関東大震災

関東大震災
 1923年(大正12年)午前11時58分に、相模湾北部を震源とする海溝型の巨大地震が発生した。マグニチュード7.9の巨大地震で、190万人が被災し10万5千人余が死亡した。安政江戸地震よりも規模は大きく、巨大な揺れが0分間にわたって三度発生した。建物被害は全壊が10万9千棟、全焼が21万2000余棟で、現在の貨幣価値にて約320兆円という甚大な被害をもたらした。
 犠牲者のほとんどが帝都・東京府と神奈川県であったが、地震は茨城県・千葉県から静岡県東部まで広い範囲に被害をもたした。地震の直接の被害は震源に近い神奈川の相模湾の地域(横浜・小田原・国府津・大磯・茅ヶ崎・鎌倉)と房総の千葉(那古・船形・北条・館山)が最も甚大で、沿岸部の木造家屋30%が一瞬で倒壊し、震源近くの地域では70%以上の倒壊率だった。
 関東大震災では昼食の準備の時間だったため火を使っており、また日本海側(能登半島沖)にいた停滞していた台風の影響で風速10m/sの強風が関東地方に吹き込んでいた。そのため地震後には人口250万人の東京の約132ヶ所で一斉に出火し、火は瞬く間に延焼し9月3日午後14時頃まで類焼し続けた結果、市内総戸数63万8千棟の内、約40万棟が全焼した。
 東京市(東京15区)は木造住宅が密集しており、地震の揺れによる建物倒壊などの圧死もあったが、強風を伴った火災による死傷者が多くを占めた。

 隅田川近くにあった旧陸軍被服廠(ひふくしょう)跡の広い空き地に避難していたが、避難者約4万人の家財道具などが焼け、夕刻に火災旋風(火の竜巻)が襲いほぼ全員が逃げる間もなく約3万8千人が焼死した。火災のため、9月1日深夜の東京の気温は46度まで上昇し、更に5万人の命が一夜で失われた。
 地震による津波も発生し、静岡県熱海市で12m、千葉県相浜で9.3m、洲崎で8m、神奈川県三浦で6m。鎌倉市由比ケ浜では別荘や海水浴客に津波が押し寄せ300人余が行方不明となった。

 横須賀では重油タンクが爆発炎上、横浜港の大半は海中に没した。さらに山崩れや崖崩れ、土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。
 神奈川県足柄下郡の根府川駅に停車していた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し112人の死者を出した。さらにその後に発生した別の土石流で数百名の犠牲者を出した。
 大震災には死因に特徴があり、阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)では早朝であったため圧死が多く、東日本大震災では津波による溺死が多かった。また警視庁など多くの中央官庁の本部や役所が火災により全焼。消防や被害への早期対応にあたる行政組織が壊滅的な被害を受けたことや、地震当日は土曜日で、当時の官公庁や企業の多くは正午に業務を終えていたことも被害拡大の一因となった。

