黒澤明

少年時代
 日本映画界を代表する映画監督として小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男らと共に、「世界のクロサワ」の称された黒澤明の作品は各国の映画人から熱烈に支持されている。
 1910年、黒澤明は明治末期に東京都品川区東大井に4男4女の末っ子として生まれている。身長181cmの黒澤は明治生まれの男としてはかなりの巨漢だった。父は元軍人で体育教師、兄は活動写真の弁士(無声映画の解説係)。8歳の時に転校先の小学校で、後に共同で「酔いどれ天使」「素晴らしき日曜日」の脚本を書くことになる植草圭之助と知り合う。翌年、担任の先生に絵を誉められ絵を描くことが大好きになる。
 1923年(13歳)、14万人もの犠牲者を出した関東大震災に遭遇、黒澤の家も倒壊する。その直後に黒澤は4歳年上の兄に焼け跡を見に行こうと誘われ、後の人生に大きく影響を与える衝撃的な体験をする。

恐ろしい遠足
 兄は尻込みする私を引っ立てるようにして、広大な焼け跡を一日中引っ張り回し、おびえる私に無数の死骸をみせた。黒焦げの屍体も、半焼けの屍体も、どぶの中の屍体、川に漂っている屍体、橋の上に折り重なっている屍体、四つ角を一面に埋めている屍体。そしてありとあらゆる人間の死に様を私は見た。私が思わず眼をそむけると、兄は私を叱りつけた。「明、よく見るんだ」。いやなものを、何故むりやり見せるのか、私には兄の真意がよくわからず、ただただ辛かった。特に赤く染まった隅田川の岸に立ち、打ち寄せる死骸の群を眺めたときは、膝の力が抜けてへなへなと倒れそうになった。兄は私の襟を掴んで、しゃんと立たせて繰り返した。「よく見るんだ、明」。私は仕方なく、歯を食いしばって見た。眼をつぶったって、一目見たその凄まじい光景は瞼に焼き付いて、どうせ見えるんだ。そう思ったら、少し腹が坐ってきた。
 兄はそれから隅田川の橋を渡り、私を被服廠(ひふくしょう)跡の広場へ連れていった。そこは関東大震災で一番人の死んだ処である。 見渡すかぎり死骸だった。そしてその死骸は、ところどころに折り重なって小さな山をつくっている。その死骸の山の一つの上に、座禅を組んだ黒焦げの、まるで仏像のような死骸があった。兄はそれをじっと見て、しばらく動かなかった。そしてポツンと云った。「立派だな」。私もそう思った。その時、私は死骸を嫌というほど見過ぎて、死骸も、焼け跡の瓦礫も区別の付かないような不思議と平静な気持ちになっていた。
その恐ろしい遠足が終わった夜、私は、眠れるはずはないし、眠ったにしても怖い夢ばかりを見るに違いないと覚悟して寝床へ入った。しかし、枕に頭を載せたと思ったら、もう朝だった。それほどよく眠ったし、怖い夢なんか一つも見なかった。あんまり不思議だから、その事を兄に話してどういうわけか聞いてみた。兄は云った。「怖いものに眼をつぶるから怖いんだ。よく見れば怖いものなんかあるものか」。今にして思うとあの遠足は、兄にも恐ろしい遠足だったのだ。恐ろしいからこそその恐ろしさを征服するための遠征だったのだ。
 黒澤は最高の兄を持った。彼はこの遠足を通して「よく見る」ことの重要性を学び、13歳にして大人顔負けの人間観察力が培われた。(自伝「蝦蟇(ガマ)の油」より)

