上杉謙信

 上杉謙信は戦国時代の越後(新潟)の武将で、仏道に帰依し信義に厚い家風をつくった。自分を「毘沙門天の化身」と信じ、軍旗にも「毘」の印を入れている。上杉謙信の戦いは大義名分と権威を重視し、義侠に富んだ数々の逸話を残している。戦国時代の最強武将として名高い武将である。

 戦国時代は強い者が弱者の領地を奪うことは当然のことであるが、上杉謙信は領地を奪われた関東管領や豪族たちを助けた。上杉謙信は奪った者への戦いを正義として、不正義の戦国時代に怒りを感じていた。上杉謙信は越後国から西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大して、甲斐の武田信玄とともに同時代の武名を二分にしていた。

 上杉謙信は京都に二度上洛をしているが、天下を統一しようとはしなかった。また関白・豊臣秀吉を越後に招いているが、これは将軍家や朝廷を重視したからである。村上義清や上杉憲政の求めに応じて信玄と戦った事からも「義」を重視していたことが分かる。上杉謙信に少しでも領土拡大や天下を狙う気があれば、その後の歴史はどのようになったかわからない。

 

幼年時代

 上杉謙信は越後の守護代・長尾為景の末男として越後の春日山城(上越市)で生まれた。母は栖吉城主・長尾房景の娘・虎御前(青岩院)で、謙信の幼名は虎千代である。

 幼少の上杉謙信は父に疎んじられ、謙信は7歳で春日山城下の林泉寺に寺に預けられ、名僧・天室光育禅師から厳しい禅の修業と教養・兵学を学び、深い知識や厚い信仰心を得ている。林泉寺では14歳まで過ごし、景虎はそのまま僧侶になるはずだった。

 しかし越後では内乱が頻発しており、越後の内乱を兄・長尾晴景は鎮圧することが出来ず、配下にも謀反(反乱)を起こされたため、景虎(謙信)はお寺から引っ張り出され、謙信は14歳のとき初陣を踏み、15歳で元服して景虎と名乗った。19歳で兄・晴景から家督を引き継ぎ、長尾景虎として名実ともに越後の国主となった。なお父親・長尾為景は謙信が寺に預けられ時に死去している。

 上杉家は室町時代の名家であるが、上杉家の家系はかなり複雑で、上杉謙信 の 「上杉家」 は元々は 「長尾家」 という家柄で、長尾家は越後守護職の上杉家を補佐する家柄であった。長尾家 は上杉家 よりも格下であるが、本流の上杉家が戦国時代に没落したため、長尾家の謙信が上杉家を継ぐ事になった。さらに複雑なのはこの時代の越後(新潟)には「上杉家」「長尾家」という勢力が多数あるため紛らわしい。しかし上杉謙信を上杉家の元祖と捉えた方が分かりやすい。

 上杉謙信は本能寺の変後に豊臣秀吉と会見してその臣下となり、秀吉の死後は 徳川家 と対立しつつも存続し「関ヶ原の戦い」 の後に本拠地を米沢(今の山形県)に移されるが、上杉家は江戸時代の終わりまで続くこととなる。
越後統一

 越後の政権は不安定で、15歳の長尾景虎は若輩と侮られ、近辺の豪族が栃尾城に攻め寄せると敵の背後を突いて初陣を飾った。1545年10月、黒滝城主の黒田秀忠が謀反を起こし、春日山城まで攻め入ると総大将として指揮し黒田秀忠を降伏させ、翌年再び謀反を起こした際には滅ぼしている。

 景虎は初陣で大活躍、その後も反乱を鎮圧する戦いで大きな活躍を見せたため、兄は隠居して景虎が代わりに当主に推薦されて守護代「長尾家」の家督を相続し春日山城主となった。1551年には長尾政景の反乱を鎮めると、1552年、平井城主で関東管領の上杉憲政が北条氏康に敗れ長尾景虎を頼って越後に逃れてきた。

