東日本大震災

 2011年(平成23年)3月11日午後2時46分、宮城県牡鹿半島沖を震源とする、マグニチュード9.0という日本で観測史上最大の地震が発生した。

 震源は宮城県牡鹿半島の東南東沖130km(深さ24km)で、震源は岩手県沖から茨城県沖までの南北約500km、東西約200kmのおよそ10万km2が震源域とされている。最大震度は宮城県栗原市で観測された震度7で、宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村と仙台市内で震度6強を観測した。

 日本で例を見ないこの巨大な地震は正式には東日本大震災と呼ぶが、発生した日付から3.11(さんてんいちいち)とも称される。またこの震災で発生した津波については「平成三陸大津波」の呼称を用いられている。この平成三陸大津波は場所によっては波高10m以上、最大遡上高40.1mにも上る巨大なものであった。

 この震災での犠牲者の死因のほとんどが、津波に巻き込まれたことによる水死である。津波の中には大量の砂や海底のヘドロ、港湾施設の重油などの有害物質などが含まれていて、砂が肺に入れば気管を詰まらせ、有害物質が肺に入れば身体を侵す。これらで呼吸困難になったり、がれきが当たり意識を失ったり、3月の雪の舞う中で低体温を伴ってなど、さまざまな要因があった。圧死・損傷死・焼死もほとんどが津波によるがれきが原因とされている。

 また巨大津波以外にも地震の揺れや液状化現象、地盤沈下、ダムの決壊などによって、北海道南岸から東北を経て東京湾を含む関東南部に至る広大な範囲で被害が発生し、人々の生活に必須なライフラインが寸断された。

 さらに東日本大震災では避難所の不衛生や寒さなどが原因で、避難後に死亡する例(震災関連死)が高齢者を中心に相次ぎ、震災関連死は3,523人(福島県2,086人、宮城県922人、岩手県460人など)と認定されている。

 地震の被害はとりわけ岩手県、宮城県、福島県の東北三県で甚大で、多くの人々が命を失った。市街地や漁港などは壊滅状態となり、生存した人々も多くが長期の避難所生活を余儀なくされた。東日本大震災による被害は広範囲にわたり、死者および行方不明者は約19,000人にのぼった。

 犠牲者数が最多だった宮城県では、火葬が限界を超えたため一時的な土葬(仮埋葬)が行われた。被害者は30万人を超え、建築物の全壊・半壊は40万戸 が公式に確認されている。また停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上と報告されている。

 

石巻市の悲劇 

 石巻市は3,700人以上の犠牲者を出している。石巻市内北東部でリアス式海岸に当たる旧雄勝町、旧北上町、旧河北町の沿岸はほぼ完全に壊滅した。3階建ての雄勝病院は完全に水没し、入院患者と職員の65人が流されて生存者は3人、北上川の河口北側にあった石巻市北上総合支所では職員と避難者合わせて57人のうち生存者は3人だけだった。

 津波はその北上川を氾濫させながら猛烈な勢いで遡上し、5km上流に位置する石巻市立大川小学校では徒歩で避難していた児童78人と職員11人が流され、助かったのは児童4人と職員1人のみであった。

  大川小学校では児童が下校準備をしているときに地震が起きた。石巻市は大川小学校への津波到達を想定せず、同小を住民たちの避難所としていた。大川小学校は安全な場所のはずだった。
 地震のあと教諭らに誘導され校舎から全員が校庭に避難し、児童たちは通学用のヘルメットをかぶり校庭に整列していた。教諭らは校庭で対応を検討した。校舎は割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもあった。学校南側の裏山は急斜面で足場が悪い。そのため午後3時10分過ぎ約200メートル西側にある新北上大橋のたもとを目指すことになった。そこは周囲の堤防より小高くなっていからである。しかしその直後「ゴーッ」とすさまじい音がした。
  津波は北上川をさかのぼり、児童らが避難しようとした新北上大橋のたもとの電柱や街灯がなぎ倒し、堤防を乗り越えて2階建ての小学校の屋根をも乗り越え裏山を約10メートル駆け上がった。子どもたちの大部分はのみ込まれ、列の後方にいた教諭と数人の児童は裏山を駆け上がり一部は助かった。同市教委は「想像を絶する大津波だった。学校の判断は致し方なかったと思う」としたが、大川小学校の惨劇への疑問は、なぜすぐに裏山に避難しなかったのかだった。

原発事故
 さらに事態をより悪化させたのが、津波による福島県浜通りにある福島第一原子力発電所(原発)の事故だった。太平洋岸に面した東京電力福島第一原子力発電所は、東日本大震災の発生で激しい揺れを受け稼働中だった1号機から3号機が緊急停止した。地震による原子炉自体の被害はなかったが、その後に想定外の15mの大津波に襲われ、原子炉と使用済み核燃料を冷却するための電源をすべて喪失してしまったのである。
 1-5号機で全交流電源を喪失、冷却機能の喪失によって原子炉を冷却できなくなり、1号機から3号機では炉心溶融(メルトダウン)が、1、3、4号機では水素爆発が、2号機では格納容器の爆発が起こり、大量の放射性物質が外界へ放出された。もはや一刻の猶予も許されない緊迫した状況の中、福島第一原発の作業員による懸命の復旧作業が行われた。また陸上自衛隊や消防も応援にかけつけ、原子炉冷却のために決死の放水作業や海水の注入などが行われた。
 地震が発生した当日に菅直人首相は自身を本部長とする緊急災害対策本部を設置した。これは大規模な災害が発生した場合に内閣府に設置することと法律で定められているが、これまでに設置された例は無く、東日本大震災の発生によって初めて設置されることとなった。
 原発事故が起きた際に、官邸は本来ならば司令塔として動かなくてはいけないが、現場に向けて様々な指示を出す立場である菅首相が、わざわざ福島第一原発を訪問したことによって、現地を混乱させたのみならず、復旧作業の士気を損なったことが被害の拡大につながった。
 福島第一原発は、平成2014年に廃炉が決定しが、そのための作業の見通しがまだ立っていない。また原発事故を受けて、日本国内すべての原発が再稼働に向けての厳格な検査が必要となったことから、火力発電のための原油輸入に年間で数兆円の国富を投入することになった。
 これまで原発に依存してきた電力会社の経営が悪化し、電気料金の値上げが相次ぎ、平成26年4月に断行された消費税率の引き上げ(5%から8%)とともに景気回復の足を引っ張った。原発事故によって幅広い範囲で避難指示が出されたが、放射能による汚染は、昭和61年に起きたチェルノブイリ原発事故などと比べ少量であり、健康に被害はないという専門家の意見もあが、国際原子力事象評価尺度では最悪のレベル7で、チェルノブイリ原子力発電所事故と同等に位置付けられている。

防衛省
 東日本大震災に伴い防衛省では発生当日に災害対策本部が設置され、救助あるいは支援活動を行うために、自衛隊に災統合任務部隊を編成し、自衛隊創設以来最大規模の災害派遣を行った。

 自衛隊員の派遣規模は最終的に10万人に拡大し、各隊員が人命救助や行方不明者の捜索、遺体の収容、がれきの撤去などを行った。また福島第一原発事故の際、自衛隊が決死の放水作業などを敢行した姿を見たアメリカ軍も、自衛隊と緊密に協力して艦船や航空機を動員したほか、20万人以上の人員が救援活動に当たるなど、米軍による「トモダチ作戦」は日米軍事同盟の価値を再認識する機会となった。
  この未曽有の災害に見舞われた我が国に際して、多くの国から支援のための寄付が送られ、中でも台湾から200億円という巨額の義援金が寄せられたのは記憶に新しい。