双子地震
 関東地震では東京では3度の大きな揺れがあったとされているが、大正末期の当時は、地震発生のメカニズムは分かっていなかった。いわゆるプレートテクトニクス理論が確立され、震源が地下で動く断層であることが確認されたのは昭和40年ごろである。地震計の針が本震ですぐに振り切れて余震を記録できていなていため、3度の揺れが解析されていない。
 地震が発生すると、地震が発生した場所で、それより小さい地震が多数発生する。最初の地震を本震、それに続く小さな地震を余震と言う。余震の回数は本震の直後に多いが、時間とともにある程度減少する。本震の規模が大きい場合は、余震でも被害が生じる場合がある。なお余震のうち最大の規模を持つ地震を最大余震、余震が分布している領域を余震域と呼ぶ。また余震は本震の直後の数時間から1日程度の間に分布している。
 本震が発生するより前に、本震の震源域となる領域で地震が発生することがあり、それを前震と言う。前震は規模も小さく数も少ない場合が多いが、多数発生して被害を及ぼすこともある。また前震は本震の直前~数日前に発生することが多いが、一ヶ月以上前から発生することもある。ただし本震が発生するより前に、ある地震が前震なのかどうかを判断することは難しい。
 なお、前震・本震・余震の区別がはっきりせず、ある地域に集中的に多数発生するような地震群を群発地震と呼ぶことがある。関東地震はふたつの大きな断層の滑りが原因で、短時間に連続した「双子地震」であった。
 関東地震は、最初の大きな断層の滑りが神奈川県の小田原の直下で発生し、約10~15秒後に三浦半島の直下で2度目の大きな滑りが起こったとされる。ふたつの滑りによる揺れの差を感じたのは震源の近くで被災した人々だけである。小田原ではいきなり上下動をともなう激震に見舞われ、2度目の滑り地点に近い藤沢の小学校では、やや緩い揺れがしばらく続いたのちに、校舎が瞬く間に倒れるほどの激しい上下動をともなう揺れが襲った。震源から離れた東京では双子地震の本震を30~60秒にわたる一度目の揺れとして感じ、そのあとに2回の余震の揺れを感じたため、都合3度の揺れを感じる結果となった。
 震源の規模を示すマグニチュードでいえば、長さ130kmもの巨大な断層面でM8クラスの本震が双子地震で起こり、その3分後にM7クラスの大余震、さらに1分半後にM7クラスの大余震が再び発生したことになる。その度に関東各地は強い揺れに見舞われ、断続的に5分間の激震が襲ったことが関東地震の揺れの正体であった。

関東地震の本震と余震の記録
 関東地震の震度分布および本震と余震の震源被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。
 東京朝日新聞、読売新聞、国民新聞など新聞各社の社屋も焼失した。唯一残った東京日々新聞の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」、「日本橋、京橋、下谷、浅草、本所、深川、神田殆んど全滅死傷十数万」、「電信、電話、電車、瓦斯、山手線全部途絶」といった凄惨な文面が見られた。さらに「横浜市は全滅 死傷数万」、「避難民餓死に迫る」、「江東方面死体累々」、「火ぜめの深川 生存者は餓死」、「横浜灰となる あゝ東京」などの見出しが続いた。

政府の対応
 国難に及ぶことから国(大日本帝国)も対応に追われが、内閣総理大臣の加藤友三郎が発災8日前に急死していたため、発災から内田康哉が内閣総理大臣臨時代理として職務を代行し、発災翌日の9月2日に山本権兵衛が首相就任、9月27日に帝都復興院(後藤新平)を設置し復興事業に取り組んだ。

仮設住宅など
 東京市内の約6割の家屋が罹災したため、多くの住民は、近隣の避難所へ移動した。東京市では震災直後の9月5日に避難民12、000人以上の集団避難地は160箇所で、最も多い場所は社寺の59箇所、次いで学校の42箇所であった。公的な避難場所の造営として内務省震災救護事務局が陸軍のテントを借り受け、明治神宮外苑、宮城前広場などに設営が行われた。また内務省震災救護事務局と東京府は仮設住宅(バラック)の建設を開始。官民の枠を超えて関西の府県や財閥、宗教団体などが次々と建設を進め、明治神宮や日比谷公園などには瞬く間に数千人を収容する規模のバラックが出現し、各小学校の焼け跡や校庭にも小規模バラックが建設された。
 震災から約2か月後には、市、区の管理するバラックが101箇所、収容世帯数2万1、367世帯、収容者8万6、581人に達している。一方、狭隘な場所に避難民が密集したため治安が悪化。一部ではスラム化の様相を見せたため、翌年には内務省社会局、警視庁、東京府、東京市が協議し、バラック撤去の計画を開始している。撤去に当たっては、東京市が月島、三ノ輪、深川区・猿江に、東京府が和田堀、尾久、王子に小規模住宅群を造成した。また義捐金を基に設立された財団法人同潤会による住宅建設も進んだ。
 軍は橋を架け、負傷者を救護した。軍隊がなかったら安寧秩序が保てなかったろうと佐藤春夫は雑誌「改造」の大震災号)と評価している。警察は消防や治安維持の失敗により威信を失ったが、軍は治安維持のほか技術力・動員力・分け隔てなく被災者を救護する公平性を示して、民主主義意識が芽生え始めた社会においても頼れる印象を与えた。
 震災により東京市から郊外に移り住む者も多く、天災によるドーナツ化現象が発生した。三大都市圏である大阪府や愛知県等に移住する者も多くみられ、特に大阪市は東京市を超え、世界第6位の人口を擁する都市に躍進し、六大都市の序列に影響を与えた。また東京市電の機能不全を肩代わりさせるため東京市がT型フォードを約800台輸入してバス事業を開始(円太郎バス)すると、全国にバス事業が広まるとともに、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まって、旅客および物流におけるモータリゼーションが到来し、電話の自動交換機も普及した。

