民主党政権

鳩山由紀夫

 平成21(2009)年9月16日に自民党政権にかわって鳩山由紀夫は民主党として初めて首相となった。鳩山由紀夫は鳩山一郎元首相の孫という毛並みの良さに加えて、東大卒でスタンフォード大学で博士号をとっている。資金的に民主党を援助したのは鳩山家であり、鳩山由紀夫は民主党が誕生した時から政権交代の暁には総理大臣になる宿命を持って生まれてきた。

 民主党政権が成立したのは未曾有の金融ショックと言われたリーマンショック直後のことで、暗い空気に満ちていた。そのためバラ色の民主党のマニフェスト(政権公約)に国民は騙されたのである。 民主党政権は「脱官僚」や「政治主導」を目標に社民党や国民新党とともに3党の連立内閣を組織した。

 鳩山内閣は高等学校授業料無償化などの社会政策や、行政刷新会議(事業仕分け)を推し進めたが、マニフェスト(政権公約)に掲げた子ども手当や高速道路の無料化などは、財源の問題もあって不完全であった。

 また翌年4月に南九州で発生した口蹄疫問題では、対策の遅れもあって約30万頭近くの家畜を処分したほか、2,000億円を超える損害を出すなど畜産農家に大きな被害が生じさせた。さらに日米間の長年の懸案となっていた、沖縄の米軍普天間基地の移設問題をめぐって、鳩山首相が「最低でも県外移設」と口にして以来、発言が二転三転するなど迷走を続け日米関係の悪化をもたらした。

 さらに首相自身の献金問題に関する疑惑が生じたことなどから、成立当時70%あった内閣支持率は急降下し、鳩山内閣は誕生以来1年足らずで総辞職に追い込まれた。

 良い点としては前総理大臣の麻生太郎と同じくかなりの達筆で、特に民社国新3党連立政権発足時の合意書の署名においては、すぐ下に書かれた福島みずほ女史の凄まじい悪筆と互いを引き立てあいに強烈な印象を残した。

 ニッカンスポーツコムで実施した「戦後の名宰相とワースト宰相は」ではワースト部門で他に大差をつけて第1位に輝いた。2位は管直人である。
 産経新聞は鳩山を「憲政史上に残るほど愚劣な宰相」と評し、日本経済新聞は、社説に普天間基地移設の失敗を「罪万死に値する失政である」と評した。

 

菅直人

 鳩山内閣にかわって、2010年6月8日に内閣を組織したのは、新たに民主党の代表に就任した菅直人であった。しかし菅内閣は成立当初から様々な問題をもたらした。首相就任から1ヵ月後に行われた参議院選挙において民主党が大敗し、ねじれ内閣として誕生した。現職の法務大臣が落選したが閣僚の座にとどまったことから批判を呼んだ。

 同年8月には日韓併合100周年にあたって「当時の韓国の人々がその意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ民族の誇りを深く傷付けられたという多大の損害と苦痛に対し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する」といういわゆる「菅談話」を発表した。

 しかしその内容が我が国内部から「謝罪外交である」と問題視されたのみならず、中華人民共和国や韓国などからも「謝罪が足りない」などと多方面から批判された。
 さらに2010年9月7日には、我が国固有の領土である沖縄県の尖閣諸島周辺で、中華人民共和国の漁船が領海侵犯し海上保安庁の巡視船に衝突する事件が起きた。海上保安庁は中国漁船が故意に巡視船にぶつかったと判断して、船長を逮捕したうえで船を拿捕したが、中国側からの強硬な抗議に屈した菅内閣は船長を釈放し、野党や国民の間から「弱腰外交」との批判が高まった。衝突事件の際に海上保安庁は状況をビデオで撮影しており、菅内閣は国民への映像の全面公開を拒否したが、しかし11月4日に「sengoku38」と名乗る人物が動画サイトの「YouTube」に、本事件の映像と思われる中国漁船が巡視船2隻に体当たりする場面が収録された動画を流出させ、事件の全容が国民に広まると中国側の挑発行為が国民の強い非難を生み出すことになった。

 「sengoku38」は海上保安庁職員の一色正春であり、「衝突映像が闇から闇へ葬られてはいけないと思った」ために流出させたと証言した。一色氏は東京地検への書類送検と任意の事情聴取を受けた後に海上保安庁職員を辞職している。
  成立直後の参議院選挙で大敗したのみならず、不祥事が相次いで起きたことによって、菅内閣の支持率は急降下し20%台にまで落ち込みました。しかし菅首相自身は「たとえ支持率が1%になっても辞めない。引き続き政権運営に全力を挙げる」とあくまで意気軒昂だった。
 かつて自民党政権が続いた際、内閣支持率が低下すれば「解散して民意を問うべきだ」と常に口にしていた人物と同一とは信じがたい発言であるが、菅内閣の閣僚が在日外国人から違法献金を受けていた事実が明らかになり、菅首相自身も同じように違法な献金を受けていたことが分かり、野党は菅首相の総理大臣辞職を迫る構えを見せた。ところが国会で献金問題を追及しようとしたその日に、未曽有の大災害が起きた。

