与謝野晶子

 与謝野晶子は明治11年(1878)12月7日に堺県堺区(大阪堺市)老舗和菓子屋の鳳宗七・津祢を父母として、本名を鳳志よう(ほうしょう)といった。与謝野晶子は有名であるがペンネームである。
 10歳の頃から放課後に店の帳簿付けなどを手伝い、それが終わった夜中に源氏物語などの古典に触れ文学に親しんでいた。学校を出る頃にはお店のことはすっかりできるようになり、店番の合間に和歌を詠み投稿するようになっていた。

 女学校時代から源氏物語や枕草子など古典を愛読する文学少女で、10代半ばから短歌を作り始める。当初は旧派の歌を作っており浪華青年文学会(関西青年文学会)堺支会に明治32年に入会し新しい短歌を詠んでいた。

 当時はヨーロッパの詩の影響で短歌革新運動が起こり始め、革新運動の主唱者である与謝野寛(鉄幹)は明治32年(1899) に文学結社「東京新詩社」を結成し、翌年に機関誌「明星」を創刊した。
 
晶子は新聞で与謝野鉄幹の歌を知り深く感銘を受け、1900年(22歳)4月に鉄幹が「明星」を創刊すると同誌に歌を発表した。与謝野鉄幹は結社への参加者や同調者を獲得するため、明治33年に関西地方へやって来た。「明星」に作品を投稿するようになっていた晶子は、大阪で開かれたある歌会で鉄幹と知り合い、彼の行動に共鳴し意気投合する。しかし鉄幹には妻がいて不倫関係になる。

 鉄幹と会って恋心が爆発し、翌夏には鉄幹を追って家出同然で東京に引っ越した。同年、鳳晶子の名で処女歌集「みだれ髪」(6章399首収録)を刊行すると当時の多くの青年たちの心を捉えた。その2ヵ月後に妻と別れた鉄幹と結婚する。時に晶子22歳、鉄幹28歳であった。


みだれ髪
 「女性は慎ましくあるべし」とされていた明治時代である。
女性が自我や性について語ることがタブーだった保守的な世にあって、愛の情熱を自由奔放かつ官能的に歌い上げた「みだれ髪」は一大センセーションを巻き起こした。
「やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」

(熱くほてった肌に触れず人生を説くばかりで寂しいでしょう)
「みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしていませの君ゆりおこす」

(みだれ髪を綺麗に結いなおして朝寝するあなたを揺り起こす)
「春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ」

(春は短く命に限りがあるからと弾ける乳房に手を導く)
「罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ」

(罪多き男たちを懲らしめる為に我は肌も髪も美しく作られた)

「乳ぶさおさへ 神秘のとばり そとけりぬ ここなる花の 紅ぞ濃き」といったあまりにも生々しい歌を詠んだのである。
 みだれ髪は封建的な旧道徳に反抗したことで伝統歌壇から批判されたが、愛に根ざす人間性の肯定は民衆から熱狂的な支持を受け、「若菜集」の島崎藤村と共に浪漫主義文学の旗手と称された。
 それから3年後の1904年(26歳)、日露戦争の最中にロシアの文豪トルストイがロマノフ王朝に向けて発表した戦争批判が日本の新聞に掲載され、敵国国民の反戦メッセージに深く感動した晶子は、半年前に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟に呼びかける形で「明星」9月号にこう応えた。

 明治三十二年(1899年)に高等女学校令が発布されると、晶子は決して色や愛に溺れるばかりではなかった。高等女学校令が発布され女学生が珍しくなくなった。この法律は「女子にもより高度な教育を受ける権利を認める」というもので、晶子のように高等教育を受けたくても受けられなかった女性にとっては夢のような話であった。しかしこの法律の恩恵を受けた女学生たちは、勉学に励むよりも流行ものに飛びついて遊んでいる人が大多数であった。当時女学生向けに「女学世界」という雑誌があったが、これの投稿欄はいわゆるお嬢様言葉(乙女言葉)で、取るに足らないようなことばかりが書かれていた。その内容も「皆さんは日記を書くとき、ペンを使いますか? それとも筆ですか?」といったようなことばかりだった。この流れを見た晶子は、悔しさとうらやましさ、そして不甲斐なさなどが混じった複雑な気持ちだったことでしょう。
「今まではともかく、これからは女子も男子とやりあっていけるだけの教養を身につけなくてはならない」と書いている。

