樋口一葉

樋口一葉
東京生まれ。本名、樋口奈津。彼女自身は奈津よりも「夏子」を用いることが多かった。新聞小説の戯号は春日野しか子。“一葉”の名はインドの達磨大師が揚子江を一葉の芦の葉(一葉舟)に乗って下った故事から。人生という波間を漂う自分を重ねていたという。
両親は山梨の農民だが、駆け落ち同然で江戸にやってきた。父は苦労して新政府の下級官吏の職に就くが、退職後に事業に失敗し窮乏生活が始まる。一葉は小学校の成績は首席だったが卒業に至らず11歳で中退する。これは母親が“女は学問より針仕事や家事見習が役立つ”と考えたからで、一葉は日記に「死ぬばかり悲しかりしかど、学校は止めになりにけり」と刻んだ。
打ちひしがれる娘を不憫に思った父親は、『万葉集』『古今集』『新古今集』をプレゼントし、和歌の通信教育を受けさせた。続いて本格的に和歌を学ばせるべく師匠探しに奔走し、知人を頼って、女流歌人中島歌子の歌塾「萩の舎」(はぎのや)に14歳の一葉を入門させた。この頃樋口家の家計は父兄が支えていたが、一葉が15歳の時に兄が、そして17歳で優しかった父が続けて亡くなり、突然彼女が家を支えねばならなくなった。



一葉は針仕事や洗濯業で一家の生計を支えた。彼女には婚約者がいたが、樋口家が没落すると一方的に婚約を解消されてしまう(相手の男は後に早大法学部長、さらには秋田、山梨両県知事も歴任する)。

19歳、一葉は「萩の舎」の姉弟子が小説を刊行して大金を得たことに刺激され自らも作家を志す。しかし、歌塾は和歌の勉強が中心ゆえ彼女は小説に暗く、大手新聞の専属作家・半井桃水(とうすい)から文章構成の手法を学ぶ。12歳年上で、美男子かつ長身の桃水(当時31歳)に一目惚れした一葉は、俄然張り切って、図書館に通っては小説を片っ端から読破した。

 

20歳、処女作『闇桜』を執筆。桃水の師弟となって1年が経った頃、2人の緊密な関係が「萩の舎」で噂され始めた。中島歌子は一葉に桃水の品行の悪さを忠告し、一葉は泣く泣く桃水への師事をやめた。

21歳、良い小説を書こうと人間の内面を掘り下げていくにつれ、感情を文字にすることの壁にぶつかり筆が進まなくなる。また桃水への恋心にも苦しみ、彼女はついに筆を折って、吉原遊廓に接する下谷竜泉寺町に転居、心機一転、荒物や駄菓子を扱う雑貨屋を開いた。
だが、単価の安い商品では一向に利益があがらず、たちまち経営は行き詰まる。生活に窮した彼女は有名な相場師に借金を申し込みに行き、そこで条件として身体を求められ、怒りと屈辱を味わった。小説も書けず、商売も上手くいかず、一葉は日記に「虚無の浮世に好(よ)き死処(しにどころ)あれば事たれリ」と、死さえ思う心境を書きつけた。

22歳、近所に新しく駄菓子屋が開店したことで売上げがさらに落ち、樋口家は店をたたむ。少しでも家賃の安い場所を探して転居した先は、いかがわしい酌婦街(一階で酒を飲ませ二階で身体を売る私娼窟)の真っ只中だった。世間からは蔑まれている土地だったが、一葉はそこで貴重な経験をする--彼女の字の美しさが評判になり、近所の酌婦たちが手紙の代筆を頼みに来るようになったのだ。それぞれの口から出てくる、故郷の家族への思い、切ない恋心に触れて、周囲から軽蔑され社会の底辺にいながら、日々を必死に生きている女性たちの魂の美しさを知ったのだ。
ある時、大阪から身売りされてきた若い酌婦が一葉の家に逃げ込んできた。追っ手から匿(かくま)うとトラブルに巻き込まれる危険があったが、一葉は迷うことなく彼女を助け、日記にこう刻んだ「救いたまえとすがられしも縁なり。東女(あずまおんな)はどんな物か、狭けれどもこの袖の陰に隠れて、とかくの時節をお待ちなされ」。そして人間に階級も貴賎もなく「娼婦に誠あり」と刻んだ。

“自分が見た人間の真実を描きたい、弱者の心の声を伝えたい”、そう思うようになった一葉は、ついに再び筆をとった。まず始めに駄菓子屋の頃に知った遊郭界隈の子どもたちの世界を『たけくらべ』として「文学界」に連載開始。23歳、虐げられた酌婦たちの声なき声を代弁すべく、酌婦を主人公にした小説『にごりえ』を執筆。作中に夜の雑踏をさ迷う酌婦の独白を通して、一葉は自分の孤独感をさらけ出した--
「ああ嫌だ嫌だ嫌だ、どうしたら人の声も聞こえない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうっとして物思いのない処へ行かれるだろう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情けない、悲しい心細い中に、いつまで私は止められて居るのかしら、これが一生か、一生がこれか」。

続く叙情的な『十三夜』でも、社会に抑圧され悲劇的運命に陥る女性たちの怒りと悲しみを克明に描いた。翌1896年、完結した『たけくらべ』を一括して発表するやいなや、鴎外に「まことの詩人」と熱賛され文壇の名声は絶頂を極める。彼女の家は、上田敏、島崎藤村、斎藤緑雨、泉鏡花、幸田露伴ら様々な文人が集う文学サロンのようになった。しかし…長年の過労から彼女は肺結核に侵され、11月23日に24歳という若さで夭折する。あまりに早い死だった。

病没から16年後、一葉が15歳から亡くなるまで9年間に書き溜めた44冊もの日記『一葉日記』を、彼女の妹が世に送った。この日記は“焼き捨てるように”と言われていたのを妹が大切にとっていたもので、師・桃水を想う気持が切々と綴られていた。
「みぐるしく、にくく、うくつらく、浅ましく、かなしく、さびしく、恨めしき、厭う恋こそ、
恋の奥なりけれ」

運命は非情だ。苦労人の一葉がやっと文壇に認められたと思ったら、その年に肺結核が襲うのだから。もし彼女があのまま生きていたら、僕らはどんな素晴らしい作品と出会えたろう。少なくとも、華々しく活躍する一葉の姿を見て、文壇にもっと多くの女性たちが進出していたに違いない。詩情豊かで哀しく美しい一葉文学。彼女が50歳、60歳になった時、どんな作品世界を描いていたのかと思いを巡らすにつれ、24歳の死が本当に残念でならない。