財政
 GDP1/3の損失を受け政府は財政面から、租税の減免や徴収猶予、財源調達のための国債・外債の発行、大蔵省預金部の資金を活用した公的金融の対応を行った。ただし当時の復旧・復興事業については、緊縮財政路線を堅持しつつ行ったのが特徴的である。

 金融面では被災企業が振り出した手形の日銀による再割引等の対応がなされたが、この対応は経営不振企業やそこに融資していた銀行の整理を先送りするとともに、その後の金融恐慌、昭和恐慌、軍部台頭への道を開くことになる。
 大正12(1923)年9 月下旬に震災からの復興のために帝都復興院が設けられたが、その総裁に任命された後藤新平は、同年11 月に予算規模40 億円の「帝都復興計画」(東京・横浜を対象とした都市計画)を打ち出した。

 財政緊縮路線下では後藤の提案はそのままの形では受け入れられず、同年末に発表された同計画に関する経費の予算規模は、政府案の段階で約6 億円に縮減された。この約6 億円は、大正12(1923)年度以降6 年間の継続費として扱われ、総額のうち初年度分の年割額である約1,500 万円が、大正12(1923)年度の追加予算に計上された。6年間にわたる継続費の総額は、国会で与野党が対立するなかで4.7 億円に減額修正されたものの、その後の更なる追加予算で1 億円強が増額されたことから、最終的には政府案とほぼ同額の予算規模(6億円)が確保された。この帝都復興を主眼とした経費のほかにも、各省の営造物等の復旧に必要な経費(総額約7.1 億円)が、大正13(1924)年度以降10 年間の継続費として扱われ、総額のうち初年度分の年割額である約1.2 億円が、大正13(1924)年度の追加予算に計上された。

 震災復興に関連した経費が巨額に上ったことから、我が国の財政状況は急速に悪化していく。政府は、復興対策のための財源不足分は国債(「震災善後公債」10)で賄うことにした上で、新規の国債発行は震災対策関係のみに限定するとともに、一般会計における既定の国債発行計画を当分中止するとの方針を示した。
 「震災善後公債」については、帝都復興対策の予算(当初は、大正12(1923)年度以降の6 年間にわたる継続費として総額で約4.7 億円とされ、それに見合った金額として約4.7 億円の発行が法定された。そして、新規国債の発行が増加した結果、震災発生直前の大正11(1922)年度に約1.1 億円であった国債費は、大正13(1924)年度にはその2 倍近くの約1.9 億円にまで膨らむこととなった。

