女・城主

 井伊直虎以外にも戦国時代に活躍した女性がいた。当時は女性の記録はほとんど残らないのが当たり前だったので不明な点が多いが、戦国武将以上の活躍をした女性いたことは間違いない。またなにをもって「女城主」とするかの定義はさまざまであるが、当主として領地を治めた女性領主のほか、夫の留守を預かって城を守り抜いた城主、甲冑を身にまとって戦場で采配をふるった指導者的女性、領国の政務を陰で操っていた黒幕的な女傑などを含めてご紹介する。

 

女城主・おつやの方
 岐阜県伊那市岩村にある岩村城の歴史は古く、鎌倉時代初頭まで遡れる。古くから信州に接するこの地は遠山荘と呼ばれ、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝が挙兵の際、いち早くはせ参じた重臣・加藤景廉に遠山荘を与えている。

 加藤景廉の長男の景朝が岩村城を築き、遠山姓を名乗った。これ以来遠山氏は東美濃一帯を治め、遠山氏は室町時代に入ると、美濃守護の土岐氏や斉藤氏の配下になっている。ちなみに「遠山の金さん」で知られる江戸町奉行・遠山景元は遠山氏の末裔である。
 戦国時代に岩村城主・遠山景任(かげとう)は信濃を制圧した武田信玄に従い、同時に尾張から美濃に勢力を伸ばした織田信長にも接近していた。強大な両家に属していたが、これは織田家と武田家が同盟していたから可能だった。この遠山景任のもとに織田信長の叔母である「おつやの方」が嫁いできた。

 おつやの方は、勝幡城主・織田信定の娘で織田信長の叔母にあたる女性だった。また遠山景任の姪が信長の養女となって嫁いでいた。

 織田家はお市の方に見られるように美人を輩出した家系で、叔母にあたるおつやの方も大変美しい女性だった。しかし遠山景任の間には子供に恵まれず、桜洞城主・三木自綱(姉小路頼綱)を攻撃した際の怪我が元で1572年5月に遠山景任は病死してしまう。そこで織田信長は五男の6歳の御坊丸〈織田勝長)を跡目として養子に送り込むが、御坊丸はまだ幼かったため、おつやの方が後継人となり事実上の城主となった。
 この時期、織田・武田両家はすでに同盟を破棄しており、岩村城は戦略的に重要な城だったので、両者の勢力がせめぎ合いとなった。織田信長と甲斐の武田信玄は岩村城をめぐり激しく戦の場となった。

 これに対し武田信玄は西上作戦の途中で大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣し、同時に信濃の伊那郡を任せていた秋山信友に岩村城の攻略を命じた。岩村城は秋山信友ら武田の精鋭たちに取り囲まれたが、女城主・おつやの方が奮戦し、岩村城を包囲してもなかなか落城させることができなかった。

 岩村城は山城は堅固だったため、秋山信友が和議を申し出た。そこで出会ったおつやの方があまりにも美しかったので、秋山信友はなんと和議の申し込みと一緒に求婚したのである。美しすぎて敵方から求婚されたのである。

 坊丸に家督を譲ることを条件に開城を迫り、岩村城を武田方に開城し、秋山信友と婚姻を結んたが、坊丸は人質として甲斐の信玄の元に送られてしまった。

 武田信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康を破ったが、翌年、病に倒れ武田勝頼が家督を継いだ。その勝頼も長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、おつやの方の裏切りに激怒した信長は岩村城を奪還するために兵を送るが攻めあぐんでいた。

 秋山信友は比高140mで難攻不落の岩村城に籠城して甲府に援軍を要請した。長篠での大敗の後、ようやく体制を整えた武田勝頼が出陣したが、信長は長男の信忠を総大将に岩村城に大軍を送り込んだ。岩村城は善戦してなかなか落ちなかったが次第に兵量が尽き城兵は飢え、5カ月にわたる戦闘の後、武田勝頼の後詰が間に合わずに城は陥落した.