黒澤青年
 中学に入ると黒澤は電車賃を浮かせて本を買っては読み耽るようになった。以下は文学についての黒澤の言葉。
「世界中の優れた小説や戯曲を読むべきだ。それらがなぜ“名作”と呼ばれるのか、考えてみる必要がある。作品を読みながら湧き起こってくる感情はどこから来るのか?登場人物の描写やストーリー展開に、どうして作者は熱を入れて書かねばならなかったのか?こういったことを全て掴み取るまで、徹底的に読み込まなくてはならない」
「自分の人生経験だけでは足りないのだから、人類の遺産の文学作品を読まないと人間は一人前にならない」
「ドストエフスキーについてあんな優しい好ましいものを持っている人はいないと思う。それは何というのか、普通の人間の限度を越えておると思うのです。それはどういうことかというと、僕らが優しいといっても、例えば大変悲惨なものを見た時、目をそむけるようなそういう優しさですね。あの人は、その場合、目をそむけないで見ちゃう。一緒に苦しんじゃう、そういう点、人間じゃなくて神様みたいな素質を持っていると僕は思うんです」このドストエフスキー評にある「目を背けず一緒に苦しむ優しさ」は、まさに黒澤監督が持っていると思う。それは「恐ろしい遠足」で身につけたものかもしれない。この「優しさ」があるからこそ、世界中に黒澤ファンがいる。また黒澤が文学を読めと訴え続けたのは、読書を通して多様な価値観と出合い、他人(作者)の立場になって世界を見る力を養えということだろう。そこから異なる意見への寛容さが生まれるし、それが人間にとって一番大切なことだと言いたかったんだと思う。
 1928年(18歳)、画家を志し美術学校を受けるも不合格。しかし静物画が二科展に入選する。翌年、日本プロレタリア美術家同盟に名を連ね、白土三平の父から洋画を学ぶ。1933年(23歳)、黒澤が慕っていた兄がリストラ反対を訴える労働運動で挫折し、愛人と心中する。黒澤はボロボロに打ちのめされ、同年、長兄も病死した。その後3年間、黒澤は画家を目指し、アルバイトで画材代を稼いでいたが自分の絵描きとしての才能に疑問を抱き始めていた。
 1936年(26歳)、そんなある日、黒澤の目に運命を変える新聞広告が飛び込んだ「助監督募集」黒澤は自殺した弁士の兄からたくさん良い映画を教えられていた。かくして、5名の募集枠に500人が申し込んだ狭き門を黒澤は突破し、晴れてP.C.L.映画制作所(現東宝)に入社した。山本嘉次郎監督をはじめ、様々な監督の下で助監督を務め並行して脚本を書きまくった。
「山さんは、監督になりたければ先ずシナリオを書け、と云った。私もそう思ったからシナリオを一生懸命書いた。助監督は忙しい仕事だからシナリオを書く暇はない、というのは怠者だ。一日に一枚しか書けなくても、一年かければ、三百六十五枚のシナリオが書ける」(黒澤)

監督デビュー
 1943年(33歳)、黒澤は助監督の腕を高く評価され異例の速さで昇進し、「姿三四郎」で監督デビューを果たした。本作品は迫力満点の決闘シーンで大ヒットした。翌年、戦時ゆえ戦意高揚映画を撮らねばならない制約下で、女子工員の青春を生き生きと描いた「一番美しく」を監督した。この作品でヒロインを演じた矢口陽子と黒澤は翌年結婚し、同年に長男・久雄が生まれる。
 終戦直後に完成した「虎の尾を踏む男達」は、歌舞伎の「勧進帳」を題材にしたもの。娯楽性を出す為にオリジナルの道化を登場させたことから、「歌舞伎を愚弄している」と怒ったGHQの日本人検閲官によって公開禁止となった。
 黒澤は33歳の「姿三四郎」以降、55歳の「赤ひげ」までほぼ毎年のように作品を撮り続けた。1945年に「続姿三四郎」を公開、1946年の「わが青春に悔いなし」では京大の滝川事件をモチーフにして原節子を主演に迎えた。1947年、貧しいカップルの一日を追った「素晴らしき日曜日」のラストには「未完成交響曲」(シューベルト)のコンサートをもってきた。ここには戦後の荒廃した国土を生きる民衆には芸術が必要なのだという切実な思いが込められていた。

