上杉謙信

 上杉謙信は戦国時代の越後(新潟)の武将で、仏道に帰依し信義に厚い家風をつくった。上杉謙信は義を重んじる武将として有名で、自分を戦いの神・毘沙門天の化身と信じ、戦の前には必ず毘沙門天に祈ってから出陣した。また「越後の龍」の異名を持ち、軍旗には「毘」のほかに「龍」の印を入れている。大義名分と権威を重視した数々の逸話を残し、戦国時代最強の武将として名高い。

 戦国時代は強い者が弱者の領地を奪うことが普通に行われたが、上杉謙信は領地を奪われた豪族たちを助けることを義とした。上杉謙信は他人の領地を奪った者への戦いを「正義」として、不正義や裏切りがはびこる戦国の世に怒りを覚えていた。

 上杉謙信は内乱続きであった越後国を統一すると、戦いや政治だけではなく産業を振興して越後国を繁栄させた。また越後国から西進して、越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大して、甲斐の武田信玄とともに同時代の武名を二分した。

 上杉謙信は二度上洛しているが天下を統一をする気はなかった。関白・豊臣秀吉を越後に招いているが、これは将軍家や朝廷の形式を重視したからである。上杉謙信は「義」を重んじ、戦乱の世にあっても侵略のための戦いは行わず、他国から救援の要請があれば出兵した。

 つまり合戦の目的は私利私欲ではなく、道理をもって誰にでも力を貸すことだった。村上義清や上杉憲政の求めに応じて武田信玄と戦った事から、「義」を重視していたことが分かる。また関東管領になって北条氏との決戦のため関東に出向いても、用が済めば支配することなく軍を引き上げたように、領土拡大を目指す他の戦国大名とは一線を画していた。上杉謙信には領土拡大や天下を狙う気はなく、また生涯妻を持たず、敵からも賞賛された。自らを仏法の守護神 「毘沙門天」 と称し、女性と交わらない生活から武士と言うより僧侶に近かった。

 

長尾家と上杉家

 南北朝時代以来、関東は室町幕府からは半独立した鎌倉府が統治していた。鎌倉府の長は足利氏で補佐役の関東管領は上杉氏だった。上杉氏は各地の守護をしていたが、鎌倉で政治をするため越後国の管理は守護代・長尾氏が行っていた。

 つまり越後では守護が上杉家、守護代が長尾家となっており、上杉の本家は山内上杉家で、越後の上杉家はその分家であった。また長尾家は府中(三条)・長尾家、古志郡を根拠地とする古志・長尾家、魚沼郡上田庄の上田・長尾家の三家に分かれて守護代の地位を争っていたが、やがて府中(三条)長尾家の当主だった謙信の父・長尾為景が守護代を独占するようになった。

 京都の室町幕府は、関東は鎌倉府によって半独立していたため面白くなかった。そのため室町幕府は鎌倉府に干渉を加え、さらに鎌倉公方・足利氏と関東管領の上杉家が対立し、上杉家が本家の山内上杉家と分家の扇谷上杉家で戦った。

 室町時代は子に恵まれずに絶えそうになると分家から養子を取っていた。そのため山内上杉家も越後上杉家から養子を迎え、関東管領山内上杉家と越後守護上杉家とは兄弟関係にあった。

 後継の問題はいつの世も問題を抱えている。例えば山内上杉家の守護代・長尾家の長尾景春は家を継ぐつもりだったのに継げないことに不満を抱き反乱を起こしている。

 元々上杉家は室町時代の名家であったが、上杉家はかなり複雑で分かりにくい。上杉謙信の家柄は元々 「長尾家」 で、この長尾家は上杉家を補佐する守護代であったが、本流の上杉家が戦国時代に没落したため、長尾家がその上杉家を継ぐことになった。さらに越後(新潟)には「上杉家」「長尾家」という勢力同士が多数あるため複雑で分かりにくい。

 上杉謙信は元は「長尾景虎」という名前で、次々に名前を変えるが上杉謙信=上杉輝虎=長尾景虎と捉えた方が分かりやすい。

 多くの武将たちがしのぎを削る戦国時代、かつては仕えた主君から1文字もらったり、縁起を担いで改名することがよくあった。自分を少しでも強く見せるため、あるいはほかの武将や役人たちが治めていた領地を拝領する際に、影響力のある歴史のある名前を譲り受けたり勝手に名乗ったので分かりにくいのである。

 

幼年時代

 1530年1月21日、長尾景虎は越後の守護代・長尾為景の四男(末子)として、越後の春日山城(上越市)で産声を上げた。母は栖吉城主・長尾房景(長岡の古志長尾家)の娘・虎御前(青岩院)で、謙信の幼名は寅年に生まれたことから虎千代であった。母親の名前が虎御前というのもずごいことである。

 虎千代の誕生直後には父・為景が上条城主・上杉定憲などの旧上杉家勢力を糾合して反旗を翻し、この反乱には阿賀野川以北の揚北衆だけでなく、同族の長尾一族である上田長尾家当主・長尾房長までもが呼応した。

 虎千代は4歳の幼い頃から体格が大きく性格も子供らしくなかった。年上とばかり遊び、相撲や太刀打ち、組打ちを好み、年上の子供を泣かせてしまうほどだった。親も虎千代に手を焼き育てにくい子供だったが、大人に説くような教えでも理解できるほど頭の良さがあった。