 信長は叔母・おつやの方へ肉親の情を示すという謀を用いて和議を結び城を奪還した。秋山信友は城兵を助けることを条件に岩村城を開城するが、信長は秋山信友とおつやの方を捕らえると秋山信友を城兵と共に殺害し、おつやの方を岐阜に運ばせ長良川河川敷で「逆磔刑」に処した。おつやの方は、信長への怨嗟の言葉を叫びながら処刑された。
 坊丸は武田氏が滅びる前年の1581年に織田家に引き渡され、元服し織田勝長と名乗り、犬山城主となり、その後は兄・信忠の与力となるが、翌年の本能寺の変の際、信忠とともに二条御所に籠もり自刀している。


その後の岩村城
 岩村城を武田方から奪還した織田信長は、岩村城主に重臣の河尻秀隆を送り込んだ。その後、団忠政が城主となるが、本能寺の変で団忠政は織田信長と討ち死にした、森長可(森蘭丸の兄)が岩村城を接収して家老の各務元正が城代として入った。小牧・長久手の戦いでは岩村城は徳川方に与しした。

 長久手の戦いで森長可は討ち死にし、嫡男の森忠政が森家を引き継ぎ、信濃松代に移封されるまで森氏が支配した。この間、城代各務元正の手により近世城郭へと生まれ変わった。森氏の後は田丸直昌が岩村城主となるが、関ヶ原の戦いで西軍に付いたために改易され、譜代の松平家乗が入城した。家乗は不便な山上の本丸にあった城主居館を麓に移し城下町を整備した。
 江戸時代に松平氏が遠州浜松藩に移封されると、丹羽氏信が入城した。氏信の父・氏次は尾張岩崎(日進市)城主で、長久手の戦いでは家康に従い小牧に参陣し、岩崎城は弟の氏重に守らせた。
 丹羽氏は五代続くが、五代目の氏音(うじおと)の時にお家騒動が起こり越後国高柳藩1万石に移封になった。代わりに入ったのが松平乗紀(のりただ)で、以来7代にわたり岩村藩主となり明治維新を迎えた。石高は3万石ほどだが、今に残る石垣は見事なものである。

 岐阜県恵那市岩村町では、おつやの方にちなみ、本通り沿いの家々で家族の女性の名前を記した暖簾を掛け、地元の岩村醸造が「女城主」と名付けた日本酒を売り出している。

立花誾千代
 1569年8月13日、戦国大名・立花道雪の娘・立花誾千代が誕生した。大友氏の重臣だった立花道雪は戦場や主君・大友宗麟への忠誠から「西の無双」とよばれていたが、妻とは仲睦まじいながらも跡継ぎの男の子に恵まれなかった。
 しかし戦国武将だった立花道雪は嘆くばかりではなく気持ちを切り替え、「息子が生まれないなら、娘を男らしく育てればいい」と一人娘である誾千代(ぎんちよ)は7歳で城督を継ぎ立花城の城主となった。

 立花道雪は同じく大友家へ仕えていた、高橋紹運の嫡男(立花宗茂)を婿入りさせることになった。その後、誾千代は婿養子となった宗茂の正室となった。

 そこで問題となるのは誾千代と立花宗茂の相性だった。跡継ぎらしく育った娘と、跡継ぎにふさわしいような気質の婿が一家族に居合わせてしまうのである。誾千代は「私こそが立花家の主」という考えを変えませんでした。宗茂は宗茂で「婿に来たからには城主の役目を果たさなくては」と、お互いの責任感が真っ向からぶつかり合うことになった。

 豊臣秀吉によって直臣となった宗茂は、秀吉の九州征伐の後に国替えを申し付けられて柳川に移り柳川藩初代藩主となった。しかし誾千代は城を出て宮永へ居を構えた。
 その誾千代であるがその武勇を表す逸話がある。関ヶ原の戦いの際、加藤清正らは柳川城へ進軍してきたが、そのためには誾千代の住む宮永を通らなくてはならなかった。しかし土地に詳しい者によると「この先は宮永という立花宗茂夫人の御座所です。軍勢が接近したとあれば、誾千代を慕う領民がみな武装して攻め寄せてくるでしょう」と聞かされ、わざわざ迂回した。

 肥後の虎といわれた猛将・加藤清正は、無駄な戦をするのは趣味じゃないと恐れたほどであった。

 ちなみに加藤清正は見事宗茂を説得し、柳川城は降伏・開城した。宗茂が改易されたことから誾千代も宮永を離れが、夫婦は一緒に暮らすことはなかった。宗茂は浪人となって清正の食客になったり、家臣と共に京都へ向かうが、誾千代は熊本県玉名郡で一人住まいを続けてた。夫婦の溝は埋まることなく関が原の2年後に誾千代は34歳で世を去っている。現在は夫婦揃って柳川城内の神社に祀られている。誾千代の墓石の形状がぼたもちに似ていることから「ぼたもちさん」と呼ばれている。
 その誾千代ゆかりの城は福岡県福岡市にある「立花山城」。現在は山頂の本丸跡に石垣と古井戸の跡がわずかに残る程度であるが、福岡城の石垣は、大部分が立花山城から移築されて作られている。