三船との出会い
 1948年(38歳)、黒澤は別映画のオーディションに落ちたデビュー1年目の若手俳優・三船敏郎に一目惚れし「酔いどれ天使」に抜擢した。結核に侵されたヤクザと酒飲みでお人好しの町医者との交流を描き、観客は三船の圧倒的な存在感に度肝を抜かれた。黒澤いわく「三船君は特別の才能の持主で代わる人がいない」。以降、黒澤&三船のタッグは計16本にも及んだ。
「酔いどれ天使」の撮影中に黒澤の父が他界。死に目に会うことが出来なかった黒澤が放心状態で街を歩いていると、どこからか明るい「カッコウワルツ」が聞こえてきて、胸中の悲しみがいっそう深まった。その体験から「酔いどれ天使」の中でも、肺結核で苦しみ闇市をさ迷う三船の背後にカッコウ・ワルツを流して悲劇性を浮かび上がらせた。
 翌1949年には「静かなる決闘」と「野良犬」、1950年(40歳)には「醜聞」と「羅生門」というように、2年連続で2本ずつ精力的に撮影した。演出上の挑戦も多く、「羅生門」では雨の土砂降り感を出すために、墨汁入りの雨を数台の消防車で降らせた。1951年(41歳)、ドストエフスキー原作の「白痴」を完成させる。舞台をロシアから北海道に変え、純真さゆえに狂人扱いされる主人公を描いた。ロシア文学LOVEの黒澤にとって渾身の力作であり、当初は4時間半もあったが、松竹首脳が「長すぎる」という理由で大幅なカットを要求され2時間46分になった。黒澤は山本嘉次郎監督への手紙の中で「フィルムを切りたければ縦に切れ」と悔しさ溢れる胸中を吐露した。

「羅生門」で世界が絶賛
「白痴」公開の4ヶ月後、イタリアからヴェネチア国際映画祭で「羅生門」が金獅子賞(グランプリ)に輝いたとニュースが届いた。まだ戦争の爪痕が各地に残る中(敗戦から5年)、日本映画が世界から評価されたことが、日本人の沈んだ気持ちを明るくさせた。もしあと半年受賞が早ければ、「白痴」はオリジナルのまま公開されたかも知れない(こんなに残念なことはない)。金獅子賞の授賞式では、日本人関係者は受賞できると思っていなかったので誰も出席しておらず、主催者は「日本人によく似たベトナム人」を壇上に上げて授与した。「羅生門」完成時に大映の永田社長は「こんな訳の分らん映画を作りやがって」と激怒し、制作した重役たちを左遷したが、受賞の知らせを受けると一転して制作したのは自分だと胸を張った。ともあれ永田社長はその後海外の映画祭に積極的に出品し、多くの賞を得ることになる。1982年、「羅生門」はヴェネチア国際映画祭50周年を記念して過去のグランプリ作品から最高傑作として“「獅子の中の獅子」賞を受賞した。
 翌1952年、「羅生門」は第24回アカデミー賞特別賞(外国語映画賞)も獲得した。その1ヶ月後、GHQがお蔵入りにした例の「虎の尾を踏む男達」が7年ぶりに日の目を見た。同年9月、末期ガンの役人が民衆の為に力を尽くす「生きる」を発表。志村喬の名演が観客の涙を誘い、ベルリン国際映画祭で上院特別賞を受賞した。

