宮沢賢治

★賢治の人生

岩手県花巻生まれ。父は質屋を営み、地元では裕福な家に育つ。子どもの頃から植物や昆虫の標本作りが好きだった。最も熱中したのは鉱物採集で、周囲から「石っこ賢さん」と呼ばれていた。国語が得意で15歳から短歌を詠み始める。18歳、法華経の経典に強く胸を打たれ、以後熱心な法華信者となる。19歳の時に現岩手大学農学部に首席で入学。特待生に選ばれ授業料免除となる。21歳、学業のかたわら友人たちと文学同人誌『アザリア』を創刊、短歌を発表していく(翌年からは童話も)。

この頃、東北では度重なる飢饉で農民は貧困に喘いでいた。そして、質入れにくる貧農たちにわずかなお金を渡し不自由なく暮らす、そんな家業に賢治は反発するようになった。1921年(25歳)、家業ではなく自分にあった仕事がしたかった賢治は、童話作家を目指して家出同然に上京する。そして、雑誌『愛国婦人』に童話『雪渡り』を発表し稿料5円を得た。これは彼が生前に受け取った唯一の稿料となった。『注文の多い料理店』『どんぐりと山猫』『鹿踊りのはじまり』『かしはばやしの夜』『よだかの星』など、今も読み継がれる名作童話の多くがこの頃に書き上げられる。半年後、妹トシ病気の報を受けて帰郷し、花巻農学校の教諭に就任する。
26歳、賢治は“心象スケッチ”と呼んだ口語自由詩を書き始める。自然観察の好奇心は相変わらず旺盛で、偶蹄類(牛、鹿等)の足跡やクルミの化石をイギリス海岸で発掘した。11月、妹トシが24歳の若さで病没し、痛切な『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』を書く。

●永訣の朝 ※トシを看取った時の詩

けふのうちに とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ

(あめゆじゆとてちてけんじや)※あめゆきとつてきてください

うすあかくいつそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ

(Ora Orade Shitori egumo)※あたしはあたしでひとりいきます

ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あぁあのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ

(うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごと
ばかりで くるしまなあよにうまれてくる)
※またひとにうまれてくるときは
こんなにじぶんのことばかりで
くるしまないやうにうまれてきます

おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖(きよ)い資糧(しりょう)をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ


1924年(28歳)、生前に刊行された唯一の詩集『春と修羅』と、童話集『注文の多い料理店』を自費出版する。この頃『土神と狐』を執筆。翌年からチェロやオルガンの練習を開始。
1926年(30歳)、農学校で生徒たちに立派な農民になれとハッパをかける一方、自分自身は農業の辛さを体験していないことに矛盾を感じた賢治は、教職を辞め花巻郊外で荒地を開墾するなど農耕生活に入る。そして近隣の農家の青年たちと羅須(らす)地人協会を設立し、稲作法や土壌学、植物学などの講義を行なった。また花巻一帯の数ヶ所に肥料設計事務所を設け、農村を巡っては稲作の指導にあたると共に、農民たちに芸術の重要性を唱え、自宅で童話やレコードの鑑賞会を開いた(田んぼの真ん中でベートーベンを聴いたという)。彼は論文『農民芸術概論』を書き、序論には「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と刻んだ。

●「農民芸術概論」から~なぜ我らの芸術がいま起らねばならないか

かつて我らの師父(しふ)たちは 乏しいながら かなり楽しく生きていた
そこには芸術も宗教もあった
いま我らにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され しかも科学は冷く暗い
芸術はいま我らを離れ しかもわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは 真善もしくは美を独占し販る(販売する)ものである
我らに購ふ(購買する)べき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまや我らは新たに正しき道を行き 我らの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここには我ら不断のいさぎよく楽しい創造がある
都(会)人よ 来て我らに交れ 世界よ 他意なき我らを容れよ
(中略)
詞(ことば)は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画

31歳、花巻温泉に花壇を作ったり肥料設計、稲作指導に奔走する。新聞に羅須地人協会の記事が出ると、警察に社会主義者と疑われ事情聴取を受ける。32歳、日照りが続き、稲熱病の手当てなどで農村を走り回る。過労や栄養失調が重なって年末に急性肺炎にかかり、実家に帰って療養する。この病状は長引き、翌年も病臥が続く。

35歳、童話『風の又三郎』を執筆し、作中の“どっどどどどう”の歌の作曲を教え子に依頼する。この年、肥料用の石灰を取り扱うベンチャー企業・東北砕石工場の社長が、豊富な地質学の知識を持つ賢治を仕事に誘う。岩手は作物が育ちにくい酸性の火山灰地が広がっており、アルカリ性の肥料用石灰で土を改良すれば、より多くの収穫が期待できた。会社の利益と農民を救うことが一致し、しかもこれまでの学問が役立つ。賢治はこの仕事に生き甲斐を感じ猛烈に働いた。だが石灰の知識がない農民たちは、その効果に半信半疑。賢治は外回りをする傍ら、県庁で農業関係者の情報を集め、石灰の長所を説明したダイレクトメールを、1日170通、1ヶ月で5千通も送った(賢治が考えたキャッチコピー「御存知ですか新肥料・炭酸石灰~他の及ばぬ甚大なる効力」)。県から肥料展覧会で賞状をもらうことにも成功する。これらの努力が効を奏し、工場の1日の生産量は、10トンから25トンにまで急増した。
石灰の売れ行きが頭打ちになると、賢治は建築用の壁材料を考案。賢治は工場の人々の期待を一身に背負い、売り込みの為に40kgのサンプルを持って上京した。ところが、過労がたたって再び発熱し、死期が近づいていることを感じた彼は、苦しさの中で両親に遺書を書く。「とうとう一生何ひとつお役に立たず、ご心配ばかり掛けてしまいました。どうか、この我儘(わがまま)者をお赦(ゆる)し下さい」(9月21日)。

なんとか帰郷したものの、病臥生活が続く。賢治にはやりたいことが山ほどあった。農民を助けたい、会社を救いたい、童話を書きたい、体さえ丈夫であれば、もっと皆のために役に立てる…!この思いから、布団の中で手帳に『雨ニモマケズ』を書き留めた。冒頭で、雨風や寒さ、暑さにも負けない「丈夫な体を持ち」と願ったのはこのためだ(手帳は賢治の他界後に、仕事のトランクから発見された)。

●雨ニモマケズ

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
ソウイウモノニ
ワタシハナリタイ

※後半に「行ッテ」が3度も出てくるのは、病床で身動きがとれない賢治の、切実な思いが込められている。また、手帳の左上にはわざわざ赤ペンで、本文とは別に「行ッテ」と大きく書かれている。

36歳、闘病生活の中でも創作活動を続け、雑誌「児童文学」に童話『グスコーブドリの伝記』(挿絵はなんと棟方志功!)を病床から発表する。
37歳(1933年)病状が悪化する中で農民の肥料相談に応じていたが、秋になって容態が急変し、9月21日、「法華経1千部を印刷して知人に配布して欲しい」と遺言を残して午後1時半に息を引取った。最期の言葉は「今夜は電燈が暗いなあ」。享年37歳。この9月21日は、奇しくも2年前に遺書を書いた同じ日だった。死後、未完成のままの『銀河鉄道の夜』が発見された。賢治は28歳の頃から亡くなるまで、何年も『銀河鉄道の夜』に手を入れ続け、ついに未完のままで旅立った。
(「永久の未完成これ完成である」と賢治は書き残しているので、或いはこれでいいのかも知れない…)