東国無双の美人・甲斐姫
 1590年6月、豊臣秀吉は天下統一の事業を完成させるべく小田原城攻めを行い、北条氏の本拠である小田原城だけでなく、別働隊に関東の北条配下の諸城をも同時に攻略した。この流れを受け「のぼうの城」の舞台にもなった忍城(埼玉県行田市)を石田三成、大谷吉継、長束正家といった秀吉子飼いの家臣たちが2万3千の部隊を率いて武蔵(埼玉県)にある忍城の攻略に取りかかった。忍城の城主は成田氏長であったが、成田氏長は小田原城に入城していたために不在で、娘の甲斐姫がとることになった。甲斐姫は「東国無双の美人」と賞賛されたていた。

 甲斐姫は忍城の城主・成田氏長と上野国金山城城主・由良成繁の娘との間にできた長女である。外祖母となる妙印尼(由良成繁の妻)は、金山城が北条氏に襲撃された際、71歳という高齢にもかかわらず篭城戦を指揮した女傑である。その血筋を引いたのか、豊臣秀吉の小田原征伐の際に甲斐姫の名が轟くことになる。


豊臣勢の忍城攻め
 北条氏は各地の主力を小田原城に入れ篭城させたため、各城は城主の配下の者が少人数で守備に当たった。この忍城も城主・成田氏長は小田原城に入り、忍城は城代として甥の成田泰季を置いたが、泰季は開戦の直前に、急病のために死去し、甲斐姫が指揮を取り城兵300と領民2700の約3000が忍城に篭城した。甲斐姫は小田原城の北条氏が降伏するまで忍城を守るつもりだった。
 戦国時代では北条氏に限らず、多くは合戦時に農民も臨時兵として動員し、篭城の際には領民も城に入れるのが通例だった。豊臣の北条攻めの際、忍城に限らず、八王子城・津久井城なども同様に領民も城に入れて篭城した。もちろん小田原城にも何万もの農民を入れて篭城していた。

 豊臣秀吉は、忍城攻略に石田三成を中心とした兵力を派遣し、1590年6月、忍城に総大将・石田三成の軍勢20,000が到着し軍師・大谷吉継、長束正など有力な武将が加わっていた。
 忍城は湿地帯を利用した沼の中に浮かぶ水の城である。洪水の多い一帯にできた湖と、その中の島々を要塞化した城郭で、本丸を始め二の丸、三の丸、諏訪曲輪の主要部分が独立した島で、これらを橋で連結している。北条氏康や上杉謙信の忍城攻めにも耐えた堅城である。

 戦力差から言えば強引に力押しをしても勝つのは可能なはずだったが、忍城は「関東七名城」のひとつで守りやすく攻めるのが難しい城だった。

 城に続く道路が狭く、その左右には水田や沼地が多くて迅速な進軍がしづらく、大軍が足並みを揃えて攻め込むのは困難だった。三成たちは一度攻めかかるが、道が狭いために一ヶ所から進軍するしかなく、射撃を集中されて隊列が乱れ、そこを城内から出撃してきた成田軍に攻撃され引き下がった。
 その事を知って石田三成は降伏に応じない忍城を、主君・豊臣秀吉が得意とする「水攻め」にした。堤防を築くため付近の村落に募集をかけて作業員を集め水攻めの工事を開始した。昼に働けば米1升と銭60文、夜ならば米1升に銭100文を報酬として与えるという募集条件だった。6月9日の夜に起工すると14日の正午には堤防が完成していた。全長はおおよそ28kmで、高さは2〜4メートル、幅は12メートル程度だった。この堤防は「石田堤」と呼ばれ、現在では史跡になっている。しかし完成前の6月12日付けの石田三成の書状には「忍城の水攻めの準備はできたが、諸将は水攻めと決めてかかり、全く攻める気がない」と嘆いている。

 豊臣秀吉は何回も石田三成に対して、水攻めの方法や、堤防が出来たら使者に絵図を持たせるようにと細かく指示をしている。石田三成は総延長28kmにも及ぶ広大な堤防を築き、忍城を水の底に沈めようとした。そのため金に糸目をつけずに10万の人夫を集め、わずか1週間で28kmもの堤防が完成した。

