種田山頭火

 種田山頭火は大正・昭和の俳人である。種田山頭火が生きている時には無名で一生を終えたが、死後、評価され「自由律俳句」の代表となった。季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」を詠んだ。

 本名は正一で、山口県防府市の大地主の家に生まれた。父は村の助役を務めていたが、妾を持ち芸者遊びに夢中になり、これに苦に母親は山頭火が10歳の時に、自宅の井戸に身を投げて死んだ。

 井戸に集まった人々は「猫が落ちた。子供らはあっちへ行け」と山頭火を追い払ったが、山頭火は大人たちの足の間から母の遺体を目撃し、母の自殺が頭火の生涯に大きな衝撃を与えた。

 防府高校を首席で卒業した後、早稲田大学文科に入学。しかし22歳で神経症の為に中退して帰郷する。その頃、生家は相場取り引きに失敗して没落しており、立て直しの為に先祖代々の家屋敷を売り、山頭火は父と隣村で酒造業をを営んだ、27歳で佐藤サキノと結婚、翌年、長男健が誕生した。

 

波乱な人生
  山頭火は10代の中頃から俳句に親しんでおり、28歳から山頭火と名乗って、荻原井泉水主宰の自由律俳誌「層雲」に入門し、翻訳、評論など文芸活動を開始した。

 31歳、俳句を本格的に学び、俳句誌に掲載されるようになる。34歳、実力が認められて俳句誌の選者の一人になるが、家業の酒造業(種田酒造場)が失敗して家は破産したが

失敗の原因は酒蔵の酒が腐敗するなど2年続きで酒造りに失敗したことであるが、家業を省みない父の放蕩と、度を過ぎた父子の酒癖が原因だった。

 父は家出し、兄弟は離散する。山頭火も夜逃げ同然で妻子を連れ熊本へ帰った。翌月、古書店を熊本市内に開業するがこれも失敗し、弟が借金に耐え切れずに自殺した。

 37歳、行き詰った山頭火は妻子と別れて上京する。職を求めての上京であるが図書館で勤務するようになる。38歳、熊本にいる妻から離婚状が届き判を捺した。40歳、神経症の為に図書館を退職し、翌年に関東大震災で焼け出され、熊本の元妻のもとで居候となる。
 熊本では不甲斐ない自分を忘れようと酒におぼれ、乱れた生活が続いた。

 42歳、熊本市内で泥酔した山頭火は市電の前に立ちはだかって急停車させる事件を起こした。これは生活苦による自殺未遂とされている。市電の中で転倒した乗客たちは怒って山頭火を取り囲んだが、現場に居合わせた新聞記者が彼を救い禅寺(曹洞宗報恩寺)に放り込んだ。報恩禅寺の住職・望月義庵に助けられ寺男となり、翌年これが縁で山頭火は出家して耕畝(こうほ)と改名して郊外の味取(みとり)観音堂の堂守となった(43歳)。

俳句

 翌年、生きる為に托鉢(たくはつ)を続けて1年後に「漂泊の俳人尾崎放哉」が41歳の若さで死去した。山頭火は3歳年下の放哉の作品世界に共感し、句作への思いが高まり、法衣と笠をまとうと鉄鉢を持って熊本から西日本各地へと旅立った。この食べ物の施しを受ける行乞(ぎょうこつ)の旅は7年間続くことになり、その中で多くの歌が生まれていった。
  最初に向かったのは宮崎、大分。九州山地を進む山頭火は旅始めの興奮を「分け入っても分け入っても青い山」と詠んだ。山頭火の句には「近代人の自意識」がある。この句の中には二人の山頭火がいる。一人は、どうしようもない心を抱いて歩いている山頭火であり、もう一人はそれをじっと見ている山頭火だ。この自意識は小説分野の「私小説」にも通じるものだ。

