葛飾北斎

 葛飾北斎はゴッホなどの西欧の印象派画壇に影響与えた江戸後期の浮世絵師である。北斎は江戸後期の文政期を代表する一人で、生涯に3万点を超える作品を発表し、版画のほかに肉筆画にも傑出していた。さらに読本、挿絵芸術を見い出し「北斎漫画」をはじめとする絵本を多数発表した。世界的にも著名な画家で、代表作に「富嶽三十六景」「北斎漫画」などがある。

 北斎は武蔵国・葛飾郡本所割下水(東京都墨田区)で貧しい百姓の子として生まれた。幼名は時太郎で、後に鉄蔵と称した。小さい頃から頭が良く、手先の器用な子で貸本屋の小僧になり、14歳の時に版木彫りの徒弟に住み込み、そこで絵や文章に親しむ小さい頃から手先が器用だった北斎は版木彫りの仕事についた。彫りながら文章や絵に親しむうちに「自分でも描いてみたい」と思うようになり、1778年(18歳)で人気浮世絵師・勝川春章に入門し「春」の一字を貰い勝川春朗の名で役者絵を発表している。
  向上心と好奇心に富む北斎は、浮世絵に飽き足らず、師に内緒で狩野派の画法や司馬江漢の洋画も学んだ。また水彩画のような西洋風な絵も描いている。

 しかしこれが発覚し、春章から「他派の絵を真似るうつけ者」と破門された。生活に窮した北斎は、灯籠やうちわの絵を描いたり、時にはトウガラシや暦(こよみ)を背負って行商するなど「餓死しても、絵の仕事はやり通してみせる」と腹をくくり朝の暗いうちから夜更けまで筆を走らせた。貧乏生活と闘いながら一心不乱に画業の修練に励み、山東京伝、滝沢馬琴らの作品に挿絵を依頼されるようになった。
 1798(38歳)、当時の浮世絵師にとって風景はあくまでも人物の背景に過ぎなかったが、北斎はオランダの風景版画に感銘を受け「風景」そのものを味わうことを見出した。鎖国中に交流があったオランダは風景画が愛された国で、北斎の絵も発見されている。

 一方、貧乏生活は続いており、北斎は自分の描きたい絵ではなく、本の挿絵、役者絵、美人画、武者絵、果ては相撲画まで、内職として手当たり次第に描くしかなかった。「私は絵を描く気違いである」と宣言し、名前を「画狂人」とした時期もあった。
 しかし誇りは高かった。ある時、長崎のオランダ商館が作品を高値で買い上げてくれた。その絵を見た他のオランダ人医師が同じ絵を注文したが、絵が完成すると半値にしてくれと北斎に値切ってきた。怒って絵を持ち帰った北斎に、妻が「半値でも生活の足しになったのに」と言うと、「同じ絵を相手によって半値にすれば、日本の絵描きは掛け値の取引をすると言われる。この様な事は絵師のみでなく、日本人全体の信用に係わることなのだ」と応えた。またある時は、大名の使者が絵の依頼をしてきたが、その頼み方があまりに横柄で高飛車だったので、そっぽを向いた北斎は一言も返事をせず使者を家から叩き出した。
 1814年(54歳)、民衆の様々な表情や動植物のスケッチを収めた「北斎漫画」を発表。町人が割り箸を両鼻に突っ込んでたり、ロウソクの灯を鼻息で懸命に吹いてたり、禅僧・達磨(だるま)が百面相を作ってたりと大きな人気を得た。漫画とは「思いつくままに描いた絵」の意味である。軽妙で自由奔放な筆運びから、北斎は「森羅万象を描く絵師」とまで言われた。余談であるが西洋に輸出された日本陶器の包装紙に「北斎漫画」が使われ、そのデッサンの秀逸さに驚嘆した仏人の版画家が画家仲間に教え、そこから空前のジャポニスム=日本ブームが広まった。
 北斎は人物画、風景画、歴史画、漫画、春画、妖怪画、百人一首、あらゆるジャンルに作品を残し、しかもそれぞれが北斎の情念のこもった一流の作品となった。

 長寿であった為、引越しを93回おこない、引越し魔の北斎は、1日に3回も転居したことがあった。また名前を30回かえたが、これは様々なジャンルに挑戦する過程で、真の実力を世に問う為に新人の振りをして画号(名前)を変えたことによる。「魚仏」、「雷震」、「時太郎」、「三浦屋八右衛門」、光琳派の絵には俵屋宋理(そうり)、最晩年は“

画狂老人卍(まんじ)と名をかえた。

 カネ欲しさに画号を門弟に押し売りしたりすれば、後世、拙作、真作が混在し、巨匠北斎の栄誉にマイナスに働きそうであるが、それは北斎の画業を芸術視している現代人の考えで、公儀御用絵師はともかく浮世絵描きの町絵師など、世間も芸術家とは見ていなかった。読み捨ての黄表紙同様、浮世絵も消耗品の一種と見なされていた。そのため北斎は当面のカネの算段が最優先させたのである。