 またこの頃、信濃まで進出した武田信玄に追われた村上義清などの要請で第1回川中島の戦い行なっている。1553年9月には初めて京に上洛し後奈良天皇や将軍・足利義輝に拝謁し、堺と高野山にも赴いている。
 しかし1554年には北条城(柏崎)の北条高広が謀反を起こし、1555年には第2次川中島の戦いを経た長尾景虎は、相次ぐ家臣同士の領土争い紛争で心身が疲れ果て、1556年3月、27歳のとき出家・隠居を宣言して高野山に向かった。長尾政景らが後を追い説得すると、越後に戻り反旗を翻していた大熊朝秀を討伐し越後を統一した。

上杉謙信
  1557年、第3回川中島の戦い、1558年には関東出兵を経て、1559年4月には、出兵要請に応じて精鋭5000を率いて上洛し、正親町天皇、足利義輝に拝謁している。1560年3月、織田信長による桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、北条氏康と敵対していた関東諸将の要請に応じて8月に三国峠を越え関東に侵攻。小川城・名胡桃城・明間城・沼田城・岩下城・白井城・那波城・厩橋城など北条側の諸城を次々に攻略した。
  厩橋城で年越し1561年になると、深谷城・忍城・羽生城・古河御所も降伏させ、鎌倉も占拠し、3月にには小田原城を包囲した。長尾勢には、宇都宮広綱、佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘、小田氏治、那須資胤、太田資正、三田綱秀、成田長泰など関東の諸将も加わった為、その数は10万を超える大軍で、小田原城を約1ヶ月間包囲した。しかし武田信玄が信濃で動き出し、佐竹義昭が無断で帰陣したこともあり、鎌倉に撤退すると上杉憲政の要請もあって鶴岡八幡宮において、1561年閏3月16日、山内上杉家の家督と関東管領職を相続し名を上杉政虎と改めた。

第4次川中島の戦い
 その後、松山城主・上田朝直を攻め落として越後に戻ったが、以後も14回にわたり関東に出兵している。越後に戻ったのも束の間である1561年8月、上杉政虎(33歳)は18000を率いて川中島へ出陣し、第4次川中島の戦いとして武田信玄と最大の合戦を行う。荷駄隊と兵5000を善光寺に残し、13000にて妻女山に布陣し、海津城に入った武田勢20000を脅かした。
  武田勢は総大将:武田信玄、武田信繁、武田義信、武田信廉、武田義勝(望月信頼)、穴山信君、飯富昌景、内藤昌豊、諸角虎定、跡部勝資、今福虎孝、浅利信種、山本菅助(勘助)、室賀信俊、春日虎綱(高坂昌信)、馬場信房、飯富虎昌、小山田信茂、甘利昌忠、真田幸隆、相木昌朝、芦田信守、小山田虎満(小山田昌辰)、小幡憲重などである。
  上杉勢は、総大将・上杉政虎、柿崎景家、斎藤朝信、本庄実乃、色部勝長、五十公野治長、山吉豊守、安田長秀、長尾政景、加地春綱、中条藤資、村上義清、高梨政頼、北条高広、宇佐美定満、荒川長実、志田義時、直江実綱(小荷駄護衛)、甘粕景持(殿-しんがり)
山本勘助と馬場信春は武田勢を2手に分けて、夜陰に乗じて密に妻女山へ接近させたが、上杉謙信はこれを察知して武田勢に悟られない様、山を下り濃霧がたち込める八幡原に降りていた。
  やがて霧が晴れると、武田信玄と上杉謙信の両軍は既に接近しており、上杉勢は猛将・柿崎景家を先鋒に猛攻を仕掛けた。
  この第4次川中島の戦いは、有志に残る大合戦となり、武田勢は、武田謙信の弟・武田信繁、山本勘助、両角虎定、初鹿野源五郎、三枝守直ら多くの武将が討死し、武田信玄も負傷した。妻女山から急ぎ降りてきた武田別働隊が到着すると、上杉勢は挟撃にされ不利と見て越後へ引き上げた。この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝わる激戦であった。

関東での戦い
  1563年2月には埼玉の騎西城、4月には小山城(栃木)を攻略。1564年1月、小田城(茨城)の小田氏治を攻略した。第5回川中島の合戦は睨み合いで終わっている。1568年に将軍・足利義昭から関東管領に任命されると、僧侶と農民が結託した越中の一向一揆と椎名康胤が武田信玄に通じたため攻撃した。時を同じくして謀反した本庄城主・本庄繁長を攻撃するため転じるが、蘆名盛氏・伊達輝宗の仲介を受け本庄繁長の帰参を許し、翌年、椎名康胤を制圧した。

 1570年3月、相模の北条氏康と和睦し、1571年に北条氏康の7男・北条三郎を養子に迎え、気に入ると景虎の名を与えて優遇した。41歳のとき上杉謙信と称した。1571年に北条氏康が死去すると、北条氏政は同盟を破棄して武田信玄と和睦。
  1572年には利根川を挟んで、武田・北条軍と対陣した。しかし、武田信玄の調略で越中一向一揆が激しくなり、富山城を攻略するなど対応に追われた。その間、武田信玄は総力を挙げて西上を開始した為、織田信長の要請で同盟を結んでいる。
  1573年、富山城が一向一揆に奪われると再び攻略し、3月に武田信玄が死去すると一揆も影をひそめた為、一気に越中を制圧した。1574年には関東に入り、膳城・女淵城・深沢城・山上城・御覧田城を陥落させて、上野金山城主・由良成繁を攻撃するも堅固な城であったこともあり撤退。秋にも救援要請を受けて関東に入ったが、既に上杉家の関東勢力は大きく低下しており能登攻略に目を向けた。
  本願寺顕如と和睦すると、足利義昭の要請を受けて、武田勝頼・北条氏政とも和睦し、反信長体制を築いた。1576年11月には能登に侵攻し、長続連の七尾城を落城させたが、長続連から救援要請を受けていた織田信長は派兵を決意。
 柴田勝家を総大将とする、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政ら40000の大軍に、20000で対抗し、手取川の戦いにて織田勢を撃破した。
1577年12月に春日山城に帰還すると、翌年3月の遠征準備に入ったが、1578年3月9日、春日山城内の厠で倒れ、意識不明とになると3月13日午後2時頃に急死した。享年49。
死因は脳卒中とみられ、遺骸には鎧を着せて太刀と共に甕の中へ納め漆で密封。
この甕は上杉家が米沢城に移った後も米沢城本丸一角に安置され、明治維新の後には歴代藩主が眠る御廟(上杉神社)へと移されている。
  上杉謙信は文武両道に秀でた戦国時代の名将で、武田信玄、北条氏康、織田信長といった戦国時代の名将と戦を重ねたが、その戦いは欲によるものではなく、義を重んじ出兵だったと言われている。しかし養子とした上杉景勝・上杉景虎のどちらを後継にするかを言わずに死去したため、死後「御館の乱」が勃発し、上杉家は家臣が2手に別れ内乱となって、織田勢により滅亡寸前まで追い込まれる事となった。

 

43勝2敗25分2敗
  上杉謙信は元服してから約35年の生涯で70戦の合戦を行い、43勝2敗25分である。負けたのは次の2戦となる。1561年11月27日の北条氏康との生野山の戦い。これは武田信玄と大激戦となった第4次川中島の戦いのあとに、北条氏康が松山城・秩父高松城の奪還を狙ったため、阻止する為に出陣したものである。松山城へ援軍にきた後詰めの上杉勢を、北条氏康は松山城に近い生野山にて迎え撃ち撃退する事に成功したのである。
  1566年1月に常陸へ出兵し、小田城を奪還していた小田氏治を攻めて開城させると、城内の籠城に加わっていた者の人身売買を許可し、上杉兵に対しては乱暴狼藉を禁じた。3月に千葉家家臣の下総臼井城主・原胤貞を15000で攻め臼井城の戦いとなり、当初優勢に戦っていた。しかし城に接近したところを原胤貞の軍師・白井入道浄三の知謀により、城壁を一気に破壊されて上杉勢数百人が下敷きになった。また、北条氏康の援軍が到着し松田康郷などの反撃を受けて、上杉勢は約300名が討死した。この敗戦により常陸・上野・下野の諸将は北条家になびく事となり、以降、関東での影響力を弱めることになった。