 

林泉寺

 536年に父が隠居すると兄・晴景(はるかげ)が長尾家の当主とななる。同時に乱暴な虎千代は父に疎んじられ、7歳で春日山城下の林泉寺に預けられた。父・為景は手に余る虎千代を教育してもらおうと寺に預けのだが、虎千代は墓石を倒したり、寺男に木刀で打ち込んだりと、乱暴な行動はとどまるところを知らなかった。虎千代は武勇の遊戯を好み一間四方の城郭模型で遊ぶのが好きだった。

 謙信の兄・晴景が家督を相続するが、その4ヶ月後に父・為景が病死してしまう。父・為景が死去すると虎千代は、それを境に見違えるほど落ち着いた子供になり、名僧・天室光育(てんしつこういく)禅師から厳しい禅の修業と教養・兵学を学び、深い知識や厚い信仰心を得ることになる。こうして武将としての土台が築かれていった。

 虎千代は嫡男ではなかったので長尾家を継ぐ立場にはなく、14歳まで林泉寺で過ごし、そのまま僧侶になるはずだった。

 しかし敵対する豪族勢力が春日山城に迫ったため、虎千代は甲冑を着け、剣を持って亡き父の柩を護送した。(下:新潟県上越市にある林泉寺)

越後の内乱(父・為景の時代)

 上杉謙信が登場するまでは、越後の国は内乱が激しく続き、謙信の父・為景は下剋上の時代の中で戦いを繰り返していた。父・為景は主君である越後守護・上杉房能を武力で倒して、上杉房能を自害に追い込み下克上を果たしている。

 父・為景は上杉房能の養子・上杉定実を越後守護にすると、都合の良いように傀儡化させ父・為景は勢威を振るったが、越後を平定するには至らなかった。

 ここで上杉定実は越後の守護になるが、父・為景の傀儡であることに不満を持ち権力の回復に動いた。父・為景は後継ぎがいない守護・上杉定実を殺せば敵を増やすことから、守護の権力に頼らなくても良いように手を打った。つまり朝廷や室町幕府に献金して事実上の越後国主としての格式を得たのである。

 また上越以外との関係を強める為、自分の腹心を中越の黒滝城主黒田家の養子に入れた。黒田家は越後上杉家の家臣であり長尾家とは同格だった。さらに上田・長尾家に娘(謙信の姉の仙桃院)を嫁がせて懐柔した。

 上田・長尾家は隣接する関東管領家と関係が近いため、越後の臣というより関東管領の臣との意識があった。上田・長尾房長は上杉定憲に味方し、父の長尾為景は三分一原の戦いで勝利するが、上田・長尾家との抗争は以後も続いた。最終的には父・為景は娘の仙桃院を上田長尾家の当主・長尾政景に嫁がせて和睦した。この2人の間には謙信の養子となった上杉景勝が産まれている。

 虎千代(謙信)が林泉寺に預けられた同年に父・為景が病没し、兄・晴景が長尾家を継いだが、兄・晴景には家臣たちを取りまとめていく力がなく、長尾氏の周囲は次第に不安定になっていった。

 

謙信の俗世

 このように当時の越後では内乱が頻発し、越後の内乱を兄・長尾晴景は鎮圧することが出来ず、配下に謀反(反乱)を起こされ、1543年、虎千代(謙信)は寺から俗世に連れ戻された。

 虎千代(謙信)は14歳のときに初陣を踏み、15歳で元服すると長尾景虎と名乗った。越後の政権は不安定で、15歳の長尾景虎は若輩と侮られ、近辺の豪族が栃尾城に攻め寄せたが、長尾景虎は敵の背後をわずかな兵を巧みに突いて初陣を飾った。

 その後も長尾景虎は反乱を鎮圧する戦いで大きな活躍を見せ、若いながら天才武将として頭角を現した。しかし越後の動乱は収まる気配を見せず、景虎は何度も出陣することになり、そのたびに勝利を治めた。勝ち戦を続ける景虎の信頼と人望は大きかったが、兄・晴景は弟・景虎が自分の力を超えることを恐れ、長尾政景を味方に引き入れてを弟・景虎をおとしいれようとした。

 長尾政景は兄・晴景に先手を取った方が勝ちと入れ知恵をして、政景は6000の兵を引き連れ景虎の城に攻め入った。しかし事前にこれに気づいた景虎はその軍勢を迎え打った。長尾家当主の兄・晴景と若いながら天才武将として頭角を現し始めた景虎、家臣たちの中にも景虎につこうとする者が続出した。

 この状態を上杉定実が知り、兄・晴景に景虎との間に入り和議を結ばせ、景虎を兄・晴景の養子にし、兄弟は「父子の義」を結び、晴景を隠居させ景虎が長尾氏を継ぐことになった。
 これで景虎は19歳で春日山城城主および守護代として務めることになった。しかし1545年10月、黒滝城主の黒田秀忠が裏切り、黒滝城に立てこもり謀反を起こして春日山城に攻め入った。景虎は兄・晴景を案じて春日山城に戻り黒田討伐に出陣するが、黒田勢がすぐに降状したので景虎は栃尾に戻った。しかし黒田は翌年再び謀反を起こしたため、謙信はこれを討伐し黒田氏を滅ぼした。
 景虎は人の行うべき道筋を重んじる性格であった。しかし黒田秀忠は一度降伏して忠誠を誓ったにも関わらず、再び謀反を起こしたので一気に黒田秀忠の一族を滅ぼしている。

