梶井基次郎

 梶井基次郎は昭和初期の作家で大阪生まれである。子ども時代は父の転勤と共に、東京、三重、京都などで暮らす。梶井は31年間の短い生涯に20回以上も転居している。母は古典や和歌を子どもたちに読み聞かせた。12歳の時に祖母を、14歳の時に弟を結核で亡くしている。18歳には文学や音楽に熱中しあまり授業に出なくなる。

 特に漱石については「漱石全集」を買い揃え、手紙に自分の名を「梶井漱石」と記すほどだった。翌年、肺結核を発病し最初の転地療養となる。20歳、父が定年後にビリヤード場を始め、梶井も熱中する。この頃から「退廃的生活」を送るようになる。泥酔してラーメン屋の屋台を引っくり返したり、喧嘩してビール瓶で殴られたり、家賃が溜まった下宿から逃亡したり、料亭の池に飛び込んで鯉を追ったり、その無頼ぶりは梶井が登校すると「あれが梶井基次郎だ」と学生達が囁くほどだった。あまりに風貌に無頓着なので、同級生が金を出しあって散髪をさせたこともあった。
 汽車通学を始めた梶井は車内で出会った同志社女学校の生徒に惚れ込む。この時の様子を女友達が次のように記している。
  「梶井さんは日に何度もその女性の名前を口にしたり、どうすれば気持を伝えることが出来るかという相談ばかり持ちかけるようになりました。そうした事が続いたある日のこと、珍らしく上機嫌でやって来て、いきなり「とうとうやりましたよ」と嬉しそうに言うので、私は何だか不安になって理由を尋ねると、梶井さんは少し得意になってこう話しました。ある英詩集の中に、恋を知った一人の男が相手の女性に自分の愛を訴える処があり、その一頁をひき破って、座席に腰かけている先方の膝の上へ「これを読んで下さい」と言って置いて来たと言うのです。話が終るとまるで男一匹が重大な仕事をなし遂げた時のような顔をして、あの大きい手を宙に振りあげながら「細工はりゅうりゅう」等と言っていた。ところが翌々日、今度は大変しょげてやって来ました。その朝女性に逢ったので、恐る恐る「読んで下さいましたか」と尋ねたら、相手は大変迷惑そうに「知りません」と言って横を向いてしまったとのこと。梶井さんはその「知りません」を、いかにも感に迫った句調で2、3回真似てみせたのでした(平林英子)」
初めて遊郭へ行く
  男3人で酒をあおり、へべれけに酔っ払った梶井は「俺に童貞を捨てさせろ」と怒鳴りながら、祇園の石段下で大の字に寝て動かない。そこで近くの遊廓へ彼を初めて連れて行ったのである。それ以来梶井は、時々その夜のことを呪うように「俺は純粋なものが分らなくなった」とか「堕落してしまった」とか言うが、そんな言葉に私は全く取合わなかった(中谷孝雄)」
友人談
  「その頃の梶井は、花を愛し、樹を眺め、芭蕉を慕ひ、音楽を好み、雪舟や、セザンヌや、ゴッホを楽しんでいた。梶井は室内を自分の好みの道具類で飾り、私に西洋皿を見せながら「これ、エリザベス朝時代の皿だよ」とニコニコして言っていた(外村繁)」
下宿に住んでいた詩人の話
  「ある晩彼が襖越しに私を呼んだ。「葡萄酒を見せてやらうか…美しいだろう…」そう言って、ガラスのコップを電灯に透して見せた。葡萄酒はコップの七分目ばかりを満して、なるほど鮮明で美しかった。しかし、それはつい今しがた彼がむせんで吐いたばかりの喀血だった。彼にはそんな大胆な嫌やがらせをして人をからかってみる、野放図と茶目っ気の入り混じった何かがあった(三好達治)」
大学時代から死去まで
  22歳、ロシア文学に没頭、学生演劇でチェーホフなどを演出するが団員に2名の女学生が加わっていたことから「不謹慎」とされ、校長から上演中止命令をくらう。ちなみに劇団で使用していた筆名「瀬山極」は、ポール(極)・セザンヌ(瀬山)のパロディであった。23歳、東大英文科に進学、同年妹が結核で逝去する。1925年(24歳)、友人らと 同人誌「青空」を創刊、肺結核と宣告された直後の気持、思春期の不安や焦燥を描き込んだ「檸檬(れもん)」を発表する。翌年、病状悪化により卒業を断念し中退する。伊豆湯ヶ島温泉で療養生活に入り、当地で川端康成、萩原朔太郎、宇野千代らと親交を結ぶ。「Kの昇天」を発表。26歳、川端の伊豆の踊子の校正を手伝う。
「梶井君は私の作品集「伊豆の踊子」の校正をすっかり見てくれた。誤植や私の字癖の細かい注意を彼から受けながら、私は少からず狼狽したのを覚えている。送り仮名の不統一をとがめるような事ならば、熟練した校正係りが鋭いであろう。そして私は、読めさえすればどうでもいいと、面倒臭がるであろう。梶井君の細かい注意にも、私はどうでもいいと答えた。しかし、私がそう答えたのは、校正ということを離れて、自分の作品が裸にされた恥しさの為であった。彼は私の作品の字の間違いを校正したのでなく、作者の心の隙を校正したのであった。そういう感じが自然と私に来た。彼は静かに、注意深く、楽しげに、校正に没頭してくれたようであった。温い親切である。しかも作品の誤魔化しはすっかり掴んでしまった。彼はそういう男である。(川端康成)」
  以降、『冬の日』(26歳)、『冬の蝿』『桜の樹の下には』(27歳)、『闇の絵巻』(29歳)など、衰弱していく肉体を起こして真っ直ぐに自身の病と対峙し、人生を達観したかのような心境を綴っていく。1931年(30歳)、『交尾』を発表。病勢はさらに進み血痰が止まらず、大阪へ戻る。三好達治ら友人達が力を合わせて梶井の作品集『檸檬』を刊行した。そして人生最期の年となる翌1932年1月、肺病患者の静かな日常を描いた『のんきな患者』を「中央公論」に著し、生涯初めての原稿料を受け取る。正宗白鳥、直木三十五が新聞の時評で採り上げ、世間は梶井の存在を知った。続いて2月に小林秀雄が好評を書き、さらに知名度が上がるが、翌3月に入って急速に容態が悪化する。