君死にたまふことなかれ
 
日露戦争中の明治37年(1904)、与謝野晶子が発表した長詩「君死にたまふこと勿れ」は従軍中の弟の籌三郎の身を案じて詠んだが、内容が国賊的であると批判を受けた。晶子はまことの心を詠んだだけであると主張し一歩も引かなかった。「君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに おほみづからは出でまさね かたみに人の血を流し、獣(けもの)の道に死ねよとは…」
(弟よ死なないでおくれ。天皇自身は危険な戦場に行かず宮中に安住し、人の子を獣の道におちいらせている)
 この反戦歌は発表と同時に、日露戦争に熱狂する世間から「皇国の国民として陛下に不敬ではないか」と猛烈な批判にさらされた。文芸批評家・大町桂月は「晶子は乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と激しく非難したが、晶子はこれに反論すべく「明星」11月号に「ひらきぶみ」を発表、「この国を愛する気持ちは誰にも負けぬ」と前置きしたうえで「女と申すもの、誰も戦争は嫌いです。当節のように死ねよ死ねよと言い、また何事も忠君愛国や教育勅語を持ち出して論じる事の流行こそ、危険思想ではないかと考えます。歌は歌です。誠の心を歌わぬ歌に、何の値打ちがあるでしょう」と全く動じることはなかった。

 「君死にたまふことなかれ」が発表された翌年「明星」は廃刊になったが、晶子は非難に屈するどころか、翌年刊行された詩歌集「恋衣」に再度「君死にたまふことなかれ」を掲載した。

 その後、与謝野晶子は次第に鉄幹の名声を凌ぐようになるが、自然主義の勃興と北原白秋・吉井勇たち有力会員の脱退のなかで、明治41年(1908)「明星」は 廃刊した。「明星」は啄木、高村光太郎、北原白秋らを世に送った。


ヨーロッパ留学

 意気消沈していた鉄幹に立ち直るきっかけを与えるため、晶子は鉄幹が希望していたヨーロッパ留学の実現に奔走した。ヨーロッパへ出発した夫を追いかけて彼女も渡航し、そこで得た体験を基にして彼女は更なる境地を拓いた。
 その後も女性問題や教育問題などで指導的活動を続け、1911年(33歳)には日本初の女性文芸誌「青鞜」発刊に参加、「山の動く日来(きた)る。(中略)すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる」と賛辞を贈ってその巻頭を飾り、43歳で文化学院の創設に加わり自由教育に尽くした。大正時代に社会評論を多く執筆するようになり、大正デモクラシー陣営の一翼を担った。国家による母性保護を主張する平塚らいてうと、全ての女性が経済的に独立する女権主義を提唱する晶子の間で行われた母性保護論争は、この時期において白眉のものであり、現在においても重要な意義を有している。

 短歌創作や評論活動、教育活動だけでなく、文学者として「新訳源氏物語」を始めとした古典の現代語訳にも多くの著作を残した。晶子は彼女の理念である自由主義を骨子とし、芸術による人格の陶冶をめざす教育の実現をめざして西村伊作や石井柏亭、夫の寛たちとともに大正10年に文化学院を創設し実践活動を行ってゆく。
 1930年代に入って満州事変、五・一五事件、国際連盟脱退と軍国化が進み、日増しに言論の自由が奪われていく中で、晶子は1936年(58歳)に国家の思想統制についてこう書き残した。「目前の動きばかりを見る人たちは自由は死んだと云うかもしれない。しかし自由は面を伏せて泣いているのであって、死んでしまったのではない。心の奥に誰もが自由の復活を祈っているのです。自由が泣いている」
 明星派の歌人として生涯にわたって鉄幹の仕事をたすけたが、夫・鉄幹が大学教授になるまでは稼ぎが良くなかったため、晶子は仕事の依頼をすべて引き受けていた。
家庭では11人の子を育てたが、家業が苦しかった上三人が女の子だったため、晶子はあまり子供を世話をしていなかった。新聞七紙への寄稿に加えて、他にも小説や論文などを書いていたので、これに子供たちの世話が加わるとなれば、過労死しなかったのが不思議なほどである。夫の鉄幹が貧乏な上に11人も子供がいたので、晶子はその後も苦労が絶えなかった。それでいて鉄幹への愛を貫くあたりが実に活動的である。太平洋戦争の真っ只中の1942年(昭和17年)に63年間の人生を終えた。

 