 原発事故などの対応に関しても、菅直人はある意味専横的に振る舞った。それは、結果として現場を混乱させた。日本史上最大規模の災害に際しその対応は批判され危機管理対応は徹底的に非難され、菅直人は野田佳彦にバトンを渡すことになった。

 菅直人を語る時に最も重要な事は、菅直人が日本で初めて社会運動出身の総理大臣だったということである。その国民視点のセンスを期待したが、これも裏切られてしまう。

 

野田佳彦政権

 第9代党代表に選出された野田佳彦は、2011年8月30日第95代内閣総理大臣に指名された。野田は代表選挙当時から消費税率を現行の5%から10%に引上げる消費増税を掲げたが歳出削減が進んでないうえ、景気にも悪影響だとして小沢グループや連立を組む国民新党などから反対意見が噴出した。

 このため野田は小沢とも良好な関係にある党参院会長の輿石東を幹事長として起用し挙党体制に努めた。
  しかし閣内では9人の衆議院議員が離党届を提出し新党きづなを結成。他にも離党が相次ぎ、2011年の間だけで民主党は14人の国会議員を失うことになった。
 野田は内閣改造を行い(野田第1次改造内閣)、消費増税関連4法案を含む社会保障・税一体改革関連法案を国会で成立させるため野党と協力関係を作ろうとした。

 しかし防衛相の田中直紀は北朝鮮ミサイル問題に関する失言で、国交相の前田武志は公職選挙法に抵触する問題が問われ参議院で問責決議案が可決された。
 また社会保障・税一体改革関連法案が閣議決定されたことに抗議し、政府・党の要職を辞める者が相次ぎ、国民新党も亀井静香らの連立離脱派が離党した。
 社会保障・税一体改革関連法案は民主党・国民新党・自民党・公明党・たちあがれ日本などの賛成多数で可決された。消費増税法案の採決では鳩山、小沢以下57名が反対票を投じるなど72名の造反者を党内から出した。小沢ら国会議員52名が消費増税法案の撤回を求める離党届を提出した。その後も党分裂は収まらず、谷岡郁子らが反原発掲げ「みどりの風」を立ち上げた。消費税増税関連法案の採決以後の離党者が55人となった。
 社会保障・税一体改革関連法案の参院採決が迫り、除籍された小沢らが消費増税法案採決を阻止すべく野田内閣不信任決議案を上程した。野田は自民党総裁谷垣と公明党代表山口那津男を交えた党首会談で、衆院解散について「近いうちに国民に信を問う」こと、消費増税法案に賛成することで合意。自民・公明の各衆院議員が採決を欠席して内閣不信任案は否決された。
 内閣不信任案や消費増税法案は民主党内の造反が相次ぎ一部議員は除籍された。29日に参院で野田首相への問責決議案は自民党が賛成に回り可決された。大阪維新の会が国政進出を目指し、日本維新の会を結成し、党内からも松野頼久らが離党届を提出し合流した。離党者の増加に歯止めがかからなかったが、党代表選挙では野田が1回目の投票で総投票数の過半数を獲得し、野田は内閣改造を実施した。
 しかし3度目となった内閣改造も、法相兼拉致担当相の田中慶秋が早期辞任に追い込まれた。また野田が自民党前総裁の谷垣らと交わした「近いうちに解散する」という約束をめぐり解散時期について自民・公明両党と対立することになる。
野党へ逆戻り
 各内閣支持率が低迷し求心力を失っていた野田は、日本維新の会などの「第三極」の選挙準備が整う前に解散・総選挙を行うのが得策と判断。11月に入ると自民・公明両党の求めに応じる形で年内に解散・総選挙を行う意向を明らかにした。野田は衆院議員定数削減やTPP交渉参加推進などを党公約として選挙戦に打って出る構えを見せた。

 党首討論において、自由民主党総裁の安倍晋三との討論の中で「衆議院議員定数削減法案への賛同の御決断をいただくならば、私は今週末の解散をしてもいいと思っております」と発言、2日後の衆議院解散を宣言した。
 この電撃的な解散決定を受けて、早期解散に反対していた党内から離党届を提出する国会議員が続出した。この解散での離党者は11名、民主党政権誕生以後党を離党・除籍された衆参両議員はあわせて103名を数え、民主党は両院で少数与党に転落した。
 11月16日、衆議院は解散され総選挙が行われた。党執行部は党の定める方針に従う誓約書に署名させ、従えない立候補予定者には公認を与えないと決定した。鳩山は従うことができず総選挙への不出馬と政界引退を表明した。
  第46回総選挙では解散前の230議席を大きく下回る57議席と大きく後退した。この結果、有力政党としては参院議員が衆院議員を上回る党内構成となった。野田は直ちに代表辞任を表明した。連合会長の古賀伸明は「敗因は内部抗争」と発言した。野田の代表辞意表明を受けて、12月25日に代表選挙が党所属国会議員のみの投票で行われ、海江田万里が馬淵澄夫を破り代表に選出された。民主党を中心とした連立政権は1198日で終焉した。