母親が記した「臨終まで」
『3月23日、病人(基次郎)は肝臓が腫れ出して痛むと言います。弟がやって来ますと、直ぐ医者へ行って薬をもらって来てくれと言います。「医者を探してくれ…自転車で…処方箋を貰って来てくれ」と、途切れ途切れにせがみました。弟は「ようし」と引受けて立上りました。陰鬱な時が過ぎてゆきました。そこへ弟が汗ばんだ顔で帰って来て「基ちやん、貰って来たぜ、市営住宅で探し当てた。サアお上り」と言って薬を差出しました。病人は飛び付くようにそれを呑み下しました。しかしもはや苦痛は楽になりません。「もうお前の息苦しさを助ける手当は全て尽してあるが、まだ悟りが残っている」と言いますと、病人はしばし瞑想し「解りました。悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と仰向けのまま胸の上で合掌しました。その眼に涙があり、それを見た私は「嗚呼、可愛想な事を言った」と思いました。病人は「お母さん、もう何も苦しい事はありません。この通り平気です。しかし、私は恥かしい事を言いました。この一帯(天下茶屋)を馳け廻つて医師を探せなどと無理を言いました。どうぞ赦して下さい」と苦しげな息の下から言って、後は眼を閉じ、ただ荒い息遣いが聞えるばかりでした。どうやらそのまま眠ってゆく様子です。
ふと私は、一度脈を測ってやろうと病人の手を取ってみると、脈は遥か奥の方に打つか打たぬかと思う程で、手の指先はイヤに冷たくなっています。医者は直ぐ駆けつけてくれましたが、もはや実に落着いたもので「ひどく苦しみましたか…大した苦しみがなければ、まず結構な方です」といった具合です。そして「まだ一日くらい持つだろう」と言うのでした。しかし、医者を見送った者には「あと2時間」とハッキリ宣告したとの事です。危く私は病人の死を知らずにいるところでした。
やがて一同が枕元に集って、綿で口へ水を塗ってやりました。私が「基次郎」と呼ぶと、病人はパッと眼を見開きますが「お母さんだよ、分っているか」と言っても何の手応えもなく眼を閉じてしまいます。吐く息が長く吸う息は短く、次第に呼吸の数も減って行きます。そして、最後に大きく一つ息を吐いたと思うと、それきりパッタリと呼吸が止まってしまいました。時に3月24日午前2時。から(現代語に意訳し抜粋)。


作品から
「その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体に中に吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた」(『檸檬』)
「私は好んで闇の中へ出かけた。谷ぎわの大きな椎(しい)の木の下に立って遠い街道の孤独な電灯を眺めた。深い闇の中から遠い小さな光を眺めるほど感傷的なものはない」(『闇の絵巻』)
「冬の蝿とは何か?ヨボヨボと歩いている蝿。指を近づけても逃げない蝿。そして飛べないのかと思っていると、やはり飛ぶ蝿。彼らは一体どこで夏頃の不逞さや憎々しいほどのすばしこさを失って来るのだろう」(『冬の蝿』)
長く肺を病み、死と隣り合わせに生きてきたが故の、研ぎ澄まされた繊細な感受性。衰弱した体が独特の詩的な文体、数々の美しいイメージを刻んだ。青春期の倦怠、絶望、焦心、苦悩を告白した作品群は、どれもが梶井基次郎という男の生命の炎の記録だ。
「視ること、それはもう“なにか”なのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ」(『ある心の風景』)
梶井はどんなに肉体が弱っていても、自らの病と非情な運命をジッと“凝視”し続け、そこから決して目をそらすことはなかった。家族が次々と結核で先立つなか、小鳥や蛙といった小動物の生命に敏感にならずにはいられなかった。彼は蜘蛛や蝿に至るまで、命という命を優しい目で見守った。
自らの病について、20代前半に『檸檬』へ動揺を表した梶井だが、30歳の最晩年の『のんきな患者』では病気を材料(ネタ)にして、患者から見た俗世間をユーモアさえ交えながら描写している。死の数時間前に「悟った」と言ったのも自然に頷ける。
梶井の作品
  梶井の作品は短命もあって20編しかない。これらは「中央公論」で発表された一編を除き、発行部数の少ない同人誌に書かれたものばかりである。同時代に芥川、谷崎、志賀、島崎らが華々しく活躍した「文壇」からは遠く離れており、死の2ヶ月前まで無視され続けた。作品は死後、時間と共に高く評価され始め、今では教科書に載るまでになっている。
墓は中央区の常国寺。お茶が大好きだった梶井の遺言により、棺にはお茶の葉が詰められ、周囲は草花で飾られた。梶井が長生きしていたら、どんな作品を残しただろう。本当に残念でならない。