与謝野鉄幹

 与謝野鉄幹も歌人や教師として知られているが、今日においては妻の晶子のほうが知名度が高い。鉄幹は僧侶の父と商家出身の母の間に京都で生まれた。10代のうちにお寺の養子に入って仏の道に入り、文学に興味を抱いて雑誌の編集なども始め、女学校の教員になるが、鉄幹は赴任した先で、ほぼ毎回女生徒と関係を続け、その都度子供が生まれていた。当時の道徳観念からまた仏門に入った者がよくそんなことを繰り返したものである。その後、上京して出版社に入り副業として跡見女学校(現・跡見学園)で教鞭を取るようになった。跡見女学校でも問題を起こしてた。生活が落ち着いたことで創作意欲も湧いたのか「東西南北」「天地玄黄」といった歌集を続けて出版した。この頃が本人の最盛期で、その作風は「ますらおぶり(率直で素朴)と評された。万葉集や同時代の歌風をますらおぶりと称することが多いですが鉄幹も同じ歌風を持っていた。
 しかし鉄幹の生活はかなり歪んでいた。この時期、鉄幹は最初の妻・浅田信子と別れて林滝野という別の女性と同棲するようになるが、この二人はどちらもかつての教え子です。特に信子のほうから見れば、「世間や学校から白い目で見られながらもついてきた男性が、自分を捨てて別の女生徒と暮らすようになった」わけですから、やりきれないどころの話ではありません。とても良識ある大人のやることではありません。生涯の伴侶となる晶子との出会いも当初は不倫だった。鉄幹は晶子の歌才に惚れ込んで、滝野と離婚し晶子との結婚を決めたのである。仕事の面では1900年に月刊文芸誌「明星」を創刊するが、翌年に晶子の歌集「みだれ髪」を刊行したことで同誌は名実共に充実するが8年後に廃刊となった。
 与謝野夫妻の活動は光と影のようなもので、妻が成功すればするほど苦悩が大きくなり、鉄幹は地元・京都で選挙に出馬するが当然落選した。地元なら鉄幹の私生活も知れ渡っていたからである。
 教育者としての鉄幹の言動はあまり伝わっていないが、鉄幹は代表作「爆弾三勇士の歌」を残した。当時は選抜高等学校野球大会の入場曲にも使われたため、鉄幹も再び脚光を浴びたのである。「爆弾三勇士」とは、第一次上海事変で爆弾を抱えて中国軍に突撃し突破口を開いたという三人の兵士のことである。

 鴎外は与謝野鉄幹について「一体今の新流の歌と称しているものは誰が興して誰が育てたものであるか。この問いに己と答えることの出来る人は与謝野君を除けば外にはない」とのべている。

 

戦争擁護派?

 与謝野晶子は「君死にたまふこと勿れ」が有名すぎて、今では反戦の代名詞のように扱われ「与謝野晶子は反戦を詠った素晴らしい女流歌人」といわれているが、晶子は38年後に「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍(いくさ)にゆく たけく戦へ」という歌を詠んでいる。一転して戦争擁護派となったのである。
戦争の良し悪しは全くの別問題として人の考えが変わることは珍しくも悪くもないことである。若い頃はただ一心に「弟が死ぬかもしれないなんてイヤだ!」と思っていたのでしょうが、軍に入るほどの歳の子供がいるような年齢になれば「国のために息子が働くことは誇らしい」と思うようになったのだろう。

 晶子も「君死にたまふことなかれ」を発表して40年近く経った頃に、戦争に賛成するような歌を詠んだことがある。戦争に対する世論も状況に応じて賛成・反対が変わるので、著名人が迎合するのは仕方のないことである。

 

相対会猥褻事件

 与謝野晶子の作品を評して「当時は女性が自我や性愛を表現することはありえなかったにもかかわらず、晶子は女性の欲求や性を題材にした」といわれることが多い。だが勘違いしてはならないのは、晶子が大胆だったのは「表現」についてだけであって、当時の男女がセックスについて控えめで淡白だったわけではない。
 こんなエピソードがある。ある学者から「これまでに、何か特異な性体験などなさいましたか?」と問われた鉄幹は、得意満面で
「バナナを妻の膣に挿入して、翌日取り出して食べましたよ」と話した。妻とはもちろん晶子のことである。ところが、それを聞いた学者は、呆れた顔でこう言った。「鉄幹先生、その程度のことだったら、誰でもやっておりますよ」鉄幹を戒めた学者こそ性研究者として有名な小倉清三郎であった。
小倉清三郎が有名になったのは、昭和32年に相対会猥褻事件が発覚したことによる。

 相対会猥褻事件が発覚したのは、大阪駅に1通の封書を落としあったことがきっかけであった。宛名のない差出人の名だけであったので、届けられた曽根崎署の係官が封筒を開くと女性器の微細な模写画が印刷されていた。曽根崎署から照会を受けた差出人の管轄署は、差出人の身辺を洗うと露骨な性文献数十巻の秘密出版に関係していることが分かった。トラック3台分のエロ文献、エロ資料が押収されたのである。これは大正2年に東大哲学科の学生・小倉清三郎が会員相互の性体験を伝え合う冊子だったのである。約300人の会員誌として頒布され、書店では扱えないので「相対会第一組合特別会員」のリストが残っており、芥川龍之介、大杉栄、平塚雷鳥、坪内逍遥、吉右衛門、伊藤野枝などがいた。
 小倉清三郎は会創設の理念を「人間が存在せんためには、人間の生まれ出ることのために交接が必要である」「人間の尊さ、性的生活や交接の尊さをあらためて確認して、卑しい、汚いというヴェールをはぎとって」と願う。
小倉清三郎は会員たちに封書を配っていたのである。現在では考えられない事件であるが、どのように時代が変わろうとも性の問題は身直で、生々しいものなのである。

 上記のバナナは与謝野鉄幹が相対会に入会したいと小倉清三郎に会いに来たときの話である。