バブルの崩壊

バブル経済
 プラザ合意による急激な円高という経済的な側面、当時の首相中曽根康弘が内需拡大をG5首脳に公約したので公共事業を積極的に行っことた、税制改革により法人税が42%から30%へ、所得税の最高税率が70%から40%に引き下げられた。この3点によって可処分所得が急激に増えたため景気を押し上げた。

 昭和から平成となった当時の日本経済は、株式や不動産を中心にしたバブル景気によって絶好調だった。資産の過度な高騰や経済拡大期間が空前の好景気となった。

 当時の東京都の山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買えるというわれるほど日本の土地価格は高騰し、三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを買収したことなどが有名であった。千葉にはチバリーヒルズと呼ばれる高級住宅地の開発が行われた(下図)。土地は値上がりし続けると思われた。このように不動産投資や開発が過熱し、銀行もこれらの事業に積極的に投資していった。

 日経平均株価は1989年(平成元年)12月29日の大納会で史上最高値38,957円を付けるなどし資産価格のバブル化が起こっていた。

 会社の接待費が使い放題で、どこへ行くにもタクシーを使い、毎日1万円以上かけタクシー通勤していたという人もいた。都心では「タクシー争奪戦」が起き、1万円札を振ってタクシーを止める人も珍しくなかった。東京のディスコのお立ち台で女の子がボディコン着て扇子持って踊っていた。しかもお立ち台に行列が出来ていた。

 また高級車が飛ぶように売れる「シーマ現象」がおき、ゴルフ、スキー場と行楽地は人であふれ、リゾート開発が進みスキーやスノーボードが一般化した。船橋には室内スキー場「ザウス」が造られ、東京湾岸はウォーターフロントと呼ばれと土地開発が進められ、幕張新都心もその一つだった。

 好景気はどこまでも続くという思い込み、日本中が狂ったように土地や株などに投資され、この経済大国になったという陶酔感が国全体に溢れた。これを「バブル経済」と呼んでいる。バブルとは英語で泡のことで、中身がないのに大きく膨張しやがて破裂して跡かたもなくなくなることである。

 1988年(昭和63年)の竹下内閣時に消費税法が成立し、翌年に導入できたのも好景気だったからである。

バブル経済の弊害
 テレビ等のマスメディアが毎日のように不動産価値を宣伝し、地価は異常な伸びを見せた。今日買った1億円の土地が明日には2億円になるなど土地が暴騰した。この土地神話から「地上げ」などが問題となった。地上げとは暴力的手段によって立ち退きを迫り、金に糸目を付けない買い取りを行うなど強引な手法で土地の売買を行うことである。都市の土地は細切れの状態よりも街区単位でまとまっている方が大規模な建築物が建てられ面積あたりの利用価値が高くなるため、細切れの土地を買い取り区画を大きくして再開発用地等に提供する手法であった。バブル期に地主や住民を恫喝して強引に土地を買いあさり、街区単位でまとまった段階で転売して膨大な利益を上げる地上げ屋が台頭していた。

 またバブル以前に資産を「持つ者と持たざる者」とに不公平をもたらすなど、バブル景気は様々な弊害を同時にもたらした。

大蔵官僚の間違い
 バブル景気は実態を反映していない狂った側面があったことは事実である。しかし自由経済の下では、時間が経てば景気は自然に落ち着くのはずで、緩やかに収束させれば大きな混乱を招くことはなかった。それを政策によってバブルを急速に押さえこもうとしたことが大きな失敗であった。

