太宰治

波乱の人生
 太宰治(明治42年6月19日 - 昭和23年6月13日)は、青森県津軽金木村(五所川原市)の大地主の家に六男として生まれた。本名は津島修治で、父親は貴族院議員も務め邸宅には30人の使用人がいた。

 津島家は「金木の殿様」とも呼ばれ、父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったため、生まれてすぐ乳母に育てられ、その乳母が1年で辞めると、叔母のキエ(母の妹)に、さらに3歳から小学校入学までは14歳の女中・近村たけが子守りを務めた。

 1916年(大正5年)、金木第一尋常小学校に入学した。津島家の子弟は成績に関係なく、学業は全て甲をつけられていたが、太宰は実際に成績も良く開校以来の秀才と言われていた。

 金木第一尋常小学校卒業後、明治高等小学校に通学した。当時の尋常小学校は義務教育で年限は4年で、次に進学した明治高等小学校は義務教育ではない修業年4年の高等小学校であった。明治高等小学校に通学したのは次兄の英治と三兄の圭治が成績不振で弘前中学校を2年で中退したためで、落ちこぼれぬように学力を高めるためだった。太宰治は明治高等小学校を首席で卒業したが、14歳の時に父親が肺癌で死去し長兄が家督を継いだ。

 旧制青森中学校に入学すると、実家を離れて下宿生活を送る。成績優秀で1年の2学期から卒業まで級長を務めた。16歳の頃から小説やエッセイをクラスメートと同人雑誌に書き始めた。高校では芥川龍之介、志賀直哉、室生犀星、泉鏡花に強く傾倒し、中高を通して書き記した習作は200篇にも及び、作家を志望するようになる。

 1927年(昭和2年)旧制弘前高等学校文科甲類に入学。弘高は全寮制であったが、病弱と偽り下宿生活をしていた。18歳の時、夏休みに金木に帰省中に、芥川龍之介の自殺を知り衝撃を受け、弘前の下宿に戻るとしばらく閉じこもってしまった。衝撃を受けた太宰は学業を放棄すると義太夫を習い、花柳界に出入りすると、青森の料亭で15歳の芸妓・小山初代と知り合い深い仲になる。

 

自殺未遂
  翌年、東大仏文科に入学。かねてから「山椒魚」などで井伏鱒二を尊敬していた太宰は、上京後すぐ井伏のもとを訪れ弟子入りした。 1929年(20歳)の秋頃から急激に左翼思想に傾斜し、12月10日深夜に最初の自殺未遂を行った。資産家の子という自己の出身階級に悩み、下宿で睡眠薬(カルモチン)による自殺を図り昏睡状態に陥ったのである。そのため母が付き添い大鰐温泉で1月7日まで静養した。太宰は自殺未遂の理由を「苦悩の年鑑」の中で「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった」と自分の身分と思想の違いのためとして書いているが、1月16日から特高によって弘高の左翼学生が相次いで逮捕される事件が起き、津島家から事前に情報を得た太宰は逮捕を逃れるために自殺未遂をしたという見方もある。治安維持法によって非合法化されていた左翼活動にも具体的に係わっていく。

 秋頃、愛人関係にあった小山初代に地元有力者からの身請け話が持ち上がり、動揺した太宰は彼女を上京させる。名家の息子が芸妓を呼び寄せたことが郷里で騒ぎになり「肉親を仰天させ、母に地獄の苦しみをなめさせた(東京八景)」とある。2人は同棲を始めるが生家から長兄が上京し「初代が芸妓でも結婚は認めるが、本家からは除籍する」と言い渡された。これを受けて兄と初代は落籍のためにいったん帰郷し、11月19日に分家を届出し除籍された。11月24日、長兄が太宰の名で小山家と結納を交す。


心中事件
  太宰はこの結納の翌日に銀座のカフェの女給・田部あつみ(19歳)と出会った。田部あつみは理知的で明るい美貌の人妻で夫は無名の画家であった。太宰と田部はそのまま浅草見物など3日間を共に過ごした後の11月28日夜、神奈川県小動崎(こゆるがさき)の畳岩の上でカルモチン心中を図った。

 翌朝、地元の漁師に二人は発見され、田部は間もなく絶命、太宰は現場近くの恵風園療養所に収容された。驚いた長兄はすぐさま津島家の番頭を鎌倉へ送った。

 番頭は田部の夫に示談金を渡し、太宰の下宿にあった左翼運動に関する大量の秘密書類を、警察の調査前に焼却した。実際、その翌日に警察が踏み込んでいる。亡くなった田部を見た番頭は「大変な美人で、私は美人とはこういう女性のことをいうのかと思いました」と述べている。事件後、太宰は自殺幇助罪に問われたが、起訴猶予となった。翌12月、一命を取り留めた太宰は青森碇ヶ関温泉で小山初代と仮祝言をあげた。
  22歳、長兄は初代を芸妓の境遇から解放して上京させ、太宰との新所帯を持たせた。太宰は屈折した罪悪感から左翼運動に没頭し、反帝国主義学生同盟に加わ理、大学にはほとんど行かず転々と居を移した。さらにアジトを提供し、ビラ撒き、運動へのカンパなどを行なった。太宰が用意したアジトで機関紙の印刷や中央委員会が開かれ、ビルの上からビラを撒くことを太宰は「星を振らせる」といい、後年「チラチラチラチラ、いいもんだ」と回想している。

