明治の終焉

 明治天皇は日本酒やワインを好んでいたこともあり、明治三十七年には糖尿病と診断され酒は控えていたが病は確実に明治天皇を蝕んでいた。侍医も診察を行っていたが、当時は「天皇の体に触れる」ことは治療のためとはいえためらわれ、医学の進歩もなく適切な処置が行われていなかった。また明治天皇自身が医師嫌いだった。
 糖尿病が進行するにつれ弱気な発言も増え、特に昭憲皇太后のことを案じていた。もし亡くなれば皇太子(大正天皇)の即位や、その後のことなどが昭憲皇太后一人の肩にのしかかることを心配したからである。昭憲皇太后は明治天皇より3歳年上だが、元々小柄で華奢で少食とだったため精神的圧迫に耐えられるか心配したのであろう。皇太后とは常日頃から冗談を飛ばし合う仲の良いご夫婦だった。この年は酷暑で、それが60歳になろうとする明治天皇の体にかなり負担をかけた。
 明治45年7月、明治天皇は東京帝国大学の卒業式に行幸され、その頃から体調が悪化され、同月20日に天皇の重態が官報号外で国民に公表された。以後、皇居の二重橋や全国の郷社・県社では天皇の平癒を祈願する人々が集まり、歌舞音曲が停止され、江戸時代より続く両国の川開きの花火大会(隅田川花火大会)をはじめ多くの興行や催し物が中止となった。自粛はさらに高じて皇居近くを通る電車が音を出さないよう、線路に襤褸(ぼろ)を敷くなどした。陛下のご平癒を願って多くの国民が続々と皇居に集まり病気平癒の祈願が行われたが、人々の祈りもむなしく明治天皇は還暦を迎える前の明治45年/大正元年7月30日に(満59歳)で崩御された。

明治の終焉
 明治天皇は日本酒やワインを好んでいたこともあり、明治三十七年には糖尿病と診断され酒は控えていたが病は確実に明治天皇を蝕んでいた。侍医も診察を行っていたが、当時は「天皇の体に触れる」ことは治療のためとはいえためらわれ、医学の進歩もなく適切な処置が行われていなかった。また明治天皇自身が医師嫌いだった。
 糖尿病が進行するにつれ弱気な発言も増え、特に昭憲皇太后のことを案じていた。もし亡くなれば皇太子(大正天皇)の即位や、その後のことなどが昭憲皇太后一人の肩にのしかかることを心配したからである。昭憲皇太后は明治天皇より3歳年上だが、元々小柄で華奢で少食とだったため精神的圧迫に耐えられるか心配したのであろう。皇太后とは常日頃から冗談を飛ばし合う仲の良いご夫婦だった。この年は酷暑で、それが60歳になろうとする明治天皇の体にかなり負担をかけた。
 明治45年7月、明治天皇は東京帝国大学の卒業式に行幸され、その頃から体調が悪化され、同月20日に天皇の重態が官報号外で国民に公表された。以後、皇居の二重橋や全国の郷社・県社では天皇の平癒を祈願する人々が集まり、歌舞音曲が停止され、江戸時代より続く両国の川開きの花火大会(隅田川花火大会)をはじめ多くの興行や催し物が中止となった。自粛はさらに高じて皇居近くを通る電車が音を出さないよう、線路に襤褸(ぼろ)を敷くなどした。陛下のご平癒を願って多くの国民が続々と皇居に集まり病気平癒の祈願が行われたが、人々の祈りもむなしく明治天皇は還暦を迎える前の明治45年/大正元年7月30日に(満59歳)で崩御された。

 明治天皇はあの夏一番暑いときに崩御されたが、それは公式発表で、実際には29日の夜半に崩御された。その時間を遅らせ30日とされたのは践祚・朝見・改元などの儀式の時間的余裕がなかったためである。明治以降は一人の天皇につき元号ひとつ、ということになりましたから、まさに時代が変わり、歴史が動いた日といえる。
 陛下の崩御を受け、皇太子嘉仁親王が直ちに第123代天皇となられ、元号も大正に改まった。明治天皇の大喪の儀は9月13日に行われ、ご霊柩は翌14日に京都へ列車にて移送され、降りしきる雨の中を遺言に従って京都・伏見の桃山御陵に埋葬された。明治天皇は近畿圏に葬られた最後の天皇になる。
 明治天皇は国家の元首のみならず、日本が幕府による武家政権から欧米列強に肩を並べる近代国家にまで成長を遂げた、いわば国家の興隆と繁栄の象徴でもあった。それだけに明治天皇の崩御は「明治」という一つの時代の終焉を強く印象づけた。
 夏目漱石は、「行事のどこがお上の健康を損じるというのか。既に亡くなったのなら自粛もやむを得ないが、過剰な自粛は経済のためにならず、また民の怨嗟が政府に集まる元になる」「新聞は陛下の徳を報じるどころか、お名を傷つけるようなことばかり書いている」「行事や営業ができなくなって困っている民衆も多いだろうに、当局の没常識には驚くばかりだ」と日記に書くながら、小説「こゝろ」の中で「其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終わつたやうな気がした」と書いた。崩御を受け国内のみならず海外の新聞も明治天皇への賛辞と哀悼の意を表した。英紙・モーニング・ポストは、「明治天皇の治世における日本の発展は、世界の歴史上その類例を見ないほど急速にして、かつ目ざましいものであった」と伝えている
 明治天皇のご神霊をお祀りして、ご聖徳を永遠に敬ってお慕いしたい熱い願いが自然に沸き上がり、大正9年に、東京・代々木の地に、大正3年に崩御された皇后の昭憲皇太后とともに、御祭神として明治神宮が建設された。
 
乃木希典夫人とともに殉死
 なお大喪の儀が行われた日に、明治天皇のご信任が厚かった陸軍大将の乃木希典が、天皇の後を追うように夫妻ともに自刃して国民に大きな衝撃を与えた。 明治天皇の重態が知らされて以降、陸軍大将・乃木希典は一日のうちに三回も参内し病状を伺っていた。乃木はかつて、日清戦争での失敗に関する責任感から、死をもって将兵に詫びたいと考えていたところを、明治天皇に「今はその時ではない。どうしてもというなら、わしが死んだ後にせよ」と止められたことがあった。それでなくても、乃木は大変忠誠心の厚い人でしたから居ても立ってもいられなかったのであろう。日に三回、というのは侍医の診察が一日三回だったからだと思われます。診察の直後に行って、詳しい病状を聞いていた。

 大正12年には乃木大将が自刃した邸宅の隣地に、国民の熱意により乃木神社が創建され、昭和2年には明治天皇のお誕生日である11月3日が「明治節」として祝祭日になった。日本に大きな興隆と繁栄とをもたらした明治の精神は、後世の人々に受け継がれ、今もなお光り輝きいている。森鴎外は乃木大将の自刃について、歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を書き上げた。