「七人の侍」誕生
 1953年は黒澤映画が公開されなかった。監督デビュー以来、1年を通して未発表というのは初めてのこと。それはスランプではなく、ある大型時代劇を撮影していたのだ。上映時間、3時間半。1954年(44歳)に公開された、世界映画史に燦然と輝くその作品の名は「七人の侍」である。農民達が野盗(野武士)の襲撃から村を守るために雇った七人の侍の物語で、集団を映しながらも一人一人の生命の重さを描き切った傑作。雨、汗、泥、血、それら全てが画面全体から客席へ雪崩れ込み、大地が割れんばかりのパワーが冒頭から最後までみなぎっている。映画を見たというより体験したような感じで総制作費2億1千万円(当時の一般映画7本分の制作費)であった。この大作に挑んだ心意気を黒澤は後にこう語った「観客に腹一杯食わせてやろうと。ステーキの上にウナギの蒲焼きを載せ、カレーをぶち込んだような、もう勘弁、腹いっぱいという映画を作ろうと思った」。「七人の侍」は世界の映画人の心を鷲掴みにし、海外ではリメイクの「荒野の七人」をはじめ、「地獄の七人」「黄金の七人」「宇宙の七人」など七人ものが数多く制作された。スピルバーグいわく「映画の撮影前や制作に行き詰まった時には、もの作りの原点に立ち戻るために必ずこの映画を見る」。同年、公開から半年後に「七人の侍」はヴェネチア国際映画祭の銀獅子賞に輝いた。
 1955年、反核映画「生きものの記録」が完成。1957年、シェイクスピアのマクベスを戦国時代に置き換えた「蜘蛛巣城」とゴーリキー原作の「どん底」を公開。1958年(48歳)、痛快娯楽活劇「隠し砦の三悪人」を生み、この作品からジョージ・ルーカスは「スター・ウォーズ」のキャラクター、R2-D2&C-3POを誕生させた。「隠し砦の三悪人」は観客から喝采を浴び、ベルリン国際映画祭・銀熊賞監督賞に選ばれたが、例の如く撮影期間の大延長によって制作費が膨らんだ。翌年、これに悲鳴を上げた東宝は黒澤に“黒澤プロダクション”を作らせ、以降は共同制作という形にして制作費の削減をうながそうとした。
 50代になった黒澤の手腕はますます冴え渡っていく。1960年の社会派サスペンス「悪い奴ほどよく眠る」では、結婚式で始まる冒頭シーンを、フランシス・F・コッポラが「ゴッドファーザー」で参考にした。1961年(51歳)、黒澤が娯楽を追求したという「用心棒」では、時代劇として初めて「ズバッ」という刀の斬殺音を入れ、翌年の「椿三十郎」ではコメディ・タッチでありながら戦慄の決闘シーンで締めるという、油が乗り切った演出で観客を唸らせた。三船は「用心棒」でヴェネチア国際映画祭最優秀男優賞を受賞。1963年(53歳)、実際にこの映画の手口を真似した事件が起こり、ルーカスが「サスペンス映画の最高傑作」と讃える「天国と地獄」が完成。翌年、江戸の庶民を助けた名医を描いた「赤ひげ」(山本周五郎原作)の撮影をスタート。黒澤の徹底した「完全主義」の結果、巨大オープンセットでの撮影期間は約1年に及び、またしても予算が大幅オーバー。怒った東宝は専属契約を解除した。「赤ひげ」は1965年に公開され、三船は2度目のヴェネチア国際映画祭最優秀男優賞を受賞したが、これが黒澤と三船敏郎の最後の顔合わせになった。「三船無くして黒澤は無く、黒澤無くして三船は無い」と言われた蜜月は去った。