 山頭火の俳句は季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる前衛的な「自由律俳句」である。山頭火はその自由律俳句の代表として、同じ荻原井泉水門下の尾崎放哉(ほうさい)と並び称されている。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や支持者の援助によって生計を立てていた。しかし山頭火と放哉の作風は対照的で「静」の放哉に対し、山頭火の句は「動」である。
どうしようもないわたしが歩いている
  続いて中国地方を行乞し、46歳で四国八十八ヶ所を巡礼。小豆島では憧れの放哉の墓を訪れた。1930年(48歳)、思うところがあり過去の日記を全て燃やす。
焼き捨てて日記の灰のこれだけか」「こころ疲れて山が海が美しすぎる」。
  1932年、50歳を迎えた山頭火は行乞の旅が肉体的に困難になり、句友の援助を受けて郷里山口県の小郡町に小さな草庵に入り「其中庵(ごちゅうあん)」と命名する。湯田温泉にも近く7年間落ち着くことになる。深酒は相変わらずで、当初は近隣の人々から不審な旅僧と見られていたが、高名な俳人が山頭火を讃えたこと、其中庵での句会に多数の句友が集まったことから次第に山頭火への接し方が温かくなっていった。

 その後も行乞・漂泊し、諸国を巡り旅した。1939年(昭和14年)、松山市に移住して三度目の庵である「一草庵(いっそうあん)」を結んだ。翌年この庵で波乱に満ちた生涯を閉じた。隣室で句会が行われている最中に、脳溢血を起こしたのだった。同年、出家からこれまでの作品をまとめた第一句集「鉢の子」が刊行されている。九州、四国、中国地方を歩き続けた山頭火の魂の遍歴がここに刻まれている。
  山頭火の酒豪ぶりはハンパではなかった。本人曰く泥酔への過程は「まず、ほろほろ、それから、ふらふら、そして、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」であり、最初の「ほろほろ」の時点で既に3合だった。酒と俳句については「肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、句は心の酒だ」と語っている。

 

●第一句集「鉢の子」(抜粋)1932年

生死の中の雪ふりしきる
笠にとんぼをとまらせてあるく
歩きつづける彼岸花咲きつづける
まっすぐな道でさみしい
また見ることもない山が遠ざかる
どうしようもないわたしが歩いている
すべってころんで山がひっそり
つかれた脚へとんぼとまった
捨てきれない荷物の重さまへうしろ
あの雲がおとした雨にぬれている
こんなにうまい水があふれている
まったく雲がない笠をぬぎ
墓がならんでそこまで波がおしよせて
酔うてこうろぎと寝ていたよ
雨だれの音も年とった
物乞ふ家もなくなり山には雲
よい湯からよい月へ出た
笠へぽっとり椿だった

続けて翌年の暮れに第ニ句集が刊行された。

●第ニ句集「草木塔(そうもくとう)」(抜粋)1933年

水音しんじつおちつきました
すッぱだかへとんぼとまろうとするか
かさりこそり音させて鳴かぬ虫が来た
何が何やらみんな咲いている
山のいちにち蟻もあるいている
雲がいそいでよい月にする
(帰庵)ひさびさにもどれば筍によきによき

  52歳、遠く信州に眠る江戸後期の俳人・井上井月(せいげつ)の墓参の為に東に向かう。井月は元長岡藩士。武士を捨てた放浪俳人で乞食井月と呼ばれた。しかし、信州に入ったところで肺炎となり緊急入院。墓参は果たせなかった。この秋、日記に「うたう者の喜びは力いっぱいに自分の真実をうたうことである。この意味において、私は恥じることなしにその喜びを喜びたいと思う」と記す。1935年(53歳)、第三句集を刊行。

●第三句集「山行水行(さんこうすいこう)」(抜粋)1935年

夕立が洗っていった茄子をもぐ
山のあなたへお日さま見おくり御飯にする
お月さまが地蔵さまにお寒くなりました
落葉を踏んで来て恋人に逢ったなどといふ
ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない
何もかも雑炊としてあたたかく
閉めて一人の障子を虫が来てたたく
ともかくも生かされてはいる雑草の中

  山頭火は第三句集発刊から半年後の8月、睡眠薬(カルモチン)を多量に飲み自殺未遂を起こす。眠ってる間に体が拒絶反応して薬を吐き出し、一命を取り留めた。年末の日記に次の如く刻む「この一年間に私は十年老いたことを感じる。老いてますます惑いの多いことを感じないではいられない。かえりみて心の脆弱(ぜいじゃく)、句の貧困を恥じ入るばかりである」。
  1936年(54歳)、第四句集「雑草風景」発刊。この年は関西、東京、新潟、山形、仙台、そして遠く岩手平泉まで旅をした。「ここまで来し水飲んで去る」(平泉にて)。

●第四句集「雑草風景」(抜粋)1936年

日かげいつか月かげとなり木かげ
なんぼう考えても同じことの落葉ふみあるく
悔いるこころに日が照り小鳥来て鳴くか
枯れゆく草のうつくしさにすわる
空へ若竹のなやみなし
何を求める風の中ゆく

