天武天皇

天武天皇

 壬申の乱は大海人皇子と大友皇子との争いといえるが、それは「天智天皇派 対 反天智天皇派の戦い」であり、さらに近江朝を支える旧豪族と大海人皇子を支える地方豪族との戦いでもあった。結果として天智天皇派は、白村江の戦の敗戦によって、地方豪族に新宮の近江朝の建設や、さらには水城などの防衛施設の建築を押し付け、民衆には重税を課したため、人気は急落していたのである。

 壬申の乱で勝利した大海人皇子は都を近江から飛鳥に戻して飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)で即位し第40代天武天皇となった。

 天武天皇は大臣を置かずに自らが先頭に立ち政治を行った。大友皇子の近江朝は従来の豪族が味方し、大海人皇子には地方の豪族が味方したことから、壬申の乱により近江朝を支えていた旧豪族が没落したため、旧豪族に縛られることなく天武天皇の独自専制色が強くなったのである。天武天皇は皇族中心の政治を目指した。

 まず豪族による私有地と私有民の廃止を徹底し、684年には新たな身分制度・八色の姓(やくさのかばね)を定めた。その他にも中国にならった律令や我が国の国史の編纂を命じ、日本初の銭貨となる富本銭(ふほんせん)の鋳造を行った。
 外交面では新羅との国交を回復させ、遣新羅使を派遣して、唐との国交を一時に断絶した。新羅が朝鮮半島を支配していたため、日本は新羅をはさんで、唐との外交関係修復に時間を費やすことができたのである。遣唐使の復活は8世紀まで待つことになる。

 天武天皇は天皇中心の国家体制を目指し、中国にならい本格的な都である藤原京の造営を開始したが、その完成を見ることなく686年に崩御された。

吉野の盟約
 天武天皇は崩御前の679年に、天鸕野讃良皇后(持統天皇)と6人の皇子とともに吉野へ行幸し「吉野の盟約」を交わしていた。6人の皇子とは草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子で、川島と志貴が天智の子、残る4人は天武の子であった。
 しかし実際には、「吉野の盟約」は天武天皇と鸕野讚良皇后の(後の持統天皇)の間にもうけた草壁皇子を次期天皇にすると宣言した盟約であった。天武天皇は皇子たちに互いに争わずに草壁皇子に協力することを誓わせたのである。この誓いは壬申の乱の教訓で、皇族による天皇中心の政治を確立させるためであった。しかし天武天皇が崩御すると、天武天皇の心配が現実となった。

持統天皇
 天武天皇が病気がちになると、天武天皇の天鸕野讃良皇后(持統天皇)が天皇代行として政治に参与していた。天鸕野讃良皇后は天武天皇の皇后であり、また天智天皇の娘でもあった。天鸕野讃良皇后は統治者として政務を代行し、天武天皇が崩御すると、天武天皇との実子である草壁皇子の成長を待って政治を行った。つまり次期天皇を草壁皇子に決めていたのである。しかしライバルとして器量に優れた大津皇子も政治に参加することになり、大津皇子を押す豪族もいて、天武天皇の後継は曖昧なものとなった。

 天鸕野讃良皇后(持統天皇)は草壁皇子のライバルである大津皇子を謀反の疑いで殺害し、大津皇子は非業の最後をとげた。大津皇子は僧行心にそそのかされて謀反を企てたとされているが、僧行心を除き逮捕された30余人は罪に問われなかった。このことから謀反を口実に大津皇子を抹殺したとされている。

 もし皇位を兄弟、あるいは異母の皇子に譲ると、それが原因で乱がおこる。このことから皇位継承予定者は天皇の直系にしようとしたのである。しかし思わぬことがおきた。それは草壁皇子が天武天皇の喪が開ける前に死去したのである。

 天鸕野讃良皇后は草壁皇子の長男で自分の孫にあたる軽皇子(後の文武天皇)に譲位しようとするが、軽皇子がまだ4歳と幼かったため690年に自らが持統天皇として即位した。11年後に軽皇子に譲位し、持統天皇は史上初の太上天皇(上皇)となった。

 持統天皇は天武天皇の諸政策を引き継ぎ、689年には飛鳥浄御原令を施行し、690年には庚寅年籍(戸籍)を作った。694年、天武天皇の時代に造設を始めたた藤原京が完成して遷都された。藤原京は日本初の計画都市で、政府のある宮にくわえ寺院や邸宅からなる京(みやこ)を加えた日本始の本格的な都市になる。ひとつの城下町のように整備され、代々の天皇が継続して使用できるようになっていた。それまでは天皇が変わるたびに都を変えていたが、事実、文武天皇、元明天皇の初期まで藤原京で政務が行われた。この藤原京も手狭になり、ゴミや排泄物などに悩まされ、710年元明天皇の時代に平城京に移ることになる。

 大化の改新以来、我が国が目指していた律令国家の大事業は持統天皇によってほぼ完成に近づいていた。697年、持統天皇は草壁皇子の長男で自分の孫にあたる第42代の15歳の文武天皇(軽皇子)に譲位すると703年に崩御された。持統天皇は天皇として初めて火葬にされた。火葬は仏教の考えに則ってのことであった。

日本の女帝
 昭和22年の現行の皇室典範の第1条には「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」さらに第4条には「皇位を継承するのは天皇が崩じたとき」と定められている。

 しかし現在、高齢である今上天皇の健康への配慮から負担軽減のために第4条が改定されようとしている。さらに41年間男性皇族が誕生しなかったことから、いずれ皇位継承問題が生じることが予想されるため第1条についても議論されている。その際、語句の類似から皇統についての「女系天皇」と、天皇個人の性別についての「女性天皇」とは異なる概念であることが分かりにくいので説明が必要である。

 日本の歴史を古くから辿れば推古天皇(第33代) 、皇極天皇(第35代)、斉明天皇(第37代は皇極天皇が重祚)、第41代持統天皇) 、元明天皇(第43代) 、元正天皇(第44代) 、孝謙天皇(第46代) 、称徳天皇(第48代は孝謙天皇が重祚)、明正天皇(第109代) 、後桜町天皇(第117代)と、日本の歴史には8人10代の女性天皇が存在していた。

 しかしそのうち4人の女性天皇は皇后で夫が亡くなったために天皇になったので、ほとんどが次期天皇が成長するまで、あるいは皇子たちの皇位継承争いが終結するまでの中継ぎであった。つまり女性天皇は天皇・皇太子の元配偶者(未亡人、再婚せず)か未婚(生涯独身)であった。さらに上図で示すように8人10代が奈良時代以前に集中している。
 皇室はこれまで「万世一系」の男系による家系で皇位継承を行ってきた。この男系とは「歴代天皇の父親の父親の……」と辿っていくと、初代天皇である神武天皇に行き着くことで、その意味で女系天皇は過去に例がない。女性天皇はすべて男系であり、皇室において女系は存在しないのである。
 例えば敬宮愛子内親王が女性天皇になり、歴代天皇の男系子孫以外の男性と結婚した場合、産まれた子は天皇になれず、神武天皇以来の皇室の男系血統は「天皇愛子」を最後に終わってしまうのである。
 つまり男系ではなく女系を認めれば、従来の天皇制そのものが、他家による天皇家の乗っ取りや他家による政治利用が可能になるからである。日本の皇室は日本の歴史とともにあるように、欧州諸国の王室とは歴史的背景がまったく違うのである。このことから皇室のあり方、女性天皇及び女系天皇の是非などについて議論されているが、たとえ象徴天皇であっても、天皇制の基本を知らずに民主主義的発想で議論することは、日本の根本を揺るがすことになるのである。