上村松園

上村松園(しょうえん) 
京都出身。本名津禰(つね)。父は生れる二ヶ月前に他界していた。家は葉茶屋で、母が女手一つで彼女を育て上げる。子どもの頃から絵がたまらなく好きだった松園は、小学校を卒業すると、京都に開校したばかりの日本最初の画学校に12歳で入学する。しかしカリキュラム優先の学校よりも、尊敬する師匠の内弟子となって修業する方が身になると思い翌年退学、鈴木松年に師事する(1888年)。めきめきと腕をあげる彼女は“松園”の号を与えられた。親戚や周囲には彼女のこうした生き方を非難する声も多かった。明治の世では「女は嫁に行き家を守ることが最上の美徳」とされており、教育を受けたり絵を習うということは中傷の対象だったのだ。
 
1890年、第3回内国勧業博覧会に出品した「四季美人図」が英国皇太子コンノート殿下の買上げとなり、彼女は15歳にして一等褒状を受け、「京に天才少女有り」と世間から俄かに注目されるようになった。新たな画法を学ぶべく師匠を幾度と変えていった松園は、20歳から京都画壇の中心人物・竹内栖鳳(せいほう)に師事する。やがて27歳で妊娠。相手は最初の師匠松年と言われているが、先方に家庭があるため松園は多くを語っていない。彼女は未婚の母の道を選び、世間の冷たい視線に耐えながら長男松篁(しょうこう)を出産する。※松篁は成長して画家になり文化勲章を受章している。

私生活がどんな状況でも、早朝から絵の勉強を怠らなかった彼女。その絵筆はますます冴え渡り、各地の展覧会・博覧会で作品が高く評価された。飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍する松園は、「女のくせに」とライバルの男性画家たちから激しい嫉妬と憎しみの対象になった。それは晩年に松園が「戦場の軍人と同じ血みどろな戦いでした」と記すほどで、女性の社会進出を嫌う保守的な日本画壇の中で、ひたむきに、孤高に絵筆を握り続けた。
誹謗や中傷が渦巻く中、1904年(29歳)には、展覧会に出品中の『遊女亀遊』の顔が落書きされるという酷い事件も起きる。会場の職員から絵を前に「どうしますか」と尋ねられた松園は、「そのまま展示を続けて下さい。この現実を見せましょう…」と語ったという。
小柄な松園だが精神力は鋼のようだった。描かれる女性達はどれも凛として気品に満ちており、画風はどこまでも格調高かった。1907年(32歳)に始まった文部省美術展覧会(文展)では、毎回のように入選&受賞を繰り返し、第10回からは“永久無鑑査”となる。多くの人々が作品に魅了され、以降、帝展、新文展、日展の審査員となる一方でニューヨーク万国博覧会に出品もした。

しかし、社会の偏見とは敢然と戦った松園だったが、40代に入って年下の男性に大失恋し、スランプに陥ってしまう。1918年(43歳)、そこから生れた作品が問題作『焔(ほのお)』だ。清らかな美人画を描き続けてきた松園が刻んだ、女の怨念の世界。題材となったのは、光源氏の愛人・六条御息所が、正妻の葵上に嫉妬して生霊となった姿だ。能面では白目に金泥を入れると「嫉妬」を表現する面になる。この絵でも金泥が入っており、乱れた髪を口で噛むなど何ともオドロオドロしい。松園自身、「なぜこのような凄絶な作品を描いたのか自分でも分からない」と語り、この作品の発表後、3年間展覧会への出品を一切断つ。しかし皮肉にも、この作品が松園の評価をさらに高めた。それまで彼女を単なる美人画描きと否定していた連中は、凄まじい情念が込められた『焔』に、松園のすごみに圧倒された。

1934年、ずっと影で松園を支えてくれていた母が死亡。その2年後の1936年、61歳の松園は代表作となる『序の舞』を完成させる。それは女性が描く“真に理想の女性像”だった。様々な苦悩を克服して描かれたのは、燃える心を内に秘めるが如く、朱に染められた着物を着て、指し延ばした扇の先を、ただ真っ直ぐに、毅然として見つめる女性だった。「何ものにも犯されない女性の内に潜む強い意志をこの絵に表現したかった。一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ、私の念願するものなのです」(松園)。
1948年(73歳)、女性として初めて文化勲章を受章。その翌年74歳で逝去した。現代の画壇では「松園の前に松園なく、松園の後に松園なし」とまで言われている。

「気性だけで生き抜いて来たとも思い、絵を描くために生き続けて来たようにも思える」(松園)

※近代日本の美人画の代表的作家は、西(京都)の松園と東の鏑木(かぶらき)清方。松園の3歳年下だった鏑木は、若い頃を回想して「松園の作品は自らの目標であり、裏返しても見たいほどの欲望にかられた」と記している。