 私有財産を敵視する大蔵官僚によってバブル景気は「人為的に」強制終了させられた。このことが日本を今も続く果てしない不況へと導くことになったのである。大東亜戦争以前から日本の軍人や官僚を中心に、いわゆる「国家社会主義思想」が蔓延していた。当時は相次ぐ恐慌によって、資本主義経済の限界がささやかれており、建国されたばかりのソ連が輝きを見せており、それが日本における「天皇を中心とした社会主義思想」に拍車をかけていたといえる。
 その後、戦争に敗北した日本は、国家社会主義に対する反省から、自由主義的な政策を次々に行い、高度経済成長などの奇跡的な復興を成し遂げた。そのような輝かしい歴史を持つ日本は、一方では「社会主義思想」という爆弾を、国家の中枢に秘め続けていたのである。
 それは戦後のGHQによる占領政策によって、財閥解体や農地改革などの社会主義的な政策が行われたことで、国家社会主義の思想を引きずっていた大蔵省やその他の官僚の体質が温存されてきたのである。社会主義的思想は時として平等主義的な発想をもたらすが、自由主義経済にとって中途半端な「平等精神」こそが、人間の活力をそぎ経済を停滞させる元凶でもあった。
 無論それはバブル景気真っ只中の我が国においても同様で、危険な発想ともいえたが、悪しき「平等主義」に染まった当時の大蔵官僚によって、バブル経済は一気に崩壊へ歩むことになった。
総量規制
 平成元年12月に日本銀行の総裁となった三重野康(みえの やすし)は、就任当初から矢継ぎ早に金融引き締め政策を実施し、バブル景気に歯止めをかけようとした。平成2年3月に、大蔵省(財務省)から各金融機関に対して、不動産取引の総量規制を中心とした行政指導を行ったのである。このことで約39,000円近くまで上昇していた日経平均株価が一気に下降し始めました。
 平均株価の大暴落は日本の経済に大きな影響を与え、通常ならば金融引き締めをすぐに中止し、緩和政策に転換するのが常識であった。ところが、当時の三重野総裁は「株価は確かに下がったが、地価は未だに高い」という理由で、金融引き締め政策を強行し続け、大蔵省による総量規制も解除しなかった。
 当時の地価の下落は確かに株価ほど急激ではなかったが、株価と地価の価格変動は、およそ1年から1年半のタイムラグがあるのが常識であったが「悪しき平等主義」にこだわり、地価の下落を最優先させたことが日本の経済を一気に「どん底」まで叩き落すことになった。三重野康を「平成の鬼平」とマスコミは盛り上げたが、三重野康こそがバブルを崩壊させ、日本経済を破綻させた人物である。

 バブルを崩壊させ、その処理・経済再建の課題を、後任の松下康雄に委ねたが、三重野康は総裁退任後も「インフレなき経済成長」を唱導し、日銀出身の速水優が総裁在任中も長期にわたり、隠然たる影響力を保ち、失われた20年を引き起こしたのである。
 ちなみに当時の日本の「人為的な経済破綻」は世界に大きな衝撃を与え、その後多くの国が「日本の失敗に学べ」と言わんばかりに自国の経済運営の参考にしたという皮肉な教訓を残している。

通達の恐ろしさ
 バブル経済の崩壊の直接の引き金となったのは、大蔵省が各金融機関に通達した不動産の総量規制であるが、具体的には「銀行が不動産会社に融資することを禁止する通達」のことで、この「通達」こそが最大の問題であった。法律ならば議会によってその正当性が時間をかけて審議できるが、総量規制が大蔵省という一機関からの通達であったがゆえにまさに抜き打ちで決定され、対策や議論の時間が全くないまま強行されたのである。
 バブル経済の頃の不動産会社は、銀行から借りたお金で土地や建物を買い、それを他の不動産会社や個人に売却することで大きな利益を得ていた。それが可能であったのは、土地の値段がいくら上がっても、気前良く銀行が資金を貸してくれたからだった。ところがその資金を止められたことで、我が国の至るところの不動産会社は売れるまで値を下げ続けなければならず、結果として全国の地価を大幅に下落させてしまったのである。我が国の国富がおよそ1,000兆円が消失したと言われている。
バブル経済の崩壊
 平成2年からその兆候を見せていたバブル経済の崩壊は、翌年に入るとより厳しい状況となった。バブル経済の頃に積極的に投機に走った企業や個人が所有した株や土地などは価格が軒並み低下し、その資産価値が大幅に下落しただけでなく、その大半が返済不能な不良債権となったのである。
 不良債権の増加はバブル期に多額の資金を提供した銀行にも大きな打撃となった。通常ならば銀行は融資の際に不動産などの担保を取るため、貸し倒れが起きても担保を回収することで損失は出さずにすんだ。しかし日本ではバブル景気時代に高騰した不動産を担保に甘い融資が行われていた。通常は土地評価額の70%を目安に融資額を設定するが、今後の地価の高騰を見越して120%を融資した例があり、バブル崩壊後には融資先が事業に失敗して融資の回収ができず、さら、担保の不動産は暴落して融資額を下回り、担保を設定した金融機関は融資も回収できないという状況が相次いた。こうして回収が不可能になった債権によって日本の銀行各行は深刻な経営危機に陥った。
 多くの貸付金が回収不能になり、金融機関による中小企業への貸し渋りが深刻化した。バブル崩壊で大きな痛手を受けた企業の多くが、銀行からの資金提供の激減によって、積極的に行ってきた設備投資を抑制せざるを得ず、不況に拍車がかかり悪循環となった。
 このようにして平成4年の経済成長率が、昭和49年の第一次オイルショック以来のマイナス成長となるなど、日本は出口の見えない平成不況となった。