1937年(55歳)、無銭飲食のうえ泥酔し警察署に5日間留置。同年、「藪にいちにちの風がおさまると三日月」「けふは木枯らしのはがき一枚」等を詠った第五句集「柿の葉」発刊。「自己陶酔の感傷味を私自身もあきたらなく感じるけれど、個人句集では許されないでもあるまいと考えて、あえて採録した。こうした私の心境は解ってもらえると信じている」。
  1938年(56歳)、積年の風雪で其中庵は朽ち果て壁も崩れた為、新しい庵を探して旅立ち、山口市の湯田温泉に四畳一間を借り「風来居」と名付けた。友人たちがリヤカーで小郡から湯田まで荷物を運んでくれたという(約12km)。1939年(57歳)、1月に第六句集を刊行。

●第六句集「孤寒(こかん)」(抜粋)1939年
ひなたは楽しく啼(な)く鳥も啼かぬ鳥も
藪から鍋へ筍(たけのこ)いっぽん
風の中おのれを責めつつ歩く
なんとなくあるいて墓と墓との間
咳がやまない背中をたたく手がない
窓あけて窓いっぱいの春

  春先に近畿から木曽路を旅し、6年前に肺炎で墓参できなかった井上井月の墓に巡礼を果たす。その墓前にて「お墓撫でさすりつつ、はるばるまいりました」。10月、山頭火は死に場所を求めて四国に渡り、小豆島で再び尾崎放哉の墓参をする。こちらも墓前で「ふたたびここに、雑草供へて」。年の暮れに松山で終の棲家となる「一草庵」をむすんだ。山頭火はこの庵を見て「落ち着いて死ねそうだ」と喜んだという。同年の日記より--「泊まるところがないどかりと暮れた」「こうまでよりすがる蝿をうとうとするか」「ついてくる犬よおまへも宿なしか」。
  1940年1月、山頭火を慕う句友たちが「柿の会」を結成、一草庵で初句会を開く。翌月の日記に「所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守ろう」と刻む。3月、母の第四十九回忌には「たんぽぽちるやしきりにおもふ母の死のこと」と詠んだ。4月にこれまでの俳句人生の総決算となる一代句集「草木塔」(第二句集と同じ題名)を刊行。第一句集からの全ての句より自選して収めた。そして中国&九州地方の世話になった友人たちに「草木塔」を献呈する旅に出て2ヶ月後に一草庵に帰着。7月、「寝床まで月を入れ寝るとする」などを含む第七句集「鴉」を刊行。
  10月10日の夜、一草庵で句会が行われる中、山頭火は隣室でイビキをかいていた。仲間は酔っ払って眠りこけていると思っていたが、実は脳溢血であった。会が終わると皆は山頭火を起こさないように帰ったが、虫の知らせを感じた者が早朝に戻ってみると、山頭火は既に心臓麻痺で他界していた。死亡時刻は推定4時。本人念願の“コロリ往生”だった。山頭火は生涯に8万4千句という膨大な数の作品を残し、この世を去って行った。享年57歳。最晩年の日記には「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから生まれたような一生だった」と書いた。辞世の句は「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」。旅を愛した山頭火は、地平線から立ち昇る明るい雲の中へ溶け込んでいった。
「前書きなしの句というものはないともいえる。其の前書きとは作者の生活である。生活という前書きのない俳句はありえない」。山頭火の生き様が死後人々に知られるにつれ、彼の言う「生活を前書きにした」句の人気はどんどん高まり、’70年代前半は17ヶ所だった句碑が、'90年代初頭に150ヶ所を数え、2006年には500ヶ所を超えているという。個人の文学碑の数としては山頭火が一番ではなかろうか。故郷の防府には生家跡が残り、市内だけで句碑が81基もある。
山頭火は他界の半年前に出した代表作「草木塔」の冒頭にこう刻んだ--「若うして死をいそぎたまへる母上の霊前に本書を供へまつる」。
●墓
  山頭火は生地の山口県防府市・護国寺に母フサと並んで眠っており、墓石には「俳人種田山頭火之墓」と彫られている。満州に渡っていた息子が急遽帰国し葬った。現在、護国寺の本堂では自筆句や愛用品が無料公開されている。また、元妻が住んだ熊本市・安国禅寺にも分骨墓がある。