寛永文化

 江戸時代初期の寛永年間(1624~44)の文化を寛永文化という。桃山時代の文化を受け継ぎ元禄文化への橋渡しをする。つまり寛永文化は桃山文化と元禄文化に挟まれた文化であった。ようやく下剋上の戦国時代が終わり京都の公家、武家、上流階級の町人たちが文化を主導した。秩序と落ち着きをもった伝統的文化と言える。
建築
清水寺本堂

 清水寺は南都六宗の法相宗系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。また石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などとともに京都の有数な観光地として有名である。「清水の舞台から飛び降りる」として非常に有名な清水寺の本堂は焼失したため、1633年に徳川家光の寄進により建築されたものである。屋根は総檜皮葺(ひわだぶき)で、その形状は寄棟造(よせむねづくり)で崖の上に突き出して建つ懸造(かけづくり)という大胆な建築様式で、前面の舞台が丘の外にせり出し、木の骨組みが支える建築である。懸造とは山の急な斜面や池や段差のある土地などに、建物を建てるための建築技法で、「舞台造」とも呼ばれている。懸造の技法は床面を水平に保つために、建物を長い柱で固定して床下を支えている。139本あるというケヤキの柱は高さ最大13mになり4階建てのビルと同じぐらいの高さになる。懸造の形式は外国には見られず、しかも釘を1本も使っていないのである。

日光東照宮陽明門

 日光東照宮は幕府安泰を加護する神として徳川家康をまつった霊廟(れいびょう)である。当初家康は久能山(静岡県)の簡素な東照社に葬られていたが日光に移され、3代将軍徳川家光が祖父・家康のために大々的に改築した。豪華絢爛を独占したかのような建造物は幕府権力の強大さを天下に見せつけるものである。

 現在も多くが当時の建物で、いずれも素晴らしいものである。特に1635年に建築された陽明門は日光東照宮で代表的な門で、高さ11.1m、正面の長さは7m、奥行きが4.4mと規模も壮大である。また四方に軒唐破風(のきからはふ)がついた入母屋造である。
 500を超える彫刻や、魔除けの逆柱、両端が反り返った曲線の唐破風など、終日見ていても飽きないということから日暮門の別名もあるほど、彫刻や彩色が精巧な門。宮中(現在は京都御所)十二門のうちの東の正門が陽明門であることから、名づけられました。江戸時代初期の美をここに結集したような感じである。

桂離宮

 桂離宮は数寄屋造(すきやづくり)という茶室風の質素な建築様式と池の周りを歩いて散策する構造の回遊式の庭園が特徴で、落ち着きを取り戻した時代にふさわしい格調高い建築である。それらは、都の天皇・公家・僧侶・武家・上層町衆などを担い手とする文化であった。1615年、智仁親王が桂離宮の造営に着手。約47年後の智忠親王(2代)の代に完成した別荘である。約6万9400平方メートルの敷地に、古書院、中書院、新御殿を主に、池のまわりに書院、茶亭を配し、庭と建築の構成、融合が見事。離宮建築最高の技法と、日本庭園美の集大成といわれる。

修学院離宮

 11653年-1655年に後水尾上皇の指示で造営された比叡山麓にある広大な山荘である。谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園とその関連らなる。敷地には上・中・下3つの離宮から構成されており、いずれも池の傍らには趣向の茶亭等がめぐらせれている。自然と建物の調和が絶妙で、桂離宮・仙洞御所とならび王朝文化の美意識の到達点を示すものとなっている。

崇福寺  

 長崎市にある黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院、崇福寺(そうふくじ)。1629年、長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が福州から超然を招聘して創建した。中国様式の寺院としては日本最古のもので、福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や支那寺[1]と称せられた。その本殿である大雄宝殿(だいゆうほうでん)は、1846年の建築で中国の明末期から清初期にかけての建築様式で建てられています。窓の形や特に下層部の雰囲気は、なんとなく異国情緒漂っている。

崇福寺第一峰門  

美術工芸品の分野
 この時代、豊臣秀吉による文禄・慶長の役で朝鮮から連れて来られた朝鮮の陶工たちによって日本の焼物界に新風が起こり、現在でも有名な有田焼(もしくは伊万里焼/佐賀県)、唐津焼(佐賀県)、平戸焼(長崎県)、薩摩焼(鹿児島県)、萩焼(山口県)など特に西日本で焼物が隆盛を迎えます。さらにヨーロッパへ輸出もされはじめ、新たな日本文化を海外に伝えることになります。鎖国とは言いますが、実際にはこのころから着実に、そしてずっとヨーロッパと文化的な交流があったわけです。
色絵花卉門壷  現在の佐賀県有田町を中心に製造された伊万里焼は、1569(万治2)年よりオランダ東インド会社から大量注文を受けて、積極的に輸出用の壷を生産開始します。写真は17世紀、輸出初期のころのもので中国の景徳鎮でヨーロッパ向けに、明時代末期から清時代初期に製造された壷の形や絵の構図を模倣したもの。
(国立博物館にて)

志野茶碗 銘振袖  こちらは安土桃山時代から江戸時代初期にかけて岐阜県の美濃で作られた美濃焼の一種、志野茶碗。この形が、またいい仕事していますね~(笑)。
(国立博物館にて)

柴垣蔦蒔絵硯箱

  江戸時代は美しい蒔絵(まきえ)も特に数多く誕生した時代。写真は古満休意の手によるもの。彼は1636(寛永13)年に徳川家光に召抱えられ、以後彼の家は幕府の御蒔絵師を勤めます。
(国立博物館にて)