近松門左衛門

近松門左衛門
江戸前期の浄瑠璃(じょうるり、三味線に合わせた語り物)・歌舞伎の作者。
※浄瑠璃と人形劇がくっついたものを文楽(人形浄瑠璃)という。
本名は杉森信盛。越前福井出身、俸禄300石の武家の次男。先祖は浅井長政や秀吉に仕えていた。ペンネームは芸能の神を祀る近江・近松寺(ごんしょうじ)にかけ、その寺に入ることができない門前の小僧というシャレっ気から“近松門左衛門”としたと言われている。10代前半に父が何かの理由で失職し浪人になったことから、一家は京都へ出る。若き近松は都で公家に仕えたが、この公家は自分で浄瑠璃を書くほどの愛好者だった。20歳ごろ、その使いとして何度も文楽に通う内に、彼もまた浄瑠璃にハマってしまう。
※京都の四条河原は1603年に出雲阿国が歌舞伎(踊り)を始めて以来、芸能興行の中心になっていた。

人形を見つめる客が興奮で顔を輝かせるのを見て「うわー、自分も台本(浄瑠璃)を書いてみたい!皆を喜ばせたいッ!」と思うようになった。だがしかし!当時の芸能関係者は士農工商のどこにも属さないことから、身分の卑しい「河原者」「河原乞食」と蔑まれていた。近松は曲がりなりにも武家出身。封建制度の頂点となる武士階級から最底辺の芸能の世界に足を踏み入れるのは、プライドや面子を全てかなぐり捨てることで、よっぽど腹をくくらねば無理なことだった。だが、近松は人間を語りたかった。どうしても命の歌を描きたかった。近松は武士の身分を捨てた!
 
1677年、24歳の近松は京の「浄瑠璃語り」の第一人者・宇治加賀掾(かがのじょう)の弟子になる。下積み時代の近松は、舞台で使う小道具を修理したり、副業で講釈師をして生活費をまかない修業を続けた。
1683年(30歳)、初めてのヒット作となる『世継曽我』を執筆。古典の改作が主流だった浄瑠璃界に、近松はオリジナル作品で挑んで注目される。加賀掾が語る劇中の「さりとても 恋はくせもの」は京でブームになる。
翌年、大阪道頓堀で文楽を見せる「竹本座」を旗揚げした竹本義太夫(農民出身)も、『世継曽我』をこけら落としで演じ成功させた。義太夫は後に「義太夫節」と名付けられる骨太&硬派な語りで人気を得た。
義太夫の噂を聞いて京でライバル心を燃やした加賀掾は、井原西鶴とタッグを組んで大阪に乗り込む。義太夫はこれに対抗する為、近松に新作を依頼した。これを引き受けた近松は、1685年(32歳)に平家滅亡500年にからめて『出世景清』を彼の為に書き下ろした。
『出世景清』は、それ以前(約60年)の作品を古浄瑠璃、以後の作品を新浄瑠璃と2分するほどの画期的なものとなった。古典で悪党とされる平家の侍大将に深みのある性格を持たせ、義太夫の迫力ある声と情感を込めた節回しで観客の心を鷲掴みにし大ヒット。後に他の人形浄瑠璃の語りが「義太夫節」一色になるきっかけになった。

※出世景清…平家残党(侍大将)の平景清が源頼朝への復讐を誓うが、命を狙う過程で幾つもの人命が失われ、景清は頼朝への恨みを絶つ為に自ら目をえぐりとるという凄絶なもの。従来はただの悪党とされていた景清に、その心の弱さをさらけ出させ、観客の涙を絞った。単なる勧善懲悪ではない物語の誕生だ。

この当時、文楽は語り(太夫)が、歌舞伎は役者が主役であり、台本の作者は影の存在として名乗ることを禁じられていた。しかし、『出世景清』の成功によって筆一本で立つ自信がついた33歳の近松は、原作者の地位向上を求めると共に、自身は完全に武士の身分と決別するべく、史上初めて台本に「作者・近松門左衛門」と誇りを持って名前を記入した。これは作者と太夫の立場を対等にしようとする近松の決意表明だった。(この頃、批評家から「やめさせたいもの、近松の作者付け(作者の名乗り)」と非難されている)

