高村光太郎 

高村光太郎 
詩人・彫刻家。著名な仏師・高村光雲を父として東京に生まれた。1905年(22歳)、ロダンの彫刻『考える人』の写真を見て衝撃を受け、翌年に欧米へ留学。父親譲りの彫刻技術でニューヨーク美術学校の特待生になる。1907年(24歳)にロンドン、翌年にパリに移り住み見聞を広める。欧州の自由で近代的な精神を身につけて帰国した26歳の光太郎は、日本の社会にこびり付いている古い価値観や美術界の権威主義と衝突、これに強く反発する。
 
光太郎は詩を書くという行為を「自身の彫刻の純粋さを守るため、彫刻に文学など他の要素が入り込まないようにするため」と考えていた。1911年(28歳)、雑誌『青鞜』創刊号(平塚雷鳥創刊)の表紙絵を描いた3つ年下の女流洋画家・長沼智恵子と出会う。3年後の1914年(31歳)、光太郞は第1詩集『道程』を刊行し、同年智恵子と結婚する。以前の光太郎の詩は、「一切が人間を許さぬこの国では/それ(近代的自我)は反逆に他ならない」と、社会や芸術に対する、怒り、迷い、苦悩に満ちたものだった。だが、智恵子と出会ってからは、穏やかな理想主義とヒューマニズムに包まれるようになった。光太郎は語る「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」。
ところが、1931年頃から智恵子は実家の破産などもあって精神を病み始め(統合失調症)、睡眠薬で服毒自殺を図る。未遂に終わったものの症状は進行し、1938年10月5日、智恵子は7年にわたる闘病の末、肺結核のため52歳で旅立つ。1941年(58歳)、他界から3年後に光太郎は30年に及ぶ2人の愛を綴った詩集『智恵子抄』を刊行した。

智恵子の死後、日本は太平洋戦争に突入。文学者や芸術家の大半が戦争に協力していくなか、人道的詩人であったはずの光太郎もまた、戦意高揚を目的とした戦争賛美の詩を作ってしまう。終戦後、ほとんどの知識人が「時代のせいだった、仕方がなかった」と開き直って活動を続ける一方で、光太郎はこうした態度をよしとしなかった。彼は旗振り役となって戦争遂行に協力したことを恥じると共に、これをいっさい弁明せず、岩手県花巻郊外の山間に身を引いた。そして、62歳から69歳まで7年間もの懺悔の謹慎生活に入る。そこは周囲に人家のない孤立した山小屋で、三畳ほどの小さな土間と自分で切り開いた畑しかなかった。その地で、心の中に生きている智恵子と暮らした。
1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去る。享年73歳。

●墓巡礼記
光太郞と智恵子は同じ墓に入っている。愛し合う2人の名が側面に並んで刻まれており、見つめていると様々な愛の詩が思い出され胸がいっぱいに。染井霊園の管理事務所で無料の案内マップを配布しているので、そちらを見ながら墓前に向かおう。



【 “智恵子抄”から。智恵子の発病前、発病後、死後に分けて、光太郎の詩を紹介 】

1.結婚から10年後。最も幸福に満たされている時代の詩。光太郎が東北福島にある
智恵子の実家に帰省していた時のもの。ここに出てくる阿多多羅山とは、現在の安達
太良山(あだたらざん)で、福島北部にある火山だ。智恵子の実家は酒蔵だった。

※分かりやすいように、一部現代語に変えています

●樹下(じゅか)の二人

あれが阿多多羅山(あたたらやま)
あの光るのが阿武隈川(あぶくまがわ)

こうやって言葉すくなに坐っていると、
うっとりねむるような頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬の始めの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでいるよろこびを、
下を見ているあの白い雲にかくすのは止しませう。

あなたは不思議な仙丹(せんたん)を魂の壺にくゆらせて、
ああ、何といふ幽妙(ゆうみょう)な愛の海底(ぞこ)に人を
誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟(けぶ)るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を
注いでくれる、
むしろ魔物のように捉えがたい
妙に変幻するものですね。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点々があなたのうちの酒蔵。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡った北国の木の香に満ちた
空気を吸おう。
あなたそのものの様な此のひんやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都(東京)、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いています。
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を
教へて下さい。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。


●あどけない話

智恵子は東京に空が無いといふ。
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間(あいだ)に在るのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとうの空だといふ。
あどけない空の話である。




2.心の病になった後

●山麓の二人 ※磐梯山=福島北部の火山
 
二つに裂けて傾く磐梯山(ばんだいさん)の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野(すその)遠くなびいて波うち
芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
半ば狂える妻は草をしいて坐し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のように慟哭する
――わたしもうぢき駄目になる
意識を襲う宿命の鬼にさらわれて
のがれる途(みち)無き魂との別離
その不可抗の予感
――わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙って妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返って
わたくしに縋(すが)る
この妻を取り戻すすべが今の世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃(げき)として二人をつつむ此の天地と一つとなつた


●千鳥と遊ぶ智恵子

人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわって智恵子は遊ぶ。
無数の友達が智恵子の名を呼ぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾(あし)あとをつけて
千鳥が智恵子に寄って来る。
口の中でいつでも何か言ってる智恵子が
両手をあげてよびかえす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を智恵子がねだる。
智恵子はそれをぱらぱらに投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子を呼ぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向こうへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。




3.智恵子が亡くなった後、最初に書かれた詩

●レモン哀歌

そんなにもあなたはレモンを待っていた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとった一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱっとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
こういう命の瀬戸ぎわに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓(さんてん=山頂)でしたような深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まった
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

※僕はラスト2行…仏壇の写真を描いたここが一番泣きそうになる…



4.晩年、智恵子の死から11年後。
山小屋における66歳の詩。

●案内

三畳あれば寝られますね。
これが小屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のように美味。
あの畑が三畝(うね)、
今はキャベツの全盛です。
ここの疎林(そりん)がヤツカの並木で、
小屋のまわりは栗と松。
坂を登るとここが見晴らし、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでいる突き当りの辺が
金華山(きんかざん)沖ということでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
後ろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん こういうところ好きでせう。