 また1551年には長尾景虎が家督を継いだことに不満を持つ長尾政景が反乱を起こしたが、謙信は兄に代わって総大将として指揮しこれを降伏させた。翌年、再び長尾政景が謀反を起こしたため同じように滅ぼしている。

 その2年後に上杉定実が、その3年後には晴景が没し、景虎は越後の国を名実共に治めることになった。景虎はその後も越後の反乱を鎮圧し、将軍・足利義輝は謙信を越後の国主として認め、謙信22歳の時に越後平定を成し遂げた。

 謙信は越後国主に任じた将軍家に感謝の念を抱き、乱れた秩序を回復させ天下を静謐にするため、本来の領土を追われた武将を庇護し、復権させることを優先した。

 

 謙信の戦い

 上杉謙信は上越市に中部ある標高182mの小高い春日山の山頂に築かれた春日山城を居城とした。別名「鉢ヶ峰城」とも呼ばれる春日山城は、越後守護の上杉氏が南北朝時代に築城し、守護代だった謙信の父、長尾為景が上杉定実を擁立してして、新しい城主として長尾氏が春日山城に入城した。

 春日山城は天然の要害と言われる難攻不落の城で、その後謙信は山の地形を活かしさらに強固な城にした。石垣はなかったが裾野には1㎞以上にも渡って土塁と堀を築き、周囲には支城や砦を張り巡らした。

 上杉謙信はこの城で生まれているが、城の近くには幼少の頃過ごした林泉寺がある。春日山城は長尾為景、長尾晴景、上杉謙信、上杉景勝と4代の居城となったが、上杉景勝が会津に移った後、春日山城は静かにその役目を終えている。

 謙信(長尾景虎)が春日山城の城主になって間もないころ、関東管領の上杉憲政が北条氏康に敗れ長尾景虎を頼って越後に逃れてきた。そのため謙信(長尾景虎)は上杉憲政を匿った。

 また同じ頃、信濃まで進出した武田信玄に追われた村上義清のため、第1回の川中島の合戦を行なっている。その後、武田信玄と上杉謙信は何度も川中島で戦いをするが、結局両者の間で決着が着く事はなかった。

 その翌年、武田氏・今川氏・北条氏の間で三国同盟が成立し、武田・北条と敵対する謙信にとって面倒な展開となった。

 

出家 

 1553年9月に初めて京に上洛し、後奈良天皇や将軍・足利義輝に拝謁し堺や高野山にも赴いている。高野山に行ったのは真言宗の高僧・無量光院の住職「清胤」に会うためであった。高野山は当時は女人禁制で、武装も固く禁じられていた。そのため景虎は黒漆の陣笠をかぶり名刀備前国宗を戒杖に仕込み、左腕に百八の数珠を巻いて高野山に行った。
  景虎はまだ23歳の青年で、清胤和尚の教えにより真言宗に入信して下山し、しかも京都へ戻るとその足で紫野大徳寺に参禅している。

 1554年には北条城(柏崎)の北条高広が謀反を起こしたため降伏させ家臣にしている。この北条氏は関東・小田原の北条氏とは別者である。

 翌年に第2次川中島の戦いを経た長尾景虎は、相次ぐ家臣同士の領土争いに心身が疲れ果て、相次ぐ反乱と家臣の対立、さらには武田家など近隣との戦いに嫌気が差し 「もう大将やめる」 と突然隠居し出家しようとした。

 景虎が7歳で出家した林泉寺の住職・天室光育に遺書を残して仏教の総本山・高野山に1人で行ってしまったのである。

 これに驚き、姉(桃姫)の夫・長尾政景らが後を追い、家臣たちは協力して「もう反乱を起こしません」との約束状を書き景虎を押し止め、さらに天室光育の言葉に従い景虎は出家を断念して春日山城へ戻った。
 この出家騒動に、長年お寺で修行をしていた景虎の葛藤が見えてくる。この騒動の後、景虎が越後に戻ると大熊朝秀が謀反を起こした。大熊氏は上杉家が越後守護となって以来の家臣であった。景虎の父・長尾為景が守護の上杉氏と対立したとき、大熊政秀(朝秀の父)は上杉方について戦った。

 しかし朝秀は父の死後上杉家を見限って長尾家へ寝返り、景虎の越後統一を成功させ、いわゆる長尾家の功労者でもあった。しかし今回の土地争いでは、日頃専横していた大熊氏への反感もあり、大方の地侍は対立する本庄実乃側を支持していた。越後で孤立した大熊朝秀へ、武田の調略が仕掛けられた。武田の情報網はそれほど優れていたのである。
  しかし軍神・長尾景虎にとって、大熊朝秀は惜しむべき功臣ではあったが合戦の相手ではなかった。越中口から侵入してきた大熊勢をあっという間に撃破したのである。
朝秀は甲斐へ逃亡して武田家の家臣となり晴信から重用された。晴信に内通していた家臣・大熊朝秀を討伐すると越後を統一した。

