湾岸戦争

 1989(平成元)年12月に、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長とが、地中海のマルタ島で会談し、両首脳によって「冷戦の終結」が発表されたが、その後も世界の各地域で紛争が続いた。
  翌年年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言した。これに対して国連安保理事会は直ちにイラクを非難し、アメリカを中心に多国籍軍を組織して経済制裁を行ってイラクにクウェートからの撤退を迫りまったがイラクはこれを拒否した。
  そのため翌1991年1月17日に国連の多国籍軍がイラクへの空爆を開始し、2月24日には地上戦に突入したうえで、27日までにクウェートを実力で解放させた。これを湾岸戦争という。
  このポスト冷戦期の世界にとって最初の試練となった湾岸戦争において、我が国が戦ってもいないのに、敗戦にもまさる深刻な打撃を受けてしまった。
  日本はイラクによるクウェート侵攻に対して、アメリカからの要請により、イラクへの経済制裁に同意するとともに、国連の多国籍軍への総額40億ドル(約5,200億円)の支援を発表した。
  しかしアメリカが求めていたのは、経済よりも「人的支援」であった。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹内閣は、自衛隊の海外派遣や小型武器の携帯を明記した「国連平和協力法案」を国会に提出した。
  しかし野党を中心に「国連平和協力法案は、平和主義を定めた日本国憲法第9条に違反する」という声が強く法案は廃案となり、国内で貢献方法について論議を重ねているうちに湾岸戦争が始まってしまったのである。人的支援を断念した海部内閣は、アメリカが要請した90億ドル(約1兆1,700億円)の拠出金の追加供与を決定し、また難民輸送のために、今回限りの特別措置として自衛隊機を派遣することを決定した。
  このようにイラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争への流れにおいて、日本は支援国の中で最大の財政支援を行ったが、人的支援をしなかったことによって、国際社会から冷ややかな目で見られた。
  湾岸戦争後、クウェート政府は、ワシントン・ポスト紙の全面を使って国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載したが、その中に日本の名はなかった。これまでアメリカやクウェートが湾岸戦争に関して公式の場で我が国に感謝の意を表明したことは一度もなかった。
  国民一人あたり1万円以上の膨大な資金援助を行ったにもかかわらず、国際社会の冷たい仕打ちを受けざるを得なかったことに対して、当時の日本人の中には怒りを覚える人も少なくなかった。国際的な信義から見れば、日本の行動こそが「理にかなわなかった」のだった。
  湾岸戦争で日本がとった行動は、「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。
  ある地域で大規模な自然災害が発生し、これ以上の被害を防ぐために懸命な作業が行われていた。自分のみならず家族の生命もかかっているので全員が命がけである。しかし地域の資産家が「そんな危険な作業は家訓があるからできない。その代わりカネは出すからそれで勘弁してくれ」と言ってきたらどのように評価するだろうか。
  湾岸戦争は国連が承認した戦争であった。本来ならば緊急事態法を即座に制定してでも、我が国は国際社会に信頼を得られるよう、何らかのかたちで人的支援をすべきだった。その意味においても、湾岸戦争は日本にとって大きな教訓となった。
  ちなみに憲法改正の問題が、いわゆる右派の人々だけでなく、広く一般的な「国民的課題」と認められるようになったのはこの湾岸戦争からである。日本国憲法第9条に縛られ、身動きのできなかった湾岸戦争での日本の対応に疑問を感じた国民の意識が少しずつ変化することで、現在の第2次安倍内閣が憲法改正を課題の一つに挙げるまでに、国民的議論が成熟してきたという側面もある。
  湾岸戦争で人的支援を見送ったことで、国際的な批判を浴びた日本は、1991年に、政府が「我が国の船舶の航行の安全を確保するため、ペルシャ湾における機雷の除去を行うために海上自衛隊の掃海艇を派遣する」と決定した。
昭和29年に自衛隊が発足して以来、初めての海外派遣は国連や東南アジア諸国の賛成もあって、他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を開始した。
  炎天下の劣悪な環境の中、海上自衛隊は担当の海域約700平方kmで、「湾岸の夜明け作戦」と呼ばれた機雷除去を行い、他国が処理できなかった困難な機雷除去を完遂した。
  海上自衛隊の掃海技術は国際社会で高い評価を受け、クウェートでも掃海部隊派遣後には日本の国旗が新たに他国に加わって印刷された記念切手が発行され、危険を伴った人的貢献を行ったことで外国における我が国の評価がそれまでと一変したす。
  海上自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣を通じて、人的支援の重要性を再認識した日本政府は、「現行憲法の枠内で自衛隊を海外派遣することが可能かどうか」を検討し始めるとともに国内でも大きな議論となりました。
  政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への、戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる1992年に国際平和協力法(PKO協力法)を制定させ、国連平和維持活動への人的貢献として自衛隊の参加を可能とした。
  国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の要請により、カンボジアに自衛隊が派遣され、日本の本格的な人的支援への道が開かれた。その後、自衛隊の海外派遣は1993年のモザンビーク、1994年のザイール(コンゴ民主共和国)、1996年のゴラン高原、2002年の東ティモール、2004年のイラク、2011年の南スーダンなど継続的に行われ、自衛隊の活躍ぶりが日本の世界における信頼度を高めた。なおPKO協力法をめぐっては、法案に強硬に反対した社会党や共産党などによって牛歩戦術が行われ、社会党の衆議院議員全員が辞職届を出したりするなど審議引き延ばしを目論んだ議事妨害によって、採決がずれこんだ経緯もあった。
  さて国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)によって、1992年9月に自衛隊がカンボジアへ派遣されたが、同じUNTACが1993年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するために募集した、国際連合ボランティアに採用された一人の日本人の若者がいました。
  かねてより世界平和に関心を抱き、国連で働くことを希望していた彼は、大学を卒業したばかりの平成4年5月にUNVに採用され、7月にカンボジアへ渡ると、最も危険なコンポトム州の巡回要員に自ら志願した。
  道すら十分になく、時には何時間も濁った川を泳いで移動しながら、選挙の必要性などについて、カンボジアの国民に真剣に説いて回った。しかし総選挙が目前に迫った1993年4月8日、何者かに銃で至近距離から2発撃たれ、「I am dying(私は死んでいきます)」という言葉を無線に残して、25歳の若さでこの世を去った。彼の名を中田厚仁という。