上杉謙信の人物像
 上杉謙信の旗印は「毘」の文字で、自らを戦の神様である毘沙門天の生まれ変わりと厚く信仰していた。また総攻撃の際に掲げられた「懸り乱れ龍の旗」から「越後の龍」とも呼ばれた。幼少時に寺に入れられた際には、今で言う「城攻めのゲーム」が好きで、寺の修業を疎かにしてまで、兵の駒を動かしたり大砲や道具を用いたりと熱中していた。
 軒猿という忍者の集団を情報収集に当たらせ、戦略家・戦術家として秀でていただけではなく、和歌にも通じ達筆でもあった。源氏物語なども好んで読み、上洛すると歌会では見事な雅歌(恋歌)を読み参加者を驚かせた。演奏も好きで琵琶をよく奏で、上杉神社には謙信愛用の琵琶「朝風」が現存している。
 内政では衣類の原料となる植物・青苧の栽培を奨励し、日本海からの海路で全国へ広めるなど、流通を統制して財源として金山運営でも莫大な利益を上げた。
  妻を持たず生涯未婚(生涯不犯、妻帯禁制)を貫いたため、子供は全て養子で、特に美男子を好んで近くに置くなどしている。また毎月決まった日に腹痛を起こしたとあり、実は女性だったという説もある。
  敵対していた武田信玄が今川氏真によって塩を断たれた際、敵である武田家に塩を送ったと言う逸話も有名である。筑波の小田城を攻略した際、捕虜を上杉謙信の指図で人身売買したとあるが、武田信玄なども同様の人身売買や、鉱山での強制労働などを行っていた。謀反を起こした北条高広を2度許し、佐野昌綱や本庄繁長も、降伏すれば帰参を許しています。33歳前後からは、歩く時に左足を引きずる様子が見られ、戦場では杖をついて軍兵を指揮したされている。
  近年の研究で遺品の甲冑の大きさなどから身長は156cm程度で、誓文の血判から推定された血液型はAB型であることがわかっている。脳卒中で亡くなった訳だが、愛用の馬上盃などは長年の飲酒を物語っており、つまみは味噌・梅干・塩であった事から、塩分の過剰摂取が死因に繋がったとされている。
  米沢城の稽照殿にある腹巻を見ても、さほど大柄なサイズではないし、小柄であったとの史料も複数あることから、身長156cm程度の武将であったと考えられている。
  総合すると目つきは鋭く、義理堅く名誉を重んじ、勇猛な反面短気で尊大である。生涯独身を通したため性的不能、男色家、はては女性説まであるが、毎日、毘沙門堂に籠り勤行することが日課であり、自らを毘沙門天の化身と強く信じていたため、その強い信仰を妨げないようにするため女性を遠ざけたとするのが妥当である。
  後年は左足のつけねに腫れ物があったとされ、足を引きずるようにして歩いていたが、陣では物の具や采配などは用いず、黒い木綿の胴服、鉄製の車笠を着し、足が悪かったため三尺ほどの青竹を指揮杖として用いたと言われている。剃髪したのは45歳の時で、以後、法体の姿となりました。
 武田信玄は死の床で武田勝頼に「あんな勇猛な男と戦ってはだめだ。 謙信は頼むと言えば嫌とは言わぬから、謙信を頼って甲斐を存続させよ」と遺言した。北条氏康も「謙信は請け負えば、骨になっても義理を通す。若い大将の手本にさせたい」と、北条氏政や北条氏照に語ったとされている。
  実力がありながら侵略的な戦争はせず、義を重んじた上杉謙信だからこそ神格化され戦国最強と呼ばれたのだろう。