棟方志功

  1903年、棟方志功は青森に鍛冶屋の三男坊として生まれる(15人兄弟)。小学校卒業後、すぐに家業の手伝いに入ったため中学には行けなかった。17歳の時に母が病没し、家運も傾き父親は鍛冶屋を廃業した。志功は裁判所弁護士控所の給仕となった。絵が好きだった棟方は、仕事が終わると毎日公園で写生をし、描き終わると風景に対して合掌したという。
  18歳の時、友人宅で文芸誌・白樺の挿し絵に使われていたゴッホの「ひまわり」と出会う。炎のように燃え上がる黄色に、そのヒマワリの生命力と存在感に圧倒された。カンバスに刻まれたヒマワリから、ゴッホその人が立ちのぼった。
  この「白樺」に関するエピソードは小高根二郎が「棟方志功」に次のように記している。

 棟方は友人宅を帰る時に呼び止められた。「ゴッホを君にあげる」友人は棟方に白樺をプレゼントした。棟方の指がスッポンの口ばしの様に談笑中ずっと白樺を手放さなかったことに気付いたからだ。「我のゴッホを君にあげる」と繰り返して言うと、棟方は狂喜して踊り上がった。
「ゴッホさ、ワに?ゴッホさ、ワに?」棟方がこの恩寵が信じきれないという顔をしていると、「ンだ。ガにける」贈呈の意志が変わらないことを、友は3度重ねて表明した。棟方は白樺を胸に抱きしめ、歓喜の笑みで「ワだば、ゴッホになる!ワだば、ゴッホになる!」と友人の好意に応える覚悟で叫んだ。その後、友の気持ちが変わらぬうちにと、そそくさと帰ったという。
  この誓い通り棟方は油絵の道にのめり込み、21歳のとき上京した。ところが、簡単には世間に認められない。コンクールに落選する日々が続く。3年、4年と時間だけが経っていった。画家仲間や故郷の家族は、しきりに棟方へ有名画家に弟子入りすることを勧めた。だが彼は激しく抵抗した。「師匠についたら、師匠以上のものを作れぬ。ゴッホも我流だった。師匠には絶対つくわけにはいかない」
  彼は新しい道を模索し始めた。当時の画壇で名声の頂点にあった安井曽太郎、梅原龍三郎でさえ、油絵では西洋人の弟子に過ぎなかったことから、この頃の気持を自伝にこう書いている「日本から生れた仕事がしたい。わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたいものだと、生意気に考えた」。
そして、とうとう棟方は気付く。
  「そうだ、日本にはゴッホが高く評価し、賛美を惜しまなかった木版画があるではないか、北斎、広重など、江戸の世から日本は板画の国。板画でなくてはどうにもならない、板画でなくてはわいてこない、あふれてこない命が確実に存在するはずだ」
「この道より我を生かす道なし、この道をゆく」武者小路実篤のこの言葉が棟方の座右の銘となった。
33歳、上京から12年目にして、ついに自分の作品が売れる。
35歳、帝展で版画界初の特選になる。
36歳(1939年)、大作「釈迦十大弟子」を下絵なしで一気に仕上げる。制作中の彼はこんな談話を残した。「私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げ回っているのです」
39歳、論集「板散華(はんさんげ)」にて、今後は「版画」という文字を使わず「板画」とすると宣言する。版を重ねて作品とするのではなく、板の命を彫り出すことを目的とした芸術を板画とした。
40歳、ベートーヴェンと出会う。その宇宙的な包容力に深く胸を打たれる。
49歳、ルガノ国際版画展で優秀賞を受賞。
52歳、サンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞を受賞。
53歳(1956年)、ベネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞し、一躍世界のムナカタに。「会場へ来た人のほとんどすべてが、棟方の木版画の前に愕然としていました」。フランスへゴッホ兄弟の墓巡礼に行く(!)
57歳、「歓喜自板像の柵」(自画像)を彫る。酔っ払って幸せそうにひっくり返る自分の背後に、写生に出かけるゴッホと、ベートーヴェンをたたえる言葉を刻み込んだ。この頃、朝日賞を受賞するなど、ようやく国内の美術界で正当に評価される。眼病が悪化し、左目を失明。
61歳、自伝『板極道』を出版。66歳、ヨコ27m、タテ1.7mという世界最大の版画『大世界の柵』を完成。巨大さゆえ板壁画と呼ばれた。
67歳(1970年)文化勲章を受章。コメントは「僕になんかくるはずのない勲章を頂いたのは、これから仕事をしろというご命令だと思っております。片目は完全に見えませんが、まだ片目が残っています。これが見えなくなるまで、精一杯仕事をします」。
70歳、板画と肉筆画を融合させていく。1975年72歳で永眠。自ら板極道を名乗った男は「自分が死んだら、白い花一輪とベートーヴェンの第九を聞かせて欲しい。他には何もなくていい」という遺言を残した。
  墓は青森三内霊園にある。棟方は死を予感したのか、亡くなる前年に自分の墓の原図を描いていた。忠実に作られたその墓は、なんと敬愛するゴッホの墓と全く同じ大きさ、デザインのものだった。前面には「棟方志功 チヤ」と夫婦の名を刻み、没年には永遠に生き続けるという意味を込めて「∞」(無限大)と彫り込まれていた。

 墓の背後には「驚異モ/歓喜モ/マシテ悲愛ヲ/盡(ツク)シ得ス」《不盡(ふじん)の柵》と彫ったブロンズ板がはめ込まれている。
最後に彼が板画について残した言葉を記そう。
「愛シテモ、アイシキレナイ。驚イテモ、オドロキキレナイ。歓ンデモ、ヨロコビキレナイ。悲シンデモ、カナシミキレナイ。ソレガ板画デス。」