伊藤若冲 

伊藤若冲 
別号、斗米庵(とべいあん、絵を米一斗と交換したから)。八百屋や魚屋が軒を連ねる京の胃袋、錦小路の青物問屋の長男として生まれる。海の幸や山の幸に囲まれて過ごしたことは、若冲の原体験として後の作品に反映されている。22歳で父が没し家業を継ぐ。
若冲と親しかった京都相国寺の禅僧によると、若冲は「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と評されている。彼には絵を描くことが人生の喜びの全てで、芸事にも酒にも女遊びにも興味がなく、こうした世間の雑事のみならず、商売にもあまり関心がなかったらしい。とにかく、頭の中は絵筆を握りたいという思いしかなかった。

何がきっかけで絵に目覚めたのか不明だが、家業のかたわら、30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始めた。最初は他の画家と同じ様に、当時の画壇の主流だった狩野派の門を叩いたが、「狩野派から学ぶ限り狩野派と異なる自分の画法を築けない」と考え、画塾を辞めると独学で腕を磨いていった。京都には中国画の名画を所蔵する寺が多く、彼は模写の為にどんどん各寺へ足を運んだ。寺院通いを続けるうち、若冲は修行僧のように頭を剃り、肉食も避けて、自ら「平安錦街居士」と称するようになった。
絵にかける思いは年々つのり、家業と画業の二重生活が苦しくなったのか、ある時若冲は店を家人に任せて丹波の山奥に入り、2年間も音信が途絶えてしまう。帰宅した彼は、1755年、39歳で弟に家督を譲って隠居する。弟は兄をよく理解し、画業を経済面から支えた。これ以後、若冲は四半世紀の間、ずっと作画に専念する。

千枚とも言われる模写の日々。やがて、若冲は「絵から学ぶだけでは絵を越えることができない」と思い至り、目の前の対象(実物)を描くことで真の姿を表現しようとした。生き物の内側に「神気」(神の気)が潜んでいると考えていた若冲は、庭で数十羽の鶏を飼い始める。だが、すぐには写生をせず、鶏の生態をひたすら観察し続けた。朝から晩まで徹底的に見つめる。そして一年が経ち見尽くしたと思った時、ついに「神気」を捉え、おのずと絵筆が動き出したという。鶏の写生は2年以上も続き、その結果、若冲は鶏だけでなく、草木や岩にまで「神気」が見え、あらゆる生き物を自在に描けるようになった。

若冲は1758年(42歳)頃から、代表作となる濃彩花鳥画『動植綵絵(さいえ)』シリーズに着手する。身の回りの動植物をモチーフに描き、完成まで10年を要した同シリーズは全30幅の大作となり、日本美術史における花鳥画の最高傑作となった。
この頃から京都では12歳年下の画家・円山応挙が大ブレイク、門弟千人という円山派が都の画壇を席巻する。一方、若冲は一匹狼の画家で朝廷や政権にコネも何もなかったが、当時の文化人・名士録『平安人物志』の中で、円山応挙に次いで2番目に記載されるほど高名な画家となった。

1788年、72歳になった若冲を突然不運が襲う。“天明の大火”だ。京を火の海にしたこの大火事で、彼の家も画室も灰になり、焼け出されて大阪へ逃れた。私財を失って生活は貧窮し、若冲は70の齢を過ぎて初めて家計の為に絵を描くことになった。大阪では西福寺の金地の襖に『仙人掌(サボテン)群鶏図襖』を描いた。
1790年(74歳)から最後の10年間は、京都深草の石峯(せきほう)寺の門前に庵をむすんで隠棲した。1792年(76歳)にずっと彼を援助してくれた弟が他界してからは、画1枚を米一斗で売る暮らしを送るようになる。ただし、この晩年が若冲にとって悲しみに満ちたものかというと、元来無欲な彼にとって貧困は苦にならず、むしろ悠々自適の様子であったと伝えられている。

最晩年の若冲は、石峯寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群・五百羅漢像を築く計画を練る。若冲が下絵を描き石工が彫り上げた五百羅漢像は、住職と妹の協力を得て10年弱で完成した。1800年、84歳の長寿で大往生する。生涯独身だった。
現在、石峯寺の境内には若冲の墓があり、側には幕末三筆の貫名海屋が若冲を讃えた筆塚が建っている。(墓は相国寺にもあり。そちらでは、百人一首の藤原定家、将軍足利義満と並んで眠っている)
※五百羅漢たちはみんな苔むして風化し丸くなっており、全身で200年の年月を語っている。
※若冲の作品は、金閣寺に描かれた水墨画の大作『大書院障壁画』、野菜を使って釈迦の入滅を描いた『野菜涅槃図』なども有名。



   
長谷川等伯の『仏涅槃図』     若冲の『野菜涅槃図』
涅槃(ねはん)図は釈迦の臨終を描いた絵。沙羅双樹の下で体を横たえ、周囲では十大弟子や菩薩、動物までが悲しみに慟哭している--これが一般的な涅槃図だ。ところが、若冲はなんと野菜を使って描いた。中央の大根(釈迦)の周囲をナスやキュウリが取り巻き、嘆いている。背後の沙羅双樹はトウモロコシだ。登場する野菜の数は実に66種類。中には、ライチやランブータンのように大陸から輸入した珍しい果物も描かれている。一見とてもユーモラスな絵だけど、青物問屋の若冲は野菜や果物を人一倍に聖なるものと感じており、大真面目にこれを描いたのかも知れない。

●『動植綵絵(さいえ)』
約10年の歳月をかけて制作された、生命の「神気」を描いた30幅の花鳥画。この濃密な空間は何事か。埋め尽くされた溢れる命で息が詰まるほどだ。まさに生命の宇宙。対象物への熱すぎる視線。高い描写力で絵の隅々まで全く手を抜くことなく、目の覚めるような極彩色で、鶏、昆虫、魚介類、草花が、尋常じゃない集中力で描かれている。ありのまま描いた写生なのに、優れたデザイン性を感じさせる非凡さ。奇想なる造形力。そして、迫真の描写の中に時たま垣間見えるユーモアや遊び心に、天才の余裕を感じてしまい、これまた脱帽してしまう。
日常の小さな生き物達が、氾濫する色彩の中にいて、ずっと見つめていると色の渦でトリップしそうになる。どの絵も最高級の画材で描かれており、200年以上経っても素晴らしい発色だ。若冲は絵の完成後に全幅を相国寺に寄進し、現在は宮内庁が管理している。

※30代半ばから名乗った「若冲」の号は、相国寺の名僧・大典和尚から与えられた。「若冲」は『老子』にある「大盈(だいえい)は冲(むな)しきが若(ごと)きも、其の用は窮(きわ)まらず」(満ち足りているものは空虚なように見えても、その役目は尽きることがない)から名付けられた。時を超えて人々の心を動かす若冲に相応しい号だね。
※若冲が現れるまで、画題として野菜に光を当てた画家はいない。