 何はともあれ、この事件を機に長尾景虎は迷いを捨て、両雄は確実な足どりで「川中島の死闘」へと踏み出していく。
 なお上杉謙信は女人禁制の高野山へ生涯で2度入山している。このことが「謙信女性説」の最強の反論となっていることを付記しておく。

武田信玄と上杉謙信

 当時は第13代将軍・足利義輝が三好長慶との戦いで敗れて亡命するなど、幕府の権威が完全に失墜していた。上杉謙信が家督を継いだ頃の日本は、力のある武将が戦いによって領地を広げ互いに争い合う時代に突入していた。各地では地方権力が台頭し、東日本では駿河の今川や相模の北条など名だたる武将が有力な守護大名としての地位を築き上げていた。
 甲斐を治める武田信玄も同じように領土拡大を目指し西の信濃へと侵攻を始めた。信濃には既に村上義清や高梨政頼といった豪族がいたが、信玄はこれを次々討ち倒し領土を拡げていった。しかしそこに立ちはだかったのが、越後の虎の異名を持つ長尾景虎(上杉謙信)であった。越後を治めていた謙信は、領地の南側の信濃まで信玄が勢力を伸ばし、越後との境界線を脅かそうとすることい危機感を抱いていた。

 甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信は千曲川と犀川に挟まれた「川中島」で戦うことになる。両者は川中島で12年の間に5回戦うが、最後は両者退陣という形で戦いの幕が下ろされている。

 第1戦目は布施の戦いで、謙信は武田軍を討ち破っている。信玄はこの戦いの後、越後との戦いを想定して今川・北条と手を組み三国同盟を結んだ。さらに越後に程近い山城・旭山城を占領し、この地方で力を持っていた善光寺の僧侶・栗田鶴寿を味方に付け、1555年に再度侵攻(第二次川中島合戦)した。

 この第2戦目は犀川の戦いと呼ばれ、謙信は川中島よりも越後側にある旭山城からの攻撃を警戒して川を渡るるが身動きが取れなかった。最終的には駿河の今川義元が仲介に入り停戦協定が締結し、信玄は獲得した信州の領土を手放すことになる。第3戦目は上野原の戦いと呼ばれ決着はつかなかった。

 第4戦目は八幡原の戦いと呼ばれ川中島の戦いで最も大きな戦いとなり、川中島の合戦といえばこの第4戦目の戦いを指すことが多い。第5戦目が最期の戦いで、塩崎の対陣と呼ばれているが、双方ともにらみ合ったまま決着がつかず退陣している。

 川中島の戦いは5回目以降、両者は正面きって戦うことはなかった。信玄は戦略を駿河・西上野攻略として、また謙信も関東管領として関東地方を重要な課題として位置付けたので、両者には川中島で争う理由がなくなったのである。

 

第4次川中島の戦い
 1560年の桶狭間の戦いで、信玄の同盟相手だった今川義元が戦死し、駿河領内は混乱に陥った。もし上杉謙信が小田原城を追い詰め、北条氏が負ければ甲斐は上杉家の領土に囲まれてしまう。この状況を打破するため、信玄は川中島南部に海津城を築いて謙信の本拠地・越後を目指して侵攻を始めた。

 1561年8月、上杉謙信(33歳)は兵1,8000を率いて川中島へ出陣して、武田信玄と最大規模の合戦を前にした。上杉謙信は荷駄隊と兵5000を善光寺に残し、1,3000の兵で妻女山に布陣し、海津城に入った武田勢20,000を脅かした。

 武田勢は武田信玄が総大将で、武将には山本菅助(勘助)や真田幸隆などがいた。上杉勢の総大将は上杉謙信で、海津城を見下ろす妻女山に布陣してにらみ合った。信玄は妻女山の正面に自ら率いる本隊、さらに別働隊を妻女山の裏から攻めさせ、上杉軍を挟み撃ちにする計画をねった。そのため別働隊約12,000人を妻女山の裏から謙信勢が気づかないように向かわせた。
 武田勢は山本勘助と馬場信春の2手に分かれて、夜陰に乗じて妻女山の裏から上杉勢に接近した。しかし上杉謙信は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知した。謙信はこの作戦を見抜くと一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り雨宮の渡しから千曲川を渡り、濃霧がたち込める八幡原に降りた。これが頼山陽の漢詩・川中島の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。上杉勢は濃霧がたち込める八幡原に降りた。

 やがて霧が晴れると武田信玄と上杉謙信の両軍は既に接近しており、上杉勢は猛将・柿崎景家を先鋒に猛攻を仕掛けた。
  この第4次川中島の戦いは歴史に残る大合戦となり、武田勢は上杉勢に不意をつかれ劣勢になった。武田勢は「鶴翼の陣」を敷いたが武田謙信の弟・武田信繁、山本勘助、両角虎定、初鹿野源五郎、三枝守直など多くの武将が討死し武田信玄も負傷した。

 乱戦の中で信玄の本陣は手薄となり、そこに上杉謙信が「車ががかり戦法」をとって斬り込みをかけた。さらに上杉謙信は隙をついて、腰掛けている信玄に太刀をあびせ三度切りつけた。信玄は軍配でこれをしのぐが、肩先を負傷した。この戦いは戦国時代でも最も有名な合戦となった。