冬の時代
 ここから黒澤の暗黒期が始まる。1966年、米国の映画会社と合作する予定だった「暴走機関車」が、キャストまで決まった段階で中止になり(カラー撮影を希望する黒澤と白黒を要求する米側が衝突)、1969年にはハリウッド大作「トラ!トラ!トラ!」で日本パートを監督するはずが、キャスティングのミスからストレスを抱え込み、現場スタッフとも激しく対立して降板した。あれほど多作だった黒澤が4年間も作品を発表しないという異常事態に、有志が赤坂プリンスホテルに集い「黒澤明よ映画を作れの会」を催した。同年、木下惠介、市川崑、小林正樹らと共に四騎の会を結成した。
 1970年(60歳)、資金捻出のために自宅を抵当に入れ、四騎の会制作で5年ぶりの新作となる初カラー作品「どですかでん」(山本周五郎原作)を発表。だが、娯楽性よりも芸術性を重視した作風が観客に受け入れられず興行的に失敗し、翌年暮れに浴槽でカミソリ自殺をはかる。傷は首筋5カ所、右手6カ所、左手10カ所の計21カ所にも及んだ。
 黒澤は巨額の制作費を恐れた日本の映画会社から干された形になり、再び映画制作から遠ざかる。その黒澤に「映画を撮りませんか」とカムバックの手を差し伸べたのは、なんと冷戦下で対立していたソビエト連邦(当時)だった。黒澤は「白痴」「どん底」など、ロシア文学の映画化によってソ連でも人気が高く、資金提供を申し出たのだ。1975年(65歳)、黒澤は零下45度という過酷な撮影環境の中にあって2年がかりで最後まで撮り終え「デルス・ウザーラ」を発表した。大自然との共生を謳った本作品はモスクワ映画祭金賞を受賞し、翌年には第48回アカデミー賞外国語映画賞に輝いた。同年、日本政府から文化功労者に選ばれる。しかし、それでもなお日本の映画会社は黒澤に冷たかった。相変わらず制作資金の提供はなく、黒澤は新作を撮ることが出来なかった。

ライフワーク~「乱」
 次回作として構想していたのは、シェイクスピアの傑作「リア王」をもとにした大型戦国絵巻。黒澤は「乱」の制作費をかき集める為に自ら奔走した。東宝に交渉した際、「乱」はストーリーが暗すぎるという理由で受け入れられず、代わりにエンターテインメント色を出した「影武者」を撮る。

 この「影武者」がカンヌでグランプリに輝き大ヒットし、監督いわく「乱」の制作費を捻出する為に、私は「影武者」を作った。「影武者」で大量の武具を作っておけば、「乱」で再びそれを使えるからだ。(実は「影武者」も撮影途中で資金不足になった。この時、援助してくれたのが「スターウォーズ」のジョージ・ルーカス&「ゴッドファーザー」のコッポラだった。そして「デルス・ウザーラ」の5年後、1980年(70歳)に「影武者」が公開される。「影武者」はカンヌ国際映画祭でグランプリを獲得し、興行的にも配収27億円という日本記録を叩き出した。
 しかし「影武者」が当たったにもかかわらず、重いテーマの「乱」はコケるとソロバンを弾いた東宝は資金提供を拒否し、なおも国内の映画会社は沈黙した。またしても5年の月日が流れたが、今度黒澤を助けてくれたのはフランス政府だった。仏は映画を第一級の芸術と認めていて、映画制作に国家が補助金を出している国である。ジャック・ラング仏文化相は黒澤に資金を提供する時にこう言った「日本で黒澤さんのような人が映画資金の調達が出来ないというのは不思議だ」。黒澤は答える「日本の映画界の首脳部は、新しいことはやろうとしない。映画を愛していないし、理解しようとしない。首脳部から私はむしろ嫌われている」。
 黒澤より一つ年上の映画評論家・淀川長治は、日本の優れた芸術をいつも海外が先に評価して、慌てて日本の評論家が真価を認めるという繰り返しを嘆いていた。黒澤が他界した時も、仏の大統領が日本政府より先に追悼声明を出している。
 1985年(75歳)、黒澤渾身の「乱」が完成した。脚本に10年、制作費26億円、武士のエキストラはのべ12万人、使った馬はのべ1万5千頭。「あなたの最高傑作は」という質問には、常に「それは次回作だ」と答えていた黒澤が、「乱」こそぼくのライフワークだと語った。本作品は天の視点から人間の業を描いた壮大な叙事詩となった。同年、フランス政府は黒澤に芸術分野で最高位となるコマンドゥール勲章を授与(レジオン・ドヌール・オフィシェ勲章は前年に授与済)。その2ヶ月後、日本政府から文化勲章が贈られた。「乱」は翌年のアカデミー賞で監督賞にノミネートされ、衣装デザイン賞を受賞した。