 「富嶽三十六景」のような代表傑作を生み出した原動力も、新人の安藤広重が彗星の如く現われて評判を高めだしたのに刺激され、競争意識を背景に猛烈に描いた結果とも言われている。

 離縁して父・北斎のもとにあった出戻り娘のお栄(葛飾応為=かつしか・おうい)がいた。このお栄も絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに、掃除するのが面倒くさい、借金取りの目をくらすため家賃を踏み倒すなどのため北斎の引っ越に輪をかけた。

 改号もカネに困り、画号を門弟に売りつけた結果、いやでも変えざるを得なかったわけである。北斎はまた人の度肝を抜くことを楽しみにしており、縁日の余興で120畳の布にダルマを描いて人々を驚かせたり、小さな米一粒に雀2羽を描いてみせたり、さらに11代将軍家斉の御前で鶏の足の裏に朱肉を付け紙上を走らせ「紅葉なり」と言い放った。
 北斎芸術の頂点は70歳を過ぎて刊行された「富嶽三十六景」。これは50代前半に初めて旅に出た際に、各地から眺めた霊峰・富士にいたく感動し、その後何年も構図を練りに練って、あらゆる角度から富士を描き切った。画中のどこに富士を配置すべきか計算し尽くされ、荒れ狂う波や鳥居の奥、時には桶の中から富士が覗くこともあり、まるで富士を中心に宇宙が広がっているようだ。同時に、作中には富士の他にも庶民の生活が丁寧に描かれ、江戸っ子は富士と自分たちの絵に歓喜し、「北斎と言えば富士、富士と言えば北斎」と称賛した。
 その後も北斎は富士を描き続け、74歳で「富嶽百景」を完成させた。そのあとがきに「私は6歳の頃から、ものの姿を絵に写してきた。50歳の頃からは随分たくさんの絵や本を出したが、70歳までに描いたものには、ろくな絵はない。73歳になってどうやら、鳥やけだものや、虫や魚の本当の形とか、草木の生きている姿とかが分かってきた。だから80歳になるとずっと進歩し、90歳になったらいっそう奥まで見極めることができ、100歳になれば思い通りに描けるだろうし、110歳になったらどんなものも生きているように描けるようになろう。どうぞ長生きされて、この私の言葉が嘘でないことを確かめて頂きたいものである」。
 だが「富嶽百景」を刊行した頃は、人々の興味は30代の若い天才絵師、広重の風景画に移っていた。北斎の人気に陰りが見え、再び借金が増えていく。そこへ天保の大飢饉が起こり、世間はもう浮世絵どころではなくなった。

 老いた北斎は最初の妻、2度目の妻、長女にも先立たれ、孫娘と2人で窮乏生活を送る。79歳の時には火災にあい、まだ勝川春朗の名だった10代の頃から70年も描き溜めてきた全ての写生帳を失う悲劇に遭遇する。この時北斎は一本の絵筆を握り締め「だが、わたしにはまだこの筆が残っている」と気丈に語った。83歳の時の住所録では「住所不定」扱いになっている。
 この後、火災の教訓からか、北斎は自分が培った画法を後世の若い画家に伝える為、絵の具の使い方や遠近法についてまとめた「絵本彩色通」や手本集「初心画鑑」を描き残した。この時すでに87歳であった。なお弟子が長旅をする時は、現地の特産品や魚介の写生を依頼するなど、北斎の絵に対する執念は衰えなかった。

 1849年4月18日、浅草の聖天町・遍照院(現浅草六丁目)境内の長屋で病み、生を終える。享年88歳。北斎は結婚は二度している。ただ、二度とも妻の名は分からない。初めの妻との間に一男二女、後妻に一男一女を産ませたから、5人の子持ちということになる。90年にわたる生涯で、52、53歳頃から独り身を通し、女は同居していた娘のお栄のほかいっさい近づけなかった。

 死を前にした北斎は「せめてもう10年、いや、あと5年でもいい、生きることができたら、わたしは本当の絵を描くことができるのだが」と嘆いた。この偉大な絵師は、最後の最後まで修業をしていたのだった。
 墓は上野駅から浅草に続く大通りの誓教寺にある。英文の解説が書かれた案内板が立っていることから、海外からの巡礼者も多いと思われる。「画狂老人卍墓」と刻まれたその墓は、雨風から守る為の特製のお堂に入っている。
  1998年に米「ライフ」誌が企画した「この1000年間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」で、日本人ではただ一人、北斎だけが選出された。他の浮世絵師との年齢差は、写楽が2歳年下、広重と国芳が共に37歳年下、歌麿は逆に7歳年上になる。北斎の絵は止まった時間の中で物が動いているのがすごい。