 しかし信玄の軍勢が駆けつけたため、謙信は信玄を討ちもらした。さらに裏をつかれた武田別働隊が妻女山から急ぎ降りてきたため、上杉勢は不利な挟撃になりそうになり越後へ引き上げた。

 この戦による死者は上杉軍が3000余、武田軍が4000余の激戦であった。双方ともあまりに犠牲者が多かったので、それが本国に知られることを恐れ、記録を残すことを控えたため、第4回川中島合戦の資料が少ない。

 この4度目の戦いのとき、山本勘助のたてた戦略が、見事なくらいに謙信に読まれており、裏をかかれて最初は劣勢な戦いになった。山本勘助は自分の戦略の失敗によって武田軍の危機を招いたことより責任を感じ、自ら敵中に突入してゆき四方八方から槍を打ち込まれて命を落とすことになった。

関東管領としての上杉謙信
 1557年、第3回の川中島の戦いを終えると、1558年には長尾景虎(上杉謙信)は関東に出兵して、翌年4月には要請に応じて精鋭5,000を率いて上洛した。この上洛により正親町天皇と足利義輝に拝謁し、長尾景虎(上杉謙信)と将軍・足利義輝は良好な関係を築いた。

 1559 年、長尾景虎(上杉謙信)は上杉家から 「関東管領」 という関東を統治する役職を譲り受ける事になった。「関東管領」 とは関東地方一帯を統治する役職であったが、当時の関東は実際には小田原の北条家に制圧されていた。

 かつて関東管領であった 「山内上杉家」 も何とか関東を奪還しようとして北条家と戦うが全くかなわなかった。 そこで山内上杉家は長尾景虎(上杉謙信)の勇名を知り、長尾景虎に関東管領を譲る事を決意したのである。
    これを拝領した長尾景虎(上杉謙信)は同時に上杉家の家名も譲られ、こうして 長尾家は上杉家となり、景虎も名前を 「上杉輝虎」さらには 「上杉謙信」 と改めた。

 当時の北条氏は上野(こうずけ・群馬県)まで侵攻し、太平洋側の駿河・遠江・三河では今川家、徳川家が力を持ち、隣の尾張ではあの織田信長が力をつけていた。
 また武田家の領地は北条、今川、上杉に囲まれ、戦わなければ領民を守ることはできなかった。このように関東は領地拡大を目指して混沌としていた。
 1560年3月に織田信長による桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、上杉謙信を脅かしていた三国同盟の今川氏が崩れたため、上杉謙信は北条氏康を討伐することを決意した。上杉謙信は上野・武蔵へと侵攻して、8月には三国峠を越え関東に入り小川城・名胡桃城・明間城・沼田城・岩下城・白井城・那波城・厩橋城など北条側の諸城を次々に攻略した。

 厩橋城で年を越すと、翌年には深谷城・忍城・羽生城・古河御所を降伏させ鎌倉を占拠するとともに3月には小田原城を包囲した。上杉謙信には宇都宮広綱、佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘などの関東の諸将が加わり、その軍勢は10万を超える大軍となり小田原城を約1ヶ月包囲した。

 しかし北条氏康と同盟を結ぶ武田信玄が信濃で軍事行動を起こす気配を見せ、また佐竹義昭が無断で帰国したことから小田原城の包囲を解くことになる。1561年閏3月16日、小田原から鎌倉に撤退すると、鶴岡八幡宮において山内上杉家の家督と関東管領職を正式に相続し名を上杉政虎(上杉謙信)と改めた。

 その後、松山城主・上田朝直を攻め落として越後に戻ったが、以後、上杉政虎(上杉謙信)は14回にわたり関東に出兵している。

 

 

関東での戦い
  1563年2月には埼玉の騎西城、4月には小山城(栃木)を攻略し、翌年1月には小田城(茨城)の小田氏治を攻略した。さらに第5回川中島の合戦が行われたが、謙信と信玄は睨み合いに終わっている。

 1568年に将軍・足利義昭から関東管領に任命されたが、武田信玄が越中の一向一揆と通じていたため越中の僧侶と農民を攻撃した。時を同じくして謀反した本庄城主・本庄繁長を攻撃するが、蘆名盛氏・伊達輝宗の仲介を受け本庄繁長の帰参を許した。

 1570年3月、相模の北条氏康と和睦すると、その翌年には北条氏康の7男・北条三郎を養子として迎え景虎の名を与えて優遇した。このように戦国時代の大名は養子や婚姻によって同盟を強くしたのである。

 政虎41歳の時にとを変謙信に変え、1571年に北条氏康が死去すると、嫡男の北条氏政は上杉謙信との同盟を破棄して武田信玄と和睦した。1572年には上杉謙信は利根川を挟んで武田・北条軍と対陣したが、武田信玄の調略で越中一向一揆が激しくなり、そのため越中の富山城を攻略するなど対応に追われた。その間、武田信玄は総力を挙げて西上し、織田信長の要請により上杉謙信は信長と同盟を結んでいる。
  1573年、富山城が一向一揆に奪われたが、武田信玄が死去すると一揆も影をひそめたため一気に越中を制圧した。