平成不況
 バブル崩壊後に発生した平成不況によって、中小企業の多くが倒産の憂き目にあったほか、生き残った企業でも、その多くが事業の整理や人員削減といった経営の効率化(リストラ)を図ったことで大量の失業者が発生した。
  失業者の増加は必然的に雇用不安をもたらし、多くの国民が少しでも安い商品を求め、あるいは買い控えをするなどして消費が落ち込み、消費が落ち込みがさらなる需要の縮小を呼び込んだことで、商品価格が下落して企業の収益が減少し、それによって個人の給与も低下してしまう、いわゆる「デフレスパイラル」に陥った。この平成不況は様々な原因が複雑に絡み合っていることから、別名を複合不況とも呼ばれているが、当時の政府は、超低金利政策や公的資金の注入といった財政支出の拡大によって、不況を乗り切ろうとした。
 しかしバブル経済を人為的に崩壊させた平成不況の爪痕は想像以上に大きく、1994年頃から金融機関の破綻が相次ぐようになり、兵庫銀行が戦後初の銀行倒産となった。消費税を5%に増税した1997年には北海道拓殖銀行と山一証券が、翌平成1998年には日本長期信用銀行(長銀)と日本債券信用銀行(日債銀)が破綻した。破綻を免れた他の大手銀行も、国から大規模な公的資金注入を受けてその場をしのぐ有様となった。景気悪化に伴い不良債権は増加を続け、金融庁によれば全国銀行の金融再生法開示債権残高は平成14年3月末には43.2兆円に達した。
 バブル経済の崩壊によって企業の経営が悪化したことから、1980年代までは「理想的な経営方法」ともてはやされてきた終身雇用制や年功序列型といった日本型経営が見直されるようになった。
 また日本国内における様々な規制や、人件費などのコスト高が不況時の大きな負担となっていた企業の中から、生産拠点を海外へ移転させる動きが、この頃から目立つようになった。これを多国籍企業化という。

世界経済の変化
 アメリカはこれまで経済成長の足かせになっていた巨額の軍事費と軍事技術を民間に還元し一気に躍進を遂げ、金融市場を操作して日本経済に逆襲を仕掛けてきた。アメリカをはじめとした海外企業の日本への進出も同時に進み、国境を越えてカネや人・モノ・サービスなどが自由に移動する経済のグローバル化の動きが加速した。さらに中国や東欧諸国が、かつての日本や西ドイツを見習い、より低コストの「規格大量生産品」を生み出すようになったため日本の既存のシェアが奪われて行った。
  日本企業の多国籍化は、国内産業の空洞化や雇用の減少、海外への技術流出といった問題も同時に引き起こし、そのあり方を見直す必要性が指摘された。その一方で、技術の定着が行える経営手法として日本的経営が再評価されつつある。

 また社会全体を見ると、少子高齢化により、働き手がいないという新たな問題が生じている。