佐藤春夫

佐藤春夫
和歌山生まれ。中学時代から「明星」「スバル」に歌を投稿していた。17歳の時、地元の文芸講演会で反保守的な言説をとった為に無期停学の処分を受ける。翌年上京。与謝野寛の新詩社に入り、続けて永井荷風の「あめりか物語」に感動、荷風に師事した。小説を書き始めた春夫は25歳の時に「西班牙(スペイン)犬の家」を執筆、芥川から好評を得る。春夫と芥川は同じ年齢。2人は意気投合した。谷崎潤一郎(当時32歳)の推薦で本格的に文壇へデビューし、耽美主義の影響を受けた1919年(27歳)の「田園の憂鬱」が高い評価を受け、芥川と共に次世代作家として世間から注目される。

しかし、この頃から春夫は約10年間に及ぶ苦しい片想いを体験していく。好きになった女性が谷崎の夫人千代だったのだ。谷崎夫婦には幼い娘がいたが、夫の気持ちは妻の妹に移り、愛情は冷め切っていた。当初、春夫は千代に同情を寄せていたが、やがてそれが恋心になった。深く愛する人に手が届かない、しかもその人はとても寂しい境遇にいる…。春夫の苦悩を察した谷崎は妻と別れる約束をしたが、離婚の直前になって心境が変化、絶望した春夫は谷崎と絶交した。谷崎との関係を断絶したので、もう夫人とも会えない。春夫は神経症になり故郷紀伊に閉じこもった。そして谷崎夫婦の沈黙の食卓を思い出し、苦渋に満ちた胸の内を「秋刀魚の歌」として記した。

「秋刀魚(さんま)の歌」(抜粋)

あはれ 秋風よ
情あらば伝えてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児とに伝えてよ
― 男ありて
今日の夕餉(ゆうげ)に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす、と。

さんま、さんま、
さんま苦いか塩っぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あわれ
げにこそは問はまほしくをかし。

冷たい秋風に思いを託さねばならない孤独、流れ落ちる涙、そういった物悲しさが詰め込まれた詩。この「秋刀魚の歌」を収めた第一詩集「殉情詩集」が1921年(29歳)に出版されると、多くの人が胸を打たれた。
親友の芥川とは共著で漢訳詩集を出す相談をしていたが、1927年、芥川が35歳で自殺してしまい衝撃を受ける。その2年後、図らずも単独で出すことになった漢訳詩集「車塵集」の扉に、春夫は「芥川龍之介のよき霊に捧ぐ」と刻んだ。

1930年(38歳)、8月19日。新聞各紙の報道に世間が仰天した。谷崎、千代、春夫の3人の連名による関係者への挨拶状が掲載されたのだ。「我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り…」なんと、谷崎と千代の電撃離婚と千代と春夫の電撃結婚の同時報告だった。谷崎と春夫の交際は従来通りだという。社会はこれを「夫人譲渡事件」(失礼だなぁ)と呼んで大騒ぎした。

1935年(43歳)、芥川賞が設立されると春夫は初代選考委員になる。戦後も戯曲、歴史小説、随筆、評論、童話、紀行文と各ジャンルで精力的にペンをふるった。辛口の批評の中にも詩心のある作家であり、その門弟は3千人といわれている。1960年(68歳)、文化勲章を受章。1964年、自宅でラジオ録音中に「私の幸福は…」と言いかけ、心筋梗塞で急逝する。享年72歳。 」