 1574年には関東に入り、膳城・女淵城・深沢城・山上城・御覧田城を陥落させた。上野金山では城主・由良成繁を攻撃するが堅固な城であったため撤退し、秋には救援要請を受けて関東に入った。
 上杉謙信は本願寺顕如と和睦すると、足利義昭の要請を受けて、武田勝頼・北条氏政と和睦して信長包囲網を敷いた。1576年11月には能登に侵攻し、長続連の七尾城を落城させたが、長続連から救援要請を受けた織田信長は上杉謙信を倒すため派兵を決意した。

 上杉謙信は文武両道に優れた名将であり、武田信玄、北条氏康、織田信長といった戦国大名と戦いを重ねたが、その戦いは欲によるものではなく義のため、つまり「弱きを助け強きをくじく」ための戦いだった。

 

43勝2敗25分2敗
  上杉謙信の生涯は戦いの連続であった。元服してから約35年で70戦の合戦を行い、43勝2敗25分で確実に負けたのは次の2戦のみである。

 まず1561年11月27日の北条氏康との「生野山の戦い」である。これは武田信玄と大激戦となった第4次川中島の戦いの後に、北条氏康が武蔵の松山城、秩父の高松城の奪還を目指して攻撃したのである。上杉謙信はそれを阻止する為に出陣したが、川中島で甚大な損害を受けたことが響いており、松山城へ援軍にきた上杉勢に対し、北条氏康は松山城近くの生野山にて迎え撃ち、上杉謙信を敗退させたのである。この生野山の戦いでは敗れたものの、上杉謙信は松山城を攻撃する北条軍を最終的には撤退させている。
  1566年1月、上杉謙信は常陸へ出兵して、小田城を奪還した小田氏治を攻めて開城させた。また安房国の里見氏が北条氏に追い詰められたため、里見氏を救援すべく下総国にまで侵出した。3月20日に北条氏に従う千葉氏の拠点・臼井城を攻め、当初は優勢に戦っていたが、しかし城に接近したところを敵の軍師・白井入道浄三の知謀により、城壁を一気に破壊されて上杉勢数100人が下敷きになった。さらに北条氏康の援軍が到着して反撃したため、上杉勢は約300名が討死した。この敗戦により常陸・上野・下野の諸将は北条家になびくことになり、以降、関東での影響力を弱めることになった。

謙信の領国経営

  越後の石高は39万石と決して豊かとはいえない。また謙信ほど戦いに明け暮れた武将はいない。しかも戦いはすべて「義」の為であり領土の拡大の意思は全く無かった。しかしいくらカリスマ的指導者だったとしても、家臣団はそれなりの恩賞がなければついていかないはずである。謙信は「戦上手、戦の天才」といわれているが、それ以上の魅力があったのだろう。
 今川氏から塩を断たれ、塩不足に困窮した武田信玄に「われ信玄と戦うも、それは弓矢であり魚塩にあらず」と直ちに謙信は塩を送った。はたして謙信の軍事行動を支える経済政策はどんなものだったのか。
 越後では金・銀が採掘できる山が多くあった。金は西見川金山(佐渡市真野)と高根(鳴海)金山(村上市)があり、銀は上田銀山(南魚沼市)、鶴子銀山(佐渡市佐和田)があった。あの有名な佐渡金山(佐渡市相川)は江戸時代からの開発で、謙信の時代にはまだなかった。それでも越後は日本の金銀の6割を産出していたのである。
 また庶民の間の着物の材料である、青苧(カラムシ)が越後の山間地で栽培されていた。この麻糸の原料になる青苧(カラムシ)で織ったのが「越後布」と呼ばれ、まだ木綿が普及していなかった当時の衣料として大きな市場を形成していた。越後の「カラムシ」は上質で京都のものより高く売れた。山間地で栽培された「カラムシ」は直江津や柏崎の港に運ばれ、船便で越前の敦賀や小浜まで運ばれ、陸揚げされ京都に送られた。

 現在では越後は「米どころ」として有名であるが、この時代には米よりも「カラムシ」が有名で生産から流通まで大きな収入源となっていた。
 謙信が死去した後、春日山城の金蔵に残されていた総額は約2万7千両だった。いかに「カラムシ」の経済貢献が大きかったかが分かる。
 信玄は晩年に上洛を決意して進軍するが、その途中持病(肺結核)が悪化して喀血して甲斐に引き返す途上で病没する。そのため謙信も織田との決戦を決意するが出陣直前、春日山城にて脳出血で急死した(1578)。享年49だった。織田信長や徳川家康にとって謙信と信玄の死は実に幸運だった。

 

手取川の戦い

 織田信長は本能寺の変で明智光秀の謀反によって自ら命を落としたが、それより6年前に織田信長は上杉謙信と戦っている。

 1573年3月、武田信玄の画策で再起した越中一向一揆が富山城を奪ったため、越中から越後への帰路についていた謙信は、すぐさま兵を返して富山城を再度攻め落とした。4月には宿敵・武田信玄が病没すると謙信は西へ向かって進軍した。これは武田家の脅威がなくなったのと同時に、織田信長と対立を始めた室町幕府の将軍足利義昭から、織田信長をやぶり上洛するように要請があったからである。