 加えて政府は約5.5 億円の外債「震災外債」を発行した。その背景には、被災地の復興を進めるために外国資材の輸入が必要であったものの、当時は我が国が保有する正貨(金本位制の裏付けとなる金貨や金地金等の資産)が減少傾向に陥っていたことから、政府が国外から新たな借入れを行わなければならないという事情があった。ただし、国内産業の被災状況が深刻さを極めるなか、この外債の発行条件は我が国にとって不利なものとなり、その利回りは8%と、日露戦争当時に日本が発行した外債の利回り(5%強~6%)を上回った。このため、当時発行された外債は「国辱公債」であるとの批判を受けた。金融の停滞で震災手形が発生し、緊急勅令によるモラトリアムを与えた。復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は、火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた。モルガン商会は1931年(昭和6年)までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本の年度別の国家予算の6割を超えるものであった。引受にはロスチャイルドも参加した。金策には森賢吾が極秘で奔走した。
 日英同盟の頃から政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債・社債両面での対外債務を急増させた。また、震災不況から昭和金融恐慌行われた金解禁はそして世界恐慌(昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかったため、翌年には金輸出(再)禁止にされた。

関東大震災とデマ
 関東地方は地震によって壊滅的な被害を受け、民心と社会秩序が混乱し、余りの混乱「朝鮮人が火をつけ、暴動を起こそうとしている」「井戸に毒を投げ入れた」というデマが広まった。政府も戒厳令を発令して各地の警察署に治安維持に最善を尽くすことを指示したが、内務省が警察署に下達した内容の中で「混乱に乗じた朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」という内容があった。
 この内容は行政機関や新聞、民衆を通して広まり、朝鮮人や間違われた中国人、内地人であるところの日本人(聾唖者)が殺傷される被害が発生した。
 デマを信じた市民による自警団や軍隊が、朝鮮人や中国人、社会主義者らを殺傷し6千人余りが犠牲になったのである。死者・行方不明者10万5千人超のうち1〜数%が殺害によるものと推計されている。
 東京日日新聞に「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と朝鮮人との三方攻め」といふ題の下に、次の記事が載せてあつた。 「火に見舞れなかつた唯一つの地として残された牛込の二日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒する為め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張つて万人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携へて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。市ヶ谷町は麹町六丁目から、平河町は風下の関係から又三日朝二人連の鮮人が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した」。下野新聞には「東京府下大島附近、鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」と云ふ題で「東京府下大島附近は、多数の鮮人と支那人とが空家に入り込み、夜間旺に掠奪強姦をなし、又社会主義者は、市郡に居る大多数の鮮人や支那人を煽動して内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させ様と努めて居る許りでなく、多数罹災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので市民の激昂はその局に達している。


朝鮮人殺害
 竹槍や日本刀、銃などで武装した民間人が自警団を結成し、朝鮮人(朝鮮人に間違われた中国人)を殺害し始めた。朝鮮人と誤解されて中国人が犠牲となった事件、沖縄・秋田・三重出身者が犠牲となった検見川事件、秋田出身者が犠牲となった妻沼町事件、香川出身一家9名が犠牲となった福田村事件など地方出身の日本内地人も殺された。
 また朝鮮人犠牲者以外にも社会主義や無政府主義の指導者を殺害した動きがあり、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが殺された甘粕事件、社会主義者10名が犠牲となった亀戸事件も起きた。

日本の治安当局の対応
 治安当局は「朝鮮人暴動」の可能性を危惧し、混乱の収拾と秩序回復を理由として自警団の殺人行為を袖手傍観して一部は加担したり助長した。 自警団から朝鮮人・中国人数百名を守った大川常吉神奈川警察署鶴見分署長のように暴徒への取り締まりならびに死傷者を伴う暴徒との衝突や、横浜の朝鮮人226名を不入斗練兵場陸軍砲廠で保護収容し臨時治療所を開設する等の動きもあった 。
 その後、自警団の行為が公権力を脅威するほどになって治安当局は介入し始めたが多くの朝鮮人や内地人、外国人が殺された後だった。自警団は朝鮮人を殺害し密葬した。日本政府は最終的に噂を公式的に確認したが、加害者の数を縮小したり、一部の自警団員に証拠不十分で無罪を宣告した。この噂による殺害事件で司法的な責任、または道義的な責任などを負った人や機構は全くなかった。