 23歳、青森の実家に警察が訪れ、太宰の行動について問いただしたことから左翼活動のことがバレ、激怒した長兄(県議をしていた)から「青森警察署に出頭し左翼運動からの離脱を誓約しない限り、(仕送りを停止し)一切の縁を絶つ」という手紙が届く。こうして足掛け3年間の太宰の左翼運動は終わった…組織の友人たちを裏切ったという深い後ろめたさと共に。以後、井伏の指導で文学に精進し、檀一雄や中原中也らと同人雑誌を創刊、『思い出』を始めとして、堰を切ったように執筆活動を開始する。


3回目の自殺未遂
  1935年(26歳)、授業料未納により大学から除籍され、都新聞社の入社試験にも落ち、3月16日夜、鎌倉八幡宮の山中にて縊死を企てたが失敗(3回目の自殺未遂)。その直後、盲腸炎から腹膜炎を併発、入院先で鎮痛のため使用した麻酔剤(パビナール)をきっかけに薬物中毒になる。

 同年、芥川賞が創設され、太宰は『逆行』により第一回芥川賞の5人の候補者に入った。結果は、石川達三が受賞し太宰は次席。選考委員の一人、川端康成は太宰について「目下の生活に厭(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる恨みあった」と評した。これを読んで逆上した太宰は『川端康成へ』との一文を記し、文中で「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。小鳥を飼い(川端の小説“禽獣”への皮肉)、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った」と怒りをぶちまけた。この頃から佐藤春夫に師事する。
 これに対し、川端は「根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい。(中略)“生活に厭な雲云々”も不遜の暴言であるならば私は潔く取消す」と大人の対応をした。
  翌年(27歳)、太宰は“遺書のつもりで書いた”という作品集『晩年』を刊行、芥川賞の選考前に川端へ本を郵送する。次の手紙をつけて--『何卒(芥川賞を)私に与へて下さい。一点の駈け引きございませぬ。深き敬意と秘めに秘めたる血族感とが、右の懇願の言葉を発っせしむる様でございます。(中略)私に希望を与へて下さい。私に名誉を与へて下さい。(中略)「晩年」一冊のみは恥かしからぬものと存じます。早く、早く、私を見殺しにしないで下さい。きっとよい仕事できます』。
  ド真ん中直球ストレートの、泣きつくような懇願文だった。上京以後、心中事件で相手を死なせてしまったり、芸伎と結婚したり、非合法活動に係わったり、大学も卒業出来ず就職に失敗するなど、故郷の生家に数々の迷惑をかけたことから、芥川賞の受賞で名誉挽回を果たそうとしたのだった。それに薬物中毒でかさんだ薬屋の借金を払う為にも賞金が必要だった。だが選考の過程で「すでに新人に非ず」と最終候補から外され深く打ちのめされる。
  同年秋、太宰の薬物依存があまりに深刻な為、心配した井伏ら周囲の者は太宰に「結核を療養しよう」と半ば騙すような形で、武蔵野病院の精神病病棟に入院させた。一カ月後、完治して退院したものの、太宰は「自分は人間とは思われていないのだ、自分は人間を失格してしまっているのだ」と深く傷つく。この体験は8年後『人間失格』に結実する。太宰が退院すると、妻初代は入院中に他の男と間違いを犯したことを告白した。