「乱」以降
 さらに5年後。1990年(80歳)、米国アカデミー協会は「世界中の映画ファンを楽しませると共に映画制作者に影響を及ぼしてきた功績」に敬意を払い、黒澤に“特別名誉賞”を贈る。第62回アカデミー賞授賞式の壇上でスピルバーグとルーカスにエスコートされた黒澤は「この賞に値するかどうか、少し心配です。なぜなら私はまだ映画が良く分かっていないからです。だからこれからも映画を作り続けます」とスピーチ。その謙虚な姿勢が映画人の胸を打った。同年、スピルバーグの協力で「夢」(米ワーナー・ブラザーズ配給)を発表。ここに来て、ついに松竹が動き翌91年に「八月の狂詩曲」を、そして1993年(83歳)には東宝と組んで監督30作品目となる「まあだだよ」(内田百閒原作)を世に送り出した。
淀川長治は「まあだだよ」をこう評した。「若い映画ファンの多くが、この師弟の物語を観て“時代おくれ”“照れくさい”“ついていけない”と言う。馬鹿かと思った。なぜ監督の、美を一途に追い求める姿勢が分からないのか。日本中が今、この温かさを受けつけなくなった。怖いし、悲しい。干からびた地面からは、このような枯れ木の若者が伸びるのか。この映画、乾いた土に水の湿りを与える」。

★巨星堕つ
 1997年(87歳)、三船敏郎が77歳で他界。その8ヶ月半後、1998年9月6日に黒澤も脳卒中により永眠。次回作として「雨あがる」「海は見ていた」の脚本を既に用意していた。享年88歳。遺作「まあだだよ」のクライマックスでは百閒の教え子たちが集まり、恩師の喜寿を大いに祝った。大勢の弟子に祝福されるシーンは、黒澤に育てられた“黒澤組”のスタッフたちが黒澤を慕う光景に見える。最後の作品が「まあだだよ」であったのは、映画人生の大団円といって良いだろう。
死の翌月、政府から映画監督としては初となる国民栄誉賞が贈られた。黒澤他界の2ヶ月後に淀川長治も世を去る(奇しくも淀川最後の解説は、「用心棒」をリメイクした「ラストマン・スタンディング」)。淀川の棺には愛用の眼鏡やチャプリンの写真が収められ、黒澤監督が愛用したひざ掛けがかけられた。翌年、米タイム誌は「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に黒澤を選出した。

1943年~1965年の22年間に23本も撮っていた黒澤が、資金不足のために1966年~1998年の30年間に7本しか作ることが出来ず、それらも旧ソ連、フランス、アメリカという海外の協力で完成したことを考えると、日本の映画会社の冷淡さ、日本政府の映画文化への過小評価に涙が出てくる。仲代達矢いわく、「黒澤監督はトルストイの大長編小説「戦争と平和」の映画化を計画していた」。これは観たかった!もし国家予算で黒澤を援助していたら、「戦争と平和」をはじめ、さらに20本ほど後世の人類への遺産が生まれていたに違いない。
最後に一言。なんといっても命は大切。もし黒澤監督が61歳の時に試みた自殺が未遂でなければ、その後の「影武者」「乱」「夢」など6作品はこの世になかった。嗚呼、生きていればこそ!骨太の社会派ヒューマンドラマから痛快娯楽時代劇まで、様々な名作を後世に残してくれた黒澤監督に心から感謝ッ!