 上杉謙信は、越中(富山県周辺)の神保家や織田方の能登半島の畠山家を撃破すると、さらに西に向かって進み、信長が支配する「加賀」に迫った。上洛を急ぐ謙信は重要拠点である能登の七尾城を攻めるが、七尾城は難攻不落だったために落とせなかった。

 しかし1577年には遊佐氏を味方につけ七尾城を落城させ能登を傘元に置いた。この七尾城の落城を知らない信長勢は、柴田勝家を総大将として羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政ら40,000の大軍を送り、上杉謙信は20,000の兵でこれに対抗した。

 この手取川の戦いは上杉軍と織田軍が 「手取川」 の近くで戦ったもので、織田軍が手取川にさしかかった頃、上杉軍はかなり遠くの東の方を進んでいた。両者の距離は数日かかる距離であった。

 しかしその日の夜、 上杉謙信は陣中に「かがり火」を多く炊かせ、そこに多くの部隊が駐留しているように見せかけ、騎馬だけの精鋭部隊を率いて織田の陣へ夜通しかけて向かった。
    織田軍は上杉軍までの距離があるため、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。そのうえ戦略を巡って織田家の重臣・柴田勝家と羽柴秀吉が衝突して、秀吉は自分の軍勢とともに帰ってしまった。なぜ羽柴秀吉が信長の命令に逆らってまで帰ったのかは謎であるが、謙信の強さを恐れ、謙信に柴田勝家を始末してもらおうとしたのかもしれない。

 いずれにせよ長距離を駆けてきた上杉謙信は騎馬精鋭部隊いて夜襲をかけてきた。突然の事に織田軍は大混乱となり、先陣にいた織田軍の部隊は瞬時に壊滅した。
    闇をついて上杉謙信は織田軍に襲い掛かかり、しかも激しい雨が降っており手取川は増水しており、織田軍は水嵩の増した手取川の渡河に手間取り、織田軍1000人の将兵が討たれ、さらに多数の溺死者を出した。織田軍は大被害を被り、勇将で知られる 「柴田勝家」 の部隊が反撃しようとするが気勢を制され謙信の圧勝となった。

 織田軍は残存の兵をまとめて対抗しようとするが、その頃には上杉軍の残りの兵士達も到着しそのまま圧倒されて織田軍は崩壊した。

 この手取川の戦いは、残されている記録が少ないため詳細は分かっていない。これは大負けした織田信長が、この戦いの記録を残す事を禁止したためである。

 天下の織田信長でさえ戦わずに謙信の存在を常に恐れていた。そのため信長の北陸侵略は、謙信が没するまで中止にしたほどである。

 上杉謙信は手取川の戦いで圧勝し、能登から加賀国のほとんどを支配下に置き、織田信長よりも優位になった。しかしこれが謙信の最後の戦いになった。

 

謙信の最後

 1577年12月に春日山城に帰還すると、翌年3月の関東大遠征の準備に入ったが、1578年3月9日、春日山城内の厠で倒れ、意識不明とになり4日後13日の午後2時に急死した。享年49。謙信辞世の句は「四十九年 一睡夢 一期栄華 一杯酒」であった。その意味は「49年の我が生涯は、一睡の夢に過ぎなかった。この世の栄華は、一杯の酒に等しい」で、これが義理人情に厚かった謙信の最期の言葉になった。

 上杉謙信は大のお酒好きで死因は脳卒中とされ、遺骸には鎧を着せて太刀と共に甕の中へ納め漆で密封された。この甕は上杉家が米沢城に移った後も米沢城本丸一角に安置され、明治維新の後には歴代藩主が眠る御廟(上杉神社)へ移されている。

 上杉謙信は本能寺の変後に豊臣秀吉と会見してその臣下となり、謙信の死後、養子の上杉景勝が継承するが、秀吉の死後は徳川家と対立し「関ヶ原の戦い」 のきっかけを作るった。しかし「関ヶ原の戦い」で負け、本拠地を会津から米沢(山形県)に移されるが、上杉家は江戸時代の終わりまで続くことになる。

 

御館の乱

 謙信亡き後、謙信には実子がいなったため、養子の景勝と景虎が家督相続を巡って争いを起こした。これが「御館の乱」である。景勝の母は謙信の姉の仙桃院である。父・政景亡きあと、景勝は謙信に招かれて春日山城に入り養子になり、21歳のときに景勝と改名し謙信に可愛がられた。

 一方の景虎は小田原北条氏康の7男で、謙信と氏康が越相同盟を締結したときに謙信の養子となった。
 葬儀の日、景勝は謙信の遺言だとして春日山城の本丸と金蔵・兵器蔵を占拠し、城にある金三万両を手中にして、自分が後継者であることを周囲に宣言した。一方景虎は春日山城を妻子を伴って脱出し、前・関東管領の上杉憲政の御館に立てこもり景勝に対抗した。

 これによって越後の国を二分にして相続争いになった。この家督争いは最初、景虎が優勢だったが、資金を手中にした景勝が外交政策や政略などで景虎よりも優位に立ち、次第に景虎を追い詰め上杉家は景勝が跡を継ぐことになる。現在では兄弟で相続を巡って生死をかけ戦うことなど考えられないが、それが当たり前の時代だった。