それから8年間ほど、30代の間はずっと義太夫の為に浄瑠璃を書き続けたが、次第に歌舞伎方面からも脚本の依頼が入り始める。当時は四条河原に7件も芝居小屋があったことから、どの一座も互いに激しくしのぎを削っており、都万太夫座(現・南座)の人気役者・坂田藤十郎(初代)は他の舞台と違いを出す為に、見かけの派手さで勝負するのではなく、「ストーリー重視」の方向性を打ち出した。この時目に止まったのが、浄瑠璃界で上り調子の近松だった。藤十郎は近松の恩師・加賀掾と親しかったこともあり、近松は40代のまる10年間を都万太夫座の座付作者として過ごし、藤十郎の為に『傾城仏の原』など約30本もの歌舞伎台本を書いた。
しかし、作品はどれも人気作となったものの、近松の不満は次第につのっていく。歌舞伎は役者の権力が絶大で、作者は役者の意向に合わせて書かねばならず、浄瑠璃以上に制約があり作者の地位が低かったのだ。これでは創作欲が満たされない。赤穂浪士が吉良邸に討ち入った1702年(49歳)、近松はかつての盟友、大阪の竹本義太夫から説得されて、歌舞伎界から浄瑠璃界に戻って行く。

この頃、竹本義太夫はピンチだった。「竹本座」は歌舞伎にすっかり客を取られ彼は借金を重ねていた。「頼む、近松、助けてくれ…人形浄瑠璃の灯が消えてしまう」。義太夫は起死回生を狙って近松の台本に最後の望みを賭けたんだ。近松は義太夫より2才年下。何とか協力したいが、10年間ずっと歌舞伎を見てきただけに、文楽の難しさを改めて痛感していた。どうすれば歌舞伎から観客を呼び戻すことが出来るのか。「生きた人間の芸を見せる歌舞伎小屋が隣に並んでいるのに、命の無い人形に様々な情を持たせて客を感動させようと言うのだから、余程の台本を書かないと名作とは呼ばれない」(近松)。
そんなおり、1703年4月7日に大阪・曽根崎の露(つゆ)天神社(通称お初天神)で醤油屋の手代(親方の代理人)徳兵衛(25歳)と遊女お初(21歳)が心中事件を起こす。偶然京都から大阪へ所用で来ていた近松は、現場に足を運び若い2人の亡骸から心の叫びを聞き、胸を激しく動かされた。近松は、自由な恋愛が許されない封建社会の不条理を描く決意をした。

名もなき男女を主人公にする--これは文楽史上の革命だった。それまでの演目は歴史上の英雄や武将を主人公にした“時代物”(軍記物)しかなかったからだ。そこへ初めて、同時代を生きる町人を主人公にした“世話物”というジャンルの作品を誕生させたんだ。近松は『曽根崎心中』をわずか3週間で書き上げ、事件のちょうど1ヶ月後の5月7日に竹本座で初演した。観客はヒーローが暴れる荒唐無稽な武勇伝ではなく、初の等身大の人間ドラマ、自らが身を置く世界で、自分の分身のような登場人物が懸命に生きる姿に猛烈に感情移入し、感涙にむせんだ。『曽根崎心中』は瞬く間に評判になった。義太夫はこの作品一本だけで全ての借金を完納したという。

※『曽根崎心中』…大阪内本町の平野屋(醤油屋)の手代徳兵衛(25)は、北新地の天満屋の遊女お初(21)と愛し合う仲。しかし徳兵衛に大きな期待を寄せている親方(徳兵衛の叔父)は、ゆくゆくは店を継がせるつもりで姪と結婚するよう迫る。だが徳兵衛はお初と一緒になりたくて縁談を断った。親方は姪よりも遊女を選んだ徳兵衛に激怒し、店はクビ、持参金を返せと迫る(徳兵衛の継母が先に持参金を受け取っていた)。徳兵衛は持参金を返そうとするが、友人の油屋九平次が緊急の金に困ってるというので、数日だけならと貸してあげた。ところが!九平次はとんだ悪党で、「借りた覚えは無い」の一点張り。挙句に貸し借りの際の証文を、徳兵衛が偽造したと因縁をつけ、道端で数人がかりで徳兵衛を殴打した。これでは親方に持参金を返せない。公衆の面前で殴り蹴られて男も立たない。かくなる上は、死んで無実を証明しようとお初と共に曽根崎の森に入って行く。お初は嬉しかった。大好きな徳兵衛と一緒に死ねることが幸せでならない。森の中で包丁を握ったものの、なかなか刺せない徳兵衛に、思わず「早く殺して」とせがむお初。2人は一つの帯で体を離れないように結び、ついに徳兵衛がお初を刺し、続いて自らの首を刺した。
※『曽根崎心中』初演時の批評…「曽根崎心中 近年の大当たり “作者近松門左衛門”」。