●黒澤語録
・「撮影する時は、勿論、必要だと思うから撮影する。しかし、撮影してみると、撮影する必要が無かったと気がつくことも多い。いらないものは、いらないのである。ところが、人間、苦労に正比例して、価値判断をしたがる。映画の編集には、これが一番禁物である」
・「毎日、植草と私は、破いたり丸めたりした原稿用紙に囲まれて、渋い顔で睨み合っていた。もう駄目だ、と思った。投げ出そう、とも考えた。しかし、どんな脚本でも、一度や二度は、もう駄目だ、投げ出そう、と思うときがある。そして、それをじっと我慢して、達磨のように、そのぶつかった壁を睨んでいると、何時か道が開けるという事を、私は沢山脚本を書いた経験から知っていた」
・「観客が本当に楽しめる作品は、楽しい仕事から生まれる。仕事の楽しさというものは、誠実に全力を尽くしたという自負と、それが全て作品に生かされたという充足感が無ければ生れない」
・「些細なことだといって、ひとつ妥協したら、将棋倒しにすべてがこわれてしまう」
・「影武者」の撮影初日に、現場にビデオを持ち込んだ勝新太郎と衝突、勝は降板した。黒澤いわく「監督は二人要らない。カットがどう繋がるかは僕の頭にしかない。だからビデオで撮ったって参考にならない。監督が二人もいたんじゃ映画はできないよ」
・コッポラ監督の「地獄の黙示録」を見て→「戦いは残酷だから恐ろしいのではない。その残酷さが時には美しく見えてしまうから恐ろしいのだ」

●妥協を許さない黒澤
・延々と繰り返される演技リハーサル。それだけで数ヶ月に及ぶのもザラ。「乱」で寺尾聰は天守閣から夕日を眺める約30秒のシーンで黒澤から「OK」をもらうまで約8ヶ月かかった。また、隆大介は「哀れ、老いたり」のセリフを50回も言わされてようやくOKが出た。
・ロケ時の“雲待ち”。俳優や全スタッフを待機させ、希望した天候になるまで何日も待ち続ける。
・大道具や小道具をカメラに写らないところにまで作り込む。
・撮影用の馬を数十頭も買い取り(普通は借りる)、鉄砲の音に慣れさせるなど長期間調教してから使う。
・撮影に邪魔な民家があると住人に立ち退きを迫った。
・「天国と地獄」では列車を使って身代金を渡す約4分間のために、列車を丸ごと借り切り、8台のカメラで同時撮影を敢行。
・「羅生門」の森のシーンでは、ギラギラした人間の欲望を浮き彫りにするため、従来の常識を破って太陽にカメラを向けた。そして森の枝葉を黒いスプレーで塗ることで陰影を強調させた。
・「七人の侍」では百姓たちの古びた農家の質感を出すために、木材の表面を燃やしてから水で洗って木目を浮かび上がらせ、着色後にワックスで艶を出し、それからオープンセットを組んだ。百姓の衣装は着物を一度土に埋め、数日後に取り出しからタワシでこすって古さを出した。若い男女が出会うシーンでは、毎日山から集めた野菊を数台のトラックで運搬し、場の全員で地面に埋め込んだ。また、村人を本物らしくする為に家族構成表を作成し、カメラが回っていない時も家族単位で行動させた。これによって、実際に家族のような空気が生まれた。
・「デルス・ウザーラ」では“ロシアの黄金の秋”を撮るために、人工の紅葉を森の木々に1枚ずつ貼り付けていった。
・「赤ひげ」の撮影開始前に、黒澤はスタッフを集めてベートーヴェンの“第九”を聴かせこう言った「最後にこの音色が出なかったら、この作品はダメなんだ。このメロディーが出なかったら」。
・脚本段階で登場人物の肉付けを徹底的に行う。生まれた場所、家族構成、趣味、体格、生活環境から歩き方まで、大学ノートにどんどん書き込んでいった。また、数名で脚本を書き、一番面白いものを選んで内容を深めていった。
・「乱」で炎上した“三の城”はCGではなく4億円をかけて築城した高さ18mの本物の城。ベニヤ板ではない。
・「乱」の後半の合戦シーンでは、スタッフが必死で掻き集めた700名のエキストラを前に「200名足りない」と撮影を中止した。