 上杉家は上杉景勝が家督が継がれることになり、本能寺の変の跡に豊臣秀吉の臣下になり、秀吉が亡くなると徳川家と対立しながらも存続し、米沢に本拠地を移されてからも江戸時代の終わりまで続くことになる。

 この景勝は矢弾飛び交う戦場でも高いびきで眠ったとされるほどの豪傑で、また律儀であった。関が原で家康に正式に降参した後も、伏見の堀や船道の工事に精を出し、運役などを一生懸命に務めたほどである。

 景勝は謙信の養子とはいえ謙信の実の姉の子であり、この剛直で律儀なところはおそらく謙信の血をついたのだろう。新発田・重家討伐の際、家臣たちは近道をしようとするが、景勝は急がば回れの心がけを説きあえて遠回りをした。案の定、近道をしていれば新発田勢の待ち伏せにあうところだった。

 景勝はこのように武将の勘や沈着、豪穀を合わせ持ち、これも最強の戦国武将と呼ばれた謙信譲りだった。ただ養父である謙信が築きあげた大大名の地位を、徳川政権の下で、平凡な一大名となってしまったことは事実である。


上杉謙信の人物像
 上杉謙信の旗印は「毘」で、自らを戦の神である毘沙門天の生まれ変わりと厚く信仰していた。また総攻撃の際に掲げられた「懸り乱れ龍」の旗から「越後の龍」とも呼ばれていた。幼少時に寺に入れられた際には、城郭模型で遊ぶのが好きで、砂上で兵の駒を動かしたり大砲や道具を用いたりと、寺の修業を疎かにしてまで遊んでいた。
 武将としては軒猿という忍者の集団を用い情報収集に当たらせ、戦略家・戦術家として秀でていた。また和歌にも通じ、達筆で源氏物語を好んで読み、上洛すると歌会では見事な雅歌(恋歌)を読み参加者を驚かせた。演奏も好きで、琵琶をよく奏で、上杉神社には謙信愛用の琵琶「朝風」が現存している。
 内政では衣類の原料となる植物・青苧の栽培を奨励し、日本海からの海路で全国へ広めるなど、流通を統制し、また財源として金山運営でも莫大な利益を上げた。
  妻を持たず生涯未婚(生涯不犯、妻帯禁制)を通したため、子供は全て養子で、特に美男子を好んで近くに置くなどしていた。また毎月決まった日に腹痛を起こしたため実は女性だったという極端な説もある。
  敵対していた武田信玄が今川氏真によって塩を断たれた際、「それで一番困るのは甲斐の国の民である。そんな事は出来ない」 と言って、甲斐への塩の輸出を推奨した。川中島の戦いで何度も戦いをした上杉謙信が信玄に塩を送り、窮状を助けた事が「敵に塩を送る」の由来になっている。本来であれば敵が苦しんでいたら、その隙をついて攻め落とすこともできたはずであるが、謙信は信玄を助ける道を選んだのである。

 謀反を起こした北条高広を2度も許し、佐野昌綱や本庄繁長も、降伏すれば帰参を許している。後年は左足のつけねに腫れ物があり、足を引きずるようにして歩いていた。しかし陣では物の具や采配などは用いず、黒い木綿の胴服、鉄製の車笠を着し、足が悪かったため三尺ほどの青竹を指揮杖として用いていた。剃髪したのは45歳の時で、以後、法体の姿となった。
 遺品の甲冑の大きさから身長は156cm程度で、米沢城の稽照殿にある腹巻はさほど大柄なサイズではなく小柄であることが分かっている。誓文の血判から血液型はAB型である。謙信は脳卒中で亡くなったが、愛用の馬上盃などは長年の飲酒を物語っており、つまみは味噌・梅干・塩だったことから、塩分の摂取過剰が死因に繋がったとされている。
 総合すると目つきは鋭く、義理堅く名誉を重んじ、勇猛でありながら反面短気で尊大であった。生涯独身を通したため性的不能、男色家などの説があるが、毎日、毘沙門堂に籠り勤行することが日課であり、自らを毘沙門天の化身と強く信じていたため、その強い信仰を妨げないようにするため女性を遠ざけていたのである。
 武田信玄は死の病床で嫡男の武田勝頼に「あんな勇猛な男と戦ってはだめだ、和議を結ぶようにしろ。 謙信は頼むと言えば嫌とは言わぬから、もし自分が死んだら謙信を頼って甲斐を存続させよ。謙信は男らしい武将であるから、頼ってゆけば若いお前を苦しめるようなことはしない。私は大人げないことに最後まで謙信に頼ると言い出さなかったが、おまえは必ず謙信を頼りとするがよい。上杉謙信はそのような男である」と遺言した。北条氏康も「謙信は骨になっても義理を通す男である。若い大将の手本にさせたい」と語っている。
 上杉謙信は実力がありながら領土を広げるための侵略的な戦いはせずに、信義や大義名分を重んじた。信義など形骸化していた時代に、唯一「義」を大事にしたため、謙信は神格化され戦国最強と呼ばれた。上杉謙信は「義」に生きた武将として敵味方を問わず戦国の世に生きる人々の心を捉えていた。