以降、竹本座の座付作者となった近松は、新しく座本に就任した竹田出雲とも意気投合し、浄瑠璃制作に集中するべく、1706年(53歳)、40年近く住んでいた京都を離れ大阪に転居する。61歳の時に義太夫が他界すると、後継者の若い息子を助ける為に、近松にとっても生涯最大のヒット作となる『国性爺(こくせんや)合戦』(1715、62歳)を書き上げた。これは日中の混血児が大陸に渡って明朝を再興するという、日本と中国を股にかける大スペクタルで、異国趣味もあって実に17カ月という驚異的な超ロングランを記録した。時代物としては他に清盛から鬼界ヶ島に流された俊寛を描いた『平家女護島』(1719)なども残したが、真骨頂は町人が社会のしがらみに苦悩する姿を描い世話物で、飛脚問屋・亀屋忠兵衛と遊女梅川の逃避行を描いた『冥途の飛脚』(1711)、借金をめぐる実際の殺人事件を描いた『女殺油地獄』(1721)、そして死の4年前に執筆され、紙屋治兵衛と遊女小春の心中を描いた最高傑作『心中天の網島』(1720、67歳)などなど。これらを通して人々の圧倒的な共感を得た。

1723年(70歳)、続発する心中事件を憂慮した8代将軍吉宗は、心中物の出版、及び上演を一切禁止にする。翌1724年、上演禁止令で自作の心中物11編が引っかかりショックを受けてるとこへ、3月大阪が大火に包まれ竹本座も炎上。病床に就いた近松は死期が近づいていることを察したのか、11月初旬に礼装を着た自分の姿を描かせ、“終焉の期を待たず、あらかじめ自ら記す”として、次のような辞世文を書き込んだ。
『武家に生まれながら、町人となっても商いをせず、隠者のようで隠者にあらず、賢者のようで賢者ではなく、物知りのようで何も知らず、私は世のまがいものだ。中国の哲学や、芸術、笑い話の類まで何でも知っている風に口から出任せを言い、筆を走らせ、一生を鳥のようにさえずり散らしてきた。人生を去るにあたって、後世の人に伝える格言は一言半句も思い浮かばず当惑し、心の中で恥じ入っている。70余年はアッと言う間で、何ともおぼつかない一生が終わろうとしている。もし辞世を問う人がいればこれを残そう。
「それぞ辞世 去ほどに扨(さて)もそののちに 残る桜が花し匂はば」(私の死後も作品が残ったなら、その一文字一文字が私の辞世、この世に生きた証だ)※浄瑠璃本は桜の木の版木に刷るので、桜が匂う=作品が残るとした。
「残れとは思ふも愚か 埋づみ火の消ぬま あだなるくち木がきして」(とはいえ、残り火が消えるまでの短い間に書いた作品が、後世に残ってくれと思うのも愚かなことだなぁ)』
※近松が生涯に書いた作品数は約150本。“自分の書いたものが全部辞世だ”と言い切れるほどの自信を語った後に、“でも、これが残って欲しいなんて愚かだなぁ”と照れるように付け足す71歳の近松が、とってもカワイイ!(*^o^*)

近松はこの辞世文を書いた2週間後に大阪天満の自宅で生涯を終えた。戒名は「阿耨院穆矣日一具足居士」。墓は近松の菩提寺、尼崎・広済寺と、妻側の菩提寺の大阪・法妙寺に建てられ、共に夫婦の戒名が刻まれた比翼墓になっている。法妙寺は大空襲で焼失し大東市に再建され、後に墓だけが元の場所に戻された。その墓のすぐ近くには国立文楽劇場がある。

近松の作品は300年の時を超えて僕らを感動させる。江戸と現代人の価値観や生活環境が大きく変わっていても、僕らは『曽根崎心中』の公演を観に行ったり、『心中天網島』の映画を観て、作中の人物に共感し感動する。これは近松が人間根本の一番深い部分を見事に把握しているからだろう。「命のない人形を人間と同じ様に感じさせる為には、言葉の全てに“情”を込めるべき。その“情”の中心は“人情”である」(近松)。そう、人情は300年経っても変わらない!