犠牲者数と弔慰金
朝鮮人被殺害者数のついて内務省は248名、朝鮮総督府東京出張員は813名を挙げ、死亡原因が災害か虐殺か区別せず1人200円の弔慰金が832名へ支払われた。日本内地人死者・行方不明者への御下賜金は1人16円であった 。


日本経済
 日本経済は大きな打撃を受けた。震災によって多くの銀行の手形が決済不能となり、政府は日本銀行に約4億3、000万円という巨額の特別融資をして一時的にしのいだが、不況の慢性化により決済が思うように進まず、3年後の大正15年になっても約2億円の未決済分が残った。金融の停滞により震災手形が発生し緊急勅令によるモラトリアムを与えた。
 復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた日英同盟の頃から政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債・社債両面での対外債務を急増させた。モルガン商会は昭和6年までに10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本の年度別の国家予算の6割を超えるものであった。また引受にはロスチャイルドも参加した。金策には森賢吾が極秘で奔走した。また震災不況から昭和金融恐慌(1927年から1930年)行われた金解禁はそして世界恐慌(昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかったため翌年には金輸出(再)が禁止にされた。
 なお関東大震災による混乱によって、無政府主義者の大杉栄と伊藤野枝が憲兵大尉の甘粕正彦によって殺害され、様々な事情によって多数の朝鮮人が生命の危険にさらされたが、その朝鮮人を命がけで保護した民間人や警察官もいた。政府は非常事態に対して戒厳令を出し事後の対策を講じた。


絶対に来る首都直下巨大地震

 東京46%横浜78%埼玉51%とさらっと発表された最新版の地震発生確率。そこには首都圏に忍び寄る巨大地震の恐怖が如実に反映されていた。東京・新宿の東京都庁の周辺で、今後、震度6弱以上の大地震が起こる確率が、これまでより20%上昇した—。
そんな驚くべき発表を政府の地震調査委員会が行った。この日、地震調査委員会が公表したのは、「全国地震動予測地図」の最新改訂版。これは、東京大学地震研究所や防災科学技術研究所などの研究者約20人からなる地震調査委員会が、'95年の阪神・淡路大震災を警告できなかったという反省から、震災後10年の節目となる'05年以来、毎年改訂・公表してきた。そこで発表された、最新の地震の発生確率は、首都圏の各地を中心に、驚くべき上昇を見せていた。
 たとえば横浜市役所が78%(前回'13年版66%)、さいたま市役所が51%(同30%)、千葉市役所が73%(同67%)となっている。冒頭に述べた東京都庁でも、46%(同26%)と、大幅増となった。なぜ、こんなことになったのか。
「地震調査委員会はいくつかの理由をあげていますが、主に'14年までに判明した、新しい研究成果を盛り込んだためである。関東地方の地下では、太平洋プレート、フィリピン海プレート、北米プレートという3つの地殻(プレート)が複雑に重なり合っている。一般的に、地殻が重なり合う部分では地震が多いわけですが、関東はそれが3枚重ねで、その真上に約3000万人が暮らしているという、世界でもまれな危険地帯である。
 その3枚の地殻のうちフィリピン海プレートの下に潜り込んでいる太平洋プレートの深さがどれくらいなのかが、これまではっきりわかっていなかった。おそらく30~40㎞だろうと思われていたのですが、それより10㎞浅く、20~30㎞だということがわかった。それも前回の想定よりも首都圏が大きな揺れに見舞われる確率があがった理由のひとつである。
たしかに今回の改訂では首都圏での地震の発生確率の上昇が際立っている。
たとえば駿河湾から紀伊半島沖、四国沖を通って九州の南沖に至る巨大な地殻の割れ目、南海トラフでは、近い将来、M8クラスの地震が連動して発生するような巨大地震が起きる可能性が指摘されている。
 その被害を受けるであろう地域の確率を見てみると、静岡66%(前回65%)、津62%(同65%)、和歌山60%(同56%)、徳島69%(同68%)、高知70%(同70%)と、全体的に高い数字ながらも前回想定からはほぼ横ばいの結