 三成たちは堤防が完成すると、忍城の周囲を利根川の水で満たし沈めようとした。しかし思ったよりも水量が乏しく城は水面上に浮いたままになってしまった。このままでは成功がおぼつかなかったため、三成たちは荒川をも堰き止める措置をとり、これによって水量が増えていった。
 しかしその堤防が決壊したのである。城から出撃した決死隊が堤防を打ち崩したのか、あるいは突貫工事した人夫たちが忍城の守備隊に同情して手を抜いたためとされているが、いずれにせよ完成から4日後の6月18日になると、猛烈な風雨が忍城の周辺を襲い、大雨が降りだして堤が決壊したのである。城を落とすどころか、堤防の決壊で逆に石田勢に270名もの溺死者が出た。忍城付近は以前より増して泥沼地と化し力攻めどころではなくなった。
 この水攻めは石田三成の発案ではなく、豊臣秀吉の指示と考えられる。豊臣秀吉は小田原城攻めで一夜城と呼ばれる「石垣山城」を築いている。その豊臣秀吉だから上杉謙信や北条氏康でも落とせなかった忍城を、付近一面を「湖」に変えて攻略すればよいと計画したのであろう。莫大な費用が掛かるが、この水攻めを関東諸侯に見せれば服従するだろうと考えた。この水攻め開始から1ヶ月後に小田原城は開城するが、この時点でも築堤工事をしていたことが当時の書状からわかる。


成田家の姫・甲斐姫
 水攻めがうまく行かないのを聞いた豊臣秀吉は、忍城に真田昌幸と父・真田信繁、浅野長政らを援軍に出した。忍城に武力攻撃をした。この猛攻に城門の一つが突破されそうになると成田氏長の長女・甲斐姫は自ら鎧兜をまとい200余騎を率いて出陣、真田勢の将を討ち取るなど豊臣勢の侵入を阻止した。甲斐姫は三宅高繁を討ち取るなど機に応じて出撃し、姫の姿に城兵は奮い立った。甲斐姫は当時19歳で、成田家に伝わる名刀「浪切」と実母の形見である短刀を持って自ら城を出た。石田三成や浅野長政は、その後、何度も総攻撃をするが忍城の城内に入ることはできなかった。
 しかし7月5日、小田原城が開城し、北条氏が豊臣秀吉に降伏した。小田原城開城までに落城しなかったのはこの忍城だけだった。忍城の篭城兵は、石田三成らの「小田原が開城した」と言う話を信用せず、小田原城開城後も篭城を続けた。
 忍城がまだ篭城していると知った父・成田氏長は、豊臣秀吉の命で忍城に7月15日頃戻り忍野城は開城した。

 この時に三成や浅野長政らが「退去するに際し、持ち出せる荷物は馬一頭に乗せられる分だけだ」と告げたが、「戦いに負けていないのに、どうしてそんな命令に従わなければならないのだ」と守備兵たちが反発し再び籠城が始まりかねない状況になりました。これを聞いた秀吉が仲裁に入り、「忍城の者たちがそう言うのも無理はない。好きなだけ持ち出せさてやるがよい」と述べたことからこの騒動は収まり忍城はついに開城した。この際、甲斐姫たちは矛を収め、堂々と城から出てきた。忍城だけは籠城兵たちの罪は問われず財産没収もなかった。

 その後、甲斐姫は父・成田氏長とともに会津の蒲生氏郷に預けられ、会津の福井城に移り一万石の地を与えられた。
 その蒲生頼郷が伊達政宗の軍勢を迎え撃つために、成田氏長も出陣すると、成田氏長が留守にした際に家臣だった浜田将監と弟・浜田十左衛門が謀反を起こし本丸を占拠し義母を殺害した。この謀反を知った甲斐姫は謀反に加担した兵たちを倒し、一騎打ちの末に薙刀で浜田兄弟を討伐し、浜田勢は総崩れとなった。
 この甲斐姫の武勇伝を聞いた豊臣秀吉は、甲斐姫を大変気に入り「側室」として迎えた。そのため父・成田氏長は甲斐姫の口添えにより下野国(栃木県)・烏山城主として2万石の大名になった。甲斐姫はその美貌を秀吉に見初められ秀吉が亡くなるまで傍にいたされている。また淀殿の依頼を受けて息子・秀頼の養育係を務めた。大坂城における側室としての甲斐姫の生活は定かではないが、醍醐の花見の際、甲斐姫が詠んだとされる歌が残されており豊臣秀吉が亡くなるまで生きていたことは確実である。
 大坂夏の陣による豊臣家滅亡の際、徳川千姫の擁護もあり、小石の方とその娘・奈阿姫とともに敵中突破に成功して大阪城を脱出した、その後、鎌倉の東慶寺に入って尼になったとされる。