4回目の自殺未遂
  1937年(28歳)、浮気にショックを受けた太宰は、初代と谷川岳山麓の水上温泉でカルモチン自殺を図ったが今回も未遂となり離婚する(4回目の未遂)。一年ほど杉並のアパートで下宿生活し、10ヶ月近く筆を絶つ。井伏は太宰のすさんだ生活を変える為に、自分が滞在していた富士のよく見える山梨県御坂峠に招待する。こうした気分転換が功を奏し、徐々に太宰の精神は安定していく。翌年、井伏が紹介した高校教師・石原美知子と見合い婚約。1939年(30歳)、井伏家で結婚式をあげ、東京・三鷹に転居、以後死ぬまでここに住む。 太宰の作品は明るく健康的な作風となり名作『女生徒』『富嶽百景』を生み、川端から「“女生徒”のやうな作品に出会へることは、時評家の偶然の幸運」と激賞される。31歳、『駈込み訴え』『走れメロス』を執筆。1941年(32歳)、太平洋戦争開戦。翌年発表した『花火』(後に「日の出前」と改題)が、当局の検閲によって“時局に添わない”と全文削除を命ぜられる。1944年(35歳)、故郷への郷愁を綴った『津軽』を脱稿。
  1945年(36歳)、空襲下で執筆し始めたパロディ『お伽草紙』を疎開先の甲府で完成。敗戦を津軽の生家で迎える。翌年、坂口安吾や織田作之助と交流を深めた。1947年(38歳)、2月に神奈川まで太田静子(太宰に文章の指導を受けていた愛人)を訪ね5日間滞在。太田をモデルに没落貴族の虚無を描いた『斜陽』を書き始め6月に脱稿する。11月には太田との間に娘が誕生し「太田治子、この子は私の可愛い子で父をいつでも誇ってすこやかに育つことを念じている」との認知証を書く。同年、三鷹駅前のうどん屋台で山崎富栄(当時28歳、戦争未亡人)と出会う。『ヴィヨンの妻』『おさん』を発表。『斜陽』は大反響となり太宰は名声と栄光に包まれた。
 1948年、過労と乱酒で結核が悪化し、1月上旬喀血。富栄の懇親的な看病のもと、栄養剤を注射しつつ5月にかけて、人生の破綻を描いた『人間失格』を執筆。また『如是我聞』で志賀直哉ら文壇批判を展開する。太宰は文壇の頂点にいた老大家・志賀を「成功者がつくる世界の象徴」と敵視し、「も少し弱くなれ。文学者ならば弱くなれ。(中略)君は代議士にでもなればよかつた。その厚顔、自己肯定」「芥川の苦悩がまるで解つていない。日蔭者の苦悶。弱さ。聖書。生活の恐怖。敗者の祈り。」「本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である」と噛み付いた。
心中
  6月13日深夜、太宰は机に連載中の『グッド・バイ』の草稿、妻に宛てた遺書、子どもたちへのオモチャを残し、山崎富栄と身体を帯で結んで自宅近くの玉川上水に入水する。現場には男女の下駄が揃えて置かれていた。6日後の19日早朝(奇しくも太宰の誕生日)に遺体が発見される。帯はすぐに切られ、太宰は人気作家として立派な棺に移され運ばれたが、富栄はムシロを被せられたまま半日間放置され、父親が変わり果てた娘の側で一人茫然と立ち尽くしていた。
 死後、『桜桃』『家庭の幸福』『人間失格』『グッド・バイ』などが次々と刊行される。娘の津島佑子、太田治子は共に小説家となった。
『禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは、墓地の択(え)り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らなければならぬ。私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。』--1944年に発表された『花吹雪』にこの一節があり、意が汲まれて太宰の墓は鴎外の斜め向かいに建立された。

妻に宛てた太宰の遺書(抜粋)
 「美知様 誰よりもお前を愛していました」
「長居するだけみんなを苦しめこちらも苦しい、堪忍して下されたく」
「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」
 
心中当日の山崎富栄の日記
「六月十三日、遺書をお書きになり 御一緒に連れて行っていただく
みなさん さようなら
父上様 母上様 御苦労ばかりおかけしました ごめんなさい
お体大切に、仲睦まじくおすごし下さいまし
あとのこと、おねがいいたします。
(中略)
静かに、小さく、とむらって下さい
奥様すみません
修治さんは肺結核で左の胸に二度めの水が溜まり、このごろでは痛い痛いと仰言るの、もうだめなのです。みんなしていじめ殺すのです。いつも泣いていました。
豊島先生(作家、豊島与志雄)を一番尊敬して愛しておられました。野平さん、石井さん、亀島さん(3名とも編集者)、太宰さんのおうちのこと見てあげてください。園子ちゃん(太宰の長女、7歳)ごめんなさいね。
-中略-兄さん(富栄の兄)すみません あと、おねがいいたします。すみません」

富栄が死の当日、同じ愛人の太田静子に宛てた手紙
「太宰さんは、お弱いかたなので、貴女やわたしや、その他の人達にまで、おつくし出来ないのです。わたしは太宰さんが好きなので、ご一緒に死にます。太田様のこと(※治子出産のこと)は、太宰さんも、お書きになりましたけど、後の事は、お友達のかたが、下曽我(※太田の家)へおいでになることと存じます。」

富栄の公式遺書
「私ばかり幸せな死にかたをしてすみません。奥名(※4年前に戦場で行方不明。新婚生活は12日間しかなかった)と少し長い生活ができて、愛情でも増えてきましたらこんな結果ともならずにすんだかもわかりません。
山崎の姓に返ってから(※まだ奥名籍だった)死にたいと願っていましが・・・
骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております。
太宰さんと初めてお目もじしたとき他に二、三人のお友達と御一緒でいらっしゃいましたが、お話しを伺っております時に私の心にピンピン触れるものがありました。奥名以上の愛情を感じてしまいました。
御家庭を持っていらっしゃるお方で私も考えましたけれど、女として生き女として死にとうございます。あの世へ行ったら太宰さんの御両親様にも御あいさつしてきっと信じて頂くつもりです。愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。
せめてもう一、二年生きていようと思ったのですが、妻は夫と共にどこまでも歩みとうございますもの。ただ御両親のお悲しみと今後が気掛りです」

“女として生き女として死にたい”“妻は夫と共にどこま迄も歩みたい”など、富栄の太宰への想いは心底からのものだった。