湯川秀樹

 すべての物質は原子で構成されている。そして原子は電子と原子核に分けられ、あたかも太陽の周りを惑星が公転するかのように、電子は原子核の周囲をまわっている。ただし太陽系の惑星を支配している力は万有引力。原子の方は電気の力だ。原子核の陽子はプラスなので、マイナス電荷の電子がずっと外側を回っている。ここで問題が出てくる。原子核を構成しているのは陽子と中性子だ。中性子は無電荷でプラスでもマイナスでもない。ではなぜ陽子と中性子は電気の性質が違うのにバラバラに崩壊せず原子核を作っていられるのか。ここで湯川は仮説を立てた。両者の間には小さな粒子「中間子」が存在していて、それをキャッチボールすることで離れ離れにならないのだと。彼がこの予言を日本数学物理学会で初めて発表したのは1934年、まだ27歳の若さだった。
  湯川の仮説は一部の学者から注目されたが、物理学界全体では殆ど鼻も引っ掛けられなかった。また第二次世界大戦が勃発した為に検証どころではなくなっていた。英国の学者によって実証されたのは戦争終結から2年が経ってからであった。(論文発表から13年後)。中間子が実在したことはビッグ・ニュースとなって世界を駆け巡り、これを受けて1949年、42歳の湯川は日本人で初めてノーベル賞を受賞した。敗戦からまだ4年、自信を失ったまま傷の癒えていない日本人にとって、この物理学賞受賞という明るいニュースは大いなる希望となった。湯川はノーベル賞の賞金の一部を奨学金制度設立に用い、物理学研究で後進の育成に務めた。
  このノーベル賞受賞の前年、湯川はオッペンハイマー博士から米国に客員教授として招かれ、今後の人生を変える重大な体験をする。オッペンハイマーはその昔、湯川が専門誌へ投稿した「中間子論」を一笑に付し論文掲載を拒否したことがあった。またオッペンハイマー博士が開発を指揮した原爆が3年前に日本へ投下されたことへの自責の念もあり、湯川を世界トップクラスの研究所へ招いたのだ。湯川が米国に到着すると、すぐにある人物が研究室を訪ねて来た。アインシュタインだ。
  湯川は扉を開けて驚いた。彼のヒーローでもある、70歳になろうかというあのアインシュタインが、湯川の両手を握り締めて激しく泣き出したのだ。そして何度もこう繰り返した「原爆で何の罪もない日本人を傷つけてしまった…許して下さい」。原爆はアインシュタインが1905年に発表した特殊相対性理論、E = mc2という公式を基にした兵器だった。アインシュタインはナチスの迫害を受けてアメリカに亡命したユダヤ人である。彼はヒトラーが原爆の開発に着手したことを知って危機感を持ち、ルーズベルト米大統領に対して「絶対にドイツより先に核兵器を製造せねばならない」と進言したのだった。死の前年にアインシュタインは「もし私があのヒロシマとナガサキのことを予見していたなら、1905年に発見した公式を破棄していただろう」と語っている。
  目の前で世界最高の科学者が肩を震わせて涙に暮れている姿を見て、湯川は大変な衝撃を受けた。アインシュタインの良心に触れた湯川は、学者は研究室の中が世界の全てになりがちだが「世界の平和なくして学問はない」という考えに至り、以後、積極的に平和運動に取り組んでゆき、まずアインシュタインが推進する世界連邦運動に加わった。

 これは世界を連邦制にすることで、国家から領土拡大の野望を駆逐するものである。さらに各国の指導者に核兵器廃棄を勧告する平和宣言『ラッセル=アインシュタイン宣言』に署名した11名(全員がノーベル賞受賞者)に名を連ね、科学者を中心としたパグウォッシュ会議(1995年ノーベル平和賞受賞)に参加してゆく。国内では川端康成らと世界平和アピール7人委員会を結成し、反戦と核兵器全廃を訴え続けた。そして地球共同体を夢見ながら1971年72歳で永眠した。京都を訪れたなら国立京都国際会館に足を運んで欲しい。入口にはこんな湯川秀樹の碑文がある「世界は一つ」がある。
「一日生きることは、一歩進むことでありたい」(湯川秀樹)