小松姫
 徳川家康の四天王の一人・本多忠勝の長女として生まれた。17歳のとき、徳川家康の養女となり上田城主・真田昌幸の長男・真田信之に嫁いだ。この縁組が結ばれた背景には、武田家の旧領をめぐり徳川・北条・真田の三家が争った上田合戦があった。真田昌幸によって築城された上田城で真田家は徳川家の大軍を相手に勝利、家康と真田氏の領地問題を和解させるために豊臣秀吉が仲裁に入った。
 家康は豊臣秀吉の妹・旭姫を正室に迎え秀吉に臣従した。秀吉は昌幸と信之を家康に従わせるために、小松姫を自らの養子として信之へ嫁がせた。本多忠勝が自らの娘を家康の養女にしてから嫁がせることを提案したとされている。

 なお小松姫の婿選びの際の有名な逸話がある。家康が家中の若い将たちを集めて、小松姫に相手を選ばせたとき、小松姫は一人一人の髷(まげ)を掴んで顔を上げさせて相手の確認した。しかし、この時、信幸一人だけが「無礼な」と叱咤し鉄扇で小松姫の顔を打った。小松姫は信幸の気概に感動し、結婚を承知したとされている。これはさすがに創作で「小松姫は自分の意志をきっちり持っている女性だった」ということを強調するためだった。
 信之21歳、小松姫14歳であった。政略的な結婚であったが二人は仲睦まじく

二男・二女の子宝にも恵まれる。しばらく真田家は巧みな外交を駆使して領土を守っていた。
 天下分け目の関ヶ原の合戦を目前に控えたころ、上杉征討に向かう徳川軍に参陣していた真田昌幸が石田三成からの密書を受け取る。密書の内容は「秀吉の遺言に背き、秀頼を見捨て出馬した家康に罪がある」として、秀吉の恩を忘れていなければ秀頼に忠節を誓い、西軍に味方してほしいという内容だった。
  石田三成からの書状を受けた昌幸・信之・信繁が犬伏にて議論の結果、真田信之は東軍に、父・昌幸と弟・幸村は西軍に味方することを決め、東西に分かれることになった。世に言う『犬伏の別れ』である。

 信之と袂を分かった昌幸と幸村が居城である上田城に向かう途中で、小松姫が留守を預かる沼田城に立ち寄るが、小松姫は敵となった昌幸が「孫の顔を見たいから中に入れてくれ」と頼むが、小松姫は「いくら義父上でも、殿のお留守中に勝手に入れる訳にはいきません」と申し出を断り入城させなかった。昌幸はおとなしく引き下がったが、夜になると小松姫は子供たちを連れて昌幸の陣を訪れたのである。
 関ヶ原の戦いで西軍が負けたことで、沼田と上田の領地はすべて信之のものとなり、昌幸と信繁は死罪を言い渡される。信之が昌幸や信繁の助命嘆願をしたときに小松姫は実家の本多忠勝に働きかけ、本多忠勝も「助命が認められなければ、殿と一戦交える覚悟」と啖呵を切り家康を驚かさせた。

 その結果、昌幸・信繁の助命が決まり、高野山の麓・九度山村に流罪となった。昌幸や信繁の高野山へ配流された後に、金銀や信濃の名産品などを送り、生活を支えた。それに対し昌幸が小松姫にお礼の手紙を送っている。

 次に小松姫の有名な逸話としては、大阪冬の陣のときのこと。ちょうど信之は病気になっており出陣できなかったため、代わりに長男・信吉と次男・信政が参加した。ただし二人とも若年のため、小松姫の弟である本多忠朝の陣に参加した。小松姫はこのとき信吉の家臣に次の手紙を書いている。
「息子はまだ若いので、いろいろ至らないことも多いでしょう。信之殿に免じてよろしく奉公させてください」。しかし二人の息子が無事に帰ってきたとき、小松姫は「一人くらい討ち死にすれば、我が家の忠心が示せたのに」と言ったとされている。

 真田家10万石の基をつくったのは、小松姫の内助の功によるところが大きい。大坂夏の陣から四年後、病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中の武蔵鴻巣で亡くなっている。享年48。

 遺骨は小松姫が帰依していた勝願寺、沼田の正覚寺、上田の芳泉寺(当時は常福寺)の三ヶ所に分骨され、さらに信之は上田城下と松代城下でそれぞれ小松姫の菩提を弔うためのお寺を建てている。それだけ小松姫に感謝していたのであろう。