西村公朝

 1915年大阪の高槻市に生まれた西村公朝は、仏師として昭和・平成と活躍し、その卓越した技術と膨大な仕事量から「最後の仏師」と言われた。1935年に西村公朝は(20歳)は東京美術学校(東京芸大)彫刻科に入学し、大学4年生の時、同校の古美術研究旅行で京都・奈良をまわり、法隆寺・夢殿の救世観音に感激し、1940年に卒業しすると、大阪の中学(旧制)の図画教師となるが、年末には退職し、翌年には26歳で美術院国宝修理所に就職した。 その4年前(1937年)から始まっていた京都・三十三間堂の千体千手観音像の仏像修理に加わったが、その矢先に召集令状を受け取り中国へ出征した。
  西村公朝は中国戦線で夜間行軍中、あまりの疲労の為に不思議な夢を見た。銃を持って前進する自分の左右に何千体何万体もの仏像が現れ、その仏像をよく見ると、どれもが割れたり欠けたりしていて、壊れた仏像が修理を求めるような表情だった。西村公朝は「私に直してほしいのならば、無事に日本へ帰してくれ」と声をかけると、果たして西村公朝は終戦まで大陸を転戦したが、自分は死なず1人の人間も殺さずに済んだ。
  1945(30歳)に帰国した西村公朝が三十三間堂に戻ると、現代彫刻の道に進まず、仏師として修復作業を行うことになる。仏師の道一本を天命としたのである。 1958年(42歳)に21年をかけてついに1000体すべての千手観音像の修理が完了し、公朝はその内の600体の修理に携わった。三十三間堂での大仕事が終わった翌年、44歳で美術院国宝修理所の所長に就任し、59歳で東京芸大教授に着任した。
 西村公朝は仏師として活躍するかたわら、37歳の時に僧侶になり、40歳で天台宗・愛宕念仏寺の住職に任命されている。
 愛宕念仏寺は約1300年前に京都東山に建立された古刹だが、平安初期に鴨川の洪水で寺が流され、醍醐天皇の命を受けた天台僧・千観内供(せんかんないぐ)によって千年前に比叡山の末寺として再興した。その後、次第に寺運は傾き、西村公朝が赴任した時は、愛宕念仏寺は京都一の荒れ寺と言われ、檀家もおらず境内は雑草が生い茂り荒廃しきっていた。本堂も傷んでいたが仏像たちの置かれている状況はもっと深刻だった。
  前住職は生活苦の為に次々と仏像を売り払い、本尊の千手観音は、腕を一本ずつバラ売りしたので、42本中残っていたのは僅かに4本のみだった。公朝は自分で足りなかった38本を彫り、数百年が経ったような退色した色を作り、これを腕に塗り完璧に修復した。さらに、全国各地の仏像を修理しながら、寺に戻っては少しずつ境内を整備していった。
「何とかして、現代を生きる人々に、もっと仏の教えを身近に感じてもらいたい」。こう思っていた公朝は、仏師の第一人者として「祈る気持ちさえあれば誰にだって仏像を彫れる」という確信から、寺の復興を祈願する思いを込めて、1981年(66歳)から一般参拝者に向かって「羅漢さんを彫りませんか」と呼びかけた。羅漢(阿羅漢)とは釈迦の弟子となって仏教を広め伝えた僧侶のことで、釈迦が他界する時に立ち会った羅漢は500人と言われており、彼らは「五百羅漢」と呼ばれている。釈迦入滅の100年後に、教義が誤って伝えられるのを防ぐ為に、700人の羅漢が大集会を開いて、釈迦の教え(言葉)を全員で再確認したとされている。
  公朝の呼びかけに全国から人が集まり、彼らは全く素人ながら公朝の指導を受けて石を刻み続け、彫り始めて10年後(1991年)、ついに願いは達成され。1200の羅漢が境内を埋め尽くしたのである公朝76歳であった。
  1994年、最晩年の大仕事となる釈迦十代弟子の制作を始めた。2003年、十代弟子の最後の1人を彫り上げたが、その2ヵ月後に西村公朝は他界した。初めて三十三間堂でノミを握ってから62年。この間、公朝が修復した仏像は、広隆寺・弥勒菩薩や平等院・阿弥陀如来など、実に1300体以上である。仏教と仏像の素晴らしさを、著作、講演、様々な媒体でやさしく説き続け、愛宕念仏寺を立派に復興させて旅立った。これら全ての根底にあるのは20代後半に戦場の夢であった、壊れた仏像たちとの約束。公朝は晩年になっても、口癖のように繰り返していた「あの仏像を思い出すと、約束を果たしたとは到底言えない。見渡す限り何万とあったからである」。


ふれ愛観音
 愛宕念仏寺の境内には1991年に76歳の公朝が制作した「ふれ愛観音」が安置されている。それまでお寺の仏像は触ってはいけないとされてきた。しかしふれ愛観音は誰でも触れて拝み御利益を受けることができるのである。この観音様は手で触れられることを喜んで下さるのである。目の不自由な方にでも仏様の姿がわかるようにという願いから作られ、京都の清水寺などにも置かれている。
  ふれ愛観音ができたのは、ある全盲の女性が仏像をぜひ触ってみたいと公朝に述べたことによる。これまでお寺に御参りする事はあっても、仏像の形が全く想像できず、自分がどんなものを拝んでいるのか分からなかったことを訴えたのである。それまで大切な仏像を触らせてくれる寺などなかった。
 この時、理解を示してくれたのが、仏師として誰よりも仏像を愛していた公朝だった。「仏師は観賞用に仏を彫るんじゃない。人々と共に在って初めて仏も生きる」そう言って全盲の女性を京都仁和寺に招待した。この時公朝が案内した仏像は、平安初期の国宝・阿弥陀如来である。全女は阿弥陀の足、手、頬に触れ、1200年前の仏師の息づかいを聞いた。仏師たちの「この仏で苦しむ人を一人でも救いたい」という祈りに触れた盲女は、阿弥陀仏の両手を握ったままである。
盲女は「私は触れる事で生きている。触れるという事、それは時に危険だったり、恐ろしいものであるかもしれない。でも、私はぶつかって行くしかない。触れる事が私にとって世界を確かめるすべなのだから」。

 この盲女との出会いがきっかけとなって、公朝は「ふれ愛観音」を彫り上げた。

 盲女は目を潤ませながら、「先生が彫られた、一つ一つのもの全ての中に、ずっと先生の命と心が宿っているから、亡くなった今も、こうして先生の存在を確かめることが出来て、私はとても嬉しい」
 ふれ愛観音座像は、京都清水寺や鎌倉長谷寺など、既に全国60カ所に安置されている。