での大敗後、マスコミや与党内の退陣の声にも負けずに続投を表明した安倍首相に対して、今度は自身の健康問題が浮上した。安倍首相は17歳の頃から難病である潰瘍性大腸炎を患っており、首相に就任する数年前には治まっていたが、度重なるネガティブキャンペーンによるストレスの影響もあったのか、続投宣言をした直後に腸の症状が悪化したのである。
 安倍首相は平成19年8月27日に内閣改造を行って臨時国会を召集し、9月10日には所信表明演説まで行たが、自らの体調の限界を感じた首相は、9月12日に突如として退陣を表明した。
 退陣の際、記者会見において安倍首相が自らの健康問題について触れなかったことから、マスコミからは「政権投げ出し」「無責任」など非難の大合唱を受けた。かくして、第一次安倍政権はわずか1年という短期間で総辞職を余儀なくされた。なお安倍首相の潰瘍性大腸炎は特効薬の発見によって今では治癒している。
 第一次政権において、安倍首相は「戦後レジューム(体制)からの脱却」というとてつもなく大きな国家目標を掲げましたが、それは単なる理念の提唱に留まるものではなかった。教育基本法の改正に始まり、防衛庁の「防衛省」への昇格、憲法改正の布石となる国民投票法の制定、天下り規制などを定めた公務員制度改革など、過去半世紀の全ての首相が敬遠してきた、国家の土台部分の難しい宿題を一気に前進させた。
  しかしその性急な改革が既得権者に対する深刻な恨みを買い、一部マスコミからなどの壮絶なバッシングを受けたほか、そのあまりにも偏向したネガティブキャンペーンによって、政権の「真の姿」を見失った国民の批判にさらされたのみならず、最後は自身の病気で退陣を余儀なくされるなど、まさに「刀折れ矢尽きた」状態で、安倍首相は政治の表舞台から一旦は姿を消した。
 ちなみに朝日新聞が当時の政治評論家に対して、「安倍政権を叩くことが社是であり、安倍の葬式はウチで出す」と高らかに宣言したというエピソードが伝わっており、マスコミの姿勢として重大な問題があると今も指摘されている。
 安倍首相の退陣を受けて、2007年9月26日に福田康夫が新たに内閣を組織しました。福田首相の父親は元首相の福田赳夫であり、我が国憲政史上、初の親子での総理大臣となった。
 しかし参議院で民主党を中心とする野党が過半数の議席を得ているという、いわゆる「ねじれ国会」の状況において、参議院では初めてとなる問責決議案が可決されるなど、福田首相は厳しい政権運営を強いられた。結局、福田内閣は誕生から1年足らずの2008年9月24日に総辞職し、かわって、吉田茂元首相の孫にあたる麻生太郎が内閣を組織した。麻生内閣の誕生当時、衆議院の任期があと1年に迫っていたことから、野党やマスコミはこぞって解散を要求した。麻生首相本人も内閣支持率が高い就任直後のうちに解散することを計画したが、海の向こうから起きた世界的な金融危機によって政治的空白を生む解散どころではなくなった。いわゆる「リーマン・ショック」のことである。
 2007年、アメリカでの住宅価格の下落によって、サブプライムローン(低所得者向け住宅ローン)の弁済金が滞納し抵当物件の差押えが劇的に増加しました。これによって米国内の多くの銀行や政府系企業が資本の大幅な損害を被り、2008年9月15日には、アメリカの投資銀行であるリーマン・ブラザーズが破綻状態となったことをきっかけとして、続発的に世界的金融危機が発生したことから、「リーマン・ショック」と呼ばれるようになった。
 日本では長引く不況の影響もあって、サブプライムローンの関連債権に手を出していた企業はそれほど多くはなかったが、世界的な経済の冷え込みによって、各種の通貨から急速なドル安が進み米国市場への依存が強かった輸出産業から大きなダメージが広がり、結果として日本経済の大幅な景気後退へとつながった。同年10月16日には、東京株式市場が史上2番目の急落を記録し、麻生首相は金融危機に対応するために解散の先送りを決定しましたが、このことがマスコミによって問題視され内閣支持率が急激に低下し、12月には20%台にまで落ち込んだ。
 リーマン・ショックに対して、麻生内閣は中川昭一財務大臣とともに矢継ぎ早に対処しましたが、2009年2月に中川財務相がローマで謎の「酩酊会見」を行ったことに批判が殺到し、中川氏は財務相を辞職に追い込まれた。また麻生首相は外交面で「自由と繁栄の弧」という構想を掲げ、インドとの戦力的協調を強めるために日印安全保障協力宣言に署名するなどの成果を挙げたが、こうした功績はマスコミによって完全に無視され、国会答弁における首相の失言などを執拗に追及するなど、まさに「重箱の隅をつつく」ような、言いがかりにも等しいバッシングに明け暮れた。進退窮まった麻生首相は、7月に衆議院を任期満了直前で解散し、8月30日の総選挙に臨んだが、自民党はわずか119議席しか獲得できず大惨敗を喫した。
 総選挙敗北の責任を取って麻生首相は退陣を表明し、翌9月16日に、308議席を得た民主党の代表である鳩山由紀夫が、社民党や国民新党との3党連立で内閣を組織し初の本格的な政権交代が起きた。