●黒澤トリビア
・「夢」に登場する川面の撮影方法はタルコフスキー監督から伝授されたもの
・「シンドラーのリスト」(スピルバーグ監督)で赤い服の少女だけがカラーになる演出は、「天国と地獄」の煙のシーンを模したもの。
・サム・ペキンパー監督が多用するアクション・シーンのスローモーションは、「七人の侍」で民家に立てこもった悪党が志村喬に討たれるシーンから来ている。
・「生きる」「用心棒」「酔いどれ天使」などで庶民にタカるヤクザの醜さを怒りと共に描いており、黒澤はヤクザが大嫌いだった。
・肉料理、煙草、そしてジョニーウォーカーやホワイトホースといったウイスキーを深く愛した。
・山田洋次監督が晩年の黒澤を自宅に訪ねると、黒澤とは作風が正反対であり、ライバルと言われた小津監督の「東京物語」をビデオで観ていたので驚いたという。
・サタジット・レイ監督のインド映画「大地のうた」を、黒澤は最も評価していた。また、大林宣彦監督の「さびしんぼう」を好んで見ていた。
・黒澤が激怒した際に使う最大の罵倒は「このでこすけ!」。
・「オーストラリアに滞在していた時に、現地で黒澤監督特集が催され、そのおかげで日本人観まで好転した。パスポートだけでなく芸術の力で私達がいかに守られていることか」(井上ひさし)

●黒澤LOVEな映画人
・スピルバーグ監督「黒澤監督は私の人生の師であっただけでなく、私たちの世代にとって父と仰ぐ存在でした。監督の作品から受けた恩恵と影響ははかり知れません。しかもその影響は現代映画に関わる人すべてに及んでおり、ジョン・フォード監督も黒澤監督の大ファンだったんですよ。以前、黒澤監督と東京の天ぷら屋で、朝まで映画について語り合ったことは一生忘れません」
・マーティン・スコセッシ監督「黒澤監督は常に前衛的な挑戦をする人でした。壮大な叙事詩をスクリーンに紡ぎ出す才能を持ち、作品はさながら18~19世紀の絵画のようでした。黒澤監督の演出はとても大胆で力強く、画面からは熱いエネルギーを感じます。私は今でも黒澤作品を見る度に“恐れ入りました!”と思うんです」※スコセッシはDVD「天国と地獄」の解説を担当。
・イーストウッド監督「クロサワは自分の映画人生の原点だ」※彼はカンヌ映画祭の会場で「ミスター・クロサワ。あなたなしでは今日の私はなかった」と黒澤の頬にキスをした。
・スウェーデンの名匠ベルイマン監督「私にとってクロサワだけが神だった」
・ジョージ・ルーカス監督「黒澤監督の「天国と地獄」はサスペンス映画の最高傑作だ!」

●黒澤映画、我が心のベスト10
(1)乱(2)七人の侍(3)白痴(4)どですかでん(5)椿三十郎(6)生きる(7)用心棒(8)羅生門(9)隠し砦の三悪人(10)夢

●黒澤映画、このセリフが好き!5選
・「人を憎んでいる暇はない。わしにはそんな時間はない」~生きる※主人公は胃ガンで余命5ヶ月
・「泥沼にだって星は映るんだ」~酔いどれ天使
・「これは…俺だ!俺もこうだったんだぁ!」~七人の侍※親を殺された赤ん坊を抱いた菊千代
・「身ひとつで生きていけるのは鳥やケダモノだけだ」~乱
・「俺が貴様にどんな悪いことをしたというのか?」「じゃあ、どんないいことをしてくれたね?」「…」「人にいいことをしなかったのは、